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実家で処分してきた青春の機器

 さてさて,先日の大阪行きでは,もう一仕事計画していました。実家での荷物整理です。

 次にいつ大阪に行けるかわからんこの状況で,実家で過ごす貴重な機会ですから,多少の無理をしてでも,大量の私の持ち物の扱いを判断してこないといけません。

 実家では,のべ5時間ほどの作業をしました。屋根裏にある段ボール箱をすべてあらため,本はすべて下におろして箱詰めです。ネズミにやられていたり,汚いものは残念ですが処分します。

 古いパソコンは,せっかく残っているものですから全部残そうかと思いましたが,MZ-80Cのようにメカ部品の劣化が深刻で,かつこれが壊れていると動作しなくなるようなものは,もう処分することにしました。PC-6001とM5Jr,そしてApple][は残します。

 楽器についても英断をしました。修理するのにカッターで指先を切り落とす一歩手前までいってしまった,あのD-70ですが,鍵盤部の状態が思わしくなく,音源として活用するのも面倒なので,思い切って処分です。20万円を越えるシンセサイザーで,私のバンド活動を根本から支えた相棒ですが,もう誰もこれを弾くことはないでしょう。

 D-70を捨てるなら,一気に判定基準が変わります。音源としても価値がなく,すでに利用価値がなくなっているD-20は,私の最初のシンセサイザーですが,これも感傷的な理由で保存するほどゆとりがあるわけではなく,処分です。懐かしいなあ。高校生の時に,バイトして作ったお金を持って心斎橋の楽器屋に行き,そこから箱を担いで電車とバスで帰ってきて,翌日は学校を休んで一日中遊んでいました。

 そして,中古で買ったJX-8Pも処分です。音源はしっかりしていますが,もともと鍵盤に難があり,音が出ないときがあります。そんなに綺麗なものではないし,思い切って捨てることにします。いや,音はいいんですよ,さすがに当時25万円近くしたアナログシンセですし,クロスモジュレーションがかかる珍しさも,内蔵されたコーラスのかかり具合も抜群で,これで作ったPADをジャーっと流せば,どんな楽曲もあら不思議,1980年のテイストに生まれ変わります。

 まさに古き良きローランドの音だと思う訳ですが,実のところOberheimのMatrix-1000とかぶる部分も多くて,アフタータッチのついた鍵盤付きであることが最大の魅力なのに,その鍵盤が駄目になっているということだと,もう意味がないと思ったのです。

 まあ,娘が高校生くらいになってですね,アナログシンセを弾き倒すようになって,彼女のコレクションの1つにJX-8Pが加わるようなことがあれば面白いとも思うのですが,まさかムギちゃんでもあるまいし,古い重たいアナログシンセをいくつも担いで「フィルタの切れ味が最高!」とか言いながら学校を歩くような女の子には,父親として育って欲しくなかったりします。

 ただし,SH-09は小さいので残します。音に魅力はないのですが,このくらいなら残しておいてもどうにかなりそうです。ラックマウントの音源は基本的には残します。といってもMatrix-1000とD4,そしてVintageKeysだけです。MIDIパッチベイのA-880は処分,BOSSのエフェクタSE-50は2台とも処分,同じくヤマハのR100も処分です。そうそう,BOSSのミキサーのBX-8はほとんど未使用ですが,箱ごと処分です。

 鉄道模型の空箱も,中古で売るときには必要と残してありましたが,DCC取り付け改造をしているのにまともな値段で売れるはずもなく,もう処分します。

 ジャンクの基板ももう捨てます。FM-8の基板とか,Apple][のクローンの基板とか,もうこんなもの残しておく必要はないでしょう。

 懐かしいガジェット類も捨ててきました。私の中では一瞬大きなブームがあったサイビコ(アメリカに出張にいった友人に頼んで買ってきてもらった)も,電池が液漏れしていたことを理由にして,捨てました。

 最初にかったPHSも,MOVAも残してありましたが捨てました。もう使い道がありませんからね。

 そうこうしていると,エポック社のデジコムブロックが出てきました。これは思い出深いですね。自宅に送りましょう。お,デジコムベーダーも出てきました。でもこれは捨てましょう。大した思い入れもありません。

 おお,バンダイのLSIベースボールが出てきました。いやー,これ,すごい面白いんですよ。娘がもう少し大きくなったら,一緒に遊ぼうと思ったので,これも実家に送り,デジコムブロックと共にレストアしましょう。

 卒業アルバムは自宅に送り,ノートや古い教科書,大学の時のレポートや資料は捨てることにしました。小学校から毎日続けていたまとめノートも出てきましたが,もう未練もないので捨てることにしたのですが,後で実家に電話すると,母が捨てずに残すことにしたそうです。

 そんな中で,結局最終判断を保留したものがありました。ゲーム機です。初代のPlaystatioはすでに捨てましたし,PS2も売りました。PS3は壊れましたし,NEOGEOも捨てましたが,SEGA SaturnとDreamcastは大量のソフトと共に,綺麗に残っていました。

 さすがだなあと思いながら見ていましたが,本だけですでに10箱くらいになっていたことを考えると,今すぐ必要ではないゲーム機をもう3箱増やして自宅に送るのは難しいという判断で,捨てるかどうかは次の機会に判断することにしました。

 もう捨てても良かったのですが,SEGA Saturnのゲームには値打ちのあるものもありますし,なにより随分やりこんだゲームもありますから,惜しい気持ちが強いです。Dreamcastも同様ですが,私にとっては最近まで稼働していたゲーム機という気分もあり,まだ捨てるようなものではないという意識も強くあります。

 こうして考えてみると,本やLP,CDなどは30年経っても40年経っても,楽しめますね。しかし,それらよりずっと高額だったゲームソフトは,もう楽しむ環境がないのです。本当に生きないお金を使ったんだなあと,寂しくなります。

 長く生きれば,その時楽しんだことに加えて,ずっと後になって楽しむ事を知るようになるものです。文化というのは,そうして長時間楽しむ事ができることで,自分の世代は2度楽しみ,同時に次の世代も楽しんで,受け継がれていくものだと思うのですが,ゲームにそうした土壌はないのです。まだまだ未発達な世界であると,言わざるを得ません。

 さて,そうして結局たくさんの段ボール箱を自宅に送り,さっさと昼ご飯を食べてあわてて実家を後にし,その日の夕方に東京に戻ったわけですが,疲れともともとの風邪のせいでぐったりで,もう何もする気もおきません。

 翌日にはそのたくさんの荷物が無事に届き,これをまた嫁さんにばれないように自宅の屋根裏にひーこらひーこら運び込み,まさに苦行のような週末でした。

 まだほとんど手を付けていない荷物ですが,結局実家に残った荷物はゲーム機関連とラックマウントのシンセサイザー数台,新品のカセットテープとSH-09,そしてフォークギターが1つ,そして若干のLPレコードくらいです。その気になれば簡単に片付くものばかりですし,機械的に自宅に送ってもらい保管することも出来るくらいのものです。

 それまで,私のものでいっぱいだった屋根裏が,がらんとしてしまったのを母親は,寂しくなったとつぶやきました。持ち物が多い,それもがらくたがほとんど言うのが,私のありようだっただけに,邪魔で仕方がなかったこれらのものも,いざなくなってみると,本当に息子が大阪を離れたと,母は感じたのかも知れません。

 そんなこんなで,実家には1980年代の初歩のラジオ,子供の科学,そして最盛期のI/Oと,私には宝物の雑誌類が大量に持ち込まれました。時々読み返すととても楽しいのですが,これを電子化するべきなのか,それともこのまま置いておくべきか,随分悩みます。

 プログラムリストが多いI/Oはスキャンして捨てても良いように思いますが,初歩のラジオと子供の科学は,残しておきたい気持ちも強く,どうしたものかと思っています。

さようなら交通科学(博物)館

 大阪の弁天町という駅のそばに,交通科学博物館なる施設があります。東京の神田に交通博物館があった頃,ぜひ大阪にもという声が起こり,当時の国鉄が52年前に作ったのが,前身である交通科学館でした。

 秋葉原と日本橋の関係もそうなのですが,子供の頃の私は,自分の見たいもの,欲しいものが東京に集中していた関係で,規模も小さく,二流のものしか手に入らない大阪には残念な気持ちが強く,大好きな大阪,でも東京にはかなわない,東京に行ってみたいなという憧れがありました。

 当時の情報の入手は雑誌,それも月刊誌くらいのもので,全国誌で大阪の情報が語られることは少なく,それがなおさら東京に対する嫉妬の念を強くしたように思います。これは同時に,大阪に住み,大阪が好きな人間の反骨精神の源泉になっていたんじゃないかと思います。

 神田の交通博物館は,日本で最初の機関車を始めとし,その展示内容や収蔵品の充実ぶりから,鉄道の博物館と言えば必ずここが紹介されたわけですが,対抗馬として生まれた大阪の交通科学館は,また違ったコンセプトを持って誕生しました。

 交通博物館が歴史的な資料を集めていたのに対し,交通科学館は比較的新しい実物を揃えて,鉄道全般を紹介する事を目指したそうです。ちょっと前まで現役とか,現在の車輌の仕組みとか,そういうものを展示の骨子にするわけですね。

 私がここを初めて訪れたのは,今から35年ほど前でしょうか。1980年頃ですが,この時展示されていた実物の車輌はキハ81だったりD51だったりします。

 キハ81が引退したのは1978年ですので,わずか数年前の現役車輌です。D51は1000両を超える大量生産機であり,静態保存機なら全国至る所にあった,珍しくも何ともないものです。

 0系の新幹線も普通に走っていましたし,101系の大阪環状線だって,別に珍しいものではありませんでした。

 これはつまり,博物館ではないんだなと,子供心に思ったものです。

 それでも,近鉄沿線で暮らした私にとって,国鉄車輌を見るのはとても楽しいことであり,何度も父にせがんで,連れて行ってもらいました。

 やがて収蔵品が増え,規模も大きくなり,ついには交通科学博物館と改称したことは知っていましたが,それでも大人が見学すると言うより,子供の遊び場というイメージが強くて,中学生になると全く行こうと思わなくなっていました。

 時は経ち,大阪を離れてから,この交通科学博物館が閉館することを耳にしました。なんでも梅小路蒸気機関車館に統合されるんだそうですが,大阪環状線のそばにあることに値打ちを感じていた私は,これはぜひ最後に見に行かねばならんなと,計画を練ったのです。

 キハ81は引退からすでに35年が経過し,日本で最初のディーゼル特急という貴重な資料となっています。D51も綺麗に保存されたものが減っている中で,2号機が残っているのは誇らしいです。

 EF52は国産初の大型電気機関車で,その後の電気機関車の雛形になったものですし,0系新幹線は実はトップナンバーです。DF50もDD54も西日本では思い出深い機関車ですが,実物の重厚さは近寄らないとわかりません。

 101系も,天王寺発着の列車のサボも,当時ならたんなるコレクションだったものが,今は貴重な第一級の史料です。これがどれくらい,梅小路に移管されるのかわかりません。

 自動車もバイクも飛行機も,鉄道ではない資料は,梅小路も手に余るでしょう。廃棄される可能性もあるんじゃないでしょうか。

 そんなわけで,大阪にあるうちに行っておこう,子供の頃を懐かしむこともしたいし,それ以上に貴重な資料を直に見てみたいと思ったわけですが,閉館はなんと4月6日です。5月の連休に間に合いません。

 そこで,東京に住む弟に声をかけ,どっかで一緒に行かないかと誘ってみました。3月後半の連休にいこうと計画していたのですが,調べてみると閉館直前は混雑し,最悪入場できないというではありませんか。

 せっかく東京からいくのに,それはむなしいと,会社を休んで出来るだけ早めに行く計画に切り替えます。

 そして2月8日に予定していましたが,前日になって弟がインフルエンザでダウン。中止になりました。翌週の15日に延期しましたが,今度は私が風邪を引きダウン。結果論ですが,どちらも大雪で,もし決行していたら大変なことになっていたでしょう。

 3月に入り,弟は仕事が急激に忙しくなってしまい脱落。結局私だけで先週末に見学することになりました。

 ここしばらく大阪に戻っていなかった上に,地下鉄ばかりを使っていた私は,大阪環状線に10年ぶりくらいにのりました。まして弁天町など,降りたのは30年ぶりでしょう。

 周囲の景色は随分変わっていましたが,交通科学博物館そのものは昔の面影を残しています。綺麗になったし,大きくもなりましたが,キハ81を見た瞬間にぐっとこみ上げるものがありました。

 ワクワクしながら入場します。平日の朝だったのですが,それなりに見学者がいます。しかし,小さな子供がワイワイ走り回っているのは,当時と同じです。

 まず目に飛び込んでくるのは,リニアモーターカーML500です。前代未聞の時速500kmという数字と,あの未来的なフォルム,超伝導やらリニアモーターやらわけのわからん言葉の羅列に,少年の心は鷲づかみだったわけですが,中学生くらいになると,これは実用にならんなという,現実的な見方が支配的になっていきます。

 時速500kmといえば,だいたいジェット機と同じ速度です。だったら飛行機でええやんか,ということに気が付くと,わざわざ地上にこだわる理由がわからなくなるものです。

 大人になると,飛行機にはないメリットが見えてくるようになるのですが,様々な議論を経てそのリニアモーターカーによる新幹線が現実のものになろうとしていることは,私には奇跡的だと思えます。

 ML500は単なる黒歴史に終わるのか,それとも困難を切り開いた先駆者なのか,この違いは案外大きいです。

 さて,ML500のインパクトに気圧されながら,鉄道の歴史,鉄道の仕組みなど,子供の頃に見たものを含めて,面白い展示が並んでいます。101系の展示はちょっと縮小されていて,モーターの回転制御は見る事ができますが,当時はパンタグラフの上げ下げや,ドアの開閉が体験出来たのに,それはなくなっていました。

 かわりに私には馴染みのない221系のシミュレータが盛況です。0系も,古い自動改札機も懐かしく,もう楽しくて仕方がありません。

 そしてお目当てだったEF52です。デッキに上り,中を覗くと,外観ほどに古くさい感じがしません。その外観は実に重厚で,丁寧に作られているなと感心します。綺麗にメンテナンスされてもいて,こんな近くに,それもデッキに上がることが出来るなんて,なんとありがたいことでしょうか。

 外に出るとキハ81がいます。屋根付きになっていることもあり,綺麗な補修がなされていて感心しました。室内灯も点灯していて,中の様子が見えるのですが,いかにも国鉄時代の特急という感じがして,こればかりは懐かしさを感じずにはいられません。あいにく中へは入れませんが,デッキまでは入ることができます。それでも雰囲気は十分に味わえます。いろいろ思い出します。

 80系の電車は私には全然接点がなかったのですが,初期の80系がこれだけきれいに保存されているのは大変なことです。

 第二展示場には,DF50とDD54があります。DD54の運転室に入ってみましたが,これがまた普通の運転台なんです。特に難しいスイッチもメーターもなく,他に類似した機関車を見ない,独特の機構を持つDD54が,こんな普通の運転台で動いてしまうことを,ちょっと私は感激してみておりました。この機関車を初めて運転した機関士は,どんな印象を持ったのでしょうか。

 もちろん,見る事が出来なくなった車輌もあります。当時展示されていたマイテ49ですが,これは復元されて車籍が復活しましたので,展示されてはいません。

 そして交通科学博物館といえば,HOゲージを使った大レイアウトです。山あり海ありのレイアウトに,たくさんの車輌が走り回ります。照明も変化し,鉄道のある一日が目の前に広がりますが,ここも昔と同じで大人気で,人垣で全く見ることができません。

 鉄道だけではありません。自動車,飛行機,オートバイ,船など,交通に関係するものが展示されていますが,これは梅小路に移管されない可能性があると言われていて,もしかすると見納めになるかも知れません。

 展示物が貴重で,鉄道や交通を学ぶ場所でありながら,相変わらず子供にとって「楽しい場所」であり続けるのをみて,私は本当にうれしくなりました。保育園や幼稚園の子供たちが,ただただ大好きな電車を身近に体験する場所として,ぞろぞろと引率されてここに遊びに来るのを見ていると,こういう目線で博物館が運営されることの大事さを強く感じます。

 約2時間,たっぷり見学した私は,懐かしさと新しい発見に満腹になりました。ミュージアムショップは,もう商品が残っていませんでしたが,ここで下敷きや模型などをよく買ってもらったものです。

 帰りに,弁天町の駅まで橋梁を渡っていると,そこに機銘板がありました。

 交通科学館橋梁という銘と,昭和37年という年号。そう,これはこの交通科学博物館が誕生したときにかけられたものです。交通科学館は何度かリニューアルし,今は交通科学博物館と名前も変わっていますが,この橋梁はもしかすると,生まれてからずっと,ひたすらに見学者の行き来に使われていたのかもしれません。

 閉館すると,これも撤去される可能性が高いでしょう。私は,この橋梁にもなにか感慨深いものを感じて,帰宅の途につきました。


 52年と言えば,会館の時に10歳だった人は,すでに60歳を超えています。人の一生に相当するほど長きにわたって,本物に触れることの出来る,しかしながら気軽に訪れることの出来る遊び場所として,大阪の子供に貴重な場所を長きにわたって提供し続けた交通科学博物館に,改めて感謝したいと思います。

 そう,こういう場所が,大阪のど真ん中にあることが,とても重要なのです。

 さて,最後に私個人の話を少々。

 交通科学館には,資料室と呼ばれる部屋があります。当時は図書室といってたんじゃなかったかなとも思うのですが,いずれにしても博物館そのものとは別の部屋で,鉄道関係の雑誌はもちろん,国鉄の内部資料なども収蔵されて,閲覧可能になっていました。博物館には,こういう資料を管理し,閲覧可能にするという機能も備わっているものであり,当時の交通科学館は「博物館」とは名乗らなかったものの,きちんと博物館の機能を持っていました。

 交通科学館に何度か訪れた私は,展示品もそろそろ見飽きたところで,それまで踏み入れたことがない場所を見てみたいと思いました。見れば人気のない静かなところに,鉄製の扉がありましたが,特に立ち入り禁止と書かれているわけではありません。

 自分一人では入るのがためらわれたため,母親と一緒に入っていったのですが,そこは私が通い慣れた地元の市立図書館によく似た雰囲気でした。違っていたのは,そこにあるものは,すべてが鉄道と交通に関係するものだったことです。

 しかし,小学校4年生の私には少々難しい資料も多く,上がったテンションは急激にしぼんでいきました。

 そんな中,雑誌の書棚にあったのが,子供の科学です。

 垢抜けない,専門誌っぽい拍子は,タイトルにあるような子供のための科学雑誌という雰囲気があまりせず,非常に真面目で高度なイメージです。

 当時の私にとって,科学に触れる雑誌というのは,せいぜい学研の「x年の科学」くらいのもので,教科書の延長にあり,かつ娯楽性が強い,一言で言うとチャラチャラしたものでした。あれは科学雑誌というよりも,学年別学習雑誌なわけですから,至極当然なことではあるのですが,当時の私はすでにこれでは物足りなくなっていたわけです。

 鉄道とは関係ないけど,時間つぶしにいいかと手に取ってみてみると,その内容の深さや広さに、私は驚きました。科学雑誌というものがこういうものと思い知った感じがして,それこそ衝撃を受けたのです。

 特に印象に残っているのは,泉弘志先生の折り込みで,電子工作の記事でした。電子ブロックくらいしか知らなかった私は,そこで生まれて初めて電子部品がばら売りされて,自分でハンダ付けして動くようにすることがホビーとして成り立っていることを知ったのです。これぞ,自分がやりたいことだと確信しました。

 特に,そんな感激を母親に行った記憶はないのですが,しばらくたったある日,学校から帰ると,なぜか子供の科学がテーブルの上に置かれていました。忘れもしません。まさに生まれた瞬間のひよこの写真が表紙になっていました。

 当時母親は本屋に勤めており,子供の科学のような雑誌でもどんなものかを,ちゃんと知っていました。だから,私が子供の科学に興味を持ったことを察知したのでしょうね。その上で,入荷した子供の科学を見て,買い与えることにしたのでしょう。

 私はそれをとても面白く読みました。

 子供の科学は,小学生に科学に対する興味と関心を持たせる絶好の機会であり,教科書よりも高度で,しかも最新の記述にあふれ,生物,地学,物理学,数学,電気工学,化学,気象学と,あらゆる科学分野が網羅されていました。

 子供は,初めて目にする教科書以外の科学に触れ,多種多様なジャンルから「これは!」と思うものを選び,その道に進むのです。子供の科学は,いわば科学のカタログというわけです。

 私は,子供の科学によって幅広い科学に触れるチャンスを得ましたが,そこから結局電子工学を選び,その道に進むことになりました。現在に至っても,その選択にブレはありません。

 子供の科学を卒業した私は初歩のラジオ,トランジスタ技術とステップアップして,電子工作好きの子供から電子工学を専門にする設計者になりました。そのスタートは,交通科学館で見た,子供の科学でした。

 なにがその人の人生を決めるのか,なにがきっかけになるか,本当にわからないものです。ですが,私にとっての交通科学館は,その後の人生をいかに豊かにしたか,はかりしれないものがあります。その点で,私は他の誰よりも,交通科学館に感謝しなければなりません。

 そして願わくは,京都に移転しても,子供たちに,こうした機会を与え続けて欲しいと思います。

第2種電気工事士の資格

 第2種電気工事士の免状が昨日手もとに届きました。これで名実共に,家の中の電気配線をいじることができます。

 なぜこんな資格を取ったのかと言えば,いろいろ動機はあるのですが,根底にあるのは今私が持っている知識や技術で,十分取得可能な公的な資格があるんじゃないかと思った,ことにあります。

 この歳ですから,今からわざわざ受験勉強に全力投球するなどは,もう無理です。若いときと違って頭も硬くなっていることですし,今から新しい事を学ぶのはなかなか大変です。

 資格の取得というのは,そもそもそうした努力を必須とするものであるが故に値打ちがあるわけですが,幸いにして私が今あるものを使って資格が取れたら,あるいはちょっと勉強したり,知識の整理をしたりするだけで合格出来るなら,それはお得だなと思う訳です。

 とはいうものの,自分の力がどの資格に相当するのかは,試してみるまでわかりません。試験に落ちれば私の力はそれ以下ということになるのですから,言い換えると自分の力を推し量る客観的な指標として,資格試験が利用出来そうです。

 そんな気持ちで,何度か資格試験を受けていますが,今回は電気工事士をターゲットにしました。電気工事士は2つのクラスに別れていますが,上級資格である1種は実務経験がいるので私には無理,自動的に2種になります。

 2種でできることは,概ね一戸建ての家屋の電気配線です。よく,電気工事は資格がないと出来ませんよ,と言われますが,その資格が電気工事士です。

 工業高校卒業程度を想定した比較的簡単な資格試験で,その割には役に立ちそうな資格という事で,以前から狙っていたものでありましたが,最大の難関は実技試験があることです。

 工事士なんですから,知識だけじゃなく実務も出来ないとそりゃまずいわけです。しかもその実技試験は形式的なものではありません。課題そのものは簡単ですが,なにせ試験時間が短く,手際よく作業しないとまず間に合いません。失敗してやり直す時間もないので,慎重さも求められ,少なくとも工具類は手足のように使えないとまずいでしょう。

 ですが,これをむしろ楽しむというくらいの気持ちで,今回チャレンジすることにしました。

 申し込みは昨年の春先でした。試験は春と秋の2回行われ,それぞれ1次試験である筆記試験に合格すると,実技試験を受けることができます。私の場合,春には引っ越しをひかえていて,準備どころではないという状態でしたから,自動的に秋の試験を選びます。

 引っ越しと新しい生活に慣れること,娘の病気と怒濤の日々が過ぎ去る中で,夏休みを過ぎたあたりには,さすがの私も焦りが出てきました。一応見ておこうと買った問題集をパラパラとめくってみると,見たことのない図記号,聞いたこともない専門用語,理屈じゃなく暗記しないといけないことがたくさん目に付きます。

 やばいですね・・・なめてました。

 せっかく受験するんですから,受かりたいですよね。ちょっと頑張って見ようと思ったのがお盆もあけた9月の頭でした。

 まずは過去問題を,なにも勉強しないでいきなりやってみます。わからないところは勘でやらないで空欄にして0点にします。そうして採点をすると,大体半分くらいの正答率です。これでは全然合格しません。

 そこで,分からないところを重点的に勉強します。独特の言葉,記号や道具を覚えること,計算問題はちゃんと原理から導き出せるようにします。

 その結果,正答率が8割を超えるようになったのが9月末くらい。一番大変だったのは図面の問題で,図面からどんな工事が必要なのか,どんな部品を使うのかを聞かれるのですが,これは全く初めての分野ですので,ゼロからの勉強になりました。

 試験の直前には9割くらいの正答率になり,これならまあ大丈夫だろうというレベルにきました。試験会場は行ったこともないへんぴなところにあったので,ここにたどり着けるかどうかが,方向音痴な私にとって実は最大の難問であったと言えました。

 結果は無事に合格。自己採点で結果が出る前に合格していることがわかっていたので,とっとと実技用の工具セットと,練習用の材料セットを手配します。

 こういうのは,早めに用意しておかないと売り切れたり,高いものしか残っていなかったりするので,早めに動く事が肝心です。工具類については,早めに買って使っておくと,それだけ慣れる時間が確保出来ますし。

 しかし,これも私はなめていました。

 まず,単線図と呼ばれる試験問題の図面から,実際の配線図である複線図に書き換える作業がとにかくつかめず,あえいでいました。なんか独特の世界なんですが,それも別に文化と言うほどのものではなく,ちゃんと法律で決まっていることだから,仕方がないのですが・・・

 それもなんとかねじ伏せて,実際に作業をやってみますが,今度は全然時間が足りません。何か忘れたことに気が付いたら,そこでもうアウトです。

 とにかく複線図への書き換えを2分ほどで「確実」に行い,あとはゆとりを持って手が覚えるまで工具を使い,ひたすら作業です。

 幸い,実技試験はあらかじめ公表されている13問からしか出題されません。私は丸暗記は苦手なのですが,13問ですから出題範囲は自ずと限られます。13問の問題を3回ほどまわして,やがて30分程度ですべての作業をきちんと終えられるようになりました。

 とはいうものの,筆記試験と違って,ミスは1つでもあると不合格,軽微なミスでも3つまでしか許されていません。言い換えると完璧を求められる世界です。これはなかなか緊張しますね。

 その上実技試験が怖いのは,当日のちょっとしたアクシデントです。慣れているはずの作業をうっかりミスしてやり直しが発生し時間がなくなり焦って全滅とか,工具を忘れた,工具を壊した,指をけがした,などなど,リカバリが難しいことも考えられます。

 そういう場合はもうジタバタしないで,さくっとあきらめることも肝要でしょう。それくらいの緩い気持ちで臨まないと,しんどいですし。

 実技試験はお台場でしたが,私はこのお台場というところがどうも苦手で,人は多いし広くてわかりにくくて,距離感も方向もつかめません。方向音痴の私にとっては,もう目が見えないのと同じくらいの厳しさです。

 ここは大人の対応をしようと,駄目と思った瞬間にタクシーを使いました。これで余裕です。

 果たして実技試験は,周辺の人達に比べても早く完成し,そのクオリティも万全と言えるものでした。複線図の書き間違いや勘違いなどがなければ,まず合格するでしょう。

 こればかりは自己採点できませんので,合格発表を待ちますが,結果は合格。手応えがそれなりにありましたので,ほっとしたというのが感想でした。

 そして,免状の申請を2月の中旬に行いました。新宿の都庁に出向いて手続きです。綺麗で小柄な若い女性が同じように免状の申請に来ていて,電気工事士をこんな女の人が取るんだなあと,生暖かい目で見ていると,彼女が申請していたのは第1種でした。うむむ,実務経験もあるのか・・・すごいな。

 ようやくにして免状が届いたのが,昨日です。これで私の長い闘いは終わりました。

 受けようと思ってから1年,家族の理解を得て準備を始めて半年,時間も手間もお金もかかった資格でした。難易度云々より,これは長期戦に耐えられるかどうかが試されているなと思いました。

 免状を手にしたら,もう私は電気工事士です。大きな顔をして自宅の電気工事が出来ます。

 例えば,スイッチが壊れたから交換しよう,トイレの照明が気に入らないから買い換えよう,キッチンの照明をLEDに変えよう,LEDダウンライトの寿命が来たから交換しよう,などが全部自分で出来るようになります。最近は部材も通販で安く早く簡単に調達できますし。

 ただし,資格があることと,上手に工事が出来ることとは別の話です。資格があっても壁に穴を開けるのに失敗すれば,素人工事なってしまいます。

 なにせ,うちは電気で動くモノがたくさんある家です。コンセントが慢性的に不足していますし,その場所も必ずしも最適化されていません。不細工で危険なタコ足配線が,すでにあちこちに散見されます。

 これをスッキリさせる作戦を今考えていますが,まず簡単にできることは,2口のコンセントを3口のものに交換することです。これで1つ増えます。作業は数分です。

 それでも駄目な場合は増設ですが,これも例えば1連のものを2連にすれば,壁の穴を広げるだけで大丈夫です。一番大変なのは新しい場所に新設することです。

 なにせ新しい場所に穴を開けますので,あけたところで柱があったとか,電線を引っ張りこめないとか,そういうことがあるとどうにもならなくなります。

 穴を開けることそのものに失敗するかもしれません。大きすぎた,斜めになったなど,鈍くさい私にはあり得る事故です。

 こういう大がかりなものは,ちょっとやめておこうとおもいます。まずは3口コンセントに交換することから始めてみようと思います。

 そうそう,いわゆる就職に役立つかどうか,です。一応公的な資格ですし,資格がないと出来ない作業があるもので,かつ電気は我々の生活になくてはならないものですから,資格がないよりはあった方が,仕事をするのに有利だとは思います。

 とはいうものの,試験に実技試験があることが示すように,資格の有無以上に工事のうまさが最重要なわけで,そのスキルは経験で得られるものですから,有資格者でも経験豊富な人でないと意味がないのが現状でしょう。

 まして,高卒で取得するのが一般的な資格なだけに,歳を取ればその分経験も豊富につめるわけですから,40歳を過ぎて未経験では,余程の事がない限り有利になんかならないでしょう。

 ということで,例えば爆発的な人口増加で急激な住宅建設ラッシュがやってきて,とにかく有資格者をかき集めないといけないとか,それこそ徴兵制でも始まって(そもそも40歳過ぎの人間を徴兵する時点でもう負け確定なわけですが),資格があると工兵部隊を希望出来るとか,そういう事でもない限り,ありがたみ(?)はないんじゃないかと割り切っています。要するに,自分の出来る事を広げるだけのもの,ということですね。

 さて,次は何を取ろうかなあ。
 

変態テレビアンテナ配線と笑えない俺

 先日,テレビのアンテナの話を書きました。結局ブースタを使う事なく,なんとかなったと言う話でした。

 ところが,その後録画に失敗していることがチラホラ出てくるようになりました。そういうこともあるよと気軽に考えていたのですが,どうも気持ちが悪いので,真面目に調べてみました。

 結論から言うと,やはりレベルの不足が原因でした。

 レベルそのものは大丈夫だったはずです。しかし,ダブルチューナーの機材を繋いだ場合には内部で分配を行っているので減衰があること,しかも私の機材は2つのチューナーで感度差があることを忘れていました。ただの劣化なのかも知れませんが・・・

 それで,感度の低い方のチューナーに,出力の弱い地方UHF局が割り当てられた場合に,録画に失敗するという事が起きたようなのです。

 うーん,これはさすがにわからんなあ。

 そこで,チューナーの手前にブースタを置いて見たところ,2つのチューナーのレベルがちゃんと稼げるようによって,録画にも失敗しなくなりました。やはり,ブースタは必要という結論になりそうです。

 くっそー,あの素人電気屋めっ,と今頃ジタバタしても仕方がありませんし,ごねるのも面倒なので,ここから先は自分で頑張って見ます。

 まずブースタをどこに設置するか,です。チューナーの直前に設置すると,ブースタを室内に置くことが出来ます。各部屋の分配器が設置されている屋根裏は,5月だというのに灼熱地獄です。もし私がケミコンだったなら,すでに臓物を吹き出して死んでいたことでしょう。

 しかし,ふと思い出すと,和室のレベルはもっと低かったんですね。ここだと普通のテレビもアウトかも知れません。そうすると,やはり各部屋への分配が行われている屋根裏にブースタを置き,和室もレベルアップして上げた方がよさそうです。

 一方で,リビングはブースタをいれる必要がありません。ここは単独で分配されているので,そんなに減衰していないはずですし,レベルも十分確保出来ています。

 ところが,私が持っているブースタは,VHFの信号を通過させません。ということは,せっかく混合したFMの信号が通らなくなってしまうということです。ですから,UHFとFMを混合する前に,UHFだけブースタを通して増幅しておかねばならないということになります。

 むー,ややこしい。

 試行錯誤を行った結果,結局以下の通りになりました。

・UHFアンテナから2分配器に繋ぐ。出力の1つはリビングへそのまま送る。

・もう1つの出力をブースタに入れる。ブースタはアンテナ取り付けタイプのDPW02を使用する。これを使った理由は,電源部が別になっていること。

・ブースタの出力を混合器のUHF入力に入れ,FMアンテナを混合器のVHF入力に入れる。

・出力を和室に送る。和室からは分岐器で検討部屋に送られる。

・検討部屋では,2分配器を使って,1つは地デジチューナーに繋ぐ。もう1つは間に電源ユニットをはさみ,FMチューナーに繋ぐ。


 これで,FMには影響を与えず,地デジのレベルアップが出来ました。もちろん小さかった和室も他の部屋並みのレベルになっています。これならもう大丈夫でしょう。

 しかも,電源器を室内に置くことにしましたので,屋根裏の書くな環境から守ってやることができそうです。もちろんブースタ本体は屋根裏にありますが,もともと屋外設置用のものなので,そこそこタフなはずです。熱に弱い部品も入っていないでしょう。

 ですが電源部は熱に弱く,わざわざ屋内用と書かれているほどです。すぐに壊れるわけではなくても,10年持つところが,3年で壊れるなどいうことが起きるのが,環境の悪さです。

 なんだか釈然としませんが,地デジチューナーを遠慮なく増やせる気分的なゆとりや,和室でも問題なくテレビが見られそうだという安心感もありますので,もうこれはこれでよいことにしましょう。

 

新居のテレビアンテナがこんなにおかしいわけがない

 先日,テレビのアンテナの顛末を書きましたが,これには後日談があります。

 当初,アンテナから3つの部屋に分岐させるため,3分岐器を使っていましたが,このうち検討部屋への配線が途中でショートしてしまい,使えなくなりました。

 そこで,和室から分岐させ,検討部屋へ持って来るという対策を行ったまでが,前回までのお話です。

(1)念願の多素子FMアンテナ

 一連の作業の過程で,屋根裏を覗いてみたのですが,案外広いのです。さすがに人が入れるほどの高さもないし,木くずだらけですので積極的に入ろうとは思いませんが,ここを屋外とみなせば,念願のFMアンテナを設置できる事に気が付きました。

 マルチパス妨害を防ぐには,指向性の鋭いビームアンテナが効果的です。指向性が鋭いほど効果がありますし,ゲインを稼げばそれだけS/Nも上がります。

 とはいえ,屋根裏に設置できないほど大きなアンテナでは困ります。さすがに位相給電型や3素子八木程度ではもったいないのですが,5素子八木はちょっと大きすぎて不安があります。

 すると4素子八木というのがあるんですね。安いし,これにしようと思っていたのですが,どうも評判がよろしくありません。見れば,サイズがFMの周波数に対してかなり小さいのです。

 しかも,メーカーの公開しているスペックに,ゲインが出ていません。サイズを無理に小さくしてテレビのアンテナ並にした結果,ゲインが皆目取れなくなったんじゃないでしょうか。レビューを見ても3素子の方がましだという意見があるほど散々です。

 うーん,かなり危険が伴いますが,これはもう5素子八木にトライするしかありません。実家にいたころに上げたアンテナと同じです。大きさは2mを越えます。

 ですが,迷っていても仕方がないので,早速注文。FMとUHFの混合器も一緒に注文しました。最近,この手のVHFとUHFの混合器って少なくなっているんですね。需要がないから当たり前でしょうけども,こうして気が付かないうちに,当たり前だったパーツがなくなっていくのです。

 さて,まるで×××なビデオを注文して準備万端受け取りを待っていたら,ちょっとトイレにいった隙に嫁さんに受け取られてしまって,大変バツが悪かったのと同じように,今回の巨大なアンテナも嫁さんにちらっと見られてしまい,「どーすんのよ」と詰め寄られる一幕はありましたが,こういうときは視界から消し去ることが肝要,さっさと屋根裏に運びました。

 そして組み立てしてとりあえずスカイツリーの方向に向けて設置してみました。うん,大丈夫です。十分なスペースがあります。八木アンテナは大きいですが,骨組みだけですので,そんなに容積があるわけではありません。工夫次第でどうにかなるものです。

 そして,FMチューナーを持ち込んで,アンテナの向きの調整です。Sメーターが大きく振れ,マルチパスが出ないところを探して設置します。FMアンテナはほとんどHNK-FMのために設置するようなものですが,成果は上々です。

 これとUHFを混合器で混合,そして分配器を繋ぎます。Sメーターが1つ下がりますが,問題ないレベルです。

 チューナーを検討部屋に持って行き,ここで受信してみますが問題なし。さらに地デジも確認しますが,混合器によるロスが2dBほどある以外は,問題なしです。

 そして分配器を使ってFMと地デジを繋ぎます。さらに3dBほど下がりますが,やむを得ません。地デジはギリギリ大丈夫な感じです。もう3dBほど欲しいですところですが,まあ大丈夫でしょう。

 後日書きますが,実はFMチューナーであるF-757の性能を生かすため,SSGを中古で買ったのです。これで調整をすれば,現在私が思いつく環境としては,まずまずのものになるはずです。


(2)3分配器でええのんか?

 ある日,ふと思ったのですが,検討部屋への配線が死んでいるため,屋根裏にある3分配器の出力が1つあいているんです。これって無駄ですよね。

 分配器は,一口あたり2dBの減衰があるとされています。2分配なら4dB,3分配なら6dB,8分配なら8dB,それぞれの口から出る電波は減衰します。

 ですから,使っていないのに3分配なんてことをしておくと,2dBも損をします。うーん,これくらいのこと電気屋さんも気が付けよなぁ。

 仕方がないのでじぶんでやります。金属ケースに入った2分配器をamazonで探すと,数百円で買えるようです。早速注文し,届くのを待ちます。

 連休中に届きましたので,早速作業開始です。といっても,屋根裏の分配器をこう関すだけの話ですので,5分で終わりです。

 結果,2dBアップしました。地デジはマージンも確保出来たし,FMもSメーターがMAXになりました。


(3)分岐器でええのんか?

 和室にある分岐器は,私の希望としては分配器でした。そうでないと,和室での損失が大きすぎると思ったからです。

 結局分配器なのか分岐器なのかはっきりしなかったので,和室のコンセントを開けて中を見てみました。すると,金属製の分岐器が出てきました。

 ほぼ同じ大きさの2分配器を買ったので,これに交換して試してみましょう。

 結果,和室は6dB以上のアップ。一方の検討部屋は4dBほどダウンします。

 ここで冷静に考えます。和室は現在テレビを設置していません。仮に設置しても,テレビしか設置しないので,分岐器でも大丈夫でしょう。

 一方で検討部屋は,地デジとFMチューナーに分配を行っています。タダでさえロスが大きいのに,入ってくる時点でさらに小さくなってしまうと言うのは,ちょっとまずいです。

 そこで,しゃくですが分岐器に戻しました。


 というわけで,ようやくアンテナの件は解決です。いろいろ大変でしたが,最終的にはテレビもFMも満足できる形にまとまりました。FMなんてのはかなり大型のアンテナが必要ですし,設置が大変な割には結局「ラジオ」ですから,なかなか普通は用意しようなどと思いません。

 しかし,設置が大変な分,その効果は絶大であり,FMが好きな人にとって,いつかは手にしたいものの一つです。アパートだからマンションだから,とあきらめていた私も,今ようやく気兼ねなく設置できることになり,素直にうれしいです。

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