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夏休みの検討課題

 今年から長期の連休ではなく,2日程度の連休が何度かあるという形の夏休みにしたのですが,子供の頃から続けてきた「夏の工作」も様変わりし,じっくり取り組むものというより,何かあったら困るからと言う理由で避けてきたいろいろな検討課題を潰す良い機会に位置づけました。

 まあその,何かあったら困るのうちほとんどが自分で余計な事をして何かを起こしてしまうという自爆なわけですが,それも最後にはなんとか片付いているので,良いとしましょう。

 で,今回は少し趣を変えて,以下の2つをやってみました。


(1)地デジPCのSSD導入

 これまで私の地デジPCは,信頼性を重視してSSDを使わず,HDDを使っていました。筐体の都合もあり2.5TBのHDDを500GBと2TBで区切って,前半にWIndowsをインストール,後半にデータを入れるようにしてあります。

 ところがこの2.5TB,かなり昔から動いているもので毎日長時間動き続けているものでもあり,そろそろ故障が心配になってきました。壊れてからでは遅すぎるので早めに手を打ちたいのですが,なにせコピーだけではHDDを置き換えられないのがWIndowsの世界で,そうして何ヶ月も気になったままになっていたのでした。

 そんなおり,SSDの価格が急激に下がっていることを知ります。私はSSDはサンディスクを好んで使うのですが,普及グレードであれば6500円ほどで240GBが買えてしまいます。安くなったものです。

 私のシステムでは起動をSSDから行ってもそれほどメリットはなく,むしろ信頼性でデメリットになるような気がしていたのですが,価格がここまで下がったら導入しない手はありません。

 SSDにすると,筐体のスペースの関係でこれまで出来なかった,起動用とデータ用を物理的に別のドライブ分けることが可能になります。また,万が一スワップが発生したときにもSSDなら有利でしょう。

 ということで,いずれやってくるHDDの故障に対する備えと,堆積の小さなSSDにすることでドライブを物理的に分けることが出来るというメリットを動機にし,SSD導入を断行しました。

 まずSSDの入手です。サンディスク製で最も安価なSSD PLUSの240GB(SDSSDA-240G-J26)にしました。ヨドバシで7130円,ポイントを差し引くと6400円ほどです。

 データ用のドライブはQNAPのNASに入れて使っていた3TBのWD REDです。これも2年以上24時間動作していたので,もういくらももたないだろうと思いますが,SMARTを見てもまだまだいけそうですし,もったいないのでこれを使い潰します。なにかあっても,データ用だけなら新しいものを買って交換するだけですから,そんなに心配はありません。

 本当はマウンタとかケーブルとか買わないといけないのですが,面倒なので手持ちを活用します。ただ電源の分岐だけは必要になることがわかっていたので,同時にかいました。

 作業ですが,本来ならWindowsをクリーンインストール,ドライバやアプリを入れ直してさっさと環境を再構築するべきなのですが,作業時間はともかく,(つきっ切りで作業をしないといけないので)放置しておけない今の私の状況から,クローニングソフトを使うことにしました。

 その昔,NortonGhostの世話になったのですが,今はEFIやらGPTやらで古いものを使うのも怖いですから,ここは皆さんがどうやっているかをgoogle先生に聞いてみます。

 なになに,EaseUS Todo Backupがいいという話です。無償でクローンが作れます。たくさんの方が利用されているようです。私もこれにしましょう。

 作業を始めると,クローン出来ないというエラーが出ました。これはディスクを修復して解決したのですが,クローンした物からブートしないというトラブルが発生。後でわかったのは,私の環境が64bitのWindows10でGPTであったことと,EFIの設定がブートデバイスとしてレガシーなものを排除したことが理由ではないかということです。

 このソフトでクローンを作ると,EFI用のパーティションなどが作成されないのです。MBRならそれでもいいんですが,GPTではそうもいきません。Windows7の32bitでMBRだと問題なく起動したかもしれません。(間違っているかも知れません)


 もうあれこれ考えている時間もありません。セクタ単位のコピーも試しましたが,EFIパーティションが作られない状況に変化はなく,従って起動しない状態も変わりません。

 BIOSから起動ドライブを変えようにも,SSDが選択出来ません。万事休す。

 そこでツールを変えてみます。AOMEI Backupperです。

 これもよく見るソフトで,起動してみるとちゃんとEFIパーティションを含めてクローニングしてくれそうな画面がでています。期待したのですが,無償版クローンの作成は出来ない事がわかり,ここでまたくじけそうになりました。

 ならばと,ここでHDDをバックアップ,SSDに復元という方法でクローンを作ります。無事作成が出来てからSSDだけを繋いで起動すると,見事にSSDからWindowsが起動しました。特に起動が高速という事もないのですが,起動してからの動作が機敏になったように思います。

 ここまできたら,後はデータを3TBのHDDにコピーして作業は終了です。6時間ほどもかかったでしょうか,最後はSSDを筐体に押し込み,フタを閉じて完成です。

 このあと,BIOSを最新のものにアップデートしたら,ブートデバイスにSSDを選ぶ事が出来るようになったのですが,その代わりレガシーなブートオプションを無効に出来なくなってしまいました。よくわかりませんが,もう深追いはしません。

 その後1週間ほど経過していますが,全く問題なく動作しています。速度という面でのメリットは予想通りあまりないのですが,ドライブを完全に分けられることの安心感は大きいです。

 価格的には1万円までで片付いたのですが,トラブルの未然防止が目的でもあったので,手に入れたものは安心感でした。今ひとつ費用対効果が目に見えないので,ちょっとさみしいなというのが,本音の所です。


(2)携帯電話

 私は未だにガラケーの愛用者です。とはいってもアンチスマホではないので,スマホは持っています。ただ,通話とデータ通信を分けているだけです。もちろんスマホは格安SIMで使っています。

 格安SIMで運用するスマホの泣き所は通話とキャリアメールにあるわけで,バリュープランのタイプSSでファミ割りMAXを使うと1000円未満で通話回線が維持できます。しかも無料通話分が1000円付いてくる上,家族間なら通話もiモードメールも無料です。

 これは当時も今も最安値でドコモの回線を維持する方法なのですが,端末を一括購入する代わりに安い料金プランを選択出来るというサービスだっただけに,対象機種がほとんど存在しない現在はなかなか加入できないプランらしいです。

 ということで,私は月々2000円ほどでドコモの通話とスマホを維持できているわけですが,これで全く不足はなく,ここでやみくもにスマホに完全移行すると倍の料金に跳ね上がるのに出来る事はなにも変わらないということが起きてしまうので,とてもバカらしいのです。

 ガラケーはその意味ではなかなか貴重な存在で,特にFOMA端末(3G専用端末)は新規に作られていないだけに,壊さないように大切に使う必要があります。

 しかし,傷だらけのFOMAに愛着などあろうはずものなく,実は長年使っていたSH-03Bを充電スタンドに置くとき,乱暴に押し込んだためにたわんでしまい,なんとLCDが割れてしまったのです。

 さすがに私はうろたえました。修理も出来ず,現在の契約を維持できる端末に買い換えることが出来るのかどうかもはっきりせず,とにかくどうしていいやらという状態でした。

 音声付きの格安SIMに切り替えて,全面的にスマホに移行する事も考えたのですが,それだと家族間の通話とメールの無料が外れてしまうので大変なことになります。やはり,なにか環境が変わらない間は,今の状況を維持した方がよさそうです。

 となると,方法は2つ。SH-03Bに代わる新しい端末を中古で買うこと,もう1つはSH-03Bを修理すること,です。

 前者は3GのFOMAに限られます。形はガラケーだけど中身はスマホ,と言う奴はだめなので,FOMAの最終機種を探してみます。するとSH-07Fが該当しそうです。これを中古で6000円ほどで調達しました。傷なしの備品という触れ込みでしたが,届いて見ると大きなキズがあり,がっかりです。
 
 後者は,汚く程度の悪い白のSH-03Bを3000円ほどdえ買いました。LCDだけ交換すればと思っていましたが,LCDだけの交換はかなり難しい事がわかり(両面テープをあっちこっち剥がさないといけない),スライドするLCD部を丸ごと交換することにしました。私のSH-03Bは黒だったので,上半分が白,下半分が黒のパンダSH-03Bが出来上がりました。

 もともと,データの移行用に修理したのでまともに動く事すら期待しなかった修理でしたが,6歳の娘の目の前で交換作業をした思い出も手伝って,まだまだちゃんと使える状態で復活してくれました。

 その翌日,SH-07Fが届き,キズにがっかりしたわけですが,これはこれでサクサクと動いて,なかなか快適なのです。SH-03Bを買った頃は,なんでもこれでやらねばならず,フルキーボードは非常にありがたかったのですが,通話とメールだけの端末ですから,別にテンキーでも文句はありません。

 なら,私が過去に使っていて,今でもお気に入りのD704iを通話とメール用に復活させてもよかったのですが,そこはほら,できるだけ壊れない新しいものが欲しいじゃあないですか,だから最終機種であるSH-07Fを買ってみたわけです。

 ということで,SIMを差し替えてSH-07Fを使おうとすると問題発生。SIMのサイズが合いません。手持ちのSIMパンチでmicroSIMにしてもいいんですが,壊れてしまうと面倒なのでここは素直にドコモショップに出向きます。

 特に面倒な話もなく,手数料2000円でSIMを交換してもらいました。念のためドコモのインフォメーションセンターに電話して,料金プランなどがSIMに紐付いていることと,違う端末に差し替えても契約内容はそのまま継承されることを確認しました。

 これでおしまい,といいたい所ですが,実は電池がへたっていたので新規に買おうとドコモショップでお願いしたのです。ところが買うことが出来ませんでした。

 SH-03B用の電池も頼んだのですが,こちらはすでに製造中止。まあこれはわかります。

 でも,SH-07Fものもドコモとしては販売していないというじゃありませんか。2014年の端末ですからね,2年に一度の交換として,まだ2回目くらいですよ。

 いくらなんでもそれはないと言いましたが,ダメなものはダメと言われて帰ってきました。インフォメーションセンターでも聞いて見ましたが,結論はメーカーは製造を中止していないしドコモとしても販売を終了していないが,在庫がないので販売出来ないということでした。

 そう言ってくれればいいだけの話なんですが,実はドコモオンラインショップでは在庫ありで,私も2個買うことが出来ました。あー,バカバカしい。

 スタンドも裏蓋も在庫ありで,問題なく届きました。6000円の端末に2500円ほどかけてしまい,まるで新品を買ったくらいの値段になってしまったのが残念ですが,まあ仕方がありません。

 買ってみた感想ですが,やっぱりただのガラケーです。ただ,1.2GHzのSH-mobileを搭載した機種だけに動作は機敏で,SH-03Bのもっさりとした感じはありません。画面が小さい,解像度が低く文字が大きい,そして動作がもっさりがガラケーの特徴なわけで,SH-07Fくらいになると,この3つについてはかなり解消されていますから,今どきのスマホになれた私でも,特に違和感を感じません。

 折りたたみのガラケーは,なかなか使いやすくていいんですよ。小さいし軽いし薄いし,機能も必要十分だし,電池は良く持つし,3Gですからね,通話の廻船はパケットではなく1対1ですから信頼性も抜群です。この非効率なネットワークの維持に,ドコモはかなりのお金をかけて品質を担保しているはずです。うしし。

 ということで,2025年だか2030年だか,ドコモは3Gサービスを停止するらしいですが,それまではこのまま使おうと思います。

 あ,ところでSH-03Bの修理ですが,これは詳しく書くほどもないくらい,簡単でした。下段の裏蓋をあけて,フレキを外してメイン基板を外してしまえば,スライド機構が出てきます。

 これを固定する金具を,左右4本ずつのビスをゆるめて外せば,上段のLCDブロックが外れます。この部分を丸ごと交換するだけです。10分もかからないでしょう。

 で,microSIMを通常のSIMにするアダプタを,SIMなしで差し込んでしまい,内部の端子が引っかかって抜けなくなってしまい,もう一度ばらしてなんとかアダプタを引き抜く羽目になったことは,ここだけの秘密です。


(3)時計

 1985年頃だったと思いますが,システム手帳なるものがブームになり,なんでもかんでもカードサイズにすることが流行した時代があります。電卓はおろか,ボールペンやシャーペンまでカードサイズになったおかしな時代でしたが,中学生だった当時,カシオのカードサイズのカレンダークロックを父親にもらいました。

 当時は珍しい大きさと薄さに万年カレンダーにアラームクロックを合体させたもので,CR-2016で数年間動作するのもなかなか優れものでした。

 喜んで使い始めた私は,これは時計として基本機能を満たしていないことに気が付きます。そう,精度が無茶苦茶なのです。

 すぐに使わなくなったこの時計が,再び私の目の前に姿を現したのは,今から5年ほど前です。実家を整理していた見つけた時計ですが,当時新築したての我が家には時計の需要が旺盛で,その小型薄型を見込まれて,トイレに設置されることになりました。

 しかし,これがまた大きくズレるのです。3年ほどで実に20分ほど進んでいます。いや,1年で6分とすれば1ヶ月では30秒ですので,これは一応クオーツ時計の標準的な仕様の範囲にギリギリ収まっています。

 でも,実力としてこの精度の時計はほとんど見られませんし,なにより私が許せません。

 単に時計を合わせ直せばいいかといえばそういうことでもなく,2ヶ月で1分もズレてしまえば,1分単位で生きている早朝には対応出来ません。

 やるしかないか・・・

 30年も前の時計ですので,そんなに難しい仕組みもないでしょう。調整が出来るかどうか,とりあえず分解です。

 缶に入った水晶発振子が時代を感じさせるのですが,その脇にあるチップコンデンサのサイズも大きく,懐かしいです。

 最初,この水晶発振子を新しいものに交換すれば,もう少し精度のいいものになるだろうと思っていたのです。

 と,その前にいくつかチェックランドがありますので,これをオシロスコープであたっていきます。1つ,きっちり32kHzが出ているランドを見つけました。水晶発振子は32.768kHzなのに,どうやって32kHzを作るのか,その必要性はなんなんだと首をかしげましたが,とにかくここの周波数が32kHzからどれだけズレているかで精度を見極めることができると考えました。

 周波数カウンタを起動し,早速周波数を測ります。

 現状では,32000.4Hzでした。これは日差1.08秒進むズレです。1ヶ月だと約30秒ですので,現実とほぼ一致します。うむうむ。

 新しい水晶発振子に交換すると,あろうことか32000.6Hzに悪化しました。話になりません。

 なら,元に戻して,近くのコンデンサを調整しましょう。20pFほどパラ付けすると,随分周波数が下がります。カットアンドトライをして,手持ちの2pFをパラ付けすると,32000.04Hzとなりました。これだと日差0.108秒進む計算ですから,1ヶ月で3秒,1年では40秒ほどのズレとなります。

 それでもまだまだ,と言いたいところですが,トリマコンデンサは場所がないので取り付けられませんし,そもそもここを32kHzぴったりにすればいいのかどうかも推測に過ぎません。とりあえずこれで様子を見ます。

 両面テープを貼り直してフロントのフィルムを張り直しますが,ここで失敗があったらしく,聞かないキーがあったりしました。もう一度やり直しますが,今度は粘着力が弱く,剥がれてきます。

 しかも,手持ちの関係でCR2016の代わりにCR2025を無理矢理押し込んだので,余計に剥がれてしまいます。1時間ほどすると,電池端子が外れたらしく,表示も消えてしまう有様です。

 真面目に組み直し,電池もCR2016を用意してなんとか復活させましたが,裏の板はパラ付けしたコンデンサが盛り上がってしまい,閉じません。これはもう仕方がないので,そのまま取り付けずにいきます。

 ということで,30年前にはあきらめて時計が,今こうして精度の調整を受け,最前線に投入されることになりました。


 時計があるとき突然修正されていると,ズレていることを前提に動いていた人が修正されたことを知らず,時刻を勘違いしてしまうということが起きるので,嫁さんにこの話をしたところ,この時計のずれがひどい事はわかっていたが,これはきっと「ほらほら急げよ」という神様の叱責だと,真摯なことをつぶやいていました。

 今後は神の叱責も応援もなく,そこにある真実だけを見て生活が出来るようになりました。時計がズレないことはとても大事な事だと,つくづく思った次第です。


 というわけで,3つほど気になっていた事が片付きました。今年の夏は,こんな夏でした。

 

URL変更でドタバタする

  • 2016/06/03 12:14
  • カテゴリー:備忘録

 個人が自宅にサーバーを立てて公開するという話は,以前よりも聞かなくなったように思います。かつての牧歌的な時代ならともかく,今どきマシンをネットに繋ぐと5秒でセキュリティホールを探しに来る奴がいるというのですが,これはもう素っ裸で銃弾飛び交う最前線に飛び出すようなものです。

 自宅にサーバーを置いたからと言って,別にお金がかからないわけではないし,信頼性はむしろ低く,速度も遅ければ容量も限られていて,バックアップもきちんと撮られていないからトラブルでコケると復旧に忙殺されるしで,なにもいいことはありません。

 それでも自宅でサーバーをたてているのは,自分で管理が出来る面白さと,何でも出来るという可能性,そして自分の実力で手に負えない物はすっぱりあきらめるという自由があることが,大きいと思っています。

 そもそも,私が自宅で運用しているのは,それまで利用していたYahoo!JapanのWEBサービスだった「ジオシティーズ」の,個人情報に関する規約に疑問が提起されて当時大きな反発を呼んでおり,広義の意味も込めて離れる人が多かったからです。

 なんかまあ,これも非常に牧歌的だなあと今にして思うのですが,私もこのムーブメントに同調し,ジオシティーズから離れたのでした。

 このことの是非はともかく,なにかと窮屈だったジオシティーズから自分の契約するISPが用意したWEBサービスに乗り換えようと思ったのですが,これが私の別の要件で使われていて,すぐには移行できないことが分かっていました。

 そこで,とりあえず余ったPCにWindowsを入れて,これで簡単なWEBサーバーを立てることにしたのが事の始まりです。このころのWEBは,サーバー側もクライアント側もまだまだ進化の途中で,加速度的に向上するハードウェアの処理能力と次々に実装されるOSの機能とAPIに,新しく出来る事が現れては消えを繰り返す時代でした。

 そんな中,最初のマシンは確か富士通のB5ノートで,MMXPentiumの133MHzに8MBのメモリ,1GBかそこらのHDDだったんじゃないかと思います。OSはWindows2000でした。WEBサーバーはIISで,DyndnsにDNSをお願いし,DiCEで自動更新するというスタイルでした。ああ懐かしい・・・というか,この素っ裸っぷりが,危険という前に恥ずかしいレベルです。

 ・・・えと,言い訳させて欲しいのですが,当時はみんなこんなもんで,素っ裸かパンツ1枚かの違いくらいはあったと思いますが,ちゃんとした服装にするためだけに高価なマシンのリソースをほぼ使い切るような時代でしたから,素人には非現実だったんです。

 その後,何度かマシンを更新し,WIndowsベースからLinuxベースにサーバーを更新して運用していたのですが,幸い大きなトラブルもなく,現在に至っています。当時はCGIとかPerlとか・・・,ああ懐かしいですね。

 そのころから,ダイナミックDNSを使わせてもらっていましたが,老舗のDyndnsを使っていたのはそれが雑誌に出ていたからで,特に理由はありません。長く使っていて,自分のURLに親しみもあったのですが,有料になってしまって,やめることにしました。

 ドメインの変更は自分が辛抱すると言うより,利用する人が不便を強いられることになりますから,なかなか思い決断ではあったのですが,他に無償のサービスがたくさんある中で,わざわざ同じ程度のサービスをお金を払って運用するほどの価値もないという判断で,次に乗り換えたのでした。

 それから数年,クラッカーに便利な道具になっているとか,そもそも自宅サーバーは踏み台になっているとか,そもそも利用者が減っているんじゃないかとか,そういう逆風が福中でダイナミックDNSも廃止あるいは有償化される流れが目立って来たように思います。

 no-ipがマイクロソフトに濡れ衣を着せられた数年前の事件をきっかけに,私も別の安定したダイナミックDNSを使いたいと思っていたのですが,幸いネットワーク機器のメーカーであるプラネックスが,自社のWEBカメラ用に提供してくれていたCyberGateというサービスを使うことにしましたのが,今年の2月だったと思います。

 安定して動いているなあと思っていた所,4月にはサービス終了のお知らせが届き,今年7月末に終了されることになりました。またドメイン難民です。

 難民が一斉に出てくるちょうどこのタイミングでgoogle先生に落ち着き先を尋ねて見ると,MyDNSがいいよと教えてくれました。なるほど,良さそうなのですが,ちょっと試してみると,一部のゲートウェイで弾かれてしまうことがわかり,ケチが付いてしまいました。

 断定してはいけませんが,セキュリティに手を抜かない人達が,お金をかけて「はじく」んですから,やっぱりそれなりに危険性があると見るべきでしょう。どんな世界でも完璧はありませんが,そんな中でもわざわざ「危ない」といってる人がいるものを,使う事もないように思いますし。

 さて,万策尽きたように思ったのですが,私が使っているNASには,DDNSサービスが提供されています。今までなんとなく避けていたこのサービスを,思い出したように使ってみることにしました。さらに調べて見ると,SSLの証明書も38ヶ月で50ドルと,なかなかリーズナブルに提供されていることもわかりました。

 しかし,freoでドメインを変更するのは初めてです。ちょっと調べて見たのですが,移行の仕方がどうもはっきりしません。初めて設置する際に設置パスを記述するのですが,設置後に変更する方法が見つかりません。

 そこで,いろいろ試行錯誤をして,動くようになりました,

(1)config.phpとcommon.jsのパスを書き換える。私の場合common.jsは書き換えなくてもよく,config.phpの設置パスを書き換えるだけでよかった。

(2)ローカルからのアクセスのために,dnsmasqの設定を変更し,新しいドメインでNASのローカルアドレスが返るようにしておく。

(3)この段階で,とりあえずfreoは動きだした。外部からのアクセスでは画像が出ないだけで検索も出来るのだが,内部からのアクセスではなぜか文字しか出てこない。フレームも壊れている。実はこの時,夕食のレシピ(豚の角煮)を見ることが出来ずに,夕食が30分ほど遅くなってしまった。

(4)dnsmasqを再起動し,キャッシュをクリアし,クライアントも再起動して画像以外は出るようになった。

(5)問題は画像が出ないこと。まず,メディアの管理から画像を参照できるかどうかを調べて見たところ,アクセス出来ない事が判明。そこで新しいファイルをアップロードし比較をしたところ,オーナーが違っていた。サムネール画像も含め,アクセス出来ない画像すべてのオーナーを変更することで,メディア管理からアクセスが出来るようになった。

(6)それでも記事中の画像は出てこない。記事の編集画面で,画像のリンク先を確認すると,見事に古いURLの絶対パスでリンクされていた。しかし,1000枚近くもある画像のリンクすべてを,新しいURLに書き換えるなんてことは現実的に不可能・・・これで詰んだように思われた。

(7)記事のファイルを直接編集し,一斉置換をすることを考えたが,よく考えたらfreoの記事の管理ってどうやってるのか知らなかった。SQLLiteを使ったデータベースで管理しているのだが,記事のファイルはどうやらfreo.dbらしい。

(8)どうせURLなんてテキストだし,直接エディタで開いて置換すればいいさ,と試したところ,やはりダメ。バイナリも入ったファイルなわけで,編集してしまえばそりゃ別物になるわな。

(9)試しにエディタで編集を一際せず,そのままアップロードしたところ,問題なく動いている。うちはSQLite3を使っているので,freo.dbを直接ダウンロード/アップロードしても動くらしい。MySQLだとダメということなので,危ないところだった。

(10)freo.dbを得意のバイナリエディタを使って一斉置換をするか考えたが,文字数が変わってしまうと,文字数を記述した部分も変えないといけないし,フォーマットが崩れてしまうこともそりゃあるだろうということで,結局この方法は危ないので断念することに。

(11)ならばfreo.dbを直接編集できるエディタを使えばいいんじゃないかと思ったが,ドメインの再設定を行うツールも含めて,そんなものは見つからなかった。ああ万策尽きた。

(12)ふと,プラグインにインポートとエクスポートがあることを思い出した。もしかしたらエクスポートで書き出した物をエディタで編集し,インポートするという作戦があるかもと,早速試す。

(13)エクスポートしたファイルはSQLファイルという事なので,テキストエディタで編集可能のはず。そこでこのファイルをエディタで開いて新しいURLに一斉置換,これをインポートしてみる。ファイルサイズはほとんど変わっていない。

(14)ドキドキしながら試すと,画像が表示された。よかった,うまくいった。


 ということで,知っている人にとっては,寝ている間に出来てしまうような簡単な話だと思うのですが,どうにかこうにかURLの変更が出来ました。それにしても,記事のリンクに絶対パスを張り込まれてしまうと,せっかく動的にHTMLを生成するPHPなのに,なんで環境変数からリンクを動的に生成しないのかと,ちょっと疑問が残ります。

 まあ,私の専門分野じゃありませんし,うまく動けばいいってことで。

 SSLの証明書も購入し,インストール。これで安全に繋がるようになりました。

 確かに,こうした話ではまり込んでしまうことも相変わらずありますが,問題の解決にはそんなに時間がかからなくなっているなという印象です。これはツール類が良くなっていること,ノウハウの蓄積があって検索すればすぐに解決策が見つかること,そしてトラブルの原因が集約されたり,予想外のトラブルが少なくなってきていることがあるように思います。

 昔は,理屈通りにいかないとか,書いてあることと違う結果になったとかで,そこから手探りになることが多かったように思うのですが,今はそんなこともなくなっているような印象です。

 あまりありがたい話ではありませんが,これからはURLが変わっても,もう大丈夫でしょう。
 

またやってきたギックリ腰

  • 2016/01/29 12:55
  • カテゴリー:備忘録

 昨年9月末に,ぴくり友動けないほどのギックリ腰をやってしまい,その経過はここにも書きましたが,わずか4ヶ月しか経過していない先週に,またギックリ腰をやってしまいました。

 ギックリ腰は何度もやると癖になる(中毒するという意味ではないですよ)と聞いていましたが,もしかすると本当にそうかもなと思ったりします。

 今回は,初期の段階では普通に動けるほどで,ほとんど痛みもなかったのですが,時間の経過と共に痛みがひどくなって,ピーク時には前回に匹敵するほど重度化しました。

 悪くなり始めると30分ごとに行動が制限されるようになってしまい,精神的に恐ろしくなるほどでした。

 前回とは明らかに経過が異っていましたので,自分自身のメモとして,径かを書いておこうと思います。

・発生以前
 1週間ほど前から,腰に重さ,軽い痛み,疲れがあり,長時間椅子に座っていると,立ち上がったときに痛みで腰が伸ばせないということが続いていた。

・1月17日 11時過ぎ
 トイレの床に掃除機をかける際,左手で子供用の便座を拾い,右手で掃除機を動かしたが,この時に腰の右側に激しい痛み。

 ただし,体を起こすことが出来る上,熱も感じず,起き上がれば痛みも消える程度で,今回は程度が軽い。特に痛みも続かないので,慎重になりつつも普段通りに動く。

・1月17日 11時30分頃
 床に座って,ソファーにもたれようとおもったところで激しい痛み,思わず飛び跳ねてしまう。床に座って腰をL字に曲げることが大きな負担になることと,やはり腰を痛めたという事を思い知り,以後は安静にする。

・1月17日 夜
 夕方は若干の痛みはあるものの,問題なく動けたので夕食を作る。夜は徐々に痛みが出てきて,歩くのに支障を来し始めたので,翌日の出社を取りやめる方向で検討に入る。

・1月18日 朝
 痛みは寝る前と同じくらい。動けるが,痛みがあって歩くのが大変。トイレも問題ないが,便座に座ると激しい痛みが出ることがあるが,これも昨夜と同じ。大雪だったこともあり,会社を休んで安静にする。

・1月18日 11時
 発生から24時間経過。悪化も回復もないが,動けるのであまり心配していない。

・1月18日 13時
 布団に入りながら,DATのダビングをしようと,DATとICレコーダを寝室に運び込む。うつらうつらしながらダビングを行うが,痛みのために寝ていることが次第に苦痛になってくる。

・1月18日 16時
 布団から起きてDATを片付けようとするも,すでに起き上がることができない。やむなく四つん這いになるが,まだDATを部屋の外に持ち出すことくらいは可能。

・1月18日 17時
 立ち上がることが出来なくなる。四つん這いでも動けなくなりつつあり,トイレに行くのに非常に苦労し始める。

・1月18日 18時
 四つん這いでも動けなくなり,寝ているしかなくなる。布団から体を起こせなくなっているし,楽な姿勢が少なくなっていて,寝返りを打つのが難しくなる。

・1月18日 19時
 腹ばいで体を引き引き摺って動く事も出来なくなる。ちょっとした姿勢変化で激しい痛みが出るため,動く事が出来ない。また,痛みが出ると力が入り,それがまた痛みを起こすというフィードバックがかかるようになる。布団に入り込めないまま30分が経過し,寒さから震えが出ると,それが原因でまた痛みが発生する。これが痛みのピーク。ボルタレンを張ってもらうと,痛みが軽減し震えも止まった。ここからロキソニンも服用。

・1月19日 朝
 夜の状態から改善はなく,ほとんど動けない状態。それでもロキソニンが効いているのか,痛みが少し弱くなっている。

・1月19日 11時
 48時間が経過。そろそろ動きだしてもいいはずなのだが,全く動く事が出来ない。

・1月19日 19時
 やむなくシャワーに入る。しかし,あまりに痛さに満足に洗えず,とても苦労する。この段階では,少しは歩けるようになっているが,油断すると痛みのために座り込んでしまうし,手に物を持って動く事もままならない。

・1月20日 朝
 この日もようやく歩ける程度ということで,会社を休む。

・1月20日 11時
 発生から48時間が経過。ようやく痛みが軽くなり,立ち上がって歩くことが出来るようになってくる。椅子に座ること,長時間同じ姿勢でいることはまだ痛くて出来ない。

・1月20日 午後
 翌日からの出社に備えて,できる限り普段通りの生活をするため,椅子に座って過ごす。長時間は難しいので,30分ごとに立ち上がって背筋を伸ばす。

・1月20日 夜
 保育園のお迎えもいけるまでに回復。風呂も久々にきちんと入る。

・1月21日 朝
 ちょっと痛みが残っているが,出社。問題なし。


 ということで,発生直後は普段の生活が可能なほど痛みがなかったのに,翌日から悪化していき,最終的に動く事すら出来なくなりました。30分単位で状況が変化していく恐ろしさがあり,いったいどこまで悪くなるのかと不安になりました。

 回復も遅く,痛みの消え方も弱くて,布団から起き出すことも歩くことも,なかなか出来るようになりませんした。

 初期の状態が良かったので,発生直後に安静にせず,どんどん動いてしまいましたし,薬を使う事もしなかったために,そこから急激に悪化した可能性もあります。

 これはひどくなって来た,と思ってからボルタレンとロキソニンを使いましたが,ここからは薬の効果が実感出来ました。また,ナボリンもききますので,飲んでおいた方がよさそうです。

 ということで,関東地方の鉄道網が雪のために麻痺したことを,私は結局知らないままで過ごしたわけですが,前回のギックリ腰と同じ経過をたどるなら,早期に回復して動けるようになり,そこまでの時間も読めるという事で焦ることはしないで済むと思っていたところ,痛みの程度も経過も全然異なるケースが出現し,その結果3日間も会社を休むことになるというのは,考えもしませんでした。

 前回の痛みのピークは発生時で,そこからは良くなるしかなかったわけですから,希望も持てました。しかし今回は徐々に痛みが増し,行動に制約がかかるようになります。いったいどこまで悪くなるのかという不安は,本当に厳しいものがあります。

 今後,回復の見込みのない病気にかかったりして苦痛と直面したとき,私は正気を保てるかと不安になりました。

 とにかく,ギックリ腰にもいろいろなパターンがあり,程度も経過も同じではないということです。

 それでも大事な事は,初期の状態にかかわらず,発生直後はとにかく動かないようにして安静にすることです。これだけは忘れないようにしたいと思います。


 

ちょっと昔のこと~その2

  • 2015/05/14 16:14
  • カテゴリー:備忘録

 ちょっと昔のこと,の続きです。今回は学校のことを書きたいと思います。

 最初に書いておきたいのですが,私は自分の出身大学も学部も,とても誇りに思っています。隠すようなことでもないので,聞かれればきちんと答えます。

 ただ,日本では学歴について話をする事は憚られますし,自慢をするようなことでもないですから,自分から積極的に話して回りません。

 学校に対してはとても感謝していて,前回書いたように,勉強がさっぱり出来ない私に対しても「まあ来たいのならおいでよ」と拒まず迎えてくれて,私に賭けてくれました。

 勉強が出来るか出来ないかは大した意味を持たず,それぞれがどうしようとどうあろうととても寛容であり,ルールを守っている限りは自由が許される一方,それぞれのやりたいことには積極的な支援をきちんと用意してくれているという,非常に懐の大きな学校で,私はのびのびと勉強させてもらいました。

 勉強がさっぱりだった私のような人間でも,人並みに働いて自立できていること,しかも子供の頃から夢見てきた「技術者ですと自己紹介する自分」でいられることの大きな要因は,紆余曲折の末にここで学べたからだと,思っています。

 さて,父親の命令で,不本意ながらK大学の夜間に行くことになったことは前回書きました。今でこそ全国に名前を知られるようになったK大学ですが,当時は関西だけで知られる大学で,それも「大したことないでかいだけの大学」という感じでした。

 私の印象でも,勉強するところというよりも,社会人になるまでの余暇を過ごす場所,という認識の学生が集うところ,という感じでしたから,大学で好きな電子工学をきちんと学びたいと思っていた私が,まさかここの学生になるとは思っていませんでした。まして,一癖も二癖もある事情を抱えた人が集まる,夜学です。自分には完全に縁のない別世界が,急に自分の住む世界になるというのですから,その急激な変化にめまいがしました。

 この学校と最寄り駅までの通りは,通称「親不孝通り」と呼ばれています。ゲームセンターや雀荘が建ち並び,学校にたどり着くまでに,ほとんどの学生がこれらに吸い込まれてしまうからです。

 こういう話を聞いたりすれば,もうここは私の居場所じゃない,もっとも私が関わりたくない場所だったと,考えたことも無理からぬ事です。

 この学校の校風は,先程も書きましたが,一言で言えば「自由」です。自由というのは文字通りの意味ですが,大切な事は自由であることが許される雰囲気があったということです。それは,制度として許されると言う意味ではなく,先生も生徒も職員も,みんなみんな,とても寛容だったということなのです。

 この大学は,いわゆる偏差値は高くありません。総合大学ですので,それはもうたくさんの学生がいます。勉強できる人も出来ない人も,勉強している人も遊んでいる人も,10代もいれば30代もいて,白衣を着ている人と演劇を習っている人とが,日常的に同じ食堂でご飯を食べているような学校です。

 話は飛びますが,K大学の当時の食堂の最安メニューは素うどんの60円で,これはもちろん缶ジュースを飲むより安いです。ゆえに,友人達とは「ジュースでも飲むか」ではなく「うどんでも食べよか」でした。

 もちろん学校ですので,成績の良い人も悪い人もいますが,成績の良い人は悪い人をバカにはしません。悪い人も良い人をバカにしませんし,もちろん勉強の邪魔するようなことは絶対にしません。

 そんなことに興味がないといえばそこまでなんですが,つまりこの大学では,もともとそんなに勉強の出来る人が集まっていないので,成績が個人の優劣を決めはしないのです。成績がよくても自慢にならず,それに価値はありません。そんなことより「おもしろい奴」かどうかが最大の評価ポイントです。

 こうなってくると,勉強したい人は思いっきり勉強できますし,遊んでいたい人はそれはそれで徹底的に遊べます。幸いにして学内には様々な人がいて,最強の価値観である「おもしろさ」を競い合っています。いくらでもおもしろい体験は可能でしょう。

 この校風をして,外の人は不真面目だといいますし,ぱっとしない学校だと思われてしまうんだと思うのですが,学生がそんなことを全然気にせず,のびのびやっていたことは,今思えばとても良いことだと思うのです。

 私自身は,大学生というのはみんなそういうものだと思っていたのですが,後年,学校によって窮屈さに差があることを耳にして,自由でおおらかなのはこの学校の個性だったのだと,気が付いたのでした。

 いよいよ入学式を終えて,新入生向けのオリエンテーションです。忘れもしません,私はこの日,インフルエンザにかかり,40度近い熱を出して全身の寒気が収まらず,腰や関節が激しく痛み,体をまっすぐ伸ばして歩くことも出来ない状態でした。

 それでもこの日に休むとまずいだろうと,母親は私に付き添って,学校まで一緒にきてくれたのです。夜学ですのでオリエンテーションも夜ですが,母親はオリエンテーションの間,外で時間を潰して私を待ってくれていました。

 帰りも,私は電車に朦朧としながら座っていましたが,母親が私の前に立っていたことを覚えています。

 ですが,このオリエンテーションは,私にとても重要な意識を与えてくれました。

 お歳を召した学部長の先生が,我々に強い口調で挨拶をします。

 大学というのは最高学府である,諸君はその最高学府で学ぶことになったのだ。卒業すれば学士の資格を得ることになる。その自覚を持ってもらいたい。

 夜学ではあるが,文部省のモデルケースとして,4年で大学卒業の資格を取得出来るカリキュラムになっている。通常夜学では卒業に5年かかったり,短期大学の卒業資格になることが多いが,諸君がもらう卒業証書には「学士」とかかれ,昼は夜かはどこにも書かれない。

 取得単位は昼と全く同じ,カリキュラムもほぼ同じなのでとても厳しいが,夜学だからと考えずに,胸を張って学んで欲しい。

 熱でぼんやりしていた頭で聞いた私は,この言葉がウソではないことを,後日知る事になります。

 学部長が言われたことは,こうです。

 文系の学部ならまだよいのですが,私が進んだ理工系の学部では,取得単位や履修が必須な科目が多く,また実験や実習も避けられない関係で,時間の限られる夜学で,しかも4年で昼間部と同じ卒業資格が取れるところは希でした。

 私の学校でも,確か機械工学科が先行し,私が進んだ電気工学科は私が1期生だったんじゃないかと思います。

 文部省のモデルケースだったかどうかはわかりませんが,確かにこういう珍しかったと記憶しています。

 とはいえ,絶対時間が少ないのですから,全く同じというわけではありません。まず授業時間が少しだけ短いです。通常1コマ90分ですが,確か80分だったと思います。これで一日3コマあり,毎日きっちりあります。

 理系に付きものの卒業研究は,これに類する卒業レポートという形になります。この点だけは昼間部と大きく違う所です。

 これ以外は全く同じです。同じ教科書を使い,同じ単位を決まった数だけ取得せねばなりません。

 勘のいい人はここで気が付くと思いますが,1日3コマで毎日びっしり4年間ということは,もしも単位を落とすと,翌年に再履修する科目が本来取るべき科目と重なってしまうので,自動的に留年が決まってしまうということです。

 特に必修の単位を落とすことは,他で代替できませんから,もう留年決定です。みんな目の色を変えて勉強をしていました。出席率も高いままでした。逆の言い方をすると,一度脱落するともうリカバー出来なくなるので,そういう学生は二度と顔を見なくなってしまいます。

 また,毎日びっしりと授業が並んでいますので,昼間部のように興味があるから履修しようとか,同じ単位を取得出来る複数ある科目からどれかを選ぼうとか,そういう自由はありません。また,例えば教職課程のような特別な科目も,時間的に履修できませんし,そもそも開講されていない講座も多いです。

 そういう意味では厳しいものでしたが,私はもともと,自分の大好きな電子工学を学ぶのが楽しみで大学に行きたかった人ですから,むしろこうして効率的に勉強させてもらえることは,ありがたいくらいでした。

 しかも,学費が半額以下でした。

 そして,さすがに巨大な総合大学だけあって,設備はそれなりに充実していました。夜学とはいえ,この大学の学生ですので,図書館も食堂も生協も利用資格があります。見たこともないような大きな歴史ある図書館で,貴重な本を見る機会に恵まれたことは,本当に良かったと思います。

 実験設備などは昼間部とは別でしたので大したものはありませんでしたが,それでも後述するように,インターネットがまだ学術利用しか許されていなかったころに,私はac.jpのドメインのアドレスをもらって,電子メールで他校の友人とやりとりをし,SunのワークステーションでSystemVをさわり,viを使えるようになって,TeXでレポートを書き,ftpでフリーウェアをダウンロードしていました。

 特筆すべきは,教授陣のすばらしさでした。

 正直なところ,偏差値が50を割るようなボンクラばかりが,仕方なく集まった夜学ですから,教える側も「仕方なく」教えることになった人ばかりだろうと思っていたのです。無難に簡単な試験をして,適当に卒業させればいいか,くらいに考えていると,私は誤解していました。

 もちろん,そうい先生も中にはいたと思います。昼間部の講師だけでは食えないので,夜間もバイトとして働くとか,そういう若い先生もいらっしゃいました。でも,こういう先生はもともと優秀な方ですし,若いだけに話も洗練されていて,面白いのです。

 ですが,なんといっても,お歳を召された先生方です。年齢的に大学を退官なさったような方か,民間企業を定年退職されたような方なんですが,調べてみると京都大学で教授をやっていた電気工学の重鎮だとか,その先生の弟子でこれまた重鎮が恩師に口説かれてやってきたとか,シャープの研究所にいた半導体の専門家だとか,そういう立派な先生が多いのです。

 なにが悲しくて,地位も名誉もお金もある方が,その年齢に抗って毎日毎日夜の9時半まで働かねばならんのか。

 これは,先生方も言われていましたが,使命感からだそうです。夜学の生徒はやんごとなき理由で夜に勉強している,とても真面目で意欲も高く,自分達もこういう生徒をぜひ教えたいという,そういう熱意から,我々生徒と一緒に夜遅くまで一緒に頑張ってくださいました。

 一人二人という話ではなく,少なくとも私が学んだ先生方は,ほとんどこういう熱意のある方でした。

 熱意があるから,指導にも身が入ります。学生も少なく,部屋も小さいので,先生も我々の顔と名前を覚えてくれます。それはもう,中学高校の延長です。

 また,我々の大学特有の事情もありました。我々の大学はスポーツが強く,多くのアスリートが推薦で入学してきます。彼らはスポーツで好成績を期待され,実質的にクラブ活動が本業となります。

 そうなると,昼の大部分をクラブ活動にあてるため,なかなか授業に出ることができません。そこで、我々の大学には昔から夜学があるのです。

 それでも取得単位の多い理工系の学部で夜学というのは当時も珍しかったのですが,私の学科にも野球部の学生が数人いて,とても頑張っていました。考えてみると,自分の運動能力という才能を伸ばすために,二十歳そこそこその若者がこれほどの努力を律して続ける事が出来るというのは,本当にすごいことだと思います。

 そして,こうした努力に応えるだけのインフラを,大学側がきちんと用意していることも,我々の大学の自由な校風を育んでいたのだと思います。

 もともと夜学は,学校にいる時間が短く,それぞれに仕事を持っている人が多いため,友人達と授業前後に一緒に遊ぶことも少なく,休日もあわない事から,学校で友人が出来る事は少なく,私の場合も1年の秋頃までは,一人で行動していました。

 もともと私は一匹狼でしたし,高校までの友人はほとんど私の元を去って行ってしまいましたから,一人でいることが苦になりませんでした。

 唯一助け合いが必要なテスト対策だって,普段からきちんとしておけば少なくとも私が誰かに助けてもらうことなど,ありません。

 ですが,声をかけてくれる友人はいるもので,彼を核として親しくなった友人3人と私の4人は,卒業までいつも学校で行動をしていました。この4人は成績も上位で,卒業後も良い就職先に就職しました。付かず離れずでおかしな下心もなく,年齢もまちまちだったことを考えると,とても居心地が良かったことを覚えています。

 おかげさまで,昼のバイトはとても楽しく,ここでも多くの友人に恵まれましたが,学校の勉強も良い先生のおかげで楽しく出来,特に高等数学や量子物理についてはその本当の意味を教えてもらいました。

 すでにある程度の知識を持っている,電子回路や論理回路については独学に誤りがないことを確かめるチャンスでした。

 実験は客観的なデータの取り方とレポートの書き方を学び,不都合な結果が出てもそれはそれで正直に,誠実にレポートすることが大切だと学びました。

 夜学でも一般教養はちゃんと履修せねばならず,当初面倒だと思っていた私は,履修後に目から鱗が落ちました。

 専門課程の先生なら熱意も理解出来ますが,一般教養の先生方に熱意など期待していなかったのです。しかし,少人数で行われるだけに,まるで市民講座のような良い雰囲気がありました。

 覚えているのは日本史で,江戸時代の出版業についてでした。先生の著作を読むだけの授業と言えば印象が悪いのですが,そもそもこの本が面白く,これに軽快な語り口の先生の講義が加わるので,とても面白く毎週楽しみにしていました。

 この先生のことを調べてみると,私が学んでから6年後に他界されていました。講義に使った著作は最初の版元のものは絶版,別の版元から復刊したものが在庫のみになっていました。寂しいものです。

 社会学も面白かったです。基礎的なことしか習っていないのだと思いますが,新しいものの見方を学びました。経済学は簡単でしたがこれも面白く,心理学も大変興味深いものでした。

 語学で言えばドイツ語が面白かったのですが,先生が長くドイツにいらした先生で,ドイツの文化をニコニコしながら話してくれます。これが,当時のアメリカ一辺倒な空気に違和感のあった私に1つの答えを示してくれて,ヨーロッパに目を向けさせるきっかけになったと思っています。

 そうそう,体育もあるんですよ,夜学にも。私は苦手で,面倒だったのですが,人数の関係から他の学科との共同で行い,そこで普段顔を合わせる事のない人達と一緒に体を動かしたことは,貴重な機会だったと思います。

 専門課程は当初は期待した程面白いものではなく,電気工学についてはたいくつな交流理論に辟易していました。しかしこれが今も役に立っているんですから,大切な事だったんでしょうね。電気機器は要するにモーターですが,これが今,とてもホットなキーデバイスになっていることを当時想像できたでしょうか。

 半導体工学は,例えば青色のLEDが商品化されない理由が理解出来たことをよく覚えていますが,これもすでに過去の話。LEDが世界を一変させてしまいました。

 私は電子工学を独学で学んでいましたが,学科は電気工学科です。発電所の作り方や大きな変圧器の設計など,強電の分野を学んだことは,自分の幅を広げるのにとても役に立ちました。

 電子計算機の実習というものがあり,私はこんなもの必要ないと生意気な態度を取っていましたが,理工系の人間にとって当時はまだFORTRANが避けて通れない時代でしたから,自分だけでは絶対に知り得なかった知識を得たチャンスでした。その代わりCを実習で取り扱わないのは,当時としても問題だったかなと思います。

 もう1つ大事な事を忘れていました。数学です。手書きのテキストを使って熱心に指導して下さった,これまたお歳を召した先生だったのですが,解析学などの数学と,量子力学を教えて下さいました。

 私はそれまで,数学は嫌いではなかったけどもさっぱり出来ずにいたのですが,ここで数学の面白さに触れたことで,その意味を知り,学ぶことに大きな価値を見いだしました。今でも数学は好きですし,道具として活用すべき存在です。これは,本当に感謝です。

 そして2年経過し,私は学科でトップの成績を維持していました。入学時は昼間部への転部試験を受けて,3年次からは「普通の大学生」になることを考えていた私でしたが,学科長の先生の「転部試験を受けたらどうか」というアドバイスに対し,はっきりと「いえ,ここでずっと勉強させて下さい」と,即座に意思表明を行う事になりました。

 当時一緒にいた6名の仲間のうち,2名が転部試験を受けて昼間部にいきました。他の4名ははっきりいって彼らより成績上位でしたが,それぞれの事情もあり転部しませんでした。

 私は,この時までに,自分が在籍する夜学が,とても好きになっていました。誇りを持つようにもなっていました。なにより,目の前にいる学科長の先生も含め,夜遅くまできちんと向かい合ってくれる,熱意のある先生方の講義を,もっともっと受けたいと思っていました。

 即座に転部試験の受験を断り「君なら確実に転部できるんだけどな」と言った先生は,「そうかそうか」という満足げな表情を隠しませんでした。ここに至って,私は夜学に通う自分を,積極的に肯定するに至ったのです。

 3年次の終わり頃,昼間部の卒業研究と同じ,卒業レポートのテーマと指導教官を決めるときが来ました。実習や実験を担当していた講師の先生や,先の学科長が指導するテーマも魅力的でしたが,私はあえて,全く知らない先生を指導教官に選び,ここでソフトウェアとUNIXを学ぶことにしました。

 先生はまだ講師で,しかも他の学校から移ってきたばかりでした。新参者で階級の低い先生が,始めて教えるのが夜学の学生ということで,随分遠慮がちな感じもありましたが,私は先生を実に尊敬していました。

 4年次の4月,初日の研究室でのテーマの説明と,習得すべきものを始めて顔をあわせたメンバーに話された先生は,「この中でUNIXとVIを触ったことがある人」と尋ねて,私一人がそろそろと手をあげたことで,ちょっと驚いていたようです。

 1994年といえば,パソコンと言えばPC-9801にMS-DOS,ようやくWindowsが選択肢として認知され初め,DOS/Vと言われたIBM互換機がメジャーになりつつあった頃の話です。

 インターネットはまだ学術用途に限定されており,無線LANはおろかEthernetも特殊なものでした。コンピュータネットワークといえばパソコン通信がすべてで,14400bpsのモデムでホストコンピュータに電話回線で繋いで,電話料金に戦々恐々としながら,文字だけの画面で外に繋がる浮遊感を満喫した時代です。

 UNIXはパソコンで走らせるにはまだまだ厳しいOSで,ワークステーションやミニコンで動く雲の上のOSでした。それらの高性能マシンはとても高価で大きく,個人で所有することは非現実でしたから,当時の学生でUNIXもVIも触ったことがあるという答えは,先生にとっても予想外のことだったでしょう。

 ではなぜ私が触ったことがあるのかといえば,これはPC-9801に用意された,NEC純正のUNIXであるPC-UXを格安で手に入れたからです。とても古いバージョンのものを,ある商社が不良在庫の処分として持ち込んだのですが,興味本位で買って帰ったのです。

 80286搭載機であるPC-9801VXをターゲットに用意されたものですが,さすがに高価なOSだけあって,マニュアルの分厚さがものすごかったことを覚えています。

 ここで一通りインストールを行い,VIで編集してCコンパイラを使った記憶があるのですが,スタンドアロンで使っていたこと,テキストベースであったこと,マルチタスクを実感するような使い方をしなかったことで,ちょっと遊んで終わりでした。

 なにより,その異質な臭いが,鼻について仕方がありませんでした。

 ですが,私はここでUNIX大好きな先生とすっかり仲良くなり,UNIXの洗練された仕組み,ネットワークで繋がることで倍増する価値をすることになります。

 ようやくRISCになった頃の古い古いSun4(Solarisではない)に,複数の人間がターミナルとして用意されたPC-9801からログインして,UNIXとCを学ぶことから始まった講座ですが,私は特別に自分の使い慣れた端末としてMacintosh SE/30を持ち込み,これを先生が使っていたSPARC Classicにシリアルで繋がせてもらい,最初からSystemV系を使う事が許されました。

 今にして思えば,当時としてもSPARC Classicの能力は低く,本当なら独り占めしたかったはずなのに,私に接続を許してくれたことは,私を歓迎してくれていたんだろうなと思います。体が大きく,目つきも悪くて,ぶっきらぼうで言葉の少ない先生でしたが,一方で大変に気が付く,優しい,それでいて学生を自分と対等に扱う,とてもよい先生でした。

 私はここで,FFTを学んで実装し,パターンマッチングの基礎を考察したことと,これを通じてUNIXとワークステーションでインターネットにこぎ出すこと,そしてC言語を学びTeXでレポートを書くことを覚えました。

 自宅にはPC-9801で動くSystemVのUNIXであるPANIXをインストールし,X-WindowsでGUI環境を手に入れて,その心地よさを満喫していました。Linuxもまだまだマイナーで,PC-UNIXといえばBSD系のものが大半だったことを考えると,私は偶然にも,今に続くUNIXへの好感をこの時に培ったのだと思います。

 確かに,大したことではないかも知れません。大学院の先輩もいなければ,徹夜で実験ということもなく,またUNIXでもシステム管理をやっていたわけではありません。しかし,夕方から夜までの限られた時間の中で,出来るだけ最新の環境を味あわせてやろうという,先生の配慮があったからこそ,私はこれだけの恵まれた経験をすることができたのだと思います。

 そういえば,ある時私は,電車でぐっすり眠ってしまい,乗換駅を寝過ごしてしまいそうになりました。日々の疲れが溜まったのでしょうね,

 そうすると,ある方が「おきなさいよ」と私を起こしてくれました。あわてて飛び起きて電車を降りたのですが,冷静に考えてみるとなんで彼が,ここで私が降りると解っていたのか,不思議でなりません。

 おそらくですが,教科書を広げては眠りこけて,あわてて降りていくのを毎日毎日見ていたのでしょうね。周りの方々の暖かさにも助けられていたのだと思います。

 そうして私は4年次を過ごしつつ,就職活動,そして卒業することになりました。

 ここまでに落とした単位はなく,成績も学科では一番,学部でも二番でした。就職は昼間部を含めてほとんど入社したことがない「まさか!」の某一流企業に決まり,教授のツテもなく,学校の推薦もなく,まったく縁もゆかりもないなかで,この事実に一番驚いていたのは学校の就職担当部署だったと思います。

 当時は大阪に本社のあった電子楽器メーカーを第一志望とし,ここは最終面接まで進んだところで,他が決まってお断りしました。

 もう1つ,これも在阪の大手メーカーの子会社が,私を熱心に誘ってくれていたのですが,こちらもお断りをしました。お断りをする時に,直接出向いてお詫びをしたのですが,この時も熱心に誘って下さいました。

 この時,うちに来るかどうかは別の話として,と前置きした上で,期待と不安と申し訳ない気持ちで一杯の私を,こう励ましてくれました。

 「就職というのは,高速道路と同じで,合流するときが一番難しい。けれども一度流れに乗ってしまえば,あとはすいすいと走れるようになるものだ」

 この言葉は,今でも私の支えになっています。

 就職で大金星をあげ,成績もトップだったことから,私はありがたいことに卒業式で総長賞を頂きました。

 ゴミくず同然で入学を許してもらった私が,夜学で学んだことを誇りにし,数年後にこうして賞まで頂いて,胸を張って卒業し社会に出たことは,なんと不思議なことかと思います。

 勉強が出来ないという事実だけで,学ぶチャンスを得られないことは間違っているとは思いません。しかし,勉強が出来ない人間でも,こうして立派な成績で卒業できることが自分の経験として存在すると,決して正しい事だとは思えないのです。

 その点で,K大学は,勉強が出来ないという理由で私を拒むことなく,求めに応じて学ぶ機会と環境を与えて,育ててくれました。この大学の懐の深さに私は救われ,自分の人生を切り開いていくことが出来たのだと思うと,心の底から感謝をし,そして誇りに思うのです。

 残念な事に,K大学の理工学部2部は,平成13年で募集を取りやめており,現在は存在しません。わずか10年ほどの間だけ存在した,希有な存在の「理系のフルスペック夜学」は,卒業証書に夜学である事を記載されず,公式の記録にほとんど残ることなく,ひっそりと消えていき,我々卒業生と関係者の記憶の中だけの存在となりました。

 確かに,この4年間は,時間的には楽ではなかったかもしれません。

 しかし,私は,自分に与えられた環境としてこれほど自分の適したものがあっただろうかと,思います。講義は毎日短時間でしたが集中的に無駄なく行われ,昼はまとまった時間として働く時間に割り当てて自分を磨くことができます。

 そして一度学内に入れば,するもしないも自由という寛容な空気,学びたい学生には総合大学らしい強力な支援が約束され,これに高い志を根拠に夜学という特別な環境に自らを置いた先生方に恵まれるという,素晴らしい環境が私を育ててくれました。

 今,私が若い人に夜学をおすすめするかと言えば,出来ません。おすすめしたくても,もうこうした夜学は,ほとんど残っていないからです。

 わずか10年だけ,まるで私のために用意されたかのような錯覚さえしてしまうくらいの短い期間ですが,このタイミングでもし私がもう少し勉強が出来ていたら,あるいはもう少し勉強が出来なかったら,きっと今の状況はなかったでしょう。

 当時はそんなに肯定できなかったのですが,今はこの環境を与えてくれたK大学に,心から感謝したいと思います。

ちょっと昔のこと~その1

  • 2015/05/13 15:38
  • カテゴリー:備忘録

 今年で社会人になって,なんと20年になりました。

 つい最近のこと,とまでは思っていませんでしたが,そんなに昔の話でもないと感じていただだけに,その考えは改めないといけないなと思っているところです。

 20年ですから,もう一昔以上もの時間が経過しています。自分の実感(というか勘違い)と,曖昧になりつつある記憶との間に,感覚的な違和感があることは,実は途切れ途切れになった記憶の方が正しいということを,正しく認識せねばなりません。

 私の場合,高校生の頃まではなにかと思い出すことがあるのですが,それ以降の事については「懐かしい」という気分でもないせいで,あまり記録していません。記憶もあやふやであることを考えると,このまま私の手元から消えてしまう情報となるかも知れません。

 それで,客観的な資料を思い出す手がかりにしょうと,google先生に聞いてみたのですが,ちょうど20年くらい前というのは,インターネットがまだ普及しておらず,情報の電子化も中途半端だったこともあり,あまり残っていないんですね。もう少し古いとマニアがちゃんと調べて残してくれているのですが,1990年代から2000年代というのは,案外ミッシングリンクになるように思います。

 そこで,少し詳しく,私の大学生の頃の話を,思い出しながら書くことにしました。思い出しながら書くことを一度もしなかった時代なので,いい機会です。


 まず,高校で遊びほうけた私は,ほぼ全員が有名な大学に進学する進学校において,完全な落ちこぼれになりました。勉強がさっぱり出来ず,運動もクラブ活動も全然だった私は,やや偏屈な性格が呼び込む厳選された友人達と3年間を,それなりに楽しく過ごしていました。

 先生や先輩達の「うちの高校は4年制」と自重気味に話すのは,もともと勉強出来る人間が集まっているのに,ちっとも現役時代に勉強せず,おかげで現役で大学受験に失敗するものが大半,一浪して本気を出すという,誠になめ腐った伝統があったからで,これを「まあどうにかなるさ」と解釈してしまうところに,大きな問題がありました。

 なるほど,大半はそうかも知れませんが,何事にも例外というものはあり,一浪しても本気を出さない人,本気を出しても駄目な人,というのはあるもので,私がまさにその例外でした。

 考えてみると,例外なんて言い方はおかしくて,勉強しなかったんだからその結果は当たり前です。他が勉強している間に私は自分のしたいことだけをやっていたんですから,これを例外なんて言うのは甚だおかしいでしょう。

 そういうことはちゃんと当時の私も解っていて,都合2度味わった挫折感に「世の中どうにもならないことってあるんだな」とつぶやいたことを,よく覚えています。

 うちははっきりいって貧しかったので,一浪することも大きな負担だったので,まさか二浪することなど考えられませんでした。

 「このままでは大学に行けない」と焦り始めたのが,もう寒くなり始めたころで,確かにそのころの集中力は現時点でも最高のものがありましたが,時既に遅し。勉強したことが血と肉になるには,最低2ヶ月くらいはかかることもこの時学んだのでした。

 センター試験もまさかの惨敗,3月の国公立は受けるだけ無駄という状況で,2月の私大が全滅したことで,私の2シーズンに渡る受験は幕を閉じました。

 当時はバブルの終盤で,まだまだ製造業が強かった時代です。トラ技の広告も分厚く,求人広告などいくらでもありました。高卒でも大丈夫,実家から通える電子系の仕事ならなんでもいいと,本気で就職を考えていたのですが,これもそこらへんの大卒者よりは知識があると自負していたからです。

 浪人中になにをやっていたかといえば,これはもうひたすら電子回路の設計です。ちょうどこの頃アナログ回路の面白さに目覚め,トランジスタの動きが手に取るようにわかるようになってきた時です。高校で習った数学や物理が,電子工学や音響工学とリンクし始めたのもこの頃で,なんて楽しいのだろうと夢中になっていました。

 通っていた予備校がまた難波にだったこともあって,予備校の行き帰りに日本橋で部品を買って帰り,家で実験して翌日また足りないものを買いに行く,なんてことを繰り返していたせいで,勉強はさっぱり出来ないけども妙な自信と達成感だけは持っていたのです。

 ですが結局「今必要なものは,それではない」と,どこの大学も私を拒んだことで,自分の失敗を悔いたのです。

 見るに見かねた母が,新聞の切り抜きを持ってきてくれました。1つはO大学の短期大学部の,もう1つはK大学の夜学の,2次募集の案内でした。私大の受験はとっくに終わっていましたが,欠員が出ていたところを目ざとく見つけてくれたのです。

 母は,まだあきらめるなと言ってくれました。

 どちらも,まったく想定していなかった短期大学部と夜学でしたが,就職よりもすっと素晴らしい選択肢に見えた私は,2つとも受験し,合格しました。

 どこも私を「おいで」と言ってくれなかったのに,この2つは「きてもいいよ」と言ってくれたのですから,それはそれはうれしかったことを覚えています。

 問題はどちらに行くかです。私は,短期大学とは言え電子工学に特化した単科大学であるO大学に行きたいと強く思っていましたが,父は総合大学であるK大学へ行くように,私を叱責しました。最初はアドバイス程度だったのに,最後は命令になり,打ちひしがれた私をまたも母が慰めてくれたことを,よく覚えています。

 そこまで父が頑なになった理由ですが,誰に効いてもK大学の方が通りがいいと,そういうことでした。父自身がどうかというより,人に聞いたところ,というのが,今も昔も変わらない父の根拠の軽蔑すべき特徴なのですが,この時も私の説得材料として振りかざしました。

 子供の頃は感心した父の人脈の広さですが,この頃になると自分を持たず,人の意見を強い根拠に出来てしまう,弱い人間だったと気が付いていましたから,速く自分の考えが対等に扱われるような年齢になりたいものだと,思ったものです。

 ただ,これは私が直接聞いたわけではありませんが,短期大学部から転部して4年制大学の卒業資格を得るのと,夜学で卒業資格を得るのとでは,学費が倍以上に違っていました。もしかすると,当時の夜学の学費は国立大学よりも,安いくらいだったかも知れませんが,ここが最大のポイントになっていたのではないかと思います。

 かくして,私はK大学の夜学に進みました。どうせ落ちこぼれだし,可能なら昼間部に転部して普通の大学生になろう,駄目でもさっさと卒業してしまおう,と,割り切って考えていました。

 ただ,昼間遊んでいるわけにもいかないので,日本橋のとあるパソコンショップで夕方までアルバイトをすることにしました。ここは今はもう潰れてしまったのですが,今の私を形作った,とても重要な場所です。

 そもそも,高校1年の夏休みにアルバイトをしようと,ダメモトで電話をしたシリコンハウス共立で,デジットなら雇ってやると言われ,二つ返事でOKしたことが,電気街を働く場所にしたスタートでした。

 高校2年でも夏休みにお世話になったデジットですが,現役の受験に失敗し,2ヶ月近く出来てしまった自由時間にまたお世話になろうと思ったら,アルバイトは足りているので必要ないと断られてしまい,その足でいきなり店頭で「雇ってください」とかけあったのが,このパソコンショップでした。

 いきなり大きな甲高い声の,とてもスピード感のある店長が即決で採用を決めてくれて,晴れて私はここでアルバイトすることになりました。ここは,店頭での接客はもちろん,買って頂いた商品の発送,お持ち帰りでお客様の自動車までの荷物運び,入荷品の検品や荷さばきなど,何でもやらねばなりません。

 偉いとか偉くないとか,担当とか責任とか,そういう話はほとんど無関係で,手が空いた人がどんどん片付けていく,そういう活気にあふれていました。私もここで,最初は力仕事から,徐々に接客を学んで行きましたが,自分が接客したお客さんは,きちんと自動車まで運んで,その自動車が走っていくまでお見送りすることを,モットーとしていました。最初から最後まできちんと接客をすることが出来たのは,この店が大きすぎず小さすぎずだったからで,とても良いお店で働かせてもらったと思っています。

 浪人中にアルバイトはさすがにまずいので一度辞めさせて頂き,忘れ去られないようにちょくちょく顔を出しながら,翌年には夕方までの勤務を毎日こなすアルバイト店員になったというわけです。

 なにせ繁盛記の緊急バイトではなく,レギュラーメンバーです。お客さんの少ないときの仕事も見せて頂きましたし,中古パソコンの買い取りと商品化の担当を持たせてもらいましたし,名刺も作って頂きました。「本業は学生」というおかしな自負が,同じように毎日朝から出勤しているフリーターの卑屈さをかき消していたので,おかしな空気を醸し出していたんではないかと思います。

 こうして私は,高価な最新のパソコンやソフトウェアに触れ,ミナミに働く場所として毎日通い,ハードロックと夜遊びを覚えて,自分の小遣いを本気で稼ぐ数年間を過ごすことになります。

 とはいえ,朝は10時前にお店に入り,17時まで仕事をし,18時からの授業の前に軽く腹ごしらえ,授業が終わると21時30分をまわって,帰宅すると22時半,風呂に入って23時のニュースを見ながら遅い夕食を摂る,と言う生活を続けていました。土日は学校がないので,朝から夜までフルタイムです。その代わりお休みは平日で,普通は火曜日と木曜日にお休みを頂いていました。この時も夕方には学校に行きますので,一日家にいる日というのは,ほとんどありません。
 
 不思議とこれが苦にならず,楽しかったのです。母親などはこういう生活の私を見て後に「不憫だった」などというのですが,当の本人はまったくそうは思っていませんでしたが,社会人になったらこういう生活はなくなり,休みは土日,夜はもっと早くに家に帰ってくるのだろうと,漠然と思っていました。

 長くなったのでとりあえずここまで。次は学校のことを書こうと思います。

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