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邪魔な肉体を捨て去ることとは

 年齢を重ねると,それまで理解出来なかったことが体験によって「なるほどなるほど」と,理解出来ることが増えます。

 それは,ポジティブなものもそうですし,残念ながらネガティブなものもあります。とりわけ,ネガティブな物事については,知らないが故に傍若無人に振る舞えていたことも多く,よくあんな無茶をしたものだとあきれて振り返ってみたり,若い人の無垢さをうらやんだりすることも,増えていきます。

 人間には自然治癒する力が備わっていて,病気をしても怪我をしても,余程の事がない限り,しばらく辛抱すれば治ります。治ってしまえば,その時苦しかったことを忘れてしまうという,都合の良ささえ持ち合わせています。

 子供の頃は,治癒するまでの時間があっという間でした。だから怪我も病気も怖くありません。自分が変化する速度が高速であるためだからでしょうが,その代償として,時間の経過がとても遅く感じ,相対的に周囲の変化の速度がとてもゆっくりに見えます。朝から夜までが長く感じただけではなく,次の日曜日がとても待ち遠しかったことを,思い出して下さい。

 成長期を過ぎ,作り上げた物を少しずつ削って生きながらえるというターンに入ってしまうと,子供の頃の体験とは真逆なものを否応なく押しつけられることになります。自分が変化する速度はゼロ,あるいはマイナスになり,時間の経過は速く,周囲の変化の速度も強烈です。

 そして,怪我も病気もなかなか治らなくなり,治癒するまでの辛い時間も,長くなるのです。

 私の年齢でそれを痛感するのですから,私は自分よりも年齢が上である人々のことを,今以上に辛いのかも知れないと,想像可能になりました。成長だけではなく,運動や思考の速度が落ちてしまう老人になると,今以上に周囲の速度が速くなることでしょう。

 「様子を見ましょう」という医者の見立てというのは,自然治癒力に頼りましょうという意味なのですが,その自然治癒力は年齢と共に落ちていきます。さらに,子供なら治癒する物も年齢を経ると結局治癒しない,と言うことも起きるようになります。

 これを,子供の生命力とか,生きようとする力とか,いろいろ格好のいい言葉で語ることがあるわけですが,蛇足ながら子供の「脳死判定」が極めて難しく,その判定基準が非常に厳しいものになっているのは,大人だと非可逆とされる状況であっても,子供はそこから復活することがしばしばあるとされているからです。

 復活出来る肉体を,復活出来ないものとして処理してしまえば,それは命を奪うことです。加えて子供には大人と同じだけの判断能力がありませんから,自分の命を自分で深く考え,その扱いをしかるべき人々にどう委ねるかを,結論できません。

 まだ復活出来る自分の命のありようを,自分の判断で決める事が出来ないもどかしさに,想像力を働かせるべき大人が,たくさんいるように思います。

 一方で,加齢と共に備わってくる物が,経験と知識,そしてそこから芽吹く心の豊かさです。私は,この3つがあるから,子供の頃に戻りたいとは思いません。今ならあっという間に出来る事に,何時間も何日もかかって,あげく出来ないままに終わってしまうかも知れない,あのフラストレーションは,もう体験したくないことだからです。

 肉体の劣化と,精神の成長。

 この両方を,同時に持つことは不可能です。大人と同じ心を持つ少年はおらず,不老不死の薬も,長年の努力の甲斐もなく,未だに存在しません。

 不老不死?

 私が過去に戻りたくはなく,今の状況を「よい」を認知するのは,前述のように精神の成長を肯定しているからですが,精神とはまさにソフトウェアであるがゆえに,ハードウェアである肉体の必要性や重要度というのは,私にとっては非常に低い物となっています。

 にもかかわらず,残念な事に,肉体という器がなければ,精神が維持できないのです。

 なにもしないでも,ただ生きているだけで100Wの熱を放出するほどエネルギーを消費し,華奢で柔らかく傷つきやすくて壊れやすく,食べ続ける必要があり,出し続ける必要がある。疲れてしまい,眠くもなり,なにかと行動に制約があり,有機物で出来ているがゆえに化学薬品や放射線,紫外線に弱く,力もなく機動力も低く,体の大きさはたかだか2mという,あまりに不都合なこの肉体は,どうも器としては不自由過ぎるように感じます。

 もし,肉体と精神の2つで自分を自覚するのではなく,精神だけで自我を確信出来るのであれば,それが一番理想的ではないか,私はいつしかそんな風に考えました。でも,現実に戻ると,器無しで精神は維持できませんから,誰かがどこかで器を維持管理してくれていなくてはなりません。

 つまり,自立という側面では,確実な後退がおきるわけです。

 私一人が精神だけで生きることを選ぶとすれば,その器は他の人に託せるでしょう。しかし,精神だけで生きることを,多くの人が選ぶようになったり,選ばざるを得なくなったりし続け,やがて大多数が精神だけで生きることになったとします。

 当然のことながら,器の維持管理は,少数の人々に押しつけられることになります。

 そして,精神だけでは「実物」を作る事が出来ませんから,現在の貨幣経済においては,維持管理に必要な費用を自ら稼ぎ出すことは出来ません。肉体を持つ人が,持たない人の分まで働いて稼がねばならないのです。

 全員が精神だけで生きるようになるのは公平でしょう。しかし,それはちょっと考えただけでは,とても難しそうです。精神だけで生きる方法が,今はないからです。

 私は,自分の自分たる根拠を,肉体ではない別の何かに移し替えることができるなら,それが一番楽だと思っていました。怪我や病気で苦しむこともなく,労働することもなく,深い深い思索にだけ生きていることが出来るのは,まさに桃源郷です。

 でも,これは究極のエゴイズムであることに,はっとします。

 繰り返しますが,器の維持管理は,お金もかかるし面倒で,誰だってやりたくないに違いありません。それを「誰か」が引き受けてくれると勝手に思い込むことで,精神だけで生きることを「素晴らしい」と思っていたというわけです。

 ・・・まってください。

 既視感がありますね。

 精神のみで自我を維持することを,思うように体がいう事を利かなくなった高齢者とし,器の維持管理とエネルギー供給を行う役割を担う肉体を持つ人々を,現役世代としましょう。

 そうです。すでに,この世界は,訪れているのです。そして,継続不可能であることも,明らかになっているのです。


東芝の家電に思うこと

 東芝と言えばなく子も黙る総合電機メーカーであり,かの田中久重にまで起源を遡る,名門中の名門です。その守備範囲は最先端の半導体から防衛・原子力まで広がっており,規模,技術ともに世界屈指の製造業です。

 こういう大きな会社というのは,知名度の高さに反して親近感というのは案外わかないものなのですが,東芝がえらいなと思うのは,一般家庭やアマチュアのホビーストの懐にもちゃんと飛び込んで,そのための多少の手間やコストには目を瞑るという大らかさがあったことでした。

 1つはサザエさんと東芝日曜劇場。サザエさんに至っては,登場する家電が常に最新の東芝製という念の入れようでした。

 1つは高性能な電子デバイスの,アマチュアへの供給に積極的だったことです。

 電子デバイスというのは,数がまとまらないと商売にならないので,1つや2つ欲しいと言うアマチュアをいちいち相手にしていたら,手間ばかりかかって儲かりません。それでアマチュア向けのお店をサポートする問屋さんや代理店を相手にするのですが,それでも金額は大した事はありません。

 しかし,東芝はそれこそ戦前から,アマチュアへの電子デバイスの広告と啓蒙を積極的に続けていたように思います。戦前から戦後にかけての,「初歩のラジオ」などの雑誌には東芝の真空管の広告が出ていますし,高度経済成長期においてはオーディオの雑誌にも,最新のトランジスタの広告が出ています。

 私が特に覚えているのが「初歩のラジオ」に長年連載が続いた,「東芝ラジオ教室」です。東芝は見開きの広告のページをずっと買い続け,ここでなかなか良く出来た電子工作の製作記事が見開きで掲載されていました。広告ページですから東芝のデバイスを使う物しか出ていませんが,広告費以上に儲かるわけはなく,電子工作少年に東芝を知ってもらうという「先行投資」だったと言えるでしょう。

 それに,実際に電子部品店に行ってみれば,東芝のトランジスタやダイオードは手に入りやすく,価格も安いのです。ゆえに雑誌の製作記事にも登場する機会が多くなり,ますますその部品がお店で買われることが増えるというサイクルが成り立つようになります。

 ですから,東芝の2SC1815が先代の2SC372やその前の2SB56などと同じように,我々アマチュアに最も馴染みのあるトランジスタとなるのは,当たり前のことでした。

 しかし,いかに広告に熱心で知名度もあり,安価で入手がたやすいとしても,性能が優れていて,使いやすい物でなくてはなりません。よく知られたように2SC1815はそのままHiFiオーディオ機器や無線装置に組み込めるほどの汎用性と高性能を誇る万能トランジスタでした。
 
 こうして,東芝のトランジスタを大事なお小遣いで1つ2つと買い求めた子供が,やがて大きくなって技術者になったときに,東芝に強い安心感をもってしまうのだと思います。私もそうです。

 余談ですが,かつての電子工作の雑誌に掲載されていた製作記事というのは,なかなか設計が難しいです。読者がいざ作ってみようと思い立った時に,手に入った部品の性能は保証されておらず,スキルも知識も経験も年齢もバラバラ,持っている測定器もまちまちで,その使い方も正しいとは限りません。調整だって出来る人と出来ない人がいて,そもそもほとんどの場合一発では動きません。

 どんな人が作っても完成し,無調整で性能が出て,間違った使い方をしても壊れない,手に入りやすい部品だけで構成されいて,しかも安い。

 そういう設計が理想とされている世界が,かつての電子工作雑誌の製作記事です。

 これはかなり難しいことで,そうならなかった製作記事も多くありました。記事を書かれた先生方にも多少の温度差があったり,使命感はお持ちでも技術が追いつかないケースもあったように思います。雑誌によっても考え方が違うようにも思いました。

 そういう意味では,自分の為だけに自分で設計する回路が,一番手抜き出来ると言えるでしょうね。
 
 こういう製作記事の,部品面を支えたのが東芝でした。東芝のトランジスタ,東芝のダイオード,東芝のデジタルIC,東芝のアナログIC・・・いくつもの部品名が頭の中に焼き付いています。

 その東芝が大きく揺れています。そして先日,家電部門が中国の家電メーカーに売却されることになりました。技術,ノウハウはもちろん,従業員も生産設備も継承されて,しかも東芝ブランドも今後40年間使用するというのですから,我々からみてこれまでと何が違うのよ?と思う訳ですが,東芝の根底に流れる「消費者の懐に飛び込む」ことは,今後はなくなるかも知れません。

 もう1つ,東芝が他の家電メーカーと違うなと思うポイントを,ちょっと視点を変えて書いてみようと思います。

 1990年代前半まで,家電製品は急激に進化し,その先頭を日本のメーカーが走っていました。

 最終製品の進化がデバイスの進化によって成される構図は今も昔も変わりません。しかし東芝がちょっと違っていたのは,デバイスの進化を東芝自身が強烈に推進していた事と,それを積極的に最終製品に搭載して性能向上を果たしていたことです。

 デバイスを作る事が出来ないメーカー,あるいは進化させることの出来ないメーカーは,デバイスの使いこなしで最終製品の性能を向上させることになります。シャープやカシオなんかがそうですね。自ずと安い製品か,「その手があったか」というような工夫に満ちた製品が多くなります。

 一方の東芝やNEC,日立などは世界最高峰のデバイスメーカーでもありましたから,これを自社の製品に搭載することで,他には全くない機能や圧倒的な高性能な製品を作る事が出来ました。当時も言われた一流メーカー製と二流メーカー製との間には,このあたりに大きな溝があったように思います。

 製品が部品で作られている以上,製品は部品の性能を絶対に越えられません。言い方を変えると,部品の性能が向上すれば,自動的に製品の性能は向上するのです。

 東芝は,それを愚直に進めたメーカーだったように思います。1970年代のオーディオ製品の性能向上は,ローノイズ低歪みのトランジスタとFETの登場で成されましたが,東芝のデバイスはその先頭を走っていました。

 ラジオや無線機器の高感度化,高性能化,多チャンネル化も半導体の力です。コンピュータもそうです。東芝はCPUやメモリ,周辺LSIの主要なメーカーでした。

 一例を挙げましょう。かつてアナログテープデッキが現役だった時代,アナログ録音では不可避なヒスノイズを削減するシステムとして,Dolbyノイズリダクションがありました。

 民生用のDolby-Bは,安価で安定した動作を狙ったために,性能面での妥協がありました。ここに勝機ありと踏んだ日本のオーディオメーカーは,こぞってDolby-Bを越えるノイズリダクションを開発しました。

 でも,Dolbyにだって,Dolby-Bが性能面で不十分である事は分かっていたはずです。Dolbyは研究開発を生業にする会社ですから,自社でデバイスを開発しません。民生品に採用されるには,性能と価格のバランスを取らなければならず,あえて性能を落としたのでしょう。

 やがて複数の会社からDolby-Bを上回るノイズリダクションが登場しましたが,結局残った物はありませんでした。

 そんな中で健闘したと思うのが,東芝のADRESです。ADRESはDolby-Bを上回る性能を誇り,しかも音質も良いと評判でしたが,それだけなら他のメーカーにもチャンスがありました。東芝が違っていたのは,ADRESをIC化したことです。

 IC化すれば,価格は劇的に下がり,性能も安定します。当初ディスクリートで作る事を想定したDolby-Bが性能面で妥協したのは当然の判断であり,IC化することが前提ならもっと性能を上げることだって出来たでしょう。

 ADRESは,自社のデバイス開発能力を背景に,性能と価格と安定性を高次元で両立したシステムだったのです。

 ADRESは複雑な処理が必要でしたが,ICは東芝しか開発しませんでした。また,東芝はADRES用のICを少なくとも3世代作り続けており,その都度大きく改良されていました。

 基礎開発,デバイス開発,そして最終製品の設計という3つが協調し,優れた製品が登場したという例だったと思います。

 このことは,別に東芝に限ったことではなく,当時の日本の家電メーカーの強さの源泉でもありました。

 ADRESの場合,それでも残れませんでした。DolbyがデバイスメーカーにワンチップICを作らせたことで,もともと簡単だったDolby-Bがもっと簡単に安く使えるようになったことが1つ,もう1つはワンチップ化を前提にした複雑なシステムであるDolby-Cを開発し,すでに普及していたDolby-Bとの互換性を武器に急速に広まったためです。

 今にして思えば,Dolbyは自らの役割と出来る事をきちんと認識し,その時々でやるべき事をきちんと理解していたんだなと感心します。

 人づてに聞いた話で恐縮ですが,デバイス部門と最終製品の部門が仲が悪くて,最終製品に自社の半導体を供給してもらえず,他から購入していたメーカーもあったそうですし,互い相手をバカにしあっていた会社もあると聞きます。

 またある会社では,デバイス部門が弱くなってから,少しずつ最終製品が弱くなっていきました。

 そして現在。共通化によって大量に生産された部品を安価に手に入れて最終製品にすることでしか,価格と性能をバランスできない時代になりました。デバイス専業メーカーが作るデバイスに太刀打ち出来ず,それを使った製品はどのメーカーでも大差がない,これはすなわち,世界中のメーカーがかつてのシャープやカシオと同じ土俵に上がったことを意味しています。

 つまり,ここでの勝者は,価格とちょっとした工夫で他社を出し抜いた会社です。

 東芝は,残念な事に,この競争では勝てませんでした。

 自分達の都合だけでデバイスを進化させ,自分達の製品に使って自分達の望む性能向上を果たす,結果として複数のメーカーが様々なアプローチで個性的な製品を作って世に問う,我々は新製品が出る度に,胸を躍らせて使ってみる,そういう話が普通でなくなり,世界第一位か二位までの僅かな会社の特権となってしまったには,こういう背景があったのだと私も改めて思いました。

 では,現在は最終製品の性能は,以前よりも上がりにくいのでしょうか?

 いえ,そうではありません。デジタル化とCPUの処理能力向上により,製品の性能はソフトウェアが握る時代です。ソフトウェアはデバイスと違って初期投資が軽いこともあって,自分達の都合で自分達が作る事がまだまだ可能です。

 そして,それが出来たメーカーは,技術を進歩させ,優れた製品を世に問い,大きな支持を受けて文化を創り上げていきます。

 私個人にとっては,シャープの買収よりも,東芝の家電部門の買収の方が大きいニュースでした。それは,最終製品を決定付ける要因が変化していたという気付きが,確信に変わるものであったからです。

 そういえば,シャープが液晶に傾倒した理由の1つに,かつてのテレビのキーデバイスであるブラウン管を自社で作っていなかったことをあげる人がいます。テレビメーカーにとって自社開発のブラウン管を持つことは,夢でした。

 液晶の時代をなかば強引に引き寄せたシャープは,念願のキーデバイスを手に入れます。しかし,残念な事に,時代は変わっていました。夢やロマンだけでは,商売は出来ません。

 そして東芝はもちろん,ブラウン管も,液晶も持っていました。でも買収されてしまったわけですが,これを「日本のメーカーの凋落」という単純な文脈で語ってしまうことには,私はどうしても納得出来ないのです。

はやくこいこい自動運転車

 ここへきて政府の後押しがあったりと,何かと耳にすることの多い自動車の自動運転ですが,数年前の自動ブレーキシステムの大ヒットを発端にして,それまでの逆風がウソのように肯定的な論調が目に付くようになりました。

 自動車というのはまさに,すべての工業分野を統合する工業製品といっても過言ではなく,面白いのは時代の進展と共に新しく誕生した技術も貪欲に,その範疇に取り込んでは自らの血肉としてきたところにあると思います。

 自動車が生まれた直後の黎明期は機械部品だけで自動車は作られていました。これを原始的と思うことなかれ,当時の機械工学は,時代の最先端を走るハイテクノロジーだったのです。

 熱力学,化学,電気工学,材料工学,電子工学,そして電子部品としてのコンピュータの搭載から,ソフトウェアまで飲み込んで,今の自動車は走っています。静粛性や居住性,安全性の向上のために人間工学や医学,大脳生理学も絡んでいることは,もはや触れるまでもないでしょう。

 これが,自動車産業が限られた地域でしか成り立たない理由の1つになっているわけですが,同時にそれぞれの地域が得意とする分野の強みが,最終製品の「味」になっていることも,グローバル化が進んで無個性になりがちな工業製品にあって,俗に言う「お国柄」を楽しむ事の出来る貴重な存在になっているのだと思います。

 やっぱりなあと思うのは,コンピュータとソフトウェアの最先進国であるアメリカ生まれの自動車は,やっぱり自動運転についても最先進だったということです。かつてのビッグ3の話はちょっと横に置いておいても,テスラなんかは大きなLCDをセンターパネルに持ち,タッチパネルで様々な操作をする自動車ですが,ソフトウェアのアップデートで自動レーンチェンジにまで対応するようになるというのですから,もう考え方がコンピュータかゲーム機です。

 そうした個性を競う世界にあっても,普遍の価値観と言う物は存在します。安全性,信頼性,エネルギー効率という絶対的な価値に加えて,使用される環境や,人それぞれの好みで異なる居住性や静粛性,操縦性,さらにはデザインや悪路の走破性,荷物の積みやすさなどの使い勝手といったところで,多くの自動車メーカーが生まれては消え,淘汰されて今日に至っています。

 ややこしいのは,ここにさらに政府の関与があります。多くの国で自動車運転には免許が必要ですし,所有や使用には登録が必要です。税金も負担しなければなりません。

 設計や製造にも多くの技術基準や規格,法規制があり,業界の自主的なものから罰則つきの法律による厳しいものまで,それはもう星の数ほど制約があります。そうした制約の中で,新しい技術が生まれて進化してきたのが自動車ですが,他の工業製品と比べても決して優しくはなかった多くの制約に潰れることなく,良い方向に進化し続けた自動車の歴史を見ていると,そのたくましさにため息が出ます。

 自動運転についても,やがて当たり前になると思うのですが,この手の新しい技術には必ず反対者がいるもので,積極的な否定だけではなく,懐疑的に感じている人も含めると,まだまだ大多数の人が賛成しかねているのではないでしょうか。

 だからこその政府の支援なわけですが,ここで私の個人の意見を述べさせてもらうと,自動運転早く来い,自動運転バラ色の未来で万々歳,です。

 要するに大賛成という立場なのですが,これは自動車を使う利用者として,そして自動車と共同で生活をする市民として,とても好ましい状況を生むだろうという期待があるからです。

 まず,利用者としてのメリットです。私は運転が下手ですし,自動車の運転を楽しむだけの余裕がないほど,緊張して運転をします。ちょっとの判断ミスが自分だけではなく多くの人を不幸にするから,その責任の重さゆえに「楽しい」などと思えないからで,これが運転に集中出来る場所,例えばサーキットなどのクローズドなコースだと,車の挙動を味わって運転出来るので,とても楽しいです。

 自動運転になると,この苦痛である運転から解放されるのですから,これはもう楽ちんになると言うほかありません。

 これまで,誰か代わりに運転してくれる人を探すか,友人の車に乗せてもらうしかなかったわけですが,機械になら気兼ねなく運転を頼むことができるというものです。

 このように,運転出来ない,運転が苦手な人,運転を面倒と思う人にとって,ある場所からある場所に移動するという移動手段として,電車,バス,タクシー,自転車と徒歩に加えて,もう1つ有力な移動手段が手に入るというのが最大のメリットです。自分で運転するにはリスクも大きく,疲れてしまう私としては,自動運転なら使ってみようと思うものがあります。

 さらに,運転者の技量で大きくばらつく自動車の走行は自動運転によって均一化し,互いに連携しながら,協調運転もなされることでしょう。そうすることで道路の渋滞も緩和され,事故も減るはずです。この結果道路の効率的な利用が加速するので,自動車の移動コストは下がるでしょう。

 自動車を利用するには,そのために発生する諸問題を解決,あるいはそれらを乗り越えられるくらい大きなメリットがなければならないわけですが,自動運転はその諸問題を根本的に消し去ってしまうだけの,強烈なパワーがあります。

 一方,市民としてですが,自動車を使わない今の私が,なぜ道を歩いていて危険なのかといえば,それはもう自動車が走り回っているからに他なりません。社会に生きる多種多様な存在は,それぞれが相手を尊重して共存することが大切だと思うのですが,特に日本の交通社会では自動車という強者を優遇する考え方で制度設計された法律が未だに幅を利かせていることもあってか,自動車とドライバーに尊大な態度を許しているシーンが目に付きます。

 私などは,そういう交通弱者に対する視点と創造力の欠如があまりに鼻につくようになり,自動車保有者というドメインにいることに強い違和感を感じたことから,自ら自動車を持たない生活を選んだわけですが,自動運転になればそうしたおかしな特権意識も薄れていくでしょうし,同時に強い倫理観を求められる人が自動運転の開発者と制度設計を行う人という,限られた場所にいる人だけに求められるようになります。これなら,そういう人達に教育と訓練,必要なら選別も可能になるでしょう。

 いずれやってくる人手不足のために,今のままだとバスやタクシーの運行数が制限されてしまうかもしれません。そうすると移動手段が限られてしまうわけで,とりわけ子供や高齢者,経済的に苦しい人が影響を受けてしまいます。道路の多くに税金が投入されているのは,一言で言えばみんなが使うからなわけで,その道路を有効な移動手段として使いたくても使えない状態というは,その理念からも放置できません。

 自動運転は,この問題も根本的に解決します。

 より多くの人がその利便性を享受し,同じ交通社会に無理なく共存出来る,これをもたらすものが自動運転です。自動車が移動手段として生まれて発展してきたのであれば,この流れはもはや必然と言ってよいでしょう。

 とはいえ,当然反論も出てきます。今後議論が深まって「なるほど」と思うような反論も出てくるとは思いますが,今のところ私が目にする反論はどれも弱く,はっきりいえば感情論と紙一重なものも多いと思います。

 いくつか例を挙げてみましょう。


(1)自動運転なんか信用出来ない。機械なんかに運転を任せられるか!

 運転のうまい人,あるいはうまいと思っている人が,こういう意見をよく言うのですが,私に言わせれば人間にこそ運転を任せられません。

 人間の判断速度や神経の情報伝達速度は,現在の自動車の速度に対してあまりに低速で,よほど訓練をしないと安全に運転出来ません。現在のドライバーも,どれほど多くの機械にアシストされて安全な運転が成り立っているのかを,もう少し知るべきでしょう。

 もう1つ別の視点から見ると,交通事故の大半は,運転者のミスによって起こっています。自動車のトラブルによって発生する事故ははるかに少ないのです。

 1年前に私が幼い娘と遭遇した,横断歩道で跳ねられるというあの痛恨の交通事故は,ドライバー自身が我々を「見えなかった」と,事故の原因に挙げています。

 仮にこれが事実だとして,人間には見えないものでも,機械には見えます。いや,見えるように機械を作ります。

 横断歩道にいる歩行者が見えない人間は,明らかに運転者として不適格であり,そんな運転者が運転する自動車は凶器以外なにものでもないのですが,それをスクリーニングする仕組みが機能していません。こんな状況なら,歩行者が見えるように作られた機械の方が,ずっとずっと確実であることは,もはや議論の余地もないでしょう。

 だから私は,あの事故が自動運転だったら起こることはなかったと考えています。

 もうちょっと考えてみましょうか。無理な追い越し,ブレーキとアクセルのふみ間違い,信号無視,速度超過,酒気帯び運転,車の下にいた子供に気がつかない,高速道路の逆走といった原因は,全部自動運転でつぶせます。

 こういうくだらない原因で,多くの命がなくなっています。そして,これを確実に防ぐ方法が,まさに今作られようとしています。それでも反対ですか?


(2)運転者は多くの複雑な判断をしている。自動運転にそれが出来るとは思えない。

 これも変な話です。確かに人間は,複雑な条件を臨機応変に処理する能力に長けています。しかし,その能力には個人差がありますし,運転という行為は判断を動作に繋げて初めて成立するものですから,それら個人差が表面化しないように,判断条件の数をある範囲に押さえ込むため,法律や規制によって制度が設けられ,さらに機械のアシストが入っています。

 もし信号機がなかったら,もし左側通行がなかったら,もし自動車専用道路がなかったら,もし舗装されてなかったら,もしカーブのきつさに制限がなかったら,もし速度規制がなかったら,といった,普段窮屈と思っている制約がない世界を,少し考えてみて下さい。

 これら制約が減るほどに,条件判断は多重化して複雑化し,許される時間内に最適な答えにたどり着く人が減っていきます。

 だから制約を増やして条件を減らして,多くの人に同じ判断が出来るようにしてあるのです。

 ならこの制約を,自動運転も対象にしてしまえばよいのです。複雑な判断条件が減れば,それは機械にとって楽なだけではなく,人にとっても楽であるはずです。

 例えば,雪が降るとセンターラインが見えなくなるので,自動運転は出来なくなるという人がいます。でも考えてみて下さい。センターラインは人にも見えなくなるのです。

 それでも運転をしてしまうのは,センターラインが見えなくても運転が許されているからに過ぎず,危険な運転である事はかわりません。むしろ,そうして無理をして運転をするから,センターラインが見えないと言う問題以外に,スリップしたり坂道を登れなかったり,道路以外の所に飛び出してしまったりするわけです。

 一方で,制約が多いと窮屈ですし,効率的な利用も出来ませんから,今の制度はそうした両面から折り合いのつくところで落ち着いているという事が言えます。

 自動運転には,運転が均一化するというメリットもありますから,道路やエネルギーの利用効率の向上が見込めます。制約が増える事による非効率は,自動運転においてはある程度相殺されることでしょう。というより,自動運転の効率を当て込んで,これまでよりも制約を増やしても十分ペイします,と言う考え方の方が自然ですね。


(3)道路の運転は難しすぎて,自動運転なんかできる訳がない。

 これは事実です。ただし,今の道路が,という条件付きです。

 今の道路は,人間でも難しいくらい,複雑です。判断が難しいだけではなく,複数の判断結果が出てしまうことも多いです。それらを「滅多に起きない」とか「臨機応変に」という場当たり的な考え方で逃げてきたのがこれまでの制度ですし,また人間だけを相手にしてきたからこそ可能な仕組みでした。

 なるほど,機械にはこうした状況下での自動運転は難しいでしょう。

 なら,道路を自動運転が可能になるよう,変えていけばよいのです。

 なんて無茶な,と思うかも知れませんが,本来道路と自動車の進化は,それぞれ別々に進んだわけではなく,双方がお互いに合わせるようにして進んで来たことを思い出して下さい。

 デコボコの悪路から整備された舗装道路になることで,現在売られる自動車大半のサスペンションは,悪路を想定せず,乗り心地に優れたものに進化しました。

 自動車が大型化することで,道路の幅も広がっています。安全に走行できる速度が向上することで,道路の制限速度も引き上げられてきました。

 現代の自動車が,どれほど進化したシャシーやサスペンションを持っているとしても,60年前のデコボコした国道を,安全に故障することなく走ることは出来ません。60年前のデコボコ道には,それに相応しい設計があります。

 道路とは違いますが,有害物質である鉛を添加しなくてもよい高性能なガソリンが生まれたり,排気ガスを綺麗にするためのエンジン制御が飛躍的に進歩したりと,自動車は様々な状況の変化にあわせて,進化しています。

 自動運転用の道路も,同じ方向の進歩です。自動運転に適した道路にしていけば,自動運転は十分実用になります。

 もちろん,究極的には直線だけで作られた,自動運転専用道路を作ってしまえば完璧ということになるのですが,それは極論で,これだったら鉄道と同じです。自動車のメリットを失ってまでやることではありませんから,そこはちゃんと考える必要があります。


(4)事故を起こした場合に誰の責任になるのか?

 この問題は,別に新しい話ではありません。機械が自動で動くようになって100年,以来ずっと我々人間が向き合ってきた古典的問題です。

 例えば,自動で動いているエレベータが故障したとき,機械に責任を問いますか?所有者,運転者,製造者,整備者が責任を問われますね?

 炊飯器が美味しくないご飯を炊きあげた時に,それを炊飯器のせいにしますか?

 スマホのアプリが落ちた時に,それをスマホのせいにしますか?

 これも(3)の議論に通ずる物がありますが,詰まるところ自動運転を前提にしていないからこうした問題が懸念されるに過ぎません。

 決まっていないなら,決めればいいのです。事故を起こした場合に,誰が責任を取るのかは,これまでの慣例からすれば割にすぐに決まるんじゃないかと思います。

 そもそもですね,機械が起こした事故を誰が責任を取るのかという議論そのものが,機械より人間の方が事故を起こさないという思い込みから発生しているように思います。機械の方が事故を起こさないという前提に気が付いてしまえば,ぱっと考え方が変わります。最終的には事故が起きなければ,誰も責任を問われないのですから。

 責任の所在が,エレベータと同じようになったと仮に考えてみましょう。事故の責任は所有者(と利用者),整備者にかかってきますが,運転そのものの過失が所有者や利用者に問われることはなくなります。

 これまでは自動車の所有と運転の過失の両方に責任が発生したのですが,今後は所有のみに責任が発生するようになるわけですから,実は利用者にはうれしい方向です。

 これが,運転にも利用者に過失があると判断されると話は少々厄介で,自動運転に利用者が介入できないからこその自動であるわけで,介入できないものに改善も反省もありませんから,やっぱり責任は問えないでしょう。

 なら,自動運転機能を提供する人に責任は問われるわけですが,こんな風に少しずつ問題を解きほぐして解決すれば,割に簡単に答えは出てきます。大事な事は,反対のための理由ではなく,公平な思考を行うことです。

 ところで,人間が運転する自動車を,道路から完全に排除すべきと言う考えまでは,私は持っていません。自分で運転するという非常に危険な行為を伴ってまで,自分で自動車を運転したいと思う人もいるでしょうし,特殊な自動車などでは自動化が出来ないケーズも出てくるでしょう。

 そうした人を排除するのは,私は良いこととは思いません。重い責任と引き替えに,自分で運転することは認められるべきであり,特殊車両の運転同様に厳しい資格制度と,手厚い保険への加入が前提で,許されることだと思います。

 ただ,後述しますが,人間が運転する方が面白いからとか,レジャーを目的にするような話になると,ちょっと別です。それでも排除すべきではなく,厳しい資格制度と手厚い保険で許可されるべきだとは思いますが,こういう目的において厳しい資格制度はかなり高い障壁になりますし,事故の危険性と加入者数から考えて,保険料も非常に高額になるでしょうから,この両面でのスクリーニングに期待したいところです。


(5)人の命を左右する大きな物体を自動で動かすなんて,恐ろしい。

 これはもう感情論です。まともな反論をしても納得してもらえないエリアにあえて踏み込みますが,500人をのせて時速500kmで飛行するジェット旅客機は,すでに自動運転です。そして,飛行機事故で亡くなる人の総数は,交通事故で亡くなる人よりもはるかに少ないことを思い出して下さい。

 私は,マニュアルで操作される飛行機になど,恐ろしくて乗れません。自動車も近い将来,そうした時代がやってくるでしょう。

 こういうことをまず口にする人は,1トンの重量がある物体が,わずか時速10km/hでさえも,どのくらいの運動エネルギーを持っているものなのか,高校1年生で習った物理の公式で計算し,その大きさにビビって下さい。


(6)自動運転だと楽しくない。つまらない。

 論外です。天下の公道で楽しむ事を声高に叫んで当たり前と思っている神経の図太さに呆れます。こういう思慮の浅い人をスクリーニングできないところに,現在の免許制度の限界があると思い知るべきです。

 近頃,家の前の生活道路で遊ぶ子供にさえ厳しい視線が向けられるのに,なんで自動車の運転を楽しむ場所が,老若男女が利用する道路なわけです?楽しむ場所であることが道路に求められているんですか?

 楽しむための,専用の場所で,思いっきり楽しんで下さい。私もそうなのですが,専用の場所の方が存分に楽しめて,非常によいです。

 根本的な問題としてこの場合,自動車の目的が移動手段から,運転することそのものになっています。目的が違う,期待する結果が違うということです。

 ゴルフをする,テニスをする,ダイビングをする,野球をする,ピアノを演奏する,全部専用の場所で行われます。同じ話です。万が一の場合の危険も大きく,周囲に迷惑になる可能性が高く,またプレイに集中出来るから,専用にするのが合理的であるわけです。当然,楽しむために応分の負担が発生します。

 自動車の運転も,楽しさを求めるならそれはレジャーです。まして危険が伴うレジャーなら,専用の場所で行うのが,誰にとってもハッピーな話です。

 むしろ問題なのは,これまで専用の場所が用意されていないために,道路で楽しむしかなかったことでしょう。だから固定観念として,楽しく運転出来る自動車が当たり前になっているんだと思います。

 つまり,より楽しくなった自動車を楽しむための場所が,公共の道路しか実質的に存在せず,自動車メーカーも暗黙のうちに「道路で楽しく」となってしまっていることが,特殊な問題だということです。

 楽しい車を作るまでは構いません。でもそれは,思う存分楽しむ場所が先に存在するのが前提ですし,そもそもそうした場所がないところには楽しい車など誕生しないはずです。なぜ楽しい車が生まれたか・・・それは楽しむ場所がすでに道路という形で存在したからです。

 最近,多くの自動車メーカーが運転の楽しさを訴えるようになりました。ドイツのBとか,日本でもMとかTとか・・・自動車自体が楽しく作られることは,テニスのラケットが使って楽しくなることと同じなので,大歓迎です。

 だけど,楽しむ場所として道路を前提にしていることに早く気が付いて,そのことが大きな社会的責任を負うことだと,自覚を持って欲しいと思うのです。

 移動が目的というのはぶれないが,どうせならつまらないより楽しい方がいい,という話なら,構わないと思います。これは目的が移動から変わっておらず,移動という手段をより良いものにする話であり,運転することそのものを楽しむものではありません。つまり,運転がつまらないことを理由に自動運転を否定する物ではないからです。

 もう1つ,免許を持たない人でも楽しくとか,歩行者専用の道路でも楽しくとか,そういう話にならないのは,すでに現在も自動車運転を楽しむために一定の制約が課せられているからであり,これまで制約が全くなかったわけではありません。子供が運転を楽しむためには専用のコースであればよく,子供が自動車を運転することそのものまで,禁止されているわけではありません。
 
 ないものを作るのは大変ですが,あるものを改良するのは随分楽です。考え方と視点を切り替え,自動車運転を楽しむのは専用の場所で,となってしまえば,誰にとっても幸せなんじゃないでしょうか。

 蛇足ですが,北欧のVなんてのは,安全性を一貫して問うています。それも,運転者を守るという,実に利己的な安全(そう,よりお金を出した人が守られるという考え方は,自動車メーカーにとっての顧客が運転者であり,歩行者ではないことを雄弁に物語っています)ではなく,自動車によって被害を受ける人すべてを守るという考え方に根ざしていることは,私は高く評価します。


(7)自動運転にしてもあまり便利になるとは思えないけど?

 今自動車を運転している人というよりは,今運転していない人,今自動車の利便性を享受していない人が,とても便利になります。今運転している人も,車内で楽に過ごせるとか,携帯電話が使えるとか,渋滞が緩和されるとか,道に迷わないとか,そういうメリットがありますが,すでに楽に過ごせている人や渋滞に無関係な人,道に迷わない人にはあまり関係ないですね。

 ですが,これまでは運転という高度な技能が必要だったが故に,年齢制限と取得に長時間の講習と試験が課せられた運転免許証が必要でしたし,運転技能の低い人でも運転出来るようにと,様々な工夫が技術と制度が進化してきました。

 それが,自動運転なることで,一切関係なくなります。子供も高齢者も,これまで運転出来なかったような病気や怪我,体の不自由な人にも,自動車を便利に使ってもらえるようになります。移動手段を持たない,あるいは失った人が,移動手段を持つことがどれほど有意義なことか,考えてみて下さい。

 社会全体で見たときに,ある種の特権であった自動車の利用が,より多くの人にまで及ぶことになり,経済的な側面だけを見ても豊かな社会になっていくと考えて良いでしょう。

 さらに,長距離トラックの運転といった重労働であるとか,タクシーの運転,バスの運転というところで,自動運転はその威力を発揮します。安全,確実,重労働からの解放,人手不足の解消という面でも,こういうところから自動運転が導入されるに違いないと,私は思っています。どうですか,すごく大きなメリットがあるとは思いませんか?


 長くなってしまいましたが,一番言いたいことは「人間よりは機械の方がはるかに信頼できる」「運転が機械に難しいのは,道路が人間を対象に作ってあるからにすぎない」ということです。

 そしてその道路だって,100年前からずっと同じではなく,変化を続けてきました。なら,どこかの時期にその時点で自動運転が可能になるような道路を作ることは自然な事だし,自動運転のメリットと安全性を考えると十分に元が取れるのではないでしょうか。

 自動車の素晴らしさ,自動車の利便性を,もっと安全に,もっと広く,もっと多くの人々に。

 私は自動車好きの人間として,そして技術者として,自動運転がもたらす未来を,とても楽しみにしています。

 とても残念で悲しい事ですが,これを書いている今日,スキーツアーのバスががけに転落し,多くの人が亡くなり,けが人が出ています。

 事故の原因はまだわかりませんが,運転のミスならば高い確率で,自動運転によって防げたのではないかと思います。バスの故障であっても,自動運転なら故障を検知し可能な限り安全に停車するということで,被害を最小限に食い止められた可能性が高いと思います。

 私は,結局の所,最後に一番不幸になる交通事故被害者の悲しさと苦しさを思うと,自動車をなくさないようにするには,もはや自動運転しか答えがないというところまで,考えるようになりました。

 自動運転が一般化すれば,自動車と人間の新しい付き合い方が始まると思います。一日も早く,自動車と人間が共に寄り添う関係になることを,望んでいます。

初歩のラジオ雑感

 先日,1991年頃の「初歩のラジオ」を手に入れました。

 ご存じの方も多いと思いますが,「初歩のラジオ」は1991年の4月号から「SRハムガイド」へと新創刊,その内容もアマチュア無線に特化したものになりました。

 そして内容を大きく変えたにもかかわらず,1992年5月号で休刊してしまいます。わずか1年ほどで消えてしまったことは,この作戦が失敗であったことを物語っています。

 そもそも「初歩のラジオ」は1948年に創刊されたビギナー向けの電子工作雑誌で,子供向けで科学全般を取り扱う「子供の科学」と,専門的な内容でオーディオや無線を取り扱う「無線と実験」という,1920年代に創刊された雑誌の間に挟まれた,中高生に向けた雑誌でした。

 1948年ですから,戦後数年で創刊されたときは,雨後の竹の子のように市場に出回った,ラジオの自作関係の本や雑誌の1つだったと思う(当時のラジオは物品税が高くて,メーカー製のものは高額でしたから,自作するとかなり安く手に入れる事が出来,これを売ったりするとちょっとした小遣い稼ぎになったそうです)のですが,その後日本の復興に伴って役割も変わっていきました。

 今思えば,ということなのですが,なにせ20世紀後半は電子工学全盛の時代です。次々に開発される半導体デバイス,年々進化するICとLSI,コンピュータの登場と高性能化,ソフトウェアという概念が当たり前になるといった,全く新しい事が目の前に次々に出てくる時代でした。

 そして,これらを駆使した産業が誕生し,プロの世界はもちろん,民生機器も電子工学の応用製品が主役となっていった時代でした。

 世の中にはいろいろな産業がありますが,子供が憧れて,工作に取り組み,またそれらを使いこなすことを楽しむというのは,なかなかないものです。例えば化学工業だったり,繊維や機械工学などは,なかなか子供が「試せる」環境にはないものですが,電子工学は違っていたんです。

 そして,そうしたホビーとしての電子工学を支えたのが,「初歩のラジオ」と「ラジオの製作」でした。

 これらが,電子工作に興味を持つ小学校高学年から高校生くらいまでをターゲットにしたことで手に入れた個性が,若者向けの情報誌,という機能でした。

 電子工作に興味のある中学生や高校生は電子工作が好きな人である前に,10代の若者であることを考えると当たり前の話で,刺激が恋しい若者に興味のある話題や情報を誌面に展開することは,ごく自然な流れでしょう。

 ですから,製作記事や技術解説はもとより,映画,音楽,ラジオといった一般的な話題も取り扱っていましたし,当時の若者の間で流行していたオーディオ,電子楽器,無線,BCL,コンピュータと言った内容はかなり突っ込んだ内容になっていました。

 これが,広く若者にアピール出来た理由だったんじゃないのかなと思います。

 もっとも,そうした若者への文化発信を狙った雑誌は他にいくらでもありますから,電子工学の専門的な記事を期待するストイックな読者もいたと思いますが,当時は今のようにインターネットや携帯電話などはなく,それにテレビもラジオも限られた情報しか伝えていませんでしたから,複数の雑誌を買うことの出来る人が情報通と呼ばれた時代でしたので,極普通のお金のない若者が買い続ける雑誌には,出来れば様々な情報が盛り込まれていた方がメリットがあったはずです。

 私もそうした口で,もちろん技術的な内容が薄いものは論外ですが(私の目にはラジオの製作がまさにそうでした),それだけではなく,映画や音楽,科学技術全般に渡る話題が出ている初歩のラジオは,本当に貴重な情報源だったのです。

 私は1970年代の初歩のラジオのことは知りませんが,私が知らないだけで,いろいろな変遷があったのだろうと思います。

 私の知る限り,1983年頃までは従来路線の踏襲がなんとか行われていましたが,このころから記事の量が増えてきたパソコン(特にMSX)の話題が増えるにつれ,ちょっとずつ読者層が変化してきたようで,1985年頃は,従来路線の踏襲という重いテーマのために,すべての記事が中途半端になっていた感じがありました。

 価格もそれまで580円だったものが600円を超えるようになり,内容の薄さと価格の高さから,私もこのころの初歩のラジオは読んでいません。

 ですが,1985年7月号に突然大きな変化が起こります。定価が480円に下がり,中綴じになりました。明らかにページ数は減りましたが,基板マスク紙の付録が復活しましたし,製作記事も減っていません。取り扱うジャンルはオーディオ,コンピュータ,電子楽器,BCL,アマチュア無線とこれも変わっておらず,そこに若者らしい音楽や映画の話題もきちんと織り込まれており,読んでいて実に楽しいものだったことを覚えています。

 泉弘志先生のラグ版を使った1石・2石の工作や,増永先生のメカトロ工作も続いていましたし,東芝ラジオ教室も継続,おすぎのシネマトークもちゃんと続いており,良いものは遺して,1980年代に相応しい雰囲気に作り替えたものという印象です。

 これも振り返ってみると,以前はしばしば掲載された非常に規模の大きな製作記事,例えば制作費に数万円もかかる本格的なステレオアンプであるとか,完成までに何ヶ月もかかるものなどは,姿を見せなくなりました。こういう高度なものを期待した読者は,きっとここで離れていったのでしょう。

 この体制が1991年まで続きますが,この期間がちょうどバブル全盛だったことに注目すべきで,当時の初歩のラジオの新製品紹介のページは,8ページや10ページという枚数が割り当てられているにもかかわらず,全然ゆとりがありません。それだけたくさんの新製品が毎月登場していたということで,バブルを謳歌した人の言葉として「出せば売れた」という話は,決して大げさなものではなかったのだなと感じさせます。

 そしてバブルが崩壊し,雑誌が売れなくなります。より専門性に特化した雑誌にすべきという方向は間違っていなかったと思うのですが,その専門性を「アマチュア無線」に向けたことは,当時の私にさえわかる,重大な誤りでした。

 確かに,当時はバブルの残り香があり,携帯電話は入手が難しく,アマチュア無線には一定の需要があって,若者の憧れであったことは否定しませんが,いずれ携帯電話が普及することは目に見えていたし,アマチュア無線にはすでに名高い専門誌がいくつもあったことを考えると,もうここで初歩のラジオは終わったのだなと,そう思ったものでした。

 あるいは,内部ではすでに終わっていて,猶予として1年だけ続けるという「お情け」があったのかも知れないですね。こういう邪推をすればもう切りがないのでやめておきますが・・・

 ただ,ハムガイドになる前の数ヶ月の初歩のラジオを改めて見て気が付いたことがあるのですが,広告のほとんどが,アマチュア無線機のものなんですね。以前はサンワなどのテスターのメーカーや,オーディオメーカーのものも,パソコンのメーカーのものあったりしたのですが,本当にヤエス,ケンウッド,アイコム,スタンダード,アルインコという無線機のメーカーしか出ていないんです。

 安い広告料のモノクロページには,従来通り部品やジャンクの広告も出ていますが,これと伝統の科学教材社の広告を除けば,もう無線機だけです。

 つまり,初歩のラジオという雑誌を維持していたのは,アマチュア無線だった,ということです。

 アマチュア無線機のメーカーが,お金にものを言わせてアマチュア無線以外の記事の排除を求めたのか,あるいはすでにアマチュア無線に興味のある人しか初歩のラジオを買わなくなったのか,それはわかりません。どちらにしても,ハムガイドになる前に,すでに初歩のラジオはアマチュア無線の雑誌であり,むしろそれに内部があらがって電子工作雑誌の体裁を維持して,いびつな状態になっていたということになります。

 でも,私がこのことに気が付いたのは,つい先日のことです。当時は初歩のラジオの広告が減っていることに気が付きませんでしたし,その構成が偏っていることにも気が付きませんでした。

 なぜなら,アマチュア無線機も,初歩のラジオの主な守備範囲であり,その広告は私のようにハムではない人でも,必ず見ていたからです。無線機を買うことはなくても,どんな無線機が出ているのかとか,このメーカーの無線機は格好いいなあとか,大体どのくらいの値段で買えるものなんだろうかとか,そういうことは広告で知っていましたので,ホビーとしての電子工学を語る雑誌にアマチュア無線機のメーカーが並んでいることは,とても自然に思えたのです。

 しかし,冷静に考えてみると,アマチュア無線機のメーカーにとってメリットのある雑誌でなければ,広告を出す理由はありません。アマチュア無線機のメーカーにとっては,オーディオやパソコンが好きな人は当然ですし,電子工作をする自作派の人も,邪魔だったのでしょう。

 かくして,最後には内部の無言の抵抗すら感じたハムガイドへの新創刊により,理系の中高生のための情報誌という役割を捨てました。その多大なる犠牲に私はとてもがっかりしたし,今も残念なのですが,なにが悔しいといって,そうした犠牲が全く生かされず,結局1年ほどでハムガイドもなくなってしまったことです。

 これで,せめてハムガイドが生き残っていれば,あるいはハムガイドがまた新創刊して別の雑誌に生まれ変わってくれていれば,初歩のラジオが消えたことにも辛抱が出来たのですが,ただただ若者に対する電子工作の面白さを啓蒙する役割が消えただけとい現状には,私は一定の社会的責任があるのではないかとさえ,思います。

 そうそう,もう1つ気が付いたことがあります。ハムガイドになる前の数ヶ月,読者投稿やはみ出しの読者の年齢が,高齢化しているのです。20歳台から40歳台がチラチラと散見されます。

 このころ,すでに若い読者の獲得に失敗していたのかも知れません。そして,1970年代にラジカセとアマチュア無線で青春を謳歌した人が,40歳代になって初歩のラジオに戻ってきたということかも知れないです。

 ラジオの製作と違い,初歩のラジオは内容が「軽く見えた」のでしょうけど,図書館に入る数が少なかったように思います。図書館需要というのは,こうした雑誌を維持するにはそれなりに大きな数で,子供の科学が生き残っている理由も,これが大きいです。

 もし初歩のラジオが図書館や学校にたくさん入っていたら,もしかするとハムガイドになることはなかったかも知れません。そして,電子工学が先端の産業から「当たり前」の技術になった現在に,相応しい役割を果たしてくれていたかも知れません。


 

ゲームと学習

 ひところ,「ゲーム脳」なる言葉が流行りました。

 私たちが子供の頃,ちょうどファミコンが出てから以降,その時々の大人達はゲームに没頭する子供にあれこれと負の影響を諭していたのですが,その頂点が「ゲーム脳」でした。

 海外がどうかは知りませんが,日本においてこの手の話というのは,多分に胡散臭いものであったり,非科学的であったり,感情的であったりするので,大体の場合において本論からずれたところで毎度同じような議論がなされ,やがて興味を失った人達が一人二人と抜け落ちたあげくに,どこにも着地することなく自然に消滅するという流れを踏襲します。

 長く生きているというこういう無益な議論に割く時間も労力も無駄と思うので傍観を決め込むわけですが,それがますます議論を空洞化することになることも知っており,こうした後ろめたさから逃避するために,自分とは関係ないことだ,という論理武装をすることになってしまうのです。

 しかしその実,多くは健康に影響するものであるゆえに,無関係であるはずはなく,いずれどこかで同じ問題に向き合う必要が出てくるものです。

 ゲーム脳については,ゲーム漬けになった我々の世代が,いろいろ問題を起こしつつも概ね「普通」に生きていることを考えると,極端で深刻な永久はなかったように思いますし,私が感じる日本人に対する機器間はゲーム以外の他の要因でも醸造されたものであるので,科学的な因果関係はそもそも議論を始められないなあと思っています。

 ただし,ゲームが我々40代以下の人間に,悪い影響を与えたものの1つであることは,否定できないなと思っています。

 まず,これを考えてみて下さい。

・非常に魅力的であり人を強く引きつける
・報酬を与える
・何度も何度も繰り返す

 人間は,この3つによって,学習を加速させます。

 人間は面白そうな物事には積極的に取り組みます。つまらないことよりは面白い事に没頭できるので,勉強だってそうした工夫をしているわけですね。

 人間は,報酬に弱いです。人間と言うよりおよそ生物全般と言っていいでしょうが,報酬によって快楽中秋が刺激されて,心地よさが得られるというのは,経験的にも科学的にも知られていることです。

 そして,何度も繰り返すことで,定着がおこります。公式を覚える,楽器を習う,テニスをする,あらゆることが,繰り返しによって「身につく」ことを利用して,我々は困難に打ち勝ってきたわけです。

 ということで,この3つは人間が学習し,ある技術を会得するために昔から行われて来たことです。そしてこれらを人工的に引き起こし,別の用途に応用することも行われています。わかりやすいのは,ドラッグでしょう。
 
 さて,この3つ,薄々気が付いていると思いますが,あえて主語を外しています。そこで主語として「ゲームは」を追加してみます。

・ゲームは非常に魅力的であり人を強く引きつける
・ゲームは報酬を与える
・ゲームは何度も何度も繰り返す

 いかがですか。さらにいうと,多くのゲームの目的が破壊や攻撃にあることを考えると,さらにこう読み替えることが出来ます。

・暴力行為は非常に魅力的であり人を強く引きつける
・暴力行為で報酬を与える
・暴力行為を何度も何度も繰り返す

 うーん,さすがにまずいですね,これは。

 もちろん極論ですし,言葉遊びに過ぎない気もします。ですが,冷静に考えてみて欲しいのですが,人間はなんだかんだで暴力に惹きつけられます。駅で起こった喧嘩をみんな注目しますし,ボクシングもプロレスも人気があります。

 ゲームで敵をやっつけるとうれしいですよね。そして敵が倒せるようになるまで何度も何度も繰り返しますし,ひょっとすると何度も敵を倒して快楽を得ることを目的に繰り返す人がいるかも知れません。

 少し前に話題となった「コンプガチャ」も,射幸心を煽ることに批判がありましたけど,これも報酬による快楽にあらがえずに,大金をつぎ込むことが問題だったわけです。薬物中毒と同じ構図です。

 「コンプガチャ」はアイテムを集めることが目的でしたが,もしこれが暴力行為だったらと思うと,私はちょっと恐ろしくなります。

 おわかりのように,ゲームの危うさというのは,こうした学習能力を高めるメソッドが強く盛り込まれている一方で,それこそ有益なものから暴力的なものまで幅広く応用可能であることでしょう。

 つまり,人殺しをゲームに応用すれば,人殺しは肯定され,報酬のために積極的に繰り返し取り組み,そのスキルを会得するべきものとなるわけです。まずいですね,これは。

 楽器の習得もにたようなものがあり,単調な繰り返しを辛抱して続けると,ある時突然上達を実感し,そこからはもう楽しくて楽しくて仕方がなくなります。最初の山をいかに乗り越えられるかが勝負だと思うのですが,乗り越えてしまえば報酬と繰り返しの連鎖です。

 ですが,楽器の習得には,人の生命や財産を奪うことを肯定する要素はありません。もし肯定する要素があるなら,楽器の習得というのは,否定されねばならないでしょう。

 ゲームも同じです。げーむゲームそのものは右にも左にも向かえるものですが,人の生命や財産を奪う行為が肯定されているか否定されているかは,楽器の習得と同じレベルの話でしょう。というよりむしろ,楽器の習得もゲームの1種だといっていいかも知れません。

 人じゃなければいいのね,という詭弁で行われているのが,ゾンビや怪物を敵に暴力を行うゲームです。特にゾンビはひどいですね。形状といい質感といい挙動といい,それは人に近く,生命体に近いものです。人か人でないかは,作った人が決めただけの話です。

 そもそも,人であるかないかにかかわらず,残虐な行為を肯定し,報酬を与えて繰り返し行わせて学習させるというのは,それによって何が起こるかを想像すると,やはり問題があると思わざるを得ません。

 繰り返しになりますが,ゲームにしても,楽器にしても,報酬と繰り返しは,習得のための最善のメソッドです。長期的に見て,そのメソッドで何を得られるかが重要であり,このあたりをもう少し考える必要があるのではないかと,私は思っています。

 ゲームそのものを機械的に否定しているのではありません。私はゲームが好きですし,文化的側面や技術的な魅力,クリエイター達の創造力に感嘆しますが,ゲームに限らずどんなものにも裏と表があり,毒にも薬にもなるものです。

 政府に規制を委ねるとろくな事がありませんが,かといって野放図になることも問題です。良識ある大人が,公平かつ納得いく形で,うまく表と裏を調整出来ることが理想だと思います。時に表現の自由は,他の事例と同じように制約を受けることになるかも知れません。

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