エントリー

カテゴリー「ふと思うこと」の検索結果は以下のとおりです。

skipサービスと東海道新幹線

 昨年の秋から,全日空(以下ANA)がskipサービスなるものを始めました。

 実家への帰省を新幹線から飛行機に切り替えてから数年,運賃の問題よりもWEBで決済まで済ませることの出来る便利さがすばらしく,もう新幹線に戻る気がしません。

 しかもシステムの変更行われる度に便利になっていきます。そしてとうとう,チェックインまで省略されるようになったチケットレスの完成形が,このskipサービスです。サービス改善にどん欲な会社というのは,全体に活気があるものです。

 ANAはskipサービスを導入するにあたり,持っていると便利なEdy内蔵のマイレージカードを会員全員に無償で郵送する徹底ぶりで,チケットなしでいきなり手荷物検査場に直行という「失敗したときの損害の大きさ」という不安を乗り越え,ぜひ使ってみようという気持ちになっていました。

 私にとって今回の帰省は,skipサービス開始後初めて飛行機を利用する機会だったのですが,年末年始の混雑の中にも関わらず,あえて挑戦する覚悟を決めて羽田に向かうことにしました。

 skipサービスというのは,チェックインを必要としない「究極のチケットレス」で,

(1)WEBで空席状況を調べる
(2)便を予約する
(3)クレジットカードで運賃を決済
(4)座席の予約も済ませる
(5)当日いきなり手荷物検査場に直行
(6)検査官にチケットを見せる代わりにマイレージカードをカードリーダにかざす
(7)そのまま搭乗口まで進む
(8)登場時にゲートのカードリーダに同じマイレージカードをかざして乗り込む

 と,これだけの話です。

 以前ですと,自動チェックインを使っても,空港でチケットを決済したクレジットカードを使って受け取る必要があって(それでもチェックインに列ぶ必要がなく楽ちんだった),行きの時点で復路のチケットを受け取っている場合には,自動チェックイン機を使うか,窓口に列んでチェックインを行う必要がありました。

 Edyを内蔵したマイレージカードや携帯電話を使えばこの自動チェックインもかなり楽になるよう,後に改良されるわけですが,結局チケットを受け取ったり,チェックインが必要になったりするわけなので,手間は一緒です。

 これがskipサービスだと,マイレージカード1枚持っていけば,行きも帰りも,チケット受け取りもチェックインも,全然行列しなくて済むわけですので,帰省客でごった返す時期には大変ありがたいサービスです。

 ただ,いきなり手荷物検査場に直行と言われても,もしなんらかの手違いがあって認証が出来なかったりすると,私はせっかく列んだ手荷物検査の行列から,いきなりチェックインの行列に列び直す羽目に陥ります。

 私は,いつもチケットを受け取ったり,チェックインを済ませたりしてから空港内のレストランなどで見送りに来てくれた友人と食事をしていました。チケットの受け取りで一度トラブルがあったときは,食事の時間を削って事なきを得たことがあります。

 ですが,skipサービスでは,トラブルの有無が判明するのは手荷物検査場です。当然すでに食事のために時間を使ってしまった後だけに,何かあったら時間不足に陥ってしまいます。これはゆゆしき問題です。

 つまり,トラブルが絶対にない,ということを前提にしたシステムだという事になります。余程の自信があるんでしょう,このシステムに。いくらでも問題など出てきそうなものですが・・・もしコンピュータの問題かなにかでskipサービスが完全に停止したら,全部窓口で処理しないといけませんが,大勢の人が出発ギリギリに窓口に殺到する状況を,一体どう処理するつもりなのでしょうか。

 今回は都合により友人の見送りもなく,食事もしないで済む時間だったので,空港についたらいきなり手荷物検査場に向かいます。

 結論から言うと,この心配は杞憂でした。いや,なにかトラブルがあった場合のリカバーが完璧だったということではなく,何も問題が起きなかっただけですので,果たして杞憂と言っていいのか,私には分かりません。

 それ程待つことなしに手荷物検査の行列に列びますが,自分の順番に予想以上に早く到達すると,いつものように係の方から「チケットを拝見します」と促されます。

 「skipサービスなんですが」と私が恐る恐るいうと,「ではカードをこちらに」と指示されるので言われたとおりにかざすと,あっという間に認証が終わり,何度ともなかったように手荷物検査を済ませる事が出来ました。

 あまりにさくっと済んだ私の手続きを私の後の人が思わず「すげー」と声を上げたとき,同時に私も心の中で「すげー」とつぶやいておりました。

 この時受け取るぺらぺらのレシートには,登場予定の便,座席,搭乗口の案内が記載されていいます。このように,本来ならチケットに記載されたであろう情報を,現場で始めて目にするのは,検査の後になってしまうのです。やっぱり不安・・・

 さて,いよいよ機内への案内が始まりました。行列に列んで,改札機に用意されたカードリーダーに,先程のマイレージカードをかざします。

 これまたあっという間に認証が終わり,出てきたレシートを受け取って座席を確認します。

 はい,これでおしまい。

 帰りも全く同じです。

 面白いのは,手荷物検査を済ませると,その予約はskipサービスを済ませた扱いになる(つまりチェックインが済んだ事になる)んですね。だから,携帯電話でskipサービスの利用方法のサイトへ飛ぼうと思っても,skipサービスは使えませんときちんと案内が出てくるのです。

 マイレージカードを忘れてしまえばオシマイかというとそうでもありません。事前に携帯電話にQRコードを取り込んでおくか,印刷しておけば,これをカードリーダーにかざすことで同じ結果を期待できるそうです。マイレージカードを持っていない人やたまにしか飛行機を利用しない人でも利用できるというのは,素晴らしいことです。こういうことは,確固たる信念がなければ真っ先に削られてしまう仕様の1つでしょう。

 また,自動チェックイン機もまだ設置されているので,これを利用することも可能です。

 それで冷静に考えてみたのですが,私は今回の帰省に際して,結局行きも帰りも切符の手配に列んだりどこかに出向くことを一度もしませんでした。すべてがネットで自宅にいながらに手続きが完了し,本人であるかどうかの確認は非接触のICカードで一瞬のうちに完了,です。

 果たしてこの手軽さ,東海道新幹線では可能でしょうか。数年前に調べて雲泥の差があった新幹線のシステムが,ひょっとしたら改良されているかも知れないと期待して調べなおしましたが,結果は全く変化なし。ANAが同じ時間で幾度の改良を重ねてきたのに比べて,あまりにもやる気がないなあと感じます。

 勝手に比較してみます。

・WEB予約と決済
 東海道新幹線でも可能ですが,会員になる必要があります。クレジットカードの機能を持つカードを持っていなければならず,これは年会費として1050円がかかります。飛行機の場合,予約までなら誰でも可能,決済は手持ちのクレジットカードでokですし,決済が済めば座席の予約も,多くの場合skipサービスも受けられます。
 年会費が必要な会員限定という段階で,本来新幹線が持っている手軽さを損なっています。一方,手続きが面倒で新幹線のように自由席に飛び乗る手軽さがないと言われた飛行機がここまで便利になっていることを,JR東海は知らないのでしょうか。

・予約の可能時期
 予約は,飛行機では2ヶ月前,新幹線では1ヶ月前からです。2ヶ月前からだとさすがに予定も立たないものかも知れませんが,実は毎年同じ時期に帰省ラッシュがあることを考えると,予定が立たないからではなく,立てようとしないだけの人がたくさんいるということだと思います。
 2ヶ月前に予約が可能な飛行機では,もし予定が早くに立つ場合,その特典として割引と好きな便を利用できるわけです。これが新幹線だと1ヶ月前からですので,結局発売と同時に予約が殺到してしまいます。つまり早くに予定を立てた人に対して,何の還元もないわけです。公平といえば公平ですが,その割にWEBからの予約が会員限定なわけですから,矛盾しています。

・切符
 前述の通り飛行機はskipサービスやチケットレス,自動チェックインによってチケットの存在はもはや形式的なものになっています。これを持っていることだけがすべてではない,ということです。
 一方の新幹線は,結局会員でない人はいつもの通りみどりの窓口で列んで買うしかありません。一見さんお断り,ってやつですね。
 それに,新幹線では,結局最終的には切符を手に入れなければなりません。会員カードで改札をパスし,検察を受けることが出来て初めて,飛行機に列んだと言えるのでしょうが,そんな未来は当分来そうにありません。

・運賃
 基本的には飛行機の方がはるかに高価です。ですが,ご存じの通り,特に私の利用する東京-大阪間はドル箱路線で,格安料金の設定があります。これを上手に使えば東海道新幹線より安くなることもしばしばです。
 さすがに年末年始はそうはいきませんが,新幹線に対してとんとんくらいの料金には出来ます。燃料費の高騰から運賃が値上げされて飛行機の方がやや高めになりましたが,便利さと速さはわずかばかりの差額を十分に補って余りあります。
 ただ,この春にもう一度値上げがあります。これで差が開くとちょっと考えるかも知れません。
 新幹線には割引は基本的にはありません。むしろ繁盛期には価格が割高になります。会員限定のサービスでは割引があるそうですが,これは私には現時点で無関係なので考慮しません。

・空港もしくは駅までのアクセス
 羽田までは京急を使えば早くて便利。大阪伊丹からはシャトルバスを使えばこれまた楽ちんです。シャトルバスは高速道路の事故などで簡単に遅れますし,定員になると定刻前でも発車するので,信用に足る存在ではありませんが,伊丹空港と大阪南部を結ぶ経路は実質これだけですので,文句は言えません。
 一方新幹線はアクセスになんの問題もありません。これは当然ですね。

・所要時間
 のぞみで2時間30分,飛行機は1時間ですので,差の1時間30分で空港までのアクセスや手荷物検査にかかる余計な時間を帳消しにして,まだ十分なおつりが来ます。同じ時刻に到着するように設定しても,朝ゆっくりできる飛行機は非常に楽です。

・手続き
 新幹線には手続きはなにもなく,改札と車内の検札くらいのものでしょう。飛行機はskipサービスを使っても手荷物検査を避けるわけにはいきません。持ち込める手荷物もバッグ1つですので,これも新幹線と違って預けることになります。これもまた列ぶんですね。
 そんなわけで,やっぱり時間的なゆとりはないといけません。ただ,危険なものの持ち込みを防げているのは手荷物検査のおかげであって,新幹線だって本当は実施されてもおかしくないと,私は思っています。時速300kmで走行する密閉された空間に,刃物を振り回したり毒ガスをまいたりする人がいたり,まして爆弾などが持ち込まれたりすると,受ける被害は飛行機のそれと大差はないのではないでしょうか。

・急用への対応力
 予約も何もないけどとにかく行こう,ではすまされないが飛行機で,新幹線なら自由席がありますから,どうにかなります。この「万が一」の対応は心強いものがあります。

・旅の気分
 これはもう新幹線の圧勝。新横浜を過ぎて,名古屋までの時間で駅弁を広げ,大きな窓越しに刻々と変化する景色を眺めながらの食事には,飛行機にはない魅力があります。
 実は2時間半という時間もなかなか絶妙といえて,食事して一眠りすれば,大体新大阪に到着しています。
 喫煙者にとって,たばこが(いろいろ制約があるにしても)吸えることは,これはもうそれだけで十分なメリットでしょうね。

・安全性
 これはもう,なんともいえません。気分次第,運次第でしょう。ダメなときはダメ,そういうものだと思います。
 ただ,潜在的な乗客の心理の差にはなっているようで,私の見るところ,飛行機の乗客には,それがたかだか1時間の搭乗であっても,みんなある種の覚悟があるのか,それとも運命共同体としての連快感がそうさせるのか,とにかく非日常の世界という空気ゆえ,あまり横柄な人もいないし,お行儀の悪い人も目にしません。
 しかし新幹線ではこうはいきません。見るに堪えない行儀の悪い人を散見するのは,それが陸上交通だから,日常の延長に見えるから,でしょうか。その点で新幹線というシステムは偉大であると思います。


 いろいろ比べてみましたが,新幹線は,それでも鉄道という交通機関が持つ「旅のプロセス」を楽しむきっかけがたくさん残っています。その点飛行機は結果だけを求めるものだと言えて,うまく使い分けるのがよろしいと,それが私のたどり着いた結論です。

 新大阪駅から大阪環状線や地下鉄御堂筋線を使って移動する際の,もっとも大阪らしい街と人を堪能するのもまた楽しいもので,こうした魅力は鉄道という庶民の足がまだその機能を失っていないことを十分に感じさせてくれるものです。

 残念なのは,そうした魅力にあぐらをかいて,努力を怠るJR東海の存在でしょう。ちっとも便利にならない東海道新幹線は,国鉄時代のそれと同じです。JR東日本管内の新幹線はそこそこ便利になっていますが,これにすら及ばないのは,JR東海が東海道新幹線を独占しているからに他ならず,「国民の財産」を利益を生む打ち出の小槌としてしか見ていない,なによりの証でしょう。

 私が東海道新幹線を使わないのは,これが気に入らないからなのですが,どうにかならないものなのでしょうかね。その意味でも,航空会社には頑張ってもらいたいものです。

2006年を趣味の領域からまとめると

 今年もあと10日ほどでおしまい。年々時間の経つのが加速されていくように感じるのですが,今年一年の私の趣味の中心であった,カメラについて総括したいと思います。

・趣味の軸足

 一昨年の夏にD2Hを買い,中古レンズを探しに行ったついでに見つけたペンタックスのESIIから再燃した趣味としてのカメラですが,今や完全に生活の一部となっています。

 いわゆるジャンクカメラ(狭義では故障しているがメーカー修理を受けられないもの)の修理を楽しみとする方はかなり増えているように感じるのですが,80年代以降の,それまでの高級な精密機機としてのカメラとは違う「大量生産品」としてのカメラがジャンクとして安価に出回るようになり,チャレンジされる方が(私も含め)多くなったということでしょう。

 コンパクトカメラの修理がそれまでの趣味としての修理の最前線だったと思うのですが,私はコンパクトカメラは修理をしたことはありませんし,また基本的にあまり興味を持っていません。

 また,なんでもかんでも手当たり次第に修理するというのではなく,また誰かに頼まれたりするわけでもなく,ただそのカメラを修理して使ってみたいと思った,それに尽きる純粋な趣味の領域でした。

 実績としては,少々不安のあったESIIが現在絶好調ですし,ニコマートELも完全復活,NikonFEもまったく問題はない様子です。

 MZ-10は,先日の修理のままではあまりに不安なので,程度の完動品と中身をそっくりそのまま入れ替えました。当然実用品です。

 ミノルタXEは大変良くしていただいている方から故障品を頂いたのですが,これも今のところ非常に調子がよいようで,毎日空シャッターを切って,感触の良さを堪能しています。

 修理に必要な工具も今年最低限のものを揃えました。モルトプレーンなどの消耗品も用意しましたし,油を落とすのに無水エタノール一辺倒だった私が,ライターオイルを使うことを覚えた事で,一通りの体制は整ったと思います。

 サービスマニュアルの需要性を認識したことや,それ以上にサービスマニュアルを読めるようになったことも大きいです。カメラのように部品の多いものは,ばらしてしまえば元通り組み立てられなくなってしまうものですが,やはり1つ1つの部品には理由があるはずで,きちんと収まるべき所に収まることは精神衛生的にも大変好ましいのです。

 それで,こうやって我が家にはいくつかのマウントのレンズが増えることになってしまったわけですが,これもカビ玉や難ありのレンズを1000円とか2000円とか,そんな値段で手に入れてこれるからです。レンズの修理は基本的には得意ではありませんが,分解と清掃くらいはなんとかなるようになってきました。

 意外に役に立っているのが模型の知識と技術です。ここ数年模型にかなりはまりましたが,鉄道模型で使われる精密なギアはカメラにも通ずるものがあり,ここで使われるオイルやグリスは,カメラにも十分使えます。

 真鍮に綺麗に塗装をする技術,欠けたプラスチックを修復する技術,スミ入れを行う技術など,模型では必修になる事柄が,工具や用具も揃っている関係で全く苦痛になりません。こうしてSMCtakumar28mmやAiAF-Nikkor28mmを,かなり綺麗に仕上げることが出来ました。

 時間をかけて修理を行っても,調整がきちんと出来ないと意味がありません。他の人に頼まれた修理であればダメであっても,自分だけが使うものであれば,納得の上であまり厳密な調整をせずに済みます。

 大事なことは厳密な調整より,現在の状態がどの程度の傾向を持っているかを知ることであって,その程度の測定が出来るかどうかが,実用品かどうかの境界面であるように思います。

 シャッター速度はオシロスコープを使っています。幕速は幕速の簡易測定器を作って対応していますし,露出計はグレイカードを使って済ませています。

 無限遠を出すために必要なオートコリメータの代用品は一眼レフに望遠レンズを使っているのですが,この程度の用意であっても,実用レベルの仕上がりが期待できるものです。

 測定器の製作や工夫,実際の測定作業というのは,何を測定するのか,なぜ測定が必要なのか,測定の原理はどうなっているのか,結果をどうやって評価すればいいのかと考えながら進めないといけないものです。結果としてカメラの基礎や原理を熟知する最高の機会になります。

 つくづく思うのですが,趣味としてのカメラの修理というのは,非常におおらかな気持ちで行うことで楽しめるということでしょう。

 もしこれが,他の方からの預かりものだったとしたら,修理中に壊してしまえば責任問題ですし,簡単に修理を諦めることも許されません。オリジナルを維持できない修理は修理として認めてもらえませんし,修理に対する保証もしなければなりません。そのためにはあり合わせの材料で適当に済ませることは絶対に出来ません。

 調整もそうですね。正確な測定と客観的な調整を行わなければ,万人の使えるカメラにはなりません。使う人の歩み寄りを期待できないから,そこにはメーカーと同じだけの高い技術水準と品質管理体制が求められます。

 そうなるともう趣味ではなくなりますね。

 私のように,ネガしか使わないし,多少のズレや誤差は気にしない,というおおらかな気持ちを持つこと,「どうせ私の目には違いなどわからんはずだし」と最初から厳密に追い込まないこと,この2つが修理を楽しむには必要だと感じました。

 このために,1つ絶対的に信用できる「基準カメラ」を持つ必要があります。私の場合,それはF3です。

 オーバーホール済みなので不具合がないことも分かっています。これを基準に調整を行えば,私の手元にあるカメラは全部調整が揃ってくれます。それに,やっぱり失敗の許されない撮影にF3を持ち出せるという気持ちがあるから,「また壊れるかもしれない」という素人の修理を許容できるのです。

 そう考えると,ちょうど10年前に手に入れたF3が,こんな形で貢献することになるとは,ちょっと考えていませんでした。


・CLEという名前を持つ別のカメラ

 そんな修理の中で,最も難易度が高かったのは,やはりCLEだったと思います。

 詳しい経緯は省きますが,これはもう修理などというものではなく,一部作り直しというレベルです。

 ですから,オリジナルには戻っていませんし,オリジナルと同等の機能も有していません。納得済みの私だけが使うという前提で,始めて許された復活劇だったと思います。

 カメラというのは,結局の所,レンズを通ってきた光を,フィルムの面に一定時間照射する機械です。私の見たところ,電気系のうち,タイミング生成とシャッター幕の駆動が出来なくなっていたCLEを,やはり良くしてくださった知り合いの方に譲っていただいたのが今年の4月のことでした。

 最初は頑張って元の回路を修理しようとしたのですが,ICの破損がわかって一度は諦めました。この段階でオリジナルへの復帰は完全になくなってしまったわけですが,新しい挑戦として「カメラの基本機能」を自分で作り上げれば良いという発想の転換で,CLEはどうにか,フィルムに光を染みこませることが出来るようになりました。

 しかし,果たしてそれはCLEと呼んで良いのか,また愛着のあるCLEが壊れて私に託して下さった方の気持ちを踏みにじってしまっていないか,と最近そんな風に考えることがしばしばです。

 そんなおり,CLEの基板を交換できる修理業者さんが登場し,お金はかかるかもしれないけれども,オリジナルに戻せるチャンスが訪れました。時期が半年ずれていたら,CLEを下さった方は,ひょっとしたらこの業者さんに修理を依頼したかも知れません。そう考えると,私のしたことは自己満足ではあったかも知れませんが,決して褒められたことではないということがわかってきます。

 もちろん,自分の考えが正しかったことを体現してくれたこのCLEにはとても愛着がありますし,CLE用に揃えたレンズにもとても思い入れがあります。その点で私自身は後悔などしていませんが,他の方との関わりの中でなし得たこのCLEの復活は,私にある一定の示唆を与えてくれました。


・フィルム現像の敷居

 モノクロフィルムの現像はずっとやっていましたが,カラーフィルムの方がモノクロフィルムよりも安いため,なんとかカラーフィルムの現像を安価に自家現像できないものかと考えていました。

 カラーの現像キットが手に入ることを知り,またそれがなかなか低コストで気楽に取り組めることを体験するに至って,もはやカラーフィルムを写真屋さんに出すことはなくなりました。

 プリントはどうするの?と思われると思いますが,これはとりあえずフィルムスキャナで対応します。過去の資産の活用と,新しいネガの低コスト運用のために導入したニコンのフィルムスキャナは,実に役に立ってくれています。

 こんな塩梅ですから,私にはフィルムだけが持つ優位性や,気分的な利点を語る資格はありません。手間ばかりかかって出てくる結果はデジカメと同じか,それ以下です。

 こんなことをして何が面白いのかと自分でも思うのですが,その答えは1つ。修理したカメラで写真を取るには,フィルムしかないからです。

 そんなフィルムも,もう風前の灯火という感じです。コニカミノルタの安売りフィルムはすでに市場から消え去り,100円ショップのかつての定番商品は,ごく一部の店舗にひっそりと置かれるようになりました。

 コダクロームの国内販売中止が決定し,長尺フィルムやモノクロの現像,定着剤の入手も来年には難しくなり,,大手量販店のフィルムコーナーの寂しさは現時点でも相当なものです。

 まさかこれほどまでに急速にフィルムの文化がなくなるとは,夢にも思っていませんでした。しかし本来,化学反応を使うフィルムの扱いはかなり難しいもので,それをここまで庶民的にしたシステムが成り立っていたこと自身,驚異的な事だったと言えるのかも知れません。

 単なる懐古主義ではなく,前向きな楽しみ方というのがあるのではないかと,私は思っています。


・それでどうするの

 そんなわけで,今年一年は新しいことにチャレンジし,それなりの経験値を積み重ねることが出来ました。ただ,来年はフィルムの入手の問題もあるし,カメラの修理そのものに飽きてしまっているかも知れません。

 ただ,一度知ってしまった面白さを,そんなに簡単に忘れることはないでしょう。飽きてしまうと言うより,別のことに取り組みたくなったというのが正しい表現で,だとすればそれが出てくるまで,このままなんじゃないかと思います。

 フィルムのカメラは,今しか楽しめません。今しっかり楽しんでおこうと思います。

社内失業ということ

 こういう事は,なかなか扱いが難しい問題なので,基本的にここでは書かないようにしていました。しかし,私にとって結構大きな事件でもあるので,例外的に記録に残そうと思いました。

 実は,先週一週間,会社をお休みしていました。

 といっても,別に旅行に行ったとか,身内に不幸があったとか,そういう健全な理由ではありません。

 社内浪人とでもいうのでしょうか,社内失業とでもいうのでしょうか,とにかく,ここ数ヶ月仕事がないのです。

 仕事がないということは,誰とも関わりがないということ。朝来て夕方帰るまで,誰とも一言も話をしない一日を過ごすことが珍しいことではなくなりました。

 仕事がなくとも給料はもらえていますし,別に上司からの叱責があるわけではないので,考え方を変えれば気楽なことこの上ないのですが,自分の周りの人間が忙しくしている中,自分だけがポツンと取り残されたような気分になるのは,やはりなかなか慣れるものではありません。

 また,本当に失業なさった方々にすれば,私のように「ただ仕事がない」というだけの人間を自虐的に「社内失業」などという言葉で表現することに,納得できない感情もおありかも知れませんが,結果に対しての期待もされず,今起きてる問題解決に必要ともされず,のみならずこれまでに出した成果も全くあてにされない,そこにいる理由をどんなにこじつけても見いだせない状況に置かれているという点において,また別の苦しみがあることを私は知りました。

 なぜこんなことになったのかなと思うのですが,何度か起きた組織変更や体制の変更に巻き込まれたというのが1つ,自分がある程度の権限をもらって進めていたプロジェクトが中止になり,今やそのプロジェクトについて知る人も少なくなったというのが1つ,そしてやっぱり大きいなと思うのが,私の能力や適正が,今の職場においては余剰であるということではないかと思います。

 私自身がもっと器用であれば,どんな仕事でもこなせて社内失業などしなくて済むのかも知れませんが,あいにく私の能力にそれほどのフレキシビリティはありません。また,もういい歳ですから,いちから新しいことを覚えて「即戦力」になれるわけでもありません。

 ついでにいうと,使命感の問題もあります。どんな仕事でもそうですが,なぜこの仕事をやるのか,やった結果誰を幸せにするのか,ということが必ずあります。使われる側の一般社員にとって,この2つは動機付けという点で必要不可欠な入力条件ですし,モチベーションの維持にも必要なものです。

 それを見失ってしまうことが起こると,なかなか大変であることも今回分かったことです。

 組織に忠誠を誓えない,上司に忠誠を誓えない,お客様に忠誠を誓えない,それでもやってる仕事が楽しければいいかと,これまで過ごしてきたところもありましたが,する仕事がないという状況に至って,その最後の砦さえも失うことになりました。

 そのせいかどうかわかりませんが,やはりここ1ヶ月ほど体調が優れず,極端な体のだるさと睡眠不足が続き,朝会社に出るのが辛くて仕方がありませんでした。

 以前のように大事な仕事があれば,多少しんどくとも辛抱して出社する価値があるのですが,重い体を引きずって出社しても何もすることがなく,自分に関係のないメールをさーっと斜め読みして,業界関係のニュースをWEBでちょろちょろとチェックする程度を無理に仕事と思いこんで取りかかっても,そんなもの1時間もすれば全部片付いてしまうのです。後は本当になにもありません。

 果たして,無理をして頑張って会社に行く必要性があるのだろうか,合理的に考えて,私が出社してもしなくても,世の中何も変化が起きないではないか,そんななのに,なぜ私は無理をおして会社に行かねばならないのか。

 それが仕事なんだよ,と言われてしまえばその通りで,返す言葉もありません。だけど,本当にそれが仕事でしょうか。

 明らかに余剰という言葉がついて回る昨今の状況に耐えられなくなり,とにもかくにも私は2週間のお休みを上司にお願いしました。2週間はさすがに長すぎるということで1週間になったのですが,この1週間の楽なことといったらありません。

 自分に無関係な理由で騒がしいわけでもなく,自分の周りにあるものすべてが自分に関係する自宅にいるとほっとします。私がいて不自然にならない場所,私がいる理由がはっきりしている場所のありがたいこと。

 いつものように予定を立てず,その日その日を空気のように生きてみるということを初めてやってみました。1日一冊の本を読もうと思いましたが,それが半分程度のペースになっても慌てません。

 確かにそこに生きてはいるが,誰にも何にも影響を与えない存在(厳密に言えばただ生きているだけで地球を汚すし,お金も使うのですが)というあり方は,今の私の最後の逃げ場所になっていました。

 ですから,週明けの今日から会社に行くのが嫌で嫌でたまりませんでした。

 そんな状況になってまで,なぜその職場にしがみつくのかと思われるでしょう。社内で異動するなり,思い切って転職してみてはどうか,と。

 以前の私なら,そういうこともやっていたかも知れません。しかし,歳を取るという事は人間を臆病にします。なにをやっても今より悪くなることはないと分かっていても,年齢と共に背負い込むものも大きく重くなりますし,それなりの事情もしがらみもでてきてしまいます。

 なにより,そこで自分を必要としてくれるかどうか,全くわかりません。気分で転職して,失敗した人を私もたくさん知っています。転職で成功する人は,転職しなくても成功する人です。

 社内の異動もしかりです。今の組織は非常に大きいのですが,そこで余剰となる私が,他の部署で必要とされるかどうか,全く疑問です。

 動く前に決めてかかるのは愚かだと思われるかも知れません。でも,こういう時の直感というのは,意外にあたるものなのです。きっとうまくいかないなと思っているうちは,何もうまくいかないものなのです。

 もっというと,今の私は,かつての私に比べて能力が下がってしまいました。頭が凝り固まっているという実感があります。実際に昔なら解決できたことが,今だと全然思いつかないということも経験しました。

 こういうのは現場で日頃から養っておくべきものなので,何の仕事もない私がダメになっていくのは至極当然のことで,それを食い止めることは,なかなか難しいものだと感じます。

 だから,例えば明日から急に私に仕事がやってきても,それを以前のようにきちんとこなせる自信はありません。といいますか,どうやったらいいのか,右往左往することと思います。

 私が大学を出るとき,結局お世話になることがなかったある会社の常務の方に,「会社というのは高速道路と同じで,合流してしまえば流れに乗ってそれなりに仕事が出来てしまうもので,いかに合流するか,に尽きる」と言われたことがあります。

 なるほど,軽自動車だろうがトラックだろうが,若葉マークの初心者だろうが30年のベテランだろうが,高速道路に乗ってしまえば,すーっと走っていけます。でも,合流はそうはいきません。私は若いときに,この方以外にも多くのいい大人に出会うことが出来ました。

 私の背後にはこの春入社した新人がいますが,彼もすっかり高速道路の速度になれ,立派に仕事をこなしています。大したものです。

 この例えが非常に面白いのは,一度高速道路を降りてしまって,一般道の速度になれてしまった後に再度合流することの難しさをもきちんと包含していたということです。

 今の私は,さしずめ一般道をだらだら走っているか,もしくはパーキングエリアで居眠りをしているか,というところでしょう。しかし時間は公平で,どんどん残り時間はなくなっていきます。

 高速道路の合流に,誰かの助けがあるはずがありません。うまかろうが下手だろうが,自分でやるしかないものです。今の私がこの状況から復活するには,自分自身が合流することを望まねばなりません。

 しかし,その時は,未だ来ずです。

美しい日本

 えと,あまり政治や思想の問題をここに書くことはしないでいたのですが,新しい政権が誕生して,ちょっと思うところがあるので書いておこうと思います。

 艦長日誌は議論の場でも,はたまた啓蒙の場でも,個人的なはけ口でもないので,こうした話題は一方的すぎて不公平だと考えたからなのですが,安倍さんの安易さには一市民として苦言を呈したいと思ったわけです。


 安倍政権が掲げるスローガンは主に3つです。格差の固定化を防ぐ,イノベーションによる成長,そして憲法改正です。

 それぞれの是非について私が意見することは前述の理由で避けますが,注意していただきたい事があります。

 この3つは,彼が掲げるキャッチフレーズ「美しい日本」の具体的施策として出てきたものです。

 美しい日本・・・なんと耽美な響きでしょう。

 川端康成がノーベル文学賞を受賞した際に講演した内容をまとめた「美しい日本の私」を,私はかつて読んだことがありますが,子供だった私にはその内容の半分も理解できずにいました。

 しかし,美しい日本の私,というタイトルと,自然と調和して生きる日本人の文化的側面を美しいと評する内容には,心地よいイメージの一致がありました。それは愛国心やナショナリズムとは全く異なる,日本人の世界観をとても客観的に論じたものでした。

 そこで,

  美しい日本,という言葉が何を示しているか,理解していますか?

  美しい日本,という言葉の甘さにだまされていませんか?

  美しい日本,という言葉をもう少し掘り下げて考えてみませんか?

 を改めて考えてみたいと思ったわけです。

 四季の織りなす自然に調和した日本人の世界観が川端のいう「美しい日本」であるなら,安倍さんのいうこれらの施策は「美しい日本」を説明したものではありません。

 また,すべての人が,安倍さんの著作を読んでいるわけではありません。美しい日本,という口当たりの良い,非常に抽象的な言葉を使って自らを定義し喧伝することを,私はとてもずるいなあと思うのです。

 美しい日本にします,と言う人に,それはおかしいとか,それはけしからんと言う人はいません。

 しかし美しい日本を具体的に,と問われた安倍さんが答えた内容は,例えば上記の3つをとってみても日本を美しくすることに直接貢献しません。なぜそう思うか。

 美しい日本,という言葉でイメージするものが,正しく定義されていないからです。定義されないことも問題ですし,定義しにくい言葉である事も問題です。もっと言えば,定義することが無粋であると感じるほど,心地よい言葉なのです。

 安倍さんが悪意を持って我々を煙に巻こうとしているわけではないと思いますが,結果として「なんかわからんけどよさそうだ」と思っている人,周りにいらっしゃいませんか?

 10月から,年収が一人で380万円以上,夫婦では520万円以上のお年寄りの医療費の自己負担額が3割に引き上げられました。歳を取ってからの病気は,それだけでもとてもつらく,不安になるものですが,そこにさらに経済的な不安も突きつけているケースが散見されるこの現状をして,美しい日本,を目指していると胸を張って言えるでしょうか?どうですか?

 戦前の翼賛体制の日本だって,見方を変えれば十分美しい国だったと言えるでしょう。この言葉,もう一度考えてみませんか?

D-DECKに想いを寄せて

 ヤマハから,ちょっと変わったキーボードが登場しました。「D-DECK」というのですが,二段鍵盤を持つスタイリッシュなデザインから持つ第一印象は「またヤマハのキワモノか」でした。

 値段が約40万円という非常に高価なものであること,搭載したLCDが800x480というかなり高精細なものであることなど,詳細を知るにつけそのキワモノ感は高まっていったのですが,ホームページに掲載されている開発ストーリーを読むと,その考えが一変します。

 いわく,キーボードの存在が非常に地味になっている,これはまずいと。

 いやはや,メーカーの方がそういう考えを持ってらっしゃるということを初めて知りましたし,実のところほっとしました。私も全く同じ事を考えていたからです。

 D-DECKの開発が始まったのは1999年。世紀末にスタートした開発は7年もの時間をかけ世の中に出てきたわけですが,考えてみるとこの7年間に進歩したテクノロジーってなんだろう,と考え込んでしまいます。

 80年代には3年経つと一世代進み,新製品が出す音に可能性の広がりを確実に期待できたキーボードという楽器は,90年代も終わりになると音そのものに対する進歩が飽和し,メモリ容量の増加によって得られる「自然で予測可能な進化」だけが新製品に期待される,実に面白くないプロダクトに成り下がってしまいました。

 それでもプロの現場では新しいキーボードが求められ,その時々で常に一定の評価を受けていたわけですから,私はキーボードはPAなどと同じ,裏方の機材としてアマチュアの注目を集めるものでもなければ,期待されるものではなくなったのだと,そんな風に思っていました。下手な商業主義に走らずプロの仕事を支えるプロ用の機材には,ストイックな魅力に満ちあふれています。むしろ歓迎すべき傾向ではないのかとさえ思っていました。

 ですから,私が昨今のキーボードをつまらないと思っていたのは私がアマチュアだからという理由がすべてであって,メーカーもすでにアマチュアを顧客とは見なしていない,それが私なりの答えでした。これは同じ楽器でも,ギターやドラムとはちょっと違う傾向ですね。

 しかし,その考えに,なにかしっくり来ずにいたのも事実で,同じ事をD-DECKの開発者も感じてらっしゃったことに,少々驚きを感じたというわけです。立場がこんなに違うのに,です。

 開発者はいいます。キーボードは楽器ではなく,機械として「操作される」存在になってしまったのではないか,キーボードは演奏して楽しいと感じる楽器にならねばならないのではないか,と。

 なるほど,そうかも知れません。ただ,操作の対象となる機械としての魅力と,演奏される対象となる楽器としての魅力が両立していた特異な世界こそ,キーボードやシンセサイザーの世界だったというのも事実です。

 それでは,我々がシンセサイザーを演奏して楽しいと思うのはどんな時だと言われると,それはおそらく2つあって,1つは自分の演奏に対する反応の直線性と,もう1つは自分の頭の中で鳴っている音が現実に飛び出した時の感動ではないでしょうか。

 前者は楽器全般に言えることで,良い楽器と悪い楽器の差となって認知されますよね。ピアノのリニアリティには底なしの快感と安心感を感じますし,安い電子ピアノに違和感を感じるのは,リニアリティが著しく悪いからです。

 後者は「音を創造出来る」唯一の楽器であるシンセサイザーならではの楽しみであり,現実にある音はもちろん,自分の頭にしか存在しない空想の音まで,現実にする事が出来るその喜びは,体験しないと分からないものかも知れません。

 実はこの両者はなかなか両立しません。本当は別のテーマですから両立してもよいはずなのですが,なぜかそうはなりません。

 70年代に誕生し,80年代に急速に発展したシンセサイザーは,当初後者の能力を高めるために進歩を続け,どちらかというと前者については割り切られてきました。理由は簡単で,後者の能力があまりに低く,一方で前者については演奏者が大幅に歩み寄ってくれたからです。

 そしてこれは楽器メーカーの身勝手だと思うのですが,「シンセサイザー」という新しい楽器として,これをそのまま受け入れてくださいという姿勢さえ見せるようになります。

 そうした言い訳がなんとなく成立したことで,楽器メーカーは安心して楽器としてではなく機材としての進歩に専念できたのですが,その流れを変えたのがコルグのM1だったと思います。

 M1は,音を創造する機能も素晴らしかったのですが,ユーザーが絶賛したのはその音色でした。楽器である以上音の良さは第一であるべきで,この方向は間違っていませんでしたが,結果として起こったことは,誰も音作りをしなくなったということでした。

 メーカーのプリセットを選ぶだけで,十分なクオリティの音が出てくる。リニアリティで言えば本物のピアノの足下にも及ばないこの機械は,様々な楽器に化けることの出来る持ち運び可能な「代用楽器」として使われるようになるわけです。

 かくてM1が決定づけたシンセサイザーの方向性は,他社の追随によってより堅固なものになります。

 機会のあるごとに言うのですが,M1の功罪のうち最も重いのがこれで,これ以前と以後で,シンセサイザーやキーボードに求められるものが大きく変わったと思います。プロとアマチュアの差が(少なくとも音質面で)どんどん小さくなり,アマチュアでもプロ級の機材が使えるようになったことは素晴らしいのですが,一方でシンセサイザーは演奏する楽器ではなく,いろいろな楽器の音の出る機械として進歩していきます。それが我々ユーザーの望みだったからです。

 ですから,本来人間との接点として不可欠であるはずの鍵盤を持たないシンセサイザーがコンピュータにのみ繋がれ,ある時はカラオケに,ある時はゲームに,ある時はアイドルのCDにと,演奏を意識しない形で我々の眼前から姿を消して,裏側にまわってしまいました。

 D-DECKの開発者は,この理由の1つに,これまで演奏者に押しつけてきた演奏のしにくさと,ビジュアルとしての演奏の格好悪さを上げています。

 ステージでキーボードをプレイすると分かるのですが,61鍵のキーボードが1つでは全然足りません。右手と左手で別々の音を出す必要性もありますし,それを61鍵という限られた広さで分割して使うのは,あまりに制約が厳しすぎます。

 そこで最低76鍵,欲を言えば61鍵を上下に2つが必要になると,どんなプレイヤーでも痛感させられるに違いないのですが,これが無理なく,かつ格好良く実現できる仕組みは,考えてみるとほとんどお目にかかりません。

 二段鍵盤は演奏は非常にしやすいのですが,いかにもエレクトーンという品の良さか,もしくはいかにもハモンドオルガンというコンテンポラリーなイメージしか与えません。やはりステージで映える,華のあるプレイには,スタイリッシュなキーボードで縦横無尽に暴れ回ることが必要なのです。

 ローランドはSHシリーズやV-Synthで,音を創造する機材としてのシンセサイザーにこだわりを見せ,そこに個性を求めています。プレイバックサンプラーとしての便利楽器を見限ったわけではなく,それはそれで充実させる一方で,本来のシンセサイザーにあるべき姿を追い求めているといってよいと思います。悪く言えばメーカーの自己満足であり,これに共鳴できる人だけ使ってくださいという,高飛車なスタンスでもあります。

 このマニアックな方向性には,私自身はとても共感するのですが,しかしその音作りの可能性が深く広くなることを,どれだけの人が実感し,また必要とするのかを考えると,ちょっと難しい面もあります。

 出てくる音の差は機材やメーカーによってどんどん小さくなり,かつて隆盛を誇ったピュアオーディオが,やがて重箱の隅を突くような,小さな小さな音質の差を云々するようなるに至り,その差を感じられない人々,その差を必要としない人々,その差に興味のない人々が増加し離れてしまうことで,一部のマニアの小さく閉じた精神論の世界に入り込んでしまった歴史と同じ危うさを,私は感じずにはいられません。

 そうなのです。実用レベルで十分な水準に達したキーボードは,音作りを目標にする限り,その性能の差を感じる人だけに向けられる,特別な存在になるかも知れないのです。

 これに対し,D-DECKは,音はもう十分な水準に達したとし,その演奏にこだわったキーボードとして誕生しています。二段鍵盤もそうですし,鍵盤の近くに用意されたボタン類もそうです。そして演奏しているプレイヤーの姿が格好よく見えることを目指し,そのために努力を積み重ねたキーボードなんて,最近は滅多にお目にかかれません。

 これってローランドとは対極にあるコンセプトです。

 楽器は,本来,機能美を持つものです。音を追求していく過程で,自然にそれぞれが持つ形に収れんしていきました。これを制約と捉えて自由な形に挑戦してきたエレキギターでさえ,明らかに形状や木材による音の違いがあります。

 そうした楽器を使いこなす演奏者の姿には,特殊技能に対する羨望の眼差しが注がれ,芸術性に神秘性が加わるのです。

 電子楽器,特にキーボードには残念ながらそれがありません。もちろんミニモーグをソロに使うプレイヤーには同様の輝きがありますが,残念ながらミニモーグは過去の楽器であり,もはやミニモーグという単独の楽器と見なして良い存在です。

 ヤマハが目指すD-DECKのコンセプトとは,演奏者が演奏を楽しめることと,オーディエンスが演奏者に神秘性を見いだせることなのですが,ここで気付くことは,この2つは表裏一体であるという事実です。演奏を楽しんでこそステージで映えることに,異を唱える人はいないでしょう。

 キーボードという楽器において,ここに気が付いたエンジニアがいて,その考えが具現化したことは奇跡です。同時に本当に素晴らしいことだと思います。

 正直なところ,D-DECKが売れるとはあまり思えません。40万円はアマチュアには高価すぎますし,プロには使い道がなさ過ぎます。価格と機能において誰に売りたいのかはっきりしないのですが,それでも世に出たことも奇跡です。

 私もぜひ欲しいと思いましたが,40万円の費用対効果を考えると,悩む余地すらありません。悲しいかな,それが現実です。

 個人的には,ヤマハには下位機種においてもこのコンセプトを貫いて欲しくて,演奏して楽しいこと,演奏者が格好良く見えることを,キーボードという楽器の本質として,ぶれないで維持し続けて欲しいなあと思います。

 それが,キーボード復権の最初のステップになるような気がします。

ページ移動

ユーティリティ

2020年05月

- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

ユーザー

新着画像

新着エントリー

過去ログ

Feed