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ゴミと商品の境界面

 さて,引っ越しを目前に控えて,持ち物を減らそうと言うことはまず真っ先に考えることです。

 私の場合,特にものが多いですから,捨てる,持っていくの判別をシビアにしないと,引っ越しも大変なら新生活も代わり映えのないつまらないものになってしまいます。

 ところが昨今,ものを捨てるにもお金がかかる世の中です。当たり前のことなのですが,この際だから捨てようか,と言う程度のものの場合は思いとどまってしまうこともしばしばです。

 ところが,以前通販で家電品を買ったある業者のメールマガジンを見ていると,この業者が買い取りまでやっていると目に付きました。

 今時家電品の買い取りなど珍しくともなんともないのですが,買い取りリストがあるというのでちょっと覗いてみたところ,私の処分したいと思っていた古いものでもリストにばっちりのっています。

 例えば,PanasonicのDMR-HS2。DIGAなどと呼ばれる前の製品で,HDD/DVDレコーダとしては第二世代目にあたる骨董品です。HDDはわずか40GB。DVD-Rへのダビングも実時間がかかる上,番組表も取得できないのでタイトルはリモコンで全部手で打ち込む必要があり,言うまでもなくアナログチューナーしか搭載しないものです。今これが動いているのは世界中に何台あるのだろうかと思うほどです。

 実際,私は地デジに移行してからはPCベースで視聴と録画を行っていて,テレビは単体では持っていません。毎日の9時のニュースを毎日上書き録画して使う用途だけに使っていました。

 そうした使い方のDMR-HS2も,2011年のアナログ放送終了時点で,本当にゴミになります。ドライブも弱ってきていますし,なにより40GBしかないHDDが致命的で,唯一の個性であるDVD-RAMについても,こんな遅くて面倒臭いメディアを誰が使うのか,と思うと,もうこれが捨てる時期に来ているのは明白です。

 箱無し,傷ありで見積もりを取ると,なんと2000円になるといいます。粗大ゴミとして500円払って処分することを考えると,破格のお話です。

 このお店は,3点以上だと業者が取りに来てくれます。そこで値段が付かないことも考慮に入れて,以下の4つを最終的に買い取ってもらうことにしました。

・DMR-HS2(HDD/DVDレコーダ)
  箱無し,傷あり  2000円
・Playstation2(SCPH-15000)
  箱無し  500円
・PDV-20(ポータブルDVDプレイヤー)
  箱無し  500円
・HT-KT215(5.1chシステム)
  箱無し,傷あり  1500円

 まあ,安いんだか高いんだかよくわからん値段が出てきましたが,ポータブルDVDプレイヤーを除いて,それぞれ処分は面倒なものばかりです。ただでもいいや,くらいの気持ちで買い取りをお願いします。

 土曜日に佐川急便の態度の悪い兄ちゃんが取りに来て,4品目を2箱にまとめた状態をみて,1つしか持って返らないと訳の分からんことをほざきます。

 先方に確認してくれというと,怒って伝票を投げつけ,乱暴に2箱抱えて出て行きました。頭に来たので業者に電話しますが,土日はお休み。なんかばからしくなって,ほっときました。あるいは佐川に電話することも考えましたが,あと少しで引っ越しですから,もうほっときゃいいです。

 1週間近く経ってメールで連絡がありました。最終見積もりの結果です。

・DMR-HS2  1500円
  音声/映像ケーブル欠品,リモコンの電池欠品

・Playstation2  300円
  ユーティリティディスク欠品

・HT-KT215  1000円
  説明書汚れ,ネジ欠品,スピーカーパッド欠品

・PDV-20  500円

 合計3300円です。いやー,手間賃ですね,これは。しかもここから振り込み手数料を差し引くと言うんですから,参りました。

 ざっとみて,ほとんど言いがかりだよなあと思うものもあります。DMR-HS2のケーブルは確かに私は入れた覚えがあります。アンテナケーブルと一緒に縛ったので,アンテナケーブルが欠品してないなら,映像/音声ケーブルも欠品になるはずありません。

 それに,リモコンの電池欠品って・・・腐った電池でも入れて置けばよかった。この2つで500円も値下がりするって,どういう計算だ?

 プレステ2のユーティリティディスクは仕方がありません。これがないとDVDプレイヤーとして機能しませんし,実は引っ越しの片付けの初期段階で,ディスクをさっさと捨ててしまったので,あきらめましょう。PS2は最近よくゴミ捨て場で見ますが,あんなものでも拾い集めれば,昼飯代くらいにはなるかも知れないです。

 5.1chのアンプとスピーカーのセットHT-K215ですが,ネジは仕方がないとして,スピーカーパッドってのは要するにスピーカーに貼り付けるゴム足です。そんなもん,消耗品ですからね,それに説明書汚れってなんだ???

 そしてPDV-20です。これは最初,アンテナケーブルと車載用アダプタが欠品していると言われて,300円と見積もられました。ところが,アンテナケーブルが付属するのはPDV-20ではなく,液晶付きのPDV-LC20TVだけです。車載用アダプタについては両機種ともオプションです。説明書が共通なんですよね,やるんじゃないかと思っていたミスを,見事にやらかしてます。

 早速「おかしい」と連絡して,すぐに訂正,500円になりました。200円くらい別にかまわないと思ったのですが,こっちが時間をかけて付属品などをかき集めて,それでわずか300円とはなめてると思ったので,きちんとさせて頂きました。

 この最終見積もりでいいですよ,と翌週の土曜日にメールをしたのですが,次の火曜日に最終見積もりが再送されてきました。いい加減な業者だな,まったく。

 それでもう一度この見積もりでいいですよ,とメールしたら,すぐに3132円が振り込まれていました。

 今回3000円で処分した品々は,今使っているものではありませんから,ただちに生活が変化するものでもなく,いざ処分しようとすると同じくらいの金額がかかってしまうものなので,悪い話ではなかったかなあと思います。欲を言えば,4500円くらいになってくれると,ちょっとしたお小遣いになったかなあと思うのですが,贅沢は言いません。

 ただ,配送業者に1回,見積もりで1回,振り込みで1回,大丈夫かそれで・・・と思うようなことがあったので,こういうところに個人情報を送ることが安全なのか,甚だ疑問です。

 ゴミ同然のものを真面目に査定して買い取ってくれたという結論は変わらず,こういう所も案外珍しいのかも知れませんが,おそらく私はここは二度と使わないと思いますし,新品の購入もここではもうしないと思います。

さようならラジオ技術

 ラジオ技術,と言う自作オーディオの専門誌があります。1950年代に創刊された歴史のある雑誌ですが,戦後の産業の代表であるエレクトロニクスの発展を色濃く映してきた雑誌です。

 当時の最先端技術であるラジオの回路技術や自作,修理についての情報は需要も多く,それらを扱う専門雑誌はいくつもあったのですが,ラジオの時代が終わり,テレビからオーディオ,コンピュータへとエレクトロニクスの主役が移っていくに従い,子供向けに軸足を移すもの,コンピュータやディジタル技術に追随するもの,そしてマニア向けのピュアオーディオに特化するものと,分化していきました。

 結果として,ピュアオーディオに特化した趣味性の強いラジオ技術と無線と実験が生き残っているわけですが,そのラジオ技術も現在出ている2010年2月号で1つの節目を迎えることになったようです。

 2006年あたりから,店頭売りをやめ直販のみにするという方針を告知,長く読者に予約を募っていたのですが,とうとう来月号から切り替わることになりました。

 2008年頃から,「切り替えられるだけ十分な予約が集まっていない」という理由で,何度も予定を変更して直販への切り替えを延期してきたので,もうこのまま切り替えなどないのではないか,もしかすると切り替えることなく休刊するのではないかと心配をしていたのですが,いつもの本屋さんに立ち寄ると,来月から切り替わるという案内が出ていました。

 店頭販売分の最終号は,私にとっての最終号と同じ意味を持ち,内容の如何にかかわらず買うことにしていましたので,さっと手に取りレジへ向かいました。

 ラジオ技術は,80年代にはマニアックすぎてさっぱり理解出来ず,また面白いとも思えませんでしたが,90年代に入ってからは,大変面白く読んでいました。

 無線と実験と双璧をなし,間違いなく日本の自作派を支え,その先端を切り開いてブームを作り上げた立役者だったと思います。

 例えばロシア製真空管6C33C-B,例えば中国製の50CA10,例えばCS8412,例えば2ndPLLと富士通のバリメガモジュール,てな具合に,その時々の自作派が,メーカー製のオーディオ機器に対抗するための創意工夫を総動員した時期の,まさに発表の場であり,流行の発信地であったように思います。

 また,黒田先生のトランジスタアンプ設計法は今なおディスクリートアナログ回路のお手本となっていますし,海老沢先生のカートリッジの話は資料としても一級品です。これらもラジオ技術と言う雑誌の大きな功績でしょう。

 メーカー製の製品の解析を行ってみたり,まだまだ取り扱いの少なかった海外の高級オーディオ機器の紹介を行うなど,多様化するオーディオという趣味に1つの提案を行った点も,評価されるべき点です。

 さらに,トーンアームやスピーカユニットから自作するようなチャレンジ精神あふれる記事が度々出ていたことも印象的で,高価な海外製機材を美しい写真と提灯記事で紹介するだけの,カタログ以下のオーディオ雑誌を鼻で笑うかのような誌面には,居心地の良ささえありました。

 残念な事に,ここ数年はそうしたアグレッシブな記事も少なくなり,読者と執筆者双方の高齢化が進んだことを思い知らされます。近年の真空管アンプブームやアナログレコードの復権,団塊世代のリタイヤなど追い風になる要素は多くあり,無線と実験がそれなりの鮮度を保っていることに比べると,この辺でもう勝負あったかな,という気もします。

 手元にある2010年2月号を見てみると,大手オーディオメーカーの広告は,アキュフェーズ,オーディオテクニカ,マランツのわずかに3つ。広告収入を柱として運営する雑誌という形態がすでに破綻していることは明確で,よくこの満身創痍の中で店頭売りが出来るものだと感心します。

 2年の購読をすると,1冊1000円になります。1冊の価格が1500円ですので随分安くなりますし,出版側としては2年分の前払いを手にすることが出来るわけで,資金的にも楽になることでしょう。(後になるほどきつくなるのですが)

 直販に切り替えるという事は,実際に売れる数が少ないにもかかわらず,流通にのせて本屋さんに並べるため,売れないことが分かっていてもそれなりの数量を印刷せねばならないという最悪の状況に終止符が打てることを意味します。

 本屋さんにおいてもらっても,売れなければ返品されますし,返品されればバックナンバーとして保管されるか,大多数は廃棄されます。出版とは倉庫業だ,という人がいるくらい,在庫という問題が重いのです。

 ラジオ技術の場合,1991年からのバックナンバーが手に入るそうです。いくらなんでも月刊誌で20年近くも前の雑誌が手に入るというのは,ちょっと異常です。

 予約販売に切り替えて,お店に並べない事にすれば,まずたくさんの量を印刷しなくても,予約されている分だけ用意すればいいことになります。返本のリスクもありませんので,在庫も持たずに済み,廃棄もしなくて済みます。

 しかし,多くの人の目に触れなくなりますので,広告収入は地に落ちるでしょうし,新規の読者を開拓できません。読者の中心が高齢者であるラジオ技術の場合,読者数は今後減ることはあっても,増える事はもうないでしょう。

 さらに,定期購読で安定した数が確保出来るなら,内容については今以上に無頓着になる可能性も否定できません。かつて,これらの自作雑誌は新しい回路が発表され,フォロワーが生まれ,1つの潮流となったものですが,そういう流れはもう期待できないかも知れません。

 私自身は,とりわけ最近のラジオ技術に対して,読むべき所は1つもないと思っています。当然予約はしません。細かくは書きませんが参考にも資料にもならない内容に1500円の価値はないと,その凋落ぶりには目を覆うばかりです。


 さて,今,私の左側には,日経エレクトロニクス,ラジオ技術,トランジスタ技術の3つを重ねて置いてあります。3冊の雑誌が,やせこけてしまったことに,改めてはっとさせられました。

 従来通りの雑誌という形態では難しい事であっても,新しい方法でその役割を果たせないものかと,雑誌社も模索をしていると思いますが,購読者が受益者として直接その費用を負担する仕組みによってでも,なんとか存続してくれればと思います。


 ラジオ技術社がインプレスグループの一員となり,由緒ある社名をインプレスで始まるカタカナの名前にした段階で,もう一区切り付いていたのかも知れませんが,私にとっては,本屋さんで中身を見てから買うという買い方の出来なくなった今が,お別れの時期だと思っています。

 もちろん,雑誌そのものは存続しているし,ファンもいれば執筆者の先生も創意工夫を懲らした工作を紹介されることと思いますが,私としてはここでお礼を言っておきたいと思います。

 長い間,ありがとうございました。ラジオ技術は,私にとってお手本でした。

その無念さたるや

 あまり詳細を書いてしまうと特定されてしまうので適当にぼかして書くしかないのですが,年明け早々,悲しい知らせを受けました。

 私が学生の時に3年半ほど働いていた日本橋のパソコンショップで,事務を担当してくださっていた方が,昨年の12月23日になくなったとの連絡を,とても親しくしてくださった当時のお店の社員の方から頂きました。癌とのことでした。

 詳しいことは私も分かりませんが,とても綺麗でエレガントな女性で,暴言をさくっと吐くのですが嫌みはなく,しかも筋が通っていて反論不可能という,極めて賢い常識人で,二十歳そこそこだった私など,全く相手にされなかった覚えがあります。

 大阪の女性だけに華やかな印象で,私が長年使っているG-SHOESというハンドルネームは,実はこの方が黄金のパンプスを華麗に履きこなしてらっしゃったことに由来します。(と書くと変態っぽいのですが,お店の仲間内でおもしろがって作ったハンドルネームでしたから,変態と言うより中二病という感じでしょうか)

 基本的には売り場には立たず,事務所で伝票やお金まわりの処理を行う裏方さんでした。俗に商流といわれる,ものとお金と伝票の流れは彼女から教わりましたし,現金,クレジットカード,分割払い,売り掛け,代引き,手付け金などお客様にものを買って頂くときに考えなくてはならないお金の種類も,やっぱり彼女から教わりました。

 商売人なら当たり前の知識ですから何をたいそうに,と思われるでしょうが,それまで全く縁のなかった私がこれらをすんなり飲み込めたのは,暗記を求めるのではなく,理由や理屈をきちんと,しかしとてもシンプルに説明してくださった事があります。

 彼女は商業科を出ていたはずなので,教科書に出てくるような小難しい簿記や会計の話も出来たでしょうが,あえてそこは「大阪のおばちゃん目線」でわかりやすく,「~しないと誰々が困りはるやろ」と,理由を語るにも決してお高くとまることのない方でした。

 なにせ,「とにかくそういうものだ」という言い方をすることも,私の記憶する限りなかったように思います。これは本質を理解し,かつ説明が上手だったということの証ですが,こういう人というのは,なかなかいないものです。

 私よりも5つほど年上だっただけのように思いますが,すでに大金の動くパソコンショップの財布の紐を任される人で,歴代の店長も我々下っ端も,みなが全幅の信頼をおいていたわけですが,あの無理のない自然な清潔さというのは,人を見たら泥棒と思えと幼いことより親に教え込まれた(なんちゅう親ですかね)私が見た,初めての泥棒の可能性ゼロの人だったと思います。

 あの当時にして,愛車の三代目ソアラを駆り,タバコをスパーっと豪快に吸う若い女性でしたが,それもまた様になっていて,明るくサバサバとし,曲がったことが嫌いで,頭の回転が速くて賢く,ユーモアに富んで話し上手ということで,必ず一度は彼女に憧れるというのが,新人さんの通過儀礼でした。

 私は,といえば,綺麗な人だなあとは思いましたが,前述のようにはなっから相手にされていないので,寂しいことに「はしか」にかからせてもらえませんでした。それでも兄弟店の事務をしていた仲の良い女性と「黙ってたら男前やのに」と,実に絶妙な表現で私のことを評していたそうですので,まんざらではありません。

 彼女についてはいろいろ面白い話があります。

 店員が昼食に出るなどでちょっと売り場が手薄になったときや,レジが混雑した時などは,ささっと雰囲気を読み取り,自主的にお店に出てレジを担当してくれたこともしばしばあったのですが(このあたりも彼女の賢さを物語ってますね),うちのお店に女性の店員などいないと思い込んでいるお客さんが大多数でしたし,しかもお店の空気がぱーっと変わるほどの美人がてきぱき仕事をしているとくれば,自ずとお客さんの視線が彼女に集まります。

 しかし,そんな彼女は滅多に表に出てきません。いつしか彼女はうちのお店の「レアカード」になっていました。いるんだかいないんだか,噂に過ぎないのではないか,実在しないんではないか,幻なんじゃないか,など,いろいろな憶測を生んでおり,中には我々に彼女は何者だ,と聞いてくるお客さんもいたほどです。

 当時我々のお店が開設していたパソコン通信のホストの掲示板でも,まれに彼女が話題に上ることがありましたが,全く見たことがないという多数派が見たという人を嘘つき呼ばわりしたり,見たという人も一度限りで二度と見ていないと言い出したりと,その神秘性もまた魅力を高める要因になっていたようです。

 彼女はパソコンの事はよく分からないようでしたが,X68000のユーザーとPC-9801のユーザーの違いくらいは分かっていたようですし,スケベなゲームやCD-ROMなどにも一定の理解があったようです。ただ,彼女自身はそんなものにありがたがって何千円も支払う人を個人的な理由によって嫌ってもいました。

 ある時,閉店後に棚卸しを行うことになりました。

 ご存じの方も多いと思いますが,棚卸しは在庫のすべてを数える作業ですから,皆で分担してもとにかく時間と手間がかかります。

 彼女は事務仕事の合間をぬって,売り場で先行して棚卸しを少しずつ進めてくれるという気の利きようがまた素晴らしかったのですが,開店中に数えた商品が売れてしまったら数え直しですので,基本的にデッドストックとなっているものを数える必要があります。

 事務専任で,パソコンの事がわからんという人が,なぜデッドストックを察知して数える事が出来るのかと,デッドストックを仕入れてしまった担当者は毎度毎度震え上がっていたのではないでしょうか。

 そしていよいよ閉店後,棚卸しがスタートします。彼女はパソコンが詳しくないということで,微妙な違いで別商品にしないといけないような商品は割り当てられず,はっきりと商品名が書かれているソフト売り場が担当になります。

 棚卸しは原則的に二人一組で,一人は品名と数を声に出し,もう一人はそれを台帳に記入するという流れになります。

 これは当時の店長の嫌がらせの一環だったと思われるのですが,彼女の割り当てられた棚が,当時流行していたアダルトCD-ROMの棚を含んでいました。(店長は偶然だとしらを切っていましたが)

 彼女は読み上げ担当だったのですが,タイトルからしてすでに十分にいやらしいアダルトCD-ROMの商品名を臆せず読み上げて,粛々とこなしていきます。そして時々,「どーするの,こんなに仕入れて」と不良在庫に苦言をつぶやきます。

 それはもう,男の私が見ていても,大変に男らしい立派な仕事っぷりでした。


 いろいろ思い出しましたが,全然悲しくありません。いなくなったなんて,絶対ウソです。しばらく会っていないだけで,ちゃんと大阪にいる,とそんな風に自然に思っています。でも,そんなことない,もう彼女はなくなったのだ,と,何度も何度も思い直します。

 彼女のお葬式は,年末に行われたそうです。知っていれば私も駆けつけたと思うのですが,残念な事に知ったのは年が明けてからでした。

 親しかった先輩店員さんは,私にいいます。彼女のお葬式に,当時のメンバーが一堂に会した,当時の会長,社長,常務や店長,彼女が新人として指導をした若手も含め,それぞれみんな行方知れずになっていた人々が集まり,みな口々によくもこれだけ集まったものだと,驚いていたと。

 そして,不謹慎だけど,彼女が集めてくれたんだと思う,と,そんな風に続けました。最後に,彼女は太陽だった,と。

 私がこのお店を辞め,東京で就職したすぐ後に,大阪地区での店舗の再編が行われ,私がいたお店は閉店し,彼女も別のお店に移りました。しかしその後会社そのものにいろいろあって,行き詰まってしまいます。同業の会社から支援を受けて再スタートを図りますが,結果として大半の店舗は閉店,大阪地区も例外ではなく,完全撤退となりました。

 これをきっかけに,当時仲間は全員散り散りになり,その消息はほとんど分からなくなってしまったのです。私も東京に来ており,地理的な距離には勝てず,あれだけ親しくしていた当時の仲間とも,連絡を取ることが出来ずにいました。

 いや,私にその気があれば,会うことも出来たはずです。それをせずにここまで来た私が,一番罪深いのかも知れません。

 私が以前活動していたハードロックバンドのメンバーは,このお店の関係者が中心となっています。何度も何度も再結成の話が出つつ,実現に至らずに来ましたが,今度こそ再結成しなければならないと,そんな風に思いました。

年末年始

 2010年になりました。新年おめでとうございます。

 さて,年末年始に数日間実家に戻ったのですが,その間にあった話を少しまとめてみたいと思います。

・実家の地デジ対応

 これがこの年末年始の一番大きなテーマだったのですが,結論からいうととても簡単に解決しました。

 DXアンテナから出ている「UHA-800」という平面アンテナを秋頃に調達し,実家に送ってあったのですが,このアンテナが思いの外性能が良く,魚の骨のような八木アンテナをわざわざ買う理由はもはやないのではないか,と思うほど満足な製品でした。

 カタログスペックでは一般的な八木アンテナと同じ程度のゲインを誇り,BSやCSのパラボラアンテナと同じ感覚で取り付けできるように考慮されている点で,アンテナもここまで進化したのだなあと感慨深いものがあったほどです。

 昨年の秋に室内アンテナでもなんとかギリギリ受信出来ることを確認してありましたから,UHA-800なら間違いなく受信出来るだろうという目処は立っており,気になるのは取り付け場所と向き,そして配線という点でした。

 まず実際の取り付けですが,現在は使っていないCSアンテナを外し,その場所にUHA-800(どうでもいいことですが「さようならどらえもん」で登場したUSO-800とかぶるネーミングですね)を固定しただけでおわりました。

 向きを調整するチェッカーも持っていったのでいちいちテレビとアンテナの間を往復することも必要なく,とても簡単に向きも合わせることが出来ました。

 問題は屋内配線です。ここで頓挫することも覚悟したのですが,実家の新築の際に予備の配線を1本通してくれてあることがわかりました。惜しいのは,この予備の配線は分配器もブースタも通っておらず,直接リビングの2つ目のアンテナコネクタに繋がっているため,他の部屋では見る事が出来ないという点です。

 しかし,現実的に,現在実家にある地デジが受信出来るテレビはリビングにあるものだけです。その他はアナログのままだったりするので,変に配線をいじる訳にもいきません。

 本来なら,難視聴対策の共聴システムからやってくるU/V混合波からUとVを分離し,このVとUHA-800のUとを再混合,ブースタで増幅してBSと混合し分配器で各部屋に分配するのが正しい方法だとは思いますが,そこまでの手間をかけて結局2011年までしか役に立たないというのは割の合わないお話です。

 なら,2011年になってアナログ放送が止まってから,完全に共聴システムからのU/V混合波を切り離し,UHA-800の信号をブーストBSと混合して分配する方がよほど綺麗です。なので,母親と相談して,2011年にもう一度考えることにしました。

 もし,他の部屋で小さい地デジテレビを買った場合には,不要になった室内アンテナを使ってもらうことにします。

 母親の話では,アナログ放送では難視聴対策が必要だったケースでも,地デジになると個別のアンテナで十分高品質で受信出来るという話が出ているらしく(そりゃそうですね),共聴システムを改修する費用が非常に大きいことを考えても,おそらく個別でアンテナを用意してもらうことになりそうだということでしたから,100%完璧ではないにせよ,実用レベルで何ら問題のない地デジ移行に,随分喜んでいました。

 最初は地デジへの切り替えなど,なんと余計なことをするものだと思ったものですが,受信障害が軽減されること,高画質であること,アンテナが小型になること,そしてトータルの費用が随分安くなったことを考えると,ようやく最近になって移行する価値があると思えるようになってきました。


・日本橋を歩く

 伊丹空港から実家までの間に寄り道して,年末恒例の日本橋を巡ってきました。ここでなんども書いていますが,私は16歳と17歳の夏にジャンク屋として知られたデジットでアルバイトとして使って頂き,当時の店長さんから多くのことを学びましたし,19歳から22歳までの3年間,OAシステムプラザでアルバイトとして使ってもらい,主に中古パソコンとMacを得意として,仕入れからサポートまでを一通り勉強させて頂きました。

 浪人中は難波の予備校でしたから,その頃を含めほぼ毎日日本橋に通っていたわけで,何かを作る時でもこまめに部品を買いそろえることが出来ますし,買い忘れれば翌日昼休みにまた買いに出かけるということが出来ました。それに,新しいお店が出来れば出向き,つぶれれば残念がりと,その時期の街の変化を随分楽しんだものでした。

 ですから,私にとっての日本橋は電気街でもヲタクの街でもなく,通天閣でも黒門市場でも大阪球場でもなく,生まれ育ったふるさと,のような感じがしています。

 それだけに,昨今の寂れっぷりを見るのは正視に耐えないものがあるわけですが,電子部品屋さんが全国区のお店として知られるようになってきたことと相まって,ここ数年で少々落ち着きを取り戻した感があります。

 自販機が撤去されていよいよ地下に潜るかと思っていたマジコンも,「マジコンR4」と書かれたのぼりを立てて堂々と店頭販売するあたり,アキバとは違う文化だなあとちょっと笑ってしまいました。

 私もあちこち回るほど元気ではなかったですし,お店の数も場所も随分と変化しているので,結局立ち寄ったお店は5つほど。完成度が高いと評判だったトミックスのC57が,ジョーシンのキッズランドに1つだけ残っており,10%割引のはがきと組み合わせてトータル3割引で買いました。


・デジットへ向かう

 次に向かったのはデジットです。私がいた頃に比べて随分小綺麗なお店になりましたし,怪しいジャンクの数が減ったことは,過去にはやばいジャンクを出していた会社がまともになってきたことの証でしょう。思わず遠い目になります。

 磁気カードのリーダ/ライタとか,工業用の高出力炭酸ガスレーザとか,ATMの部品とか,ちょっとここではかけないようなものもゴロゴロしていた当時に比べ,随分まともになったものです。

 ただ,消費税を取らないことは当時のまま,店員さんも大きな声で愛想良く,知識も豊富で気軽に相談できる雰囲気と,居心地の良さは我々の頃からの伝統です。うれしいですね。

 ここで見つけたのは,大型の16セグメントLEDです。1個50円。安いので買い占めようかと思いましたが,多くの人に使って欲しいので6個だけにしておきました。それでも300円ですからね。1個100円でもいいと思うのですが,このあたりがデジット(というか共立電子産業)の欲張らないところです。ちなみにこれ,シリコンハウスにも置いてありましたし,通販でも買えるようです。

 あとはICで74LS181という,その筋では結構貴重とされているICを3個ほど調達しました。それとデジットには,誤差1%のポリプロピレンコンデンサが安価で売られています。0.001uFと0.1uFをかってきました。0.1uFで確か150円だったと思います。

 というのも,AVRを使ったコンデンサ容量計を作ろうと画策していて,その校正用のコンデンサが必要だったのです。素人が使うものですから,まあ1%程度でも十分でしょう。それより,温度特性や浮遊容量の方が深刻ですよ。

 そうそう,ダブルバスレフのスピーカーのエンクロージャのキットの音を聞いてきました。なかなかしっかり出てくるものです。置き場所さえどうにかなれば,私も1つ欲しいと思いました。


・シリコンハウス共立に向かう

 デジットでのアルバイトは,当初シリコンハウスに「バイトしたい」といきなり電話をした時に,シリコンハウスはいっぱいなので,デジットならどうですか,と言われたことがきっかけでした。

 当時の社長さんに,簡単の口頭試験をされたことを覚えています。A級,B級,C級増幅の違いは何か,だったですかね。

 今はどうか知りませんが,当時はシリコンハウスもデジットも店員さん同士は同じ場所で働いているという仲間意識も強くて,私も閉店後にシリコンハウスでカウンターの中に入れてもらい,自分で欲しい部品をせっせと棚から出して,他の方にレジをうってもらったりしていました。そういえばバイト初日は,シリコンハウスで自己紹介したなあ。みんな大人だったから,随分かわいがってもらいました。

 そのころのシリコンハウスとはお店も変わっているし,若干ですが雰囲気も変わっているので,今のお店には懐かしさはありませんが,日本を代表するパーツ屋として,すでに有名な存在です。

 失礼ながら,私が子供の頃は,電子部品はアキバが本拠地,日本橋はその代用品くらいの感じだったのですが,最近は拮抗しているというか,綺麗に棲み分けがなされているという感じがします。ネットや物流の進歩によって,もはや地域性より個性こそ重視されるようになったという,1つの例でしょう。

 2階で電池ケースをいくつか買って,3階で30円と処分価格だったスタンダードTTLの74181を6個買ってきました。これでも32bitのALUは作る事ができないんですねえ。

 あと,TC9245Nも5個ほど買ってきました。1つ210円というのは安いと思っていましたが,昔からこの値段なんですね。しかし冷静に考えてみると,48kHzまでしか対応しない民生用のDAIレシーバICなど,5個も買う必要があったのでしょうか・・・

 他にも数点トレイに入れてレジをお願いします。シリコンの店員さんはデジットの店員さんと違って声も小さく,愛想がよいとは言えません。こころなしか内々に籠もっている感じがします。それで,会話を楽しもうなどと言う気持ちは全くなかったのですが,デジットと2階での買い物をみた店員さんが,青い色のしっかりしたバッグを用意してくれました。

 ついでにカレンダーも入れておきます,と言ってくださったので,この時期恒例の味マップもお願いしました。

 味マップは年末の楽しみの1つで,私が子供の頃から名物になっていました。なんと37年も前から続いているそうで,これだけ続けばそれだけで立派なものだと思っていると,「実は今年は危ぶまれたんですよ」と店員さんがいいます。

 え,どうしてですか,と聞き返すと「昨今の経済状況ですから」と答えが返ってきたのですが,確かに直接売り上げに繋がらず,また以前のように食べるところに全く困らなくなった日本橋では,あまり必要とされていないのかも知れません。

 そういえば年々,店頭で目に付くことも減ってきたなあと思ったりしましたが,「楽しみにしているので来年もお願いしますね」といささか無責任ではありますが,エールを送って来ました。やや無愛想だった店員さんも,このころにはすっかり和やかな表情をしてらっしゃいました。

 4階では,0.2mmのポリウレタン線500gをリールで買いました。おそらく死ぬときにも残っていると思われますが,こういうのは残りを気にして使っていたらダメです。湯水の如く使って初めて作業に没頭できるというものです。

 私の勘違いでなければ,デジットが200gで2200円,シリコンハウスが500gで2500円ちょっとだったと思うので,随分値段が違うものだと思いました。どおりでデジットではホコリをかぶっていると思いました。

 今年はシリコンハウスで随分と気持ちのいい買い物をさせて頂きました。これはもう仕方がないことなのですが,以前店員さんの知識のなさで簡単に在庫切れ,とされて,釈然としないまま引き下がることが度々ありました。

 説明をしてようやく出してもらっても,プライドの傷ついた彼はその後無言でレジを打つ,ということが何度か続き,もうシリコンハウスには行かないでおこうと思ったことがありました。しばらくぶりの今回も,明るい雰囲気だとは思いませんが,売る側と買う側が対等で楽しく過ごすという商売の原点が戻ってきたような気がします。

 これは,もしかすると,電子工作復権の兆しかも,知れません。


・4時まで飲んだ

 高校時代の友人と会うことになり,彼と会うときにはいつもいく居酒屋に向かいましたがあいにく満席。数件まわりましたがどこも満席で,地方都市でもこんなことがあるのかと彷徨っていたところ,どういうわけだかガラガラのお店を発見。

 ここで11時ごろまで飲んでいたのですが,そろそろ場所を変えようと店を出ました。

 我々は話し込むと長いので,基本的に追い出されることがお開きのトリガなのですが,まだ追い出されないのかなあ,とふと時計を見るとすでにその時点で2時をまわっています。どうも一晩中やっているお店だったようです。

 いつもの居酒屋は12時には閉店するので,ごく一般的な飲み会になるのですが,今回は大変なことになりました。私を含めダラダラと酒を飲み,友人の一人が「もう眠い!限界!」と白旗をあげてようやく終了。4時を回っていました。

 どんな話をしていたのかも覚えてなければ,いったいいくらだったのか,誰が払ったのかも覚えていません・・・

 4時ですから電車はなく,タクシーで帰ることになります。私を除く二人は地元で歩いて帰ることの出来る人だったのですが,こんな時間にタクシーなどつかまるはずもなく,さりとて私を真冬の4時過ぎに一人で放置するのも悪いと思ったのか,しばらく一緒にタクシーを探してくれました。

 しかし,タクシーはおろか,自動車も人影もありません。こりゃ絶望だなあとあきらめて,1時間ほどかかる実家まで歩こうと腹をくくったとき,友人が「迎車」とサインを出しているタクシーを見つけ,すたたた,と駆け寄ったと思ったら,おもむろにゴンゴンとガラスをノックをしているではありませんか。

 「それはなんぼなんでもあかんて」とさすがに焦ったのですが,友人は自らも早く帰りたい一心でさっさと交渉を成立させ,果たして私の目の前でドアが開いたのでした。

 めでたく私はタクシーに乗り込むことが出来て,友人達に見送られたのですが,その後運転手さんと話をしたところ,どうやら私がタクシーを呼んだ,まさにその人だと思ったらしいのです。

 要するに,友人は「あんたを呼んだのは私らや」とウソをつき,私を乗せたということになります。いやー,酔っぱらいってのはたちが悪いです。ああはなりたくないものですねえ。おかげで助かりましたが・・・

 しかし,彼らはいいけども,その後家まで送ってもらう私が運転手に怒られるとか,そんな風に考えなかったんでしょうか。

 私の家までは10分ほど。少し待たせてしまうけれども,私を降ろしてからまた引き返します,といわれていましたが,謝る私に全然怒った様子もなく,私が高校時代の友人と一緒にいた,という話をすると,それはよかったですねえとニコニコしてくれたことが,かすかな記憶として残っています。

 なお,4時半過ぎに家に戻った私が母親に怒られたことは言うまでもありません。この年齢になって,まさかこんなことで怒られるとは思っても見ませんでした。

・ということで

 ということで,数日間を過ごした実家では,それなりに楽しく過ごして戻ってきました。少し気が滅入っていたこともあって,いい気分転換になりましたが,最大の誤算は4時まで飲んだことでしょうか。その後数日の間,しばらく調子が悪く,もう若くないんだなあと思い知った次第です。無茶はやめましょう。

 コンデンサ容量計については,部品を揃えたつもりだったのですが,金皮抵抗を買うのをすっかり忘れてしまい,また当分お預けです。

 年々正月気分が薄れているなあと感じるのですが,それでも1年の節目には変わりません。今は毎年実家で過ごしていますが,それもいつまで続くかわかりません。どちらにしても,慌ただしい年末が過ぎれば年が明け,そしてまた普段の生活がやってきます。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。


 
 

鉄道データファイルが完結

 長く続いた「鉄道データファイル」がいよいよ最終回を迎えました。

 長かったです。辛かったです。毎週火曜日にやってくる「こなさねばならないもの」を1週間かけて読むことは習慣にこそなりましたが,できればその習慣は,一日も早く断ち切りたいと思う,忌むべきものでした。

 ならさっさとやめればいいじゃないか,と思われるでしょうが,途中で辞めてしまう事への純粋な不安,これまで頑張ってきたことが無駄になることの怖さと,希に面白い記事に巡り会う事への期待があって,もう少しだし頑張って見るかと,買い続けてきました。これが,ディアゴスティーニの本当に怖さでしょう。

 当初200号だか250号だかで終わる予定だったはずなのですが,スイッチバックをやたら詳しく説明したり,私鉄のロマンスカー(いわく,一方方向に向きを揃えたクロスシートを備えた優等列車をロマンスカーというのだそうです)を会社・時代ごとにまとめ直してみたり,ダイヤ改正を地域ごとに詳細に書いてみたりと,はっきりいって冗長な内容に気持ちよくお金が払える状態ではありませんでした。

 開いた口がふさがらないのは,ロープウェイやらケーブルカーが追加されたことです。確かに鉄道には違いないですが,問題は読者がそれらに興味を持ち,それらの情報を求めているかどうか,です。スキー客が激減してロープウェイの存在が薄くなる昨今,スキー場にぶら下がるロープウェイの写真を見せられて「知らんがな」と思った人は私だけではないでしょう。

 280号くらいからでしょうか,途中で辞められないようにするためと思われる,歯抜けにしてあったシートの補完がやっつけ仕事で急激に進められ,計画性のなさにため息が出ました。そうやって膨大な補完を行うため,ページ数が増えても内容は薄く,しかも出てくる記事があちこち飛びまくっているので,読了するのが本当に辛くなっています。

 よく言われているように,誤字脱字などの間違い以上に,著者の知識不足や誤った理解も目に付きますし,作者の趣味を反映した東南アジアの旅行記などをだらだらと作文のように読まされることも苦痛だったりしましたが,そもそもこのあたりの週刊誌に過度な期待をする方がおかしいと,私は思っています。

 悪いことばかりではありません。アメリカやヨーロッパの鉄道に興味を持たせてくれたことはきっかけとしてありがたいものですし,車輌だけ,あるいは駅だけ,というものではなく,全般を一通り取り扱っていることから,システムとしての鉄道に関心が沸いたことも事実です。

 とはいえ,さすがに300号買い支えた私は,本当にバカだと思います。あまりに恥ずかしく,一号も欠かさず買い終えた事は,死んでも黙っているべきです。

 しかし,300号までの道程をしみじみと思い返してみると,まさに私の平坦な人生において,激動期と重なっていたように思います。

 ちょうど創刊号が出た頃,ちょっとした鉄道ブームが起こっていました。理由は分かりませんが,1つには団塊世代の引退があるのではないかと思います。

 私は団塊の世代もなく,まして退職したわけでもないのですが,たまたま立ち寄った家電量販店のオモチャ売り場で,処分のワゴンに入っていたマイクロエースのED17が特価で売られており,私がNゲージで遊んでいた子供の頃とは精密度が全然違うことに驚き,買って帰ったことに端を発します。

 以後,次々と鉄道関係の本が出たり,魅力的で個性的な車輌が模型化されたり,DCCという鉄道模型に革命を起こすシステムが一般化したりと,まるで私を狙い撃ちしたかのような状況になっていきました。

 おそらく,このED17を買うことがなければ,鉄道に興味を示すことはなかっただろうと思うのですが,ひょっとすると,こんなふとしたきっかけで鉄道に回帰した人が多く,それがブームに成長したのだとしたら,私もブームに乗っただけの人だったことになるのでしょうか。

 鉄道データファイルの第1号が登場したのは,2004年2月3日でした。それから約6年,毎週毎週出続けたことになります。最終号を手にとって,この6年間の自らの境遇を,ちょっと思い出してしまいました。

 2004年は,自分の希望で慣れた職場を飛び出したはいいが,すっかり行き詰まってしまい,毎日が沈んだ日々を送っていた年でした。その職場の近所の本屋に毎号買いに出かけていました。この職場はやがて解散となってしまうのですが,ここで出会った,一生の宝となる方々には,後日随分と助けて頂くことになります。

 2005年は,結局もとの職場に戻ることになり,自分の居場所を見つけた時でした。自分が思い描いていた仕事をフルパワーでやっていた時期です。毎日が楽しく,難しい事にも果敢に挑み,充実した日々をおくっていました。仲間も出来ましたが,敵も作りました。この頃,毎週出る鉄道データファイルが楽しみで,職場から少し離れた本屋に出向くのが楽しくて仕方がありませんでした。

 2006年は,心血を注いだ仕事が水泡に帰し,その上職場を追われた時でした。別の部署に引き取られましたが,私はここで干されてしまい,ろくな仕事のない時でした。そのうち「ここにはあなたの仕事はないから」と部長に言われて職場を追われました。

 2007年は,次の職場を選んでいた私が,かつての上司に言葉巧みにだまされて,おかしな職場に引っ張り込まれた時でした。当の上司は私が異動した初日にとっとと逃げ出してしまい,私だけが置き去りとなりました。事前に聞いていた話とは全然違い,わずか1ヶ月でプロジェクトから外され,この年の夏には席まで隔離されてしまいました。そういえば「会社に残りたければ雑巾がけをやれ」と人事に言われたのもこの年でした。本当に辛い時期でした。

 2008年は,設定された期日を過ぎても異動先がなく,退職の覚悟をした後に,全く縁もゆかりもなかった職場に本当に偶然拾ってもらった年でした。ここで自分の得意な小型マイコンを使う事があったり,今も友人として親しくしている社外の方とも出会う機会があったりと,朽ちる寸前だった私の心に少しずつ血が通い始めた時でした。

 2009年は,リストラのあおりをうけてその職場も追い出され,今の職場に流れ着いた年でした。会社に対して,あるいは人間に対しての,不信感と言うよりそれらへの虚無感を抵抗なく受け入れて,まあ世の中そんなもんだと割り切って生活するようになった時期です。もっとも,一番よい仕事の出来る時期を成果も無しに過ごしてしまったことは決して取り返すことは出来ず,そのことをふと思い出した時に,ダメ人間というのはこうやって出来上がるんだなと,しみじみ思うのです。

 かくてこの6年,長かったようで短かった時間でした。いろいろあって,生きること以外のすべてを否定されても,それでも生きていかねばならないことの辛さを知った,そんな時だったように思います。

 そんな日々を送っていても,毎週火曜日には必ず鉄道データファイルの号数が1つずつ増えていきました。思い起こすと,どんなに辛いときにも,どんなにうれしいときにも,必ず枕元には鉄道データファイルがありました。無神経とさえ思うことがありました。

 鉄道データファイルが自分を支えたとは全く思いませんが,変わってゆく自分と同じ時間軸にある変わらないものに,もしかしたら,少しはもたれ掛かっていたのかも知れません。

 さてさて,これで終わったと思ったら,来年からはシリーズ第2弾「鉄道データファイル プラス」が始まるそうです。いやー,まさかの続編とは。~プラスって流行ってるんですか,もしかして。

 定期購読をお願いしているいつもの本屋さんに,いつものように火曜日の朝,最終号を取りに行くと,すっかりおなじみになったいつもの店員さんに「今日でおわりなんですよね。ありがとうございました。またきてくださいね」と,言われました。

 私も,「またきますよ」と言って,お店を後にしました。

 変わらぬ事が変わってしまった,瞬間でした。

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