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この20年の流れを思い出してみると

 Windows95が登場したのが1995年,今年は2017年ですので,もう22年です。すごいですね。

 20年というと,この年に生まれた人は成人式を迎えますし,働き盛りの45歳だった人は65歳で高齢者の仲間入りです。

 私の感覚でも,20年なんてあっという間に,ついこの間のことのように感じてしまいます。

 しかし,2017年の20年前である1997年は,今とそんなに変わらないように思うのです。これが1984年の20年前である1964年ということなると,もう全然違うように想うのです。

 100円玉が銀貨だった時代ですよ。500円が紙幣だった時代ですよ。1万円札がまだ珍しかった時代ですよ。

 20年の変化は,これくらいあって当然だと思っていた私は,1997年から2017年の20年を同じ物とは,ちょっと思えません。自分が歳を取ったからだとか,みんなそういんだよとか,そういうありがたい格言はそれはそれで伺いますが,差し引いてもこの20年の変化の緩やかさたるや。

 これが失われた20年なのか。

 しかし,コンピュータの世界は,1995年から2017年で随分変わりました。そんなつもりもなかったのですが,改めて見ると確かに変わっていると,そんな風に思います。

 いや,クロック周波数が高くなった,メモリ容量が増えた,HDDが大容量化した,というような,何かの延長になるような変化というのは,それはそれで大切な事だし大変なことなのですが,不連続に突如現れる変化があり,それが社会を動かすという事が何度もありました。

 ちょっとそのあたりを,つらつらと思い出してみようと思います。


・インターネットの登場と普及

 これはもう,誰でも一番に言うことでしょう。インターネットの登場はもっと前ですが,1992年頃に商用利用が許されて,一気にお金が流れ込んで爆発的に広がりました。

 ここでいう商用利用というのは,お金儲けに使えるという狭い意味ではなく,お金さえ出せば誰でも利用出来るようになった,という意味です。逆に言うと,それまでは,お金儲けを直接目指さない,学術研究用途に限るという「資格」がなければお金をいくら出しても使えない物だったのです。だから学校ならどこでもOKというわけではありませんでしたし,私企業でも研究用途なら繋がっていました。

 先駆的な諸先輩方のおかげで,日本は幸い学術利用に限定された頃から関係者の間では当たり前の存在になっていたため,商用利用が許されても特に大きな混乱もなく,順調に広がって行ったように思います。

 というのは,商用の世界では「パソコン通信」が1980年代から普及しており,これらとインターネットが繋がりさえすれば,その日から誰でもインターネットの海に飛び出すことが可能でした。

 パソコン通信は,当時は富士通系のNiftyServe,NEC系のPC-VAN,ASCII系のASCIIネットが圧倒的だったわけですが,1992年にNiftyがインターネットの電子メールを受けられるようになったあたりから,両者の境目が不明確になってきました。

 インターネットというと,今ではWEBなわけですが,当時はWEBなどそんなに普及しておらず,チャットはirc,コミュニケーションは電子メール,情報交換は電子掲示板によるネットニュース,検索はgopher,ファイル転送はFTPと,コマンドラインを駆使して別々に使っていました。

 WEBは一部の感度の高い人の間でぼちぼち立ち上がるようになってきましたが,それでもハイパーリンクが一番の売りだった時代ですから,出来上がっても「だからなんだ」という程度の反応に過ぎず,作った人の自己満足に終わったような気もします。これが変わったのは,検索エンジンの登場からでしょう。

 私は,遠く離れた友人とほぼリアルタイムでメールのやりとりが出来ることに感激していて,これで本当に物理的な距離が無意味になると信じたのと同時に,それまで信じていた距離と時間のとらえ方が大きく変わり,不安になったことを覚えています。

 また,当時は雑誌やクチコミでしか入手出来なかった海外のフリーウェアが,直接手に入るようになったこことも感動的で,日本にいながら海外の情報が瞬時に手に入ることを,母親などに自慢した記憶があります。

 でも,これはあくまで学校での話。学生が学校に行けば使う事が出来る窓口でした。それが,1995年に大きく変化し,IIJやbekkoameといったサービスプロバイダが個人を対象に,ダイアルアップでIPアドレスを割り振る事業をスタートさせます。

 ここから雪崩を打って,のちにISPと呼ばれるサービスプロバイダが登場し,価格が下がって淘汰されていきます。考えてみれば電話回線を確保し,モデムを置いて,かかってきた相手にIPアドレスを割り振るだけの商売ですから,初期投資に見合うだけの会員を集めれば儲かりますわね。

 それで,会員の獲得競争が激しくなります。これは,後に書くADSLが普及するまで続きました。

 このころ,本当に本当に苦労して手に入れたIPアドレス。動的に割り振られて他の人と使い回すような物ではなく,本当に世界で唯一の私の番号を,自分のマシンに打ち込むときの,あの感激と誇らしさは,今思い出してもゾクゾクする物がありました。


・ADSLの登場と普及

 自宅でも電話回線を通じて世界と繋がるようになったのはいいことなのですが,学校では常時繋がっているインターネットも,家では電話回線故に繋ぎっぱなしは許されず,必要な時だけ最短時間で繋いでいました。

 モデムの高速化は当時もとどまることを知らず,2400bpsだったものが9600bps,14400bps,28800bps,33600bps,57600bpsとなってきましたが,すでに57600bpsは理論的限界を迎えていましたし,理想的な通信環境においてのみ発揮された性能だったので,実力はそんなに出ていませんでした。でも,14400bpsのモデムに切り替えた時には,圧倒的な速度に涙が出ました。

 いくら高速になったとは言え,従量制で最短時間だけ繋ぐという使い方では便利になるはずもなく,これが常時接続になることで大きく世界が変わるだろうことは,私の目にもはっきりしていました。

 そこでISDNが注目されたのですが,それでも高いし,遅いのです。そこで,これまでのアナログ回線をそのまま使い,高速なデジタル通信を実現する技術が登場しました。ADSLがそれです。

 アナログモデムが57.6kbps,ISDNが128kbpsだった時代に,ADSLは1.5Mbpsですから,そりゃ驚きました。これをISDNよりも安い値段で提供しようと表舞台に躍り出たのが,ソフトバンクです。

 ソフトバンクと言えば,それまでソフトの卸業と出版だけやっていた,マニアしか知らない会社だったわけですけど,ADSLの普及を加速させ,モデムを駅前で無料で配るようになって,一般にも知られるようになってきました。

 最初はトラブルも多く,さんざんにこき下ろされたものですが,後になって急激に普及し,常時接続環境が手頃な値段で利用出来るようになったことは,まさにパラダイムシフトと言えました。

 遅くてもいいのです。ずっと繋がっていることが重要なのです。


・携帯電話の登場と普及

 携帯電話についても,それまで高額な保証料と端末のレンタル制度があったおかげで,社長さんかヤクザしか使ってないと言われていたものが,保証料の撤廃と端末の買い切り制度がきっかけになり,これもまた1995年頃から急激に普及するようになりました。

 当時はアナログから,契約者の急増を支えるためにデジタルへの移行が急務だった時代でしたが,ぼちぼち今で言う3Gが登場してくる頃でした。

 アナログの時代にもモデムを使って通信をする人はいましたし,デジタルになれば標準でデジタル通信が可能になりました。パケット交換式もこのころに出てきたはずです。

 ここから携帯電話のメールサービスがインターネットと繋がるようになり,携帯電話があれば世界中の人とメールがやりとりできるようになりました。小型端末にあわせて仕様を軽く作ったWEBサービスである「iモード」の登場により,インターネットが個人レベルにまで降りてきたのも,この時です。

 こうなると音声よりもデータ通信,もっというとパケット通信の方が重視されるようになり,3GからHSDPA,そして4Gとデータ通信が高速化されて,最終的には音声でさえもパケットで送られる時代になりました。

 携帯電話は,一種のトランシーバーであり,基地局が公衆回線に繋がっていることで,電話として機能します。同様に基地局がインターネットに繋がればネット端末になるわけで,最終的にはかつてのスーパーコンピュータが手のひらに収まって,かつてのイーサーネットよりも高速な速度で,データがやりとりされているわけです。



・NANDフラッシュの登場と普及

 大量のデータが交換され,生み出されると,それを蓄えておく場所が必要になります。それまで,高速だけど高価な半導体メモリは一時的な記憶に,安価だが低速のテープやディスクなどの記録メディアは長期の保存にと使い分けられていました。

 メモリカードはいずれ普及するだろうと思われていましたが,まだSDカードも出ておらず,ストレージにはコンパクトフラッシュしかない時代でした。

 そのコンパクトフラッシュが,ある時急激に安くなった時がありました。それまでの16MBの値段で,32MBが買えるようになったときには,驚きました。

 私は当時,ザウルスポケットというPDAを使っていました。とても便利に使っていたのですが,アプリの追加ではやっぱりストレージの拡張が必須で,確か6000円ほどで32MBが手に入った時に,何があったのかと不安になったほどでした。

 のちに,NANDフラッシュという新しいフラッシュメモリが登場したことが原因だったと知るわけですが,このあとすぐプロセスリーダーをDRAMから奪い去り,最も高い集積度と最も安いビット単価を実現したメモリの王者になります。

 NANDフラッシュにはそれまでのフラッシュとは違う弱点もあったのですが,これが逆にストレージという用途にはまるで関係がなく,MP3による音楽のデータ化にも後押しされて,どんどん大容量化と低価格化が進んでいきました。



・USBの登場と普及

 あるとき,PCの背面に,見慣れない不細工な四角いコネクタがあるのが目に付きました。当時のOSであるWindows95ではまだサポートされておらず,ここに繋げる物もほとんどめにすることなく,意味のない穴になっていました。

 USBとして,世の中のあらゆるものがここを目指すような存在に君臨するのはもう少し後です。

 それまでのインターフェースというのは,まず用途別に分かれていました。プリンタとマウスとキーボードとHDDを繋ぐコネクタは,それぞれ別だったのです。

 その上,そのコネクタからは電源が供給されませんでした。

 USBはこれら周辺機器のインターフェースの統合を目指しました。そのために速度を高速化し,電源の供給も行われるようになりました。ソフトウェアも柔軟な構造になっていて,繋がった相手によって,OSからの見え方が変わるように配慮されていました。

 とはいえ,まだまだUSBは不安定で,なかなかうまく動いてくれません。キーボードやマウスも,OSが動き出してからようやく動作するものでしたから,OSが立ち上がるまではなにも出来ない状態だったのです。

 これが一気に変わったと思うのが,iMacの登場です。iMacではキーボードやマウスをUSBに統一し,フロッピーさえもなくしてしまいました。また,USBはHDDやメモリカード等の高速転送もカバー出来るように仕様が拡張され,USB2.0に発展します。

 これが決定的となり,PC用の標準インターフェースとして君臨することになるのです。


・TFTカラーLCDの登場と普及

 LCDが小型携帯デバイスの要になることは1980年代にもはっきりしていましたが,時計や電卓で使われていたLCDは表示品質が悪くて,およそPCやテレビに使えるようになるとは思っていませんでした。

 やがてポケコンやワープロの搭載されるようになったLCDですが,それでもまだまだ。ノートPCに搭載されるようになっても,やっぱりまだまだ。反応速度は遅いし,色は白黒ではなく白青,もしくは緑と黄色でした。

 これでは当時流行っていたxxxなゲームが全然楽しめません。

 ですが,1991年の春,PowerBook170というMacintopshの最上位ノートを見て,私は自らの認識に誤りがあることを悟りました。LCDがダメなんじゃないんですね,LCDを駆動する方式が問題だったのですね。

 PowerBook170は,かつての名機MacintoshPortableで人々を驚かせた,ホシデン製のモノクロアクティブマトリクスLCDを搭載していました。色が完全な白黒ではないことを除けば,反応速度もコントラストも非常に高く,我々が知るLCDのイメージを完全に吹き飛ばすものでした。

 これと同じ物と思われるLCDが,Macintosh初のノート型の最上位機種に搭載され,私は改めてその実力に驚いたのでした。

 しかし本当の驚きは,この半年後に訪れます。PC-9801NCの登場です。TFTカラー液晶をいきなり搭載した98ノートの登場です。これを見た時,私はもうブラウン管の時代は終わったと思いました。お金の問題はいずれ解決するとして,今の段階でこれだけの品質のLCDが出来ているなら,もうあとはこの延長線上の進化だけでいいと,そう信じたからです。

 この頃,PC-9801のラップトップにや東芝のJ-3100にも,プラズマディスプレイを搭載したモデルがありました。高速かつ高コントラストで見やすいディスプレイだったのですが,これも消費電力や大きさ,カラー化の難しさからLCDに駆逐されました。

 実は,当時私はとあるパソコンショップの店員をしており,PC-9801NCも売りました。単価が大きくて60万円とかしたはずでしたのでかなりビビって売ってましたが,やっぱドット抜けのクレームが一番しんどかったことを覚えています。

 今でこそ,ドット抜けなど「取説に書かれた言い逃れ」に過ぎないくらい,実害が出ていないものなのですが,当時のLCDは本当に2,3個程度のドット抜けは当たり前でしたから,当たり外れがあったのです。

 お客さんが買っていったものが,展示機よりもひどい状態だと,そりゃ交換して欲しいとなります。こちらとしても交換したいのですが,メーカーが「不良品」と認めてくれないと交換出来ないわけで,お店の判断ではどうにもならないところがあったのです。

 メーカーとしては,2,3個なら良品として譲りませんでした。ドット抜けがないものだけを良品としていたら,不良品が続出するのでとてもこんな値段では売れないというのが,言い分でした。

 説得力のある説明としては,この大きさのICを作るのと同じだから,ドット抜けゼロというのはもうアリエナイ話なんだ,という事でした。概ね,このあたりの話をすればどんなお客さんも納得してくれたわけですが,それでも5,6個抜けていたお客さんの,悲しい目を私は忘れません。60万円もしたんですからね。

 やがてLCDはどんどん良くなり,高精細化,高輝度化,大画面化,そして色域の拡大,何より低価格が進んで,LCD以外のディスプレイを見る事はなくなりました。でも,見慣れたPCの画面が薄っぺらいLCDで表示されたときの新鮮な違和感は,今思い出しても感動します。


・googleの登場と普及


 コンピュータ工学をきちんと学び,大変に賢く,最先端の事情に明るかったとある友人が,「最近googleを使ってる」と私に教えてくれました。え,gooの間違いじゃないのか,と素人丸出しの私ですが,まだ日本語の画面も出ていないような時代に,私もgoogleを使うようになりました。

 gooに比べると,確かに出てくる候補が的確でしたし,予想外の面白い結果も出てくるので,検索行為に広がりが出てくるのです。また,海外のWEBをきちんと探してくることもありがたくて,検索エンジンを使い分ける必要がなくなったことも大きいです。

 以後googleは他の検索エンジンを圧倒し,コンピュータ業界で最強の巨人になりました。黎明期からgoogleを使っていた私としても,なんでこんなにgoogleが大きくなったのか,よくわかりません。

 もちろん,検索エンジンでトップになることは想像出来ました。他の検索エンジンが死に絶えることも予想できていたのですが,MicrosoftやAppleをしのぐ会社になるとは,全く思っていませんでしたし,今もよく分からないです。

 でも,googleが確実にWEBと人間との関係を変えたと思います。世の中にあふれる膨大なWEBとその情報は,存在するだけでは意味がなく,欲しい人の手もとに届いて初めて意味をなします。

 欲しい人に届けることに長けていたことが,googleの勝因だと思います。その結果,WEBは本当に我々の生活の深くに入り込むようになりました。


・デジタルカメラの登場と普及

 私が初めてデジタルカメラを見たのはQuickTake100というAppleのもので,これが1994年だったと思います。ある友人が自慢していたのですが,私はどうもしっくりきません。

 ビデオカメラと同じ程度の画質,それは画素数もそうだし,色もそうなのですが,その動画のキャプチャと同じ程度の情報を,なぜわざわざ静止画で1枚1枚記録しないといかんのか,と思ったのです。

 しかし,フィルム代と現像代を気にして撮影に躊躇してしまうことがちょっともったいないと思うようになりました。実は何気ないスナップが後で見返すと結構うれしいもので,そうした用途にぴったりなのはデジカメではないかと思ったのです。

 これが1996年頃のことで,チノンのデジカメES-1000を買ったのでした。私のデジカメはここからスタートです。

 ただし,このES-1000はビデオ用のシステムを流用していて,はっきり言えば当時の家庭用ビデオカメラの方がずっと高画質でした。

 30万画素程度では動いているだけビデオの方がずっとよい,という状況が続いたのですが,オリンパスから100万画素のデジカメが出て風向きが変わり始めたのです。カメラメーカーとしてもフィルムのカメラの市場が小さくなっている時でしたので,これにかけるしかなかったのでしょう。

 私はフジフイルムのFinePix500で念願のメガピクセル機を手に入れ,ようやく記録に残す価値のある静止画を作る事が出来るようになりました。しかしまだ銀塩一眼レフには追いつきません。

 そしてオリンパスのE-20というカメラを20万円出して購入,500万画素という画素数に,一眼レフを凌駕する高画質レンズを装備したデジタルカメラで,ようやく一眼レフと同じ「使い勝手」になるカメラを手に入れたのでした。

 それでもまだまだ一眼レフには及びません。レンズ交換が出来ない,レスポンスが悪い,センサのサイズが小さすぎる,という弱点が足を引っ張っていましたが,キヤノンから登場したEOSkissDigitalで,一気にAPS-Cのデジタル一眼レフが普通の人の手に届くところに来たという実感を持つに至りました。

 この頃になると,コンパクトデジカメとデジタル一眼レフは完全に違うマーケットを構成していて,同時に携帯電話にデジタルカメラが搭載されるようになって,ぐっとカメラが身近になった印象があります。

 そして同時に,価格と大きさと簡単さと画質がほぼリンクするような構図が完成し,今日に至っています。気が付いてみると,静止画の画質がビデオの画質を完全に飛び越えていて,記録に耐えると言うよりも,芸術的な作品作りに使う事の出来るだけの,膨大な情報量を取り込む事がデジタルカメラで出来るようになっていました。

 デジタル一眼レフでも4000万画素を越え,中判なら1億画素を越える画素数が手に入る時代になっています。個人的な印象では,APS-Cで1000万画素を越えたあたりからレンズの個性が分かるようになってくるのですが,すでに現在の高画素なカメラは,かつてのフィルムなど足下に及ばず,我々の世代は一瞬のうちに,誰も経験したことがないくらい膨大な情報量を持った記録を残せる人類になっています。

 それはなにも,気合いの入った写真ではなくとも,なにげなく撮ったスナップや友人や家族との日常の記録が,あとになって「楽しい,うれしい」と思えるものであることを再発見するでしょうし,そんな写真たちが意図せずともフィルム時代には考えられなかったほどの情報を抱え込んでいることを,私はとても素晴らしい事だと思うのです。

 そうして考えていくと,静止画でも1000万画素程度で,動画に至っては30万画素程度しかない記録しか残せなかった1980年代から1990年代の10年間は,人類の映像の歴史の上で最低の時代だったと言えるかも知れません。

 動画がビデオではなくフィルムだった時代はそうでもないのですが,ビデオでしか記録が残っていない激動の時代を振り返る際,後世の人達の「この頃の人達はなにをやっとたんじゃ」とぼやかれてしまうのが,目に浮かびます。

ルンバを掃除大臣に任命します

 ルンバが我が家にやってきて,1ヶ月ほど経過しました。

 迂闊に電源ボタンをぽちり,逃げた方向に怪しげな音をさせながら向かってくるルンバに娘が怯えるようになったこと,風呂場の扉を閉めるのを忘れて風呂場に突入,水浸しで止まってしまったりと,思わぬトラブルを経験しましたが,ようやく最近掃除を任せることが出来るようになってきました。

・トラブル

 複雑な形状をしたリビング&ダイニングを,一部屋としてルンバに任せています。タイマーで月水金の朝11時からと,土曜日の夜に動作させていますが,留守中でも一通り掃除を終えて,自分でホームステーションに戻ってくれることが当たり前になってきました。

 しかし,トラブルは付きものです。うちは,フローリングタイプの床暖房を使っていますが,夏場もフローリング保護を目的に,敷きっぱなしにしています。

 この床暖はそんなに分厚くないのでルンバの掃除の障害にはならないのですが,悪いことに,床暖の端っこにある,コントローラの部分が,ルンバの罠になっているようなのです。

 このコントローラは床暖の面からの高さは低く,床暖の外側からは数センチの高さがあります。また大きさも横幅が5cm程度という,絶妙な大きさです。

 じっと見ていると,ルンバが床暖からコントローラに乗り上げますが,コントローラが小さいのでルンバの腹が乗っかります。片側の車輪は床暖の外側にあるので,高さがあってフローリングの床には接しません。旋回も直進も後退も出来ずに,もがいてもがいて力尽きて,コントローラの上で止まっていることがしばしばです。

 こういうときは,バーチャルウォールの出番なのですが,これを使うと思った異常に大きなエリアが「壁」になってしまうので,ほんのちょっと,コントローラを避けて欲しいだけなのに,まったく近づいてくれなくなります。

 それだけならよいのですが,床暖のコントローラとテーブルの脚が近いため,ルンバはこの2つの間を抜けることが出来ず,キッチンへの数少ない通り道に出ることが出来ずに,引き返してしまうようになりました。

 バーチャルウォールの赤外線LEDの部分にシールを貼って出力を弱めたり,数ミリ単位で位置を調整するなどしましたが,完璧な状態は作る事が出来ません。

 そこで,掃除の日だけ扇風機をコントローラの上に置いてみました。なんてことはない,こんなローテクな方法で,ちゃんとルンバはコントローラ(と言うより扇風機ですが)を障害物として,よけるようになってくれました。

 
・メリット

 LDKは週3回の留守中の掃除と,土曜日の夜の掃除,寝室と子供部屋は土曜日の午前の掃除を,ルンバに任せています。この結果,掃除機を使った掃除を担当していた私の週末の仕事は激減し,1階の和室と廊下,脱衣所と検討部屋だけをささっと掃除するだけになりました。

 私は掃除機をかけることはそれほど苦にならない人ですが,時間がかかること,掃除機を取り回すことはそれなりに大変なわけで,体調の悪いときや忙しいときには気分的にも負担になります。

 ルンバがちゃんと掃除をしてくれれば,私の仕事は相当軽減されます。まさかこれほど楽になるとは思っていなかったというのが,本音の所です。

 また,ルンバは寝室,私は和室という具合に,分担して掃除が出来るのです。いわばルンバと私は共に闘う友,互いに背中を預けた相棒です。妙な連帯感が沸いてきます。ジャンプ的にいえば,友情パワーとでもいうのでしょうか。

 ということで,ルンバの導入は成功だったと思います。多くの人が語っていますが,まず床にものを置いたままにすることがなくなりました。それに,週3回ですがホコリも激減し,いつもきれいなLDKを維持できています。


・デメリット

 ルンバはあの大きさですので,どうしても端っこは掃除できませんし,複雑なレイアウトの部屋では,どれだけ時間をかけても,一度も通らない部分が出てきます。

 また,先端の回転ブラシの勢いが強すぎて,パンくずなどの軽いゴミは通る度に全然関係ない部分にはじき飛ばし,結局吸い込めずに終わったりしています。

 そんなわけで,人手による掃除がゼロに出来るかと言えば,それは無理です。

 さらにいうと,これまで掃除機を伴って部屋の隅々を回っていたので,ちょっとした汚れや傷,破損にも気が付いて,手当ができました。エアコンのフィルタもこまめに掃除機をかけていましたが,ルンバが来てからそういうことがなくなってしまい,せっかくの良い習慣が途絶えてしまいました。ついでだからでできたことでも,わざわざはなかなか出来ないものです。

 もう1つ,ルンバは掃除機です。掃除機の掃除をする必要があるという,なんともシビアな現実がありますが,これが結構面倒です。ルンバからダストボックスを外すのがなかなか大変で,しかもゴミがいっぱい散らばります。

 ようやく中身を捨てたと思ったら,フィルタにびっしりホコリが付いています。これを掃除すると,もう手が真っ黒になるのです。しかも,完全に取るには掃除機で吸うのが一番で,掃除機を掃除機で掃除するという,なんだかむなしい作業が週に一度は必要です。

・結論

 使いこなしに最初は手間も時間の忍耐力も必要ですが,コツが分かれば強力な助っ人になってくれます。5万円弱の初期投資に,年間で1万円ほどかかるランニングコストをどう考えるかは難しいですが,これだけ時間が節約でき,しかも娘がごろんごろん転がるカーペットが綺麗な状態に維持されるのであれば,決して高い買い物だったとは思いません。

 やはり最初の1ヶ月は,出来るだけその動作を観察し続けることが大事なように思います。どこに到達しにくいのか,どこを工夫すると到達しやすくなるのか,ゴミの残り具合とルンバの到達具合の相関関係,ホームステーションの設置位置,思わぬ障害物の存在(ソファーをあと2センチ動かすとルンバが入っていけるとか,カーテンの裾が引っかかって壁扱いになるなど)も見えてくるようになります。

 ただ,これってルンバに我々の生活を合わせる事です。限度があると思いますが,果たしてそれで楽しい生活になるのかどうか,ルンバのためになにかを我慢したり,なにかを犠牲にするようなことがあったら,それは本末転倒です。

 うちでは,ようやく軌道に乗ってきました。これからどんどん働いてもらうことにしたいと思います。

大阪の言葉

 私は大阪の生まれで,仕事で東京で暮らすようになりました。自分を大阪の人間が東京にゲストで来ているのだと考えていて,よそ者の気分でいるわけですが,もうすぐ東京で暮らした時間の方が長くなるという現実を突きつけられて,ショックを受けるようになってきました。

 そんなこんなで私は大阪弁ネイティブであり,バイリンガルなわけですが,言葉は文化であり,文化は人であると考えた場合,大阪の言葉というのは同じ日本語かなと思うほど,大阪の人の個性を反映しているなあと思います。

 最近はテレビでも大阪弁を耳にすることが多くて,第二公用語っぽい雰囲気さえ出てきた大阪弁ですが,単語やアクセントの違いという表面的な部分以外の相違点に注目すると,これがなかなかおもしろいのです。

 私はその方面の学者とは違いますから,専門的な知識はないし,間違っていることもあると思います。それに大阪弁を使う地域というのは狭いようで広いですから,もしかすると私の生まれ育った河内でしか使わない表現かも知れません。

 ただ,大阪弁をおもしろおかしく誇張することはしたくないので,良くやっている言い回しを書いておくようにします。

 さて,続きは大阪の言葉で書くことにしますか。


(1)助詞を省く

 なにせ,大阪弁は助詞を省くんです。名詞をずらーっと並べて,それで意味が通るんです。不思議ですわね。

例)私それたべるわ -> 私はそれを食べます
  テレビみよか -> テレビを見ましょうか
  あんた日曜日梅田いかんのか -> あなたは日曜日に梅田にいかないのですか
  めしいこ -> ご飯にいきましょう

 単語と単語との間に切れ目を入れるしゃべり方より,一息にだーっとしゃべってしもて,単語の切れ目はアクセントで切る方が大阪弁として綺麗です。

 なんちゅうても,助詞によって機能が定まるとした日本語の文法の基本概念を,根本から打ち崩す事実ですわね。いちいち文法的に正確であることを問わんと,話の前後関係や常識的なところで,それぞれの単語の役割をなんとなく理解して成り立ってるわけです。それで不思議とケンカにならんちゅうんですから,えらいもんですわね。


(2)指示代名詞が多い

 あれ,それ,これ,という指示代名詞ですが,大阪の人は年寄りでのうても多用します。

例)なにしたらあかんで -> (そういうことを)してはダメです
 
 こんな言い回しはあんまり東京ではせんので比較が難しいんですが,大阪では「あれがなにしてこないなってもうた」と,すべてが指示代名詞になってるような文章でも,聞き手は「そら難儀やな」と返事出来たりするんです。

 ま,こっちが「なにが難儀やねん」と意地悪して聞き返すと,おおむね「そらーあれや,あれがほらなにしてな」と返ってくるんもんで,こっちとしても「あーそやそや」と話を合わすんです。これで会話成立ってウソみたいでしょ,けど普通です。

 思うんですが,前後関係で話を類推することに加えて,共通の話題で話をすることが多い故に,なんとなく相手の言うてることが分かるちゅう事と,話す方は話す方で思考より先に口が動いてしまう上に,「えーっと」なんて会話を途切れさせることはなにより恥ずかしい事ですから,とりあえずワイルドカードとしての指示代名詞を当てはめるんやないでしょうか。

 いうたらあれですよ,RISCプロセッサでNOPを入れてパイプラインが乱れるのを防ぐようなもんですわね。


(3)擬音が多い

 これはもうホンマに多いです。その擬音がなくっても意味は十分通じるのに,わざわざだーっと擬音を入れるのが,大阪の人の話し方です。

例)そこの角を右にきゅっといって,行き止まりまでどーんといってから
  左にぐっといって,大きな通りに出たらまっすぐしゅーっていったら
  右手にバーンと大きな看板がでてくるで。

-> そこの角を右に曲がって,行き止まりで左に曲がり,
  大きな通りに出たらまっすぐ道なりに進むと,右手に
  おおきな看板が出てきます。


 まあ,個人差はあるんですけど,私の経験上,行き止まりに「どーん」は
8割以上の大阪人が言うのんと違いますかね。


(4)せっかち

 基本的にせっかちですね。一息で話せるように縮めて繋げて話します。

例)ちゃいます -> ちがいます
  しゃーない -> しかたがない
  どない? -> どんな感じ?
  ほっといて -> 放っておいて
  へて? -> それで?
  いてまえ -> いってしまえ

 東京やと右の方が普通なんですが,大阪ではこれを,意味を深めるのにわざわざ使います。

 相手の指摘に異を唱えるだけやったら「ちゃいます」ですけど,そこに「おまえに言われたないわ」とか「そんなはずあるかいボケ」という具合に,ちょっとした敵意を込める場合なんかに,「ちがいますー」と棒読みすんです。相手はそらー怒ります。怒りますけど,ちょっと茶目っ気もありますからね,さっと引く怒りです。

 同様に,ただやむを得ないんやったら「しゃーない」ですが,本当に心底がっかりしたときには「仕方がない」と言うんです。大阪の人間が「仕方がない」と言うたら,心から慰めたって下さい。

 そうそう,「しています」の「い」を取る事も普通です。「してます」と4つの音で言う方が楽なのか,それとも「い」を発音するのが下手くそなのか,理由はようわかりません。


(5)形容詞の「い」を省略する

 先日のニュースでも報道されてましたが,大阪では昔から形容詞の「い」は省く傾向にあります。ニュースではなにやら「相手に同意を求めないで済むので無視されても独り言として処理できることが現代人の繋がりの薄さを象徴している」などと小難しいことを言うてましたが,大阪弁ではリズムを整え,素早く綺麗に言うために,冗長な発音は避ける傾向があります。

例)くっさーえげつなー -> くさい,ひどい
  あーしんど -> ああしんどい
  さぶさぶ -> 寒い寒い
  
 その他にも,高いを「たか」,低いを「ひく」,安いを「やす」,重いを「おも」,などというのは,日常的です。


(6)強調の言葉が強烈

 「消える」を強調するのに「失せる」を付け加えて「消え失せる」ていうたりしますけど,大阪弁では強調だけで使われる言葉があります。「さらす」がそうです。ついでに「くさる」なんかもそうですかね。

例)帰れ -> いね -> いにさらせ
  なにをするのだ -> なにすんねん -> なにしくさる or なにさらしとんねん

 この時の「さらす」「くさる」には,意味はないんです。ただ,強めるだけです。

 実は,ここまで強い言い方は,最近はあまりせんように思います。本当にケンカになるくらい,強い言い方ですしね,加えて割に年寄りが使う言葉のような気がします。

 そんなもん,年寄りに「いにさらせ」て言われたら,縮み上がってしまいますよ。それでラ行を巻き舌で言うたりするんでね,年寄りは。


(7)尊敬語を作りやすい

 大阪弁には「~する」を「~しはる」と変化させて,尊敬語を作る仕組みがあります。「食べる」は「食べはる」ですし,「寝る」は「寝はる」です。

 標準語で言うところの「~される」なんですけども,標準語で「~される」を連発すると,これはもう堅苦しいてかえって嫌みになりますわね。それに受動態の「~される」と区別がつかん時が結構あるもんです。

 けども,大阪弁で「しはる」というのは,そんなにくどいもんやないんです。尊敬もあるけど,親しみもあるという感じやないでしょうか。それで,受動態の「~される」とは使い分けられるんですから,便利なもんです。

 ついでにいうと,大阪弁を含む上方の言葉には,身の回りにある物に敬称を付けることがしばしばです。おいもさん,あめちゃん,うんこさん,てな具合です。


(8)自分を下にする言い回し

 これは大阪の言葉の最も豊かな部分かなと思たりするんですが,自分を相手の目下におくような,けども謙譲語とはまたちょっと違った言い方をすることがあります。無理をお願いするときや,相手の慈悲にすがるときなど,便利に使いますね。

例)大目に見たってや -> 大目に見て下さい
  助けたってください -> 助けて下さい
  それやったって -> それを買います

  
 1つ目も,「大目に見てや」というと妙になれなれしく聞こえます。私もちょっとびっくりしました。こんな言い方されたら,許せる事でも絶対許さんと思います。「助けてや」よりも「助けたってや」の方が,相手を不愉快にせんもんです。

 3つ目はかなり高度な大阪弁です。指示代名詞には助詞がないし,動詞は「やる」に「売る」という意味を持たせてますからね。

 それを買います->それを売ってもらえませんか -> それやったって

 という変化です。私が買うのではない,相手に売ってもらうのだ,と言う相手主体の言い方です。大阪ではこういう言い方が案外多くあります。

 ところでこの表現にはちょっと面白い事があって,買った物を使う人とお金を出す人が同一の場合も,異なる場合も,同様の表現をします。

 例えば,自分でお金を出して自分で使う物を買うときに「これやったって」というと,「売ってもらう」という立場にへりくだる事になります。店員さんはもともと自分が下手に出ることを心得ているプロですから,お客さんが自分から下手に出ることで,売り手と買い手がWin-Winの関係になることを望んでいるという意志を読み取って,「ええお客さんやな」と思うわけです。確かに「売る物が変われば立場も変わる」という商都大阪ならでは,やったんかも知れません。

 一方で,自分の子供にオモチャを買い与える場合,親が店員に「これやったって」と子供の前で言ったりします。店員は子供に「こうてもろてよかったなー」と言いながら品物を子供に手渡し,お金は親からもらうわけです。子供は完全に「お金」という汚い物から隔離されるんです。

 これなんかも,お金を持っている人が強いという基本的なルールを子供に教える事と,社会全体でお金という面倒くさいもんから子供を守るという,そういう思いちゅうか優しさちゅうか,そんなもんが見え隠れしてるように思います。

 これも大阪が商売人の集まりやから,と言うてしまえば簡単でしょうけど,私はそれだけやのうて,相手の立場に立つという文化が根付いているからやないかとも思ってます。


 とまあ,いくつか並べてみたんですが,共通するのは「リズム」と「想像力」と「相手に対する興味」やないかと思います。

 相手とお話をしますと,頭の中でどんどんビジュアルが沸いて出てくるのが大阪の人の会話で,話の先読みもお互いにどんどんやっていくわけです。だから助詞がなくても名詞の役割がわかるし,指示代名詞でも話がどんどん進むんです。

 極めつけが擬音で,これなんかも話し手と聞き手のイメージがうまいこと重なるんでしょう。行き止まりにぶつかったら,話し手も聞き手も「どーん」って心の中でいうてますから。

 そして,そういう「話の流れ」の基本になるのが,リズムです。流れるように話すことで会話と思考が途切れず,イメージが双方で同期するんですね。

 大阪の言葉で話をすると言うよりも,大阪の人同士で話をすると,やっぱり楽しいなと思います。まあ,繰り返しになりますけども,言葉は文化ですから,なにも大阪に限ったことではなくて,やっぱりその地域地域ごとに,独特の文化圏があって,その枠の中で話すという事が心地よいというのは,当たり前のことやないかと,そんな風に思います。

ナショセミが現金で買われる

 大きなニュースが飛び込んできました。ナショナルセミコンダクターがテキサスインスツルメンツに買収され,TIの一部門となる事が決まりました。買収金額は65億ドルで,TIは全て現金で支払うという話です。

 いや,これはびっくりしました。ナショセミといえば名門中の名門,半導体の黎明期から現在に至るまで倒産も買収もなく,連綿とその伝統を受け継いできた老舗です。

 1959年にシリコントランジスタの生産を目的に設立されたナショセミは,1960年代にはもはやオペアンプの創造主と神格化されたボブ・ワイドラーによって,次々と画期的なアナログICを誕生させ,安くて便利で面白いアナログICのメーカーとして,それこそプロからラジオ少年の心にまで深く入り込むことになります。

 オペアンプは,かのワイドラーの手になるLM101,単電源の先駆けLM358,クワッドの定番LM324,バイポーラとFETを混載したBi-FETによる高級オペアンプのLF356,C-MOSでも超高性能なLMC660,新世代の高速オペアンプLM6361,Bi-FET入力オペアンプの新世代品LF411,TO-3パッケージに入ったパワーオペアンプのLM12C,電子楽器で多用されたトランスコンダクタンスアンプの超定番LM13600,そして忘れてはいけないのが超高性能ハイブリッドオペアンプで唯一の生き残りLH0032など,どれも定番,どれも有名,そしてどれもその時々に画期的な最先端技術の結晶でした。

 ワイドラーの偉大な業績は,モノリシックオペアンプの基本設計を編みだしたことに加え,バンドギャップリファレンスを作り出したことでしょう。温度特性を持たない安定した基準電圧は,古くは水銀電池を使うしかなかったのですが,その後ツェナーダイオードが登場,そしてモノリシックICだからこそ可能になったバンドギャップリファレンスへと進化します。より安定し,より低い電を発生させるバンドギャップリファレンスの発明によって,三端子レギュレータやADコンバータが誕生することになるのです。

 シリーズレギュレータの世界では,固定電圧の3端子ならフェアチャイルドの78xxが有名ですが,可変電圧タイプだとフェアチャイルドは4端子だったのに,ナショセミは3端子でやってのけました。それが今でも定番のLM317です。

 かつてビデオ信号と言えばNTSCだった時代,同期信号を分離するにはそれなりに面倒な回路が必要だったのですが,これをワンチップでやってのけるLM1881は登場するやたちまち定番になり,アマチュアにもおなじみになりました。

 アナログのICは本当に面白いものがあって,ラジオ少年たちに一番よく知られた海外メーカーではなかったでしょうか。ちょっとしたスピーカアンプならLM386,5Wくらいまで欲しいならLM380,まだまだオペアンプでは厳しかったHi-Fiのプリアンプ用にはLM381,ダイナミックノイズリダクション用のLM1894というのもありました。

 1.5Vの電池でLEDを光らせるLM3909は生産中止になった現在でも少ない在庫を探し回っている人がいるそうですし,電源同期式の時計用LSIのMM5311も定番でした。そうそう,コンパレータといえばLM311,LM339でした。

 74シリーズとピンコンパチなCMOSロジックを先駆けて投入したのもナショセミで,MM74Cシリーズの開発メーカーです。その後74HCに変わられ,ほとんど知られない存在になりましたが,ある時期のエンジニアにとってはとても懐かしいICなんだそうです。

 Ethernetの10Base-Tで定番化したNE2000というNICは,実はナショセミのDP8390を使って作られていました。AT互換機のシリアルポートで有名な16550もナショセミがオリジナルですし,その源流となったINS8250も,もちろんナショセミがオリジナルです。最近だと,LVDSという伝送方式はナショセミの開発です。

 ADコンバータ,DAコンバータもナショセミが定番でした。ADコンバータはADC0801やADC0809,DAコンバータならDAC08は必ず出てきたものです。

 また,ナショセミはCPUのメーカーとしても大きな足跡を残しています。i8080とMC6800に続く第3の8ビットプロセッサとして期待されたSC/MP,Z80のソフトがそのまま動くC-MOSのCPUとして,電池駆動でZ80マシンを作る唯一の手段だったNSC800,もっとも早く市場に投入された32ビットCPUのNS32032と,アナログとデジタル両面で大変強力なラインナップを誇っていたのです。

 こんな風に,工業用,軍用から民生品に至るまで,32ビットプロセッサからゲートICまで,高速オペアンプからオモチャ用のICまで,どんなものでも揃っていて,しかも他の会社にはない個性的な,でも入手は難しくなく安価な,そんなメーカーでした。

 ラジオ少年だった私が好きなメーカーも,このナショセミでした。海外製のICは入手が難しいなか,なぜかナショセミのICは部品屋さんで普通に買えることが多かったのです。

 ナショセミのデータブックを見ていると,ICそのものの面白さ以上に応用回路として紹介された回路例がまた面白いのです。こんな使い方をするのか,本来の目的とは全然違うことが出来るんだな,と,ナショセミのデータブックだけは別格でした。

 1987年,名門フェアチャイルドセミコンダクタを買収します。当時富士通が買収すると言われていたのですが,アメリカ政府から待ったがかかりナショセミが買収したわけですが,1997年には株式を手放しています。

 製品に魅力的なものが多い会社ですが,個性あふれる優秀な人材が多くいらっしゃるのも,この会社の伝統でしょう。先程のアナログICの神,ボブ・ワイドラーもそうですし,全半導体関係者のアイドル,ボブ・ピースを先頭に,枠を窮屈に考えず,むしろ積極的に楽しむくらいのゆとりが,この会社の技術者には見て取れます。良い技術,先進的な技術を,普通の製品に生かすのではなく,ちょっと違った角度から応用して非常に面白いものを作り上げる,そのちょっと違った角度を許すか許さないかは,私はその会社の文化や雰囲気によるものだろうと思うのです。

 今回,TIがナショセミを欲しがったのは,TIがよりアナログICのフォーカスするという戦略がまず第一にあり,その魅力的な製品群が競合と言うよりむしろ補完になるという判断があったことは理解出来ます。

 同時に,その優秀な人材とノウハウ,つまり総合的な技術力によって今だけではなく未来においてもアナログICのリーディングカンパニーでいようという強い思いがあったと思います。

 実は,アナログICの分野というのは,CPUやメモリといったデジタルICと違って,それほど大規模な設備投資を必要としません。だからアナログの専業メーカーには小さなメーカーも生き残っていられるわけですが,同時に一人前になるには10年かかると言われるアナログICの設計者を育成するのがとても大変と言われます。

 日本の半導体メーカーもなんとか一部に食らいついている分野ですが,韓国や台湾,中国などのメーカーはもうアナログICについてはまるで存在感がありません。これは,彼らが最先端プロセスの導入という「お金で済む」話を拠り所にしているからで,おのずとメモリやシステムLSIといったデジタルICで勝負することになります。しかしアナログICにはむしろ最先端ではないプロセスを使わねばならないことがが多くて,枯れた技術が適している場合が多いのです。

 現実は買収ですが,別にナショセミはお金に困っていたわけではありません。むしろTIと結婚したくらいの気分でいるんじゃないでしょうか。65億ドルで結婚というと穏やかではありませんが,TIのような大企業には大企業なりのメリットがあります。これを利用出来ることはナショセミにはメリットのはずで,一方でその独立性が(ある時期までだったとしても)約束される買収であるなら,とても良い話だと考えたのではないでしょうか。

 事実,TIはバーブラウンを買収した際にも,その独立性を極力残そうとしました。高性能で高価な半導体を作ってきたバーブラウンは,今や高性能で安価な半導体を安定して供給出来るブランドとなりました。これに倣うなら,ナショセミのブランドを持つ半導体は,ますます面白くなのではないかと,私は思っています。

 TIもアナログに軸足を置くメーカーの1つです。おそらくTIの技術者も,ボブ・ピースに対して尊敬の念を持っていることでしょう。彼が自分達の仲間になると考えれば,おそらくTIのエンジニアも奮い立つことでしょう。

 TIとナショセミ,どちらも集積回路と半導体の分野を,前人未踏の状態から切り開いてきた偉大なパイオニアです。確かに老舗が減ってしまうことは寂しいことですが,消えてなくなるわけではありません。ワクワクするような,楽しく,創造的な半導体を,ますます作ってくれることを心から期待します。

マイクロコンピュータ小史~その3 16ビットマシンの登場と台頭

 さて,今回で最後,16ビットマシンの台頭とPC-9801の終焉までの流れです。

・16ビットマシンの登場と台頭(1985年~1995年)

 1981年にはIBMから8088を搭載した16ビットパーソナルコンピュータ,IBM-PCが登場し,翌1982年には日本電気のPC-9801が8086を搭載して登場した。これらの16ビットCPUを用いたパーソナルコンピュータが主としてビジネス用に向けて発売されていた。

 本体価格はもちろん,システム一式の価格が高価であったこと,ゲームなどのホビー用ソフトウェアが少なかったこと,サウンド機能やジョイスティック端子などのホビーマシンに求められる機能を持たなかったこともあり,それまでの8ビットマイクロコンピュータとは明らかに異なるものとして認識されていた。

 しかし,ゲームやホビーの分野においても,BASICでプログラムを書く事が次第に行われなくなり,その処理能力やメモリ容量,高いグラフィクス能力を生かしたゲームが発売されるようになって,徐々に8ビットマイクロコンピュータは市場を縮小し,16ビットパーソナルコンピュータがあらゆる用途に利用されるようになる。

 日本の標準機であったPC-9800シリーズは,何度かの仕様拡張が行われたが,1985年に登場したPC-9801VM0/2/4以降は互換性がほぼ維持され,この機種をもってPC-9800シリーズの基礎が完成したと見る向きが強い。

 インテルのCPUの進化がそのままシステム性能の向上に繋がり,初期には8086やV30であったPC-9801も,80286,80386,486,PentiumとCPUの世代交代が起こる度に順当に性能を向上させている。

 ただし,あくまで処理速度の向上が主たる変更であり,MS-DOSで使用されるメモリの最大値はあくまで640kバイト,グラフィックは640x400ドットで4096色中16色の表示能力,漢字表示用のテキストVRAMを持つ事や,低速の拡張スロットを持ち続けていること,周辺LSIにほとんど変化がないことなど,基本仕様の変更は最小限にとどめられていた。

 一方,8ビットのマイクロコンピュータではホビー用途にも厳しくなるなか,シャープからCPUにモトローラの68000を採用したX68000が,X1シリーズの後継品種として1986年に発売になった。X68000は標準で2Mバイトのメモリを搭載,最大1024x768ドットのグラフィックと,最大65536色を同時に発色できる表示能力に,強力なスプライト機能,8和音のFM音源にADPCM音源を持つ,当時のゲームセンターのゲームマシンに匹敵するハードウェアを備えていた。

 すでに最大1Mバイトでは頭打ち感の強かった8086搭載のパーソナルコンピュータに対して,X68000は16Mバイトのメモリ空間を持つ68000の特徴を生かし,大容量のフレームバッファに広大なメモリ空間を用意していた。

 開発環境も整備され,その強力なハードウェアを徹底的に叩いたソフトウェアが長く作られ,主としてゲームなどのホビー用途やゲーム開発のマシンとして支持されたが,ビジネス用のソフトウェアが少なく,PC-9801用のソフトウェアに太刀打ち出来るものが存在しなかったことで,ビジネス用にはほとんど普及することがなかった。

 また,68000というCPUを採用したにもかかわらず,32ビット化が遅れたこと,最終のマシンであるX68030でさえも初代X68000の基本仕様をほとんどそのまま踏襲していたことから,当時の急速に進歩するコンピュータの世界において魅力を失い,一部の熱狂的なマニアに支持されたのみに終わってしまう。

 これとは別に,シャープは16ビットのビジネス用パーソナルコンピュータとしてMZ-5500とMZ-6500シリーズを発売したが,こちらもPC-9801の敵ではなく,すぐに市場から消え去った。

 一方の富士通は,1982年に6809と8088を搭載可能なFM-11を発売,これがFMシリーズにおける16ビットパーソナルコンピュータの最初のモデルとなるが,実質的には1984年に登場する8088のみを搭載したFM-11BSと,同年登場した後継機種であるFM-16βによって本格的に16ビットの市場に取り組む事となった。

 FM-16βは,PC-9801に席巻された市場を奪うべく用意された戦略的モデルで,CPUには80186を搭載,グラフィック描画に専用LSIを搭載するなど意欲的であったが,初期のOSとしてCP/M86を選んだことからソフトウェアの充実が図られず,PC-9801の牙城を崩すことは出来なかった。

 FM-16βをベースにさらに拡張を行ったのがFM-R50シリーズで,PC-9801シリーズの直接の対抗に当たる。このFM-R50をベースに,ホビー用途にも利用出来る家庭用パソコンとして,FM TOWNSが登場する。

 FM TOWNSは当初から80386をネイティブモードで動作させていたため16ビットパーソナルコンピュータではなく明らかに32ビットパーソナルコンピュータであったのだが,多色表示,スプライト機能,FM音源の搭載,そしてCD-ROMの標準搭載といったホビー用途を意識したものであり,PC-9801の不得意とする分野においてX68000とはライバル関係にあった。

 FM TOWNSはインテルのプロセッサを採用したことからその性能向上の恩恵を受けられた事もあり,1995年まで新機種が発売され,一定の支持を集めていた。

 こうして,日本国内では巨人NECのPC-9801シリーズがビジネス,ホビー共にパーソナルコンピュータ市場を制覇し,これにシャープと富士通という2弱による,独自アーキテクチャのコンピュータが,それぞれの支持者に支えられていた。

 海外ではIBM-PCとその互換機が市場を押さえており,1995年に登場するWindows95の登場によって,日本でもこれら独自アーキテクチャのマシンが急速に衰退することになる。


・互換機ビジネスとPC-9801

 IBM-PCは汎用品を組み合わせて作られた上に,オープンアーキテクチャを選択したため,互換機を開発することは容易であったが,著作権のあるBIOSをコピーするわけにはいかず,公の市場に互換機が登場することはしばらくなかった。

 しかし,著作権に抵触しない,安全なBIOSを供給するメーカーが現れ,互換機メーカーがここから合法的なBIOSの供給を受けることにより,IBM-PCと互換性のあるマシンが市場に投入出来た。

 本家であるIBMは互換機の持つ低価格,高性能なマシンに打ち勝つことが出来ず,やがてパーソナルコンピュータからの撤退を余儀なくされるが,IBM-PCとこれをベースに発展した現在のPCは,Windowsというハードウェアを隠蔽化する仕組みを持つOSの登場によって,すでにハードウェアの違いを意識しないようになっている。

 市場を寡占したメーカーの利益は莫大であり,価格競争に巻き込まれることもないため,当時の日本市場を押さえていたPC-9801シリーズの互換機を,大手メーカーとしては初めてセイコーエプソンが発売する。

 当時最新で,NECのPC-9801VX2に採用されていた80286をCPUに搭載したPC-286シリーズがPC-9801VMの互換機として発表されるが,ROM-BASICに著作権違反の疑いがあるとしてNECが発売差し止めを訴え,PC-286mode1からmodel4は発売を中止した。

 問題となったROM-BASICは,電源を入れると立ち上がるBASICインタプリタのことで,フロッピーディスクのサポートもないため,直接このBASICを使う事はほとんどなくなっていた。しかし,多くのソフトウェアがこのROM-BASICに格納されたサブルーチンを使っていたこともあり,互換性を維持するには避けて通ることの出来ないものであった。

 急遽ROM-BASICをオプションにしたPC-286model0を発売したが,その後著作権問題を解決し両社は和解,PC-286VとPC-286UからROM-BASICを搭載して互換性を高めている。

 この後PC-286シリーズは低価格,高性能を武器に売り上げを伸ばし,セイコーエプソンの主力商品の1つとなるが,PC-9801の衰退する1995年には撤退,以後はIBM-PCの互換機を販売するようになる。

 NECは自社がPC-9801用に発売したMS-DOSに,PC-286では動作しないようにチェックをかけていたが,エプソンはこれを解除するソフトを配布していた。ソフトハウスによってはこの「エプソンチェック」を行うものもあったが,後にこのチェックは廃止される。

 1987年当時,PC-9801の互換機はセイコーエプソン以外に数社が開発を行って,発売を検討しているという噂が流れていたが,実際に互換機を発売した大手メーカーとしてはセイコーエプソンのみであった。なお,シャープがMZ-2861という機種でPC-9801の互換を実現したことがあったが,これはあくまでPC-9801のエミュレーションを専用のソフトウェアで行い,特定のアプリケーションだけが動作するというもので,互換機として考えない場合がほとんどである。


・ホビーを志向した16ビットパーソナルコンピュータ

 NECはPC-8801シリーズを16ビット化したPC-88VAを1987年に発売する。Z80とV30の両方に互換性のあるカスタムLSIを中心に,グラフィック機能とサウンド機能を強化したホビー用マシンは,PC-8801シリーズとの互換性を売りにし,X68000をライバルとしたマシンであったが,ホビー用途がPC-9801シリーズに移行する流れには逆らえず,3機種の発売で終息する。

 1989年には,PC-9801VM相当とPC-8801MH相当の機能をそのまま1つの筐体に格納し,スイッチで切り替える事の出来た,PC-98DOが発売になる。翌年の1990年にはCPUをV33にして高速化を図ったPC-98DO+も投入するが,すでにPC-8801は不要になった時期でもあり,主流とはならなかった。

 富士通のFM TOWMSについては,キーボードやハードディスクを省き,CD-ROMで供給されるソフトウェアを「再生する」ためのマシンとして,小型のMartyを発売する。ちょうど当時はPlaystationとSEGA Saturnといった次世代ゲームマシンが登場する直前ということもあり,CD-ROMによって供給されるマルチメディアタイトルを,家庭用テレビで再生するための需要があると分析されていた時期でもあって,そのプラットフォームとしてFM TOWNSを応用したものであったが,そもそもFM TOWNSにそうしたソフトが揃っていたわけではなく,市場に受け入れられることはなかった。

 また,先に触れたX68000は常にマニアの方を向いたマシンとして,ハードやソフトを自作出来るスキルのある人,目の肥えたゲームマニアの期待に応えてはいたが,新しい仕様,拡張された機能などがほとんど用意されず,後継機種において進化したのはCPUのクロック周波数と搭載されたハードディスクの容量くらいのものであった。

 ただし,筐体の小型化は進み,バリエーションの1つとして3.5インチフロッピーディスクを搭載したcompactシリーズは68030モデルでも併売され,最終的に事実上の標準となった観さえある。

 X68000シリーズは,PowerPC搭載モデルの試作まで完了していたという話もあり,当時からそうした次世代モデルの噂が絶えなかったが,最終的にメーカーとしての判断から開発を中止,結局後継機種は出ないまま1982年に登場したX1の系譜は途絶えることになる。


・PC-9801シリーズ終焉

 主力機種の価格が約40万円という伝統を長く守ってきたPC-9801シリーズであったが,IBM-PCの互換機でもDOS/Vによって日本語表示が可能になったことから,一気に低価格のパーソナルコンピュータが流入する。

 そこで,従来路線を踏襲する高機能なモデルをPC-9821シリーズとし,基本性能をMS-DOSから使うユーザーに向けた廉価版をPC-9801として残す2ラインナップが1990年代初頭に見られた。

 PC-9801シリーズは後に終息,ほぼ全ての機種がPC-9821シリーズとして登場し,WIndowsへの対応やIBM-PCとの共通性を少しずつ高めていくことになるが,独自アーキテクチャであることが最終的に足かせとなり,ハードウェアもソフトウェアも,その開発が負担となっていった。

 また,Windowsの登場は,独自のアーキテクチャであることを隠蔽化するものであり,ユーザーがWindowsの動作を目的としている場合は,安価なIBM-PC互換機を買えばそれで十分という状況が生まれていた。この場合,PC-9821シリーズでなければならない理由はもはや存在せず,次第に市場規模が縮小する。

 そして1997年,NECはPC98-NXというPC97規格に準じたシリーズに軸足を移すが,2003年にはPC-9821シリーズの新規受注を停止,ここに長く日本のパソコンの代名詞であったPC-9801シリーズは,完全に終了する。


・MS-DOSとWindows

 汎用のOSとして販売された8086用のOSであるCP/M86は,当初MS-DOSに比べて優勢であったが,IBM-PCのヒットと共に,その優位性が高まってゆく。日本国内においては,MS-DOS2.11までアプリケーションを格納したフロッピーディスクにプリインストールされており,フロッピーディスクを入れて電源を投入すれば,MS-DOSからそれぞれのアプリケーションまでが起動するという一連の流れが実現した,唯一のOSであった。

 MS-DOSもバージョン3以降はこうした「バンドル」を許さなかったので,ユーザーは別にMS-DOSを購入し,自らインストールを行う必要があったが,この時すでに優秀な開発環境,低価格化したハードディスクへの対応,デバイスドライバによる拡張,日本語フロントエンドプロセッサの登場など,MS-DOSの優位性は揺るぎないものであった。

 当初,フロッピーディスクとファイルの操作,キーボードやマウスと言った入力デバイスの管理を行うだけのOSだったMS-DOSは,日本語入力手段の提供,EMSメモリによるメモリの拡張,ハードディスクやCD-ROMといった大容量デバイスへのアクセスといった機能を提供し,それぞれのアプリケーションに提供するようになる。

 それでもMS-DOSはシングルユーザー,シングルタスクのOSであり,GUIやマルチタスク環境を提供するものではなかった。

 マイクロソフトがアップルのLisaやMacintoshのGUIに触発されて開発したとされるWindowsは,MS-DOSの後継OSとしてIBMと共同開発を行っていたOS/2に対し,MS-DOSの拡張という形で細々と開発が行われていた。しかしIBMとの関係が悪化し,マイクロソフトはOS/2からWindowsへと軸足を移してゆく。

 Windows1.xはDOSのアプリケーションに過ぎず,また貴重なメモリを圧迫してしまうためほとんど使い物にならなかった。2.xではEMSメモリに対応することでメモリの問題には1つの解決策を提示したが,8086,80286,そして80386の3つのプロセッサを別々のパッケージで対応し,それぞれに機能差があった。

 Windows3.xになり,基本的には80386のみを対象とした上で,80286におけるプロテクトモードで動作するようになったことでようやく実用レベルに達し,特にWindows3.1とDOS/Vにより,海外製の安いIBM-PC互換機が国内でも売れるようになってゆく。

 そして80386のプロテクトモードで動作するWindows95が登場し,本格的なWindowsの普及が始まった。


・このころのCPU

 すでに16ビットのマシンが当たり前になったこの時代,インテルの8086の系列とモトローラの68000の系列が主軸となっていた。

 8086は現在のx86の原点とも言える16ビットCPUで,64kバイトごとに区切られたセグメントによって最大1Mバイトまでのメモリをアクセス出来る16ビットCPUである。命令セットなどのアーキテクチャに,8ビットである8080や8085を色濃く残していたため,これを揶揄する人も多かったようだが,そもそも8086が当初目指したのは8080からの受け皿であり,16ビットでアクセス出来る範囲をセグメントとして分けたこともその1つの方法である。

 8088は8086の外部データバスを8ビットにしたものである。当時のDRAMは1チップで1ビットの入出力端子を持つ構成であり,16ビットバスに接続するには最低16個のチップを必要とした。仮に64kビットのDRAMを用いた場合,最低でも128kバイトからの実装となってしまうため,そんなに必要ないという用途には無駄になってしまう。8088はこういった要求から生まれたもので,64kビットのDRAMを最低8個から構成できる事から低価格,小規模なコンピュータに向く。

 80286は8086の後継CPUとして登場した16ビットCPUであり,16Mバイトのメモリ空間に階層化されたメモリ保護機能を持つものであった。ただしパソコンでの使われ方は高速な8086としてであり,80286の機能を生かしたものはほとんどなかった。

 80386は80286を大幅に強化した32ビットCPUで,8086,80286との互換性も維持している。80386は完全な32ビットCPUであり,メモリ空間は4Gバイト,保護モード,ページング方式のMMUを内蔵しており,x86の完成形として現在のインテルの礎を築いた。

 68000はモトローラの16ビットCPUであり,M68000というアーキテクチャを実装したプロセッサの第一号である。16Mバイトのリニアなアドレス空間に直行性の高い命令セット,内部完全32ビット構成と,当時のミニコンピュータをお手本にしたCPUとして,他と比べて抜きんでた性能を誇っていた。68008は8ビットバス版,68020は32ビットバス版である。

 68030は68020の改良版で,キャッシュメモリとMMUを内蔵し,処理速度を向上させたものである。

 V30はNECが開発したCPUで,8086の互換CPUである。ピンコンパチではあるが電気的な仕様がやや異なるためそのままの差し替えは行えない場合が多い。オリジナルの8086に比べ一部の命令が処理クロック数が削減されており,同クロックの8086に比べてわずかだが高速化されていることが特徴。著作権侵害をインテルに訴えられた訴訟は長く続いたが,最終的に侵害の事実はないと判定され,和解した。

 65816はAppleIIやファミリーコンピュータに採用された6502の後継CPUで,6502との互換性を持つ16ビットCPUである。パーソナルコンピュータとしてはAppleIIGSにしか採用された例はないが,スーパーファミコンに採用された。

 Z8000はザイログが開発した16ビットCPUであるが,Z80との互換性はない。8086に比べてミニコンピュータのアーキテクチャに近く,68000が登場する前には本命とされていた。パーソナルコンピュータへの採用は例が少ないが,専用ワープロの書院などに採用された例がある。


・その他の日本の16ビットパーソナルコンピュータ

 三菱:MULTI16・・・CPUに8088,フロッピーディスクドライブとCRT,キーボードを一体化したオールインワンのマシンで,1981年に登場した日本の16ビットパソコンの草分け的存在。MS-DOSを採用したパソコンとしても最初期にあたり,マイクロソフトがMS-DOSを移植する際に,漢字を取り扱うために用意した文字コードが後にシフトJISと呼ばれるようになる。

 日立:ベーシックマスター16000・・・CPUに8088を搭載した初期の16ビットパソコンであり,驚くべき事にベーシックマスターJrやLevel3と一緒に広告が掲載されたこともある。実はIBM-PCの互換機である。

 東芝:PASOPIA16・・・PASOPIAシリーズの16ビットマシンで,CPUには8086を装備していた。やはりビジネス用途に向けたものであり,強力なOA-BASICが用意されていた。東芝はこの後,IBM-PCの互換機を展開,ラップトップマシンのJ3100シリーズや,世界初のノートPCであるダイナブックを投入し成功する。

 シャープ:MZ-2861・・・前述のMZ-5500や6500が,MZ-3500やPC-3200を源流に持つものであったのに対し,MZ-2861はMZ-2500(つまりMZ-80B)を源流に持つマシンである。CPUには80286とZ80Bを搭載し,MZ-2500モードに切り替える事で完全にMZ-2500として動作した。基本性能は高く,同梱のワープロソフト「MZ書院」も評価が高かったが,現在はPC-9801のエミュレーションを行ったマシンとして記憶にとどまる程度である。

 三洋:MBC-55・・・8088をCPUに持つパーソナルコンピュータである。1983年当時としては,128kバイトのRAMとフロッピーディスクドライブを1台内蔵して178000円と非常に価格が安く,家庭用テレビに接続出来る,フロッピーディスクは片面倍密度という安価なものを採用するなど,トータルコストを低く抑えてホビー用途も視野に入れたものであったが,ビジネス用途には必須であったソフトウェアの不足によってほとんど知られることなく市場から消える。なお,後継機種のMBC-5800はPSGやボイスシンセサイザを内蔵したが,こちらはさらにマイナーで知る人も少ない。

 松下電器:PANACOM-M500・・・富士通のFM-R50のOEMで供給されたシリーズである。

 松下電器:MyBrain3000・・・1983年に発売。松下通信工業が開発したビジネス向けの16ビットパーソナルコンピュータで,CPUには8088を採用していた。日本で最初にMS-DOSを採用したパーソナルコンピュータとして知られる。

 ソード:M68・・・パソコンベンチャーとして知られたソード電算機システムは,主としてビジネス用のパーソナルコンピュータを発売していたが,このうちCPUに8086と68000の2つのCPUを搭載したモデルが,このM68である。ソードはPIPSという簡易言語の評価が高く急成長を果たしたが,アプリケーションは自作するものから買ってくるものへと時代が変わり,急激に存在感を失っていく。現在は東芝の子会社となっている。

 NEC:PC-98LT・・・PC-98とついてはいるが,PC-9801とは互換性のないモデルで,NEC最初のラップトップマシン。PC-9801のサブセットという位置付けで,専用のソフトしか動作しなかったために,PC-9801LVというPC-9801シリーズと互換性のあるラップトップが出ると同時に消滅するが,その後この機種を小型化したPC-98HAが登場することになる。

 NEC:N5200モデル05・・・PTOSというOSが動作するオフィスコンピュータのシリーズの1つで,大型機の端末にもパソコンにもなることが売りであった。基本的な構成には同時期のPC-9801と共通する点も多かった。8インチフロッピーディスクドライブを2機装備し,CPUには8086を搭載していた。

 NEC:PC-100・・・PC-9801とは別のラインとして1983年に登場した16ビットマシンで,CPUには8086を装備していた。設計と製造には京セラが深く関与した言われており,ビットマップディスプレイに縦置き可能なCRT,マウスを標準装備し,OSにはMS-DOSを採用するなど,時代を先取りするかのような意欲的な仕様が多く盛り込まれた。しかしNECはPC-9801を主流として位置づけており,価格が高価であったこと,アプリケーションが揃わなかったこと,当時としては決して処理性能が高いわけではなかったことから売れず,営業的には失敗とされる。

 日本IBM:JX・・・失敗作といわれたIMB-PCjrをベースに,日本向け独自仕様を盛り込んだもので,当時の日本IBMとしては異例の個人向けに販売された機種。PC-8801程度の価格で16ビットマシンが買えることが売りであったが,動作は緩慢であり,ソフトもほとんどない中苦戦を強いられ,後継機種も出ずに撤退。

 カシオ:FP-3000・・・8086を採用した16ビットマシンで,1983年に148000円という低価格で発売されたマシン。ビジネスと言うより

 トミー:ぴゅう太・・・8ビットのマイクロコンピュータの範疇に入るホビーマシンであるが,CPUは16ビットのTMS9995を用いているため,16ビットマシンとして扱う場合もある。ただ,TMS9995は8086や68000に比べると明らかに一世代前の16ビットCPUといえ,16ビットマシンとして当然の処理能力が不足しているため,一般には16ビットマシンとして考える事はない。VDPにはMSXと同じTMS9918を採用し,初期のモデルはカタカナによる日本語表記のBASICインタプリタを装備するという異色のコンピュータであった。ROMカートリッジでゲームを楽しめる点はMSXやM5,SC-3000などと同じゲームを志向するマシンであったが,同時に販路の関係からおもちゃ屋さんの店頭に並ぶこともあり,コンピュータ専門店がなかった地方などでも実際に触ることが出来た数少ないマシンの1つである。

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