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トランジスタの入手を巡る動き

 ディスクリート部品,特にリードタイプの定番トランジスタの入手がいよいよ難しくなり,値段も上がっているようです。

 とはいえ,代わりに使えるトランジスタは世界中にゴロゴロしていますし,これまで「鎖国状態」だった国産トランジスタの世界が,いよいよ開国したと考えれば何の心配もないのですが,一方で1つ3円で買える汎用品の2SC1815が,オーディオ用トランジスタよりローノイズだったりするという国産品に対する厚い信頼というのは,なかなか消えないだろうなとも思います。

 聞けば,秋月でこれまで200個入り600円だった2SC1815が1900円に値上がりしたのが今年の夏とのことで,今はカタログからも消えています。私は昨年買いましたが,まとまった数が確保出来なくなりつつあるんだろうなあと,そんな風に感じます。

 代わりに海外製の汎用トランジスタが安価に入手出来るのですが,まずピン配置が違いますし,単なるスイッチングなら大丈夫でも,2SC1815の懐の深さをあてにした用途だと,必ずしも同じ結果が得られないのではないかなと思います。

 まあ,本当に欲しい人はすでに買いだめをしているでしょうし,これからの人はこんな昭和時代のトランジスタを血眼になって探すという不毛なことはしないで,今手に入る美味しい部品を使いこなすことを覚えた方が,技術力もアップしてとっても前向きでしょう。

 トランジスタがディスコンになるには,いくつかの理由があります。

 1つは新しい部品で置き換えられる場合。AMのトランジスタラジオも,その昔は当然ゲルマニウムトランジスタで作られていたわけですが,それがシリコントランジスタに置き換わってディスコンになりました。さらにシリコントランジスタも,IC化されてしまってディスコンです。

 1つは,そのトランジスタが使われていた製品が市場から消えてしまう場合。入手困難・価格高騰でその筋には有名な三菱の2SC1971は,CB無線をターゲットにした送信用の出力トランジスタですが,CBなんてとっくに死滅しましたし,そもそもVHFで5Wクラスの出力の無線機なんて市場がありません。この場合,後継品種も出てこないので,一部のマニアは右往左往するわけです。

 最後に儲からないからやめてしまう場合。これはメーカーの都合ですが,例えば2SC1815,2SC945,2SC458,2SC2320は,どれも差し替え可能なメーカー違いのトランジスタですが,ただでさえトランジスタの市場が小さくなっているのに,似たような品種でパイの食い合いをしても損なだけです。単価も利幅も小さく,設備の維持も面倒臭い昨今,先にやめた方が勝ちです。

 結局の所,使われなくなったというのがすべてに共通する背景なのですが,2SC1815のような超ド汎用なトランジスタを含む,TO-92のトランジスタが東芝から消えるというのは,さすがに寂しいものがあります。

 こうしたディスコンに慌てふためくのが,オーディオマニアとアマチュア無線マニアです。どちらもIC化が進み,市場も小さくなって,昔の製品を修理するにも復刻するにも,肝となるトランジスタが手に入らないとどうにもなりません。

 それに,この種のマニアというのは概ね年寄りで,金もあるし時間もあるしで,いきおい買い占めに走ります。余命を考えて買い占めなぞやめて,死ぬまでに使い切れる分だけにして欲しいと私などは思うのですが,まあそれは個人の自由です。

 オーディオは特に金田式DCアンプで使われているものが昔から珍重されています。TO-3というごっついメタルパッケージに入ったパワートランジスタなど,偽物が出回るほどです。1970年代に生産されてとっくの昔にディスコンになったトランジスタなのに,NECのロゴが丸っこい新ロゴになってるなんて噴飯物です。

 偽物でも,それなりに互換性があって動く物なら良心的なのですが,悪徳業者がそんな親切なことをするわけはなく,定格もピン配置さえも違う,形がかろうじて似ているだけのものを刻印し直すのですから,大事故につながりかねません。

 アマチュアはメーカーのように,部品の受け入れ検査をするのに限界があります。検査などしないでいきなり作って動かすこともしばしばですから,信用第一なんですね。だから,アマチュアが利用する部品店が,堂々と偽物を売っているというのは,いくら何でもひどいんじゃないかと私は思います。

 部品店は基本的に交換や返品を受けないのが慣例ですが,偽物を売りつけておいて購入者に全責任を負わせるというのは,まあ詐欺ですね。

 どうしてこんなことを書くかと言えば,先日古本で,1969年に発行された「東芝トランジスタ回路集」なるものを買ったのです。トラ技の向こうを張るプロ向けの雑誌「電子展望」の別冊扱いですが,なにせ東芝のトランジスタの本ですので,広告も当然東芝です。

 中に,東芝のトランジスタをぜひ工作に使ってみて下さい,お近くの販売店で売ってます,2SB56は定価100円です,と,アマチュアに対する広告も存在するのです。

 1969年の100円ですから随分高いんですが,40年以上前の本をパラパラと見てみて,とても活気があって面白いなあと感じたのです。

 当時はゲルマニウムからシリコンへの移行期で,シリコントランジスタもどんどん品種が拡大し,価格も下がって使いやすくなっていった時代です。ICも登場して,ようやく軍事一辺倒から民生品に使われ始めたときではないでしょうか。

 これまでは懐かしい,くらいの印象だったこれらの本も,トランジスタが入手出来なくなると一気に古めかしく,実用度を失った,完全に過去の本となります。真空管も,ブラウン管も,過去の技術というのはすべからくそういうものだから仕方がないのですが,比較的緩やかに進行していたトランジスタの終息は,案外近いうちに来るのかも知れません。

 ところで,そんな話もある中で,ちょっと面白い話です。

 日立のパワーMOS-FETと言えば,2SK134/2SJ49です。1970年代後半に登場した画期的なデバイスで,オーディオ用のパワートランジスタとしてはとても有名です。

 TO-3のメタルパッケージに入ったこの品種はとっくにディスコン。モールドパッケージのTO-3Pになった後継品種の2SK1058も実はディスコンになっていて,日立のオーディオ用パワーMOS-FETは絶滅したかに見えました。

 ところが,あるところにはあるんですね。イギリスのあるメーカーが,互換品を作っています。どうやら現行品です。TO-3のメタルパッケージですから,2SK134と完全互換という触れ込みです。なにやらスイスの超高級オーディオメーカーで採用とか。

 入手は難しいでしょうが,頑張れば手に入るわけですから,これはこれでありがたい話なんじゃないでしょうか。

25年前の高校生活をふと思う

 今から25年も前の話,私は高校生だったのですが,最近になってようやく一歩下がったところからそのころの生活を見ることが出来るようになってきました。

 私が通った高校は大阪の府立高校で,私の住む街でも名の知れた,名門校でした。私は中学生の時が最も勉強が出来た人で,トップ校には少々手が届きませんでしたが,2番手のこの学校には十分な学力を持っていました。

 ただ,親も中学校の先生も,はたまた塾の先生や友人達も,その当時の学力にマッチしていたからというより,その校風に「お前ならぴったり」と本人以上の納得をしていたことを,思い出します。

 自主自立。それがこの学校のモットーでした。1970年代の学生紛争が高校にも飛び火し,私の母校は校則と制服が廃止されました。かつての制服(男子は詰め襟,女子はセーラー服)を「標準服」と呼び,標準服を含めたどんな服装も許されていましたが,それは本当に自由という事ではなく,高校生にふさわしい服装を自分で考えて着てこい,と言う自由でした。

 今はどうか知りませんが,私のいた頃はほとんどが標準服でした。なかに完全な私服もいましたが,それは自己主張が強く,周囲からちょっと一目置かれていた,いい意味で変わり者がそうだったように思います。


・アホに洗脳される

 当時の学区で2番目の進学校ですから,それなりに勉強が出来ないと入ることが出来ない学校でしたし,校則や制服がない,自由な校風に憧れる生徒が集まる人気のある学校でしたから,競争率も低くはなく,誰でも行ける学校ではなかったと思います。

 ですが,面白い事に,合格した途端に成績がガタガタと落ちるんですね。ちっとも勉強しないようになる人も多くて,当時は先生もあんまりやかましく勉強しろとは言いませんでした。

 ですから,中学時代は成績上位でも,高校生になると成績がばーっと下がり,アホに洗脳される学校と呼ばれていました。

 かくいう私も勉強をちっともせず,底辺を彷徨っていました。同じようにアホになった友人から,お前アホやろ,と面と向かって言われたり,卒業できんのか,と心配されたことも一度や二度ではありません。


,4年制の学校

 そんな高校でしたが,卒業生の大半は大学に進む進学校でした。ですが現役で大学に通る人は半分以下,大半は浪人して大学に進みます。

 それゆえ,4年制の高校といわれたものです。

 当時の先生の口癖は,「やれば出来る子」でした。なんとなくですが,先生も生徒も浪人を許した上で,楽しい高校の3年間を満喫するのもよいだろうという,そんな空気も漂っていました。でも,親はたまったものではありませんわね。


・文化祭

 大阪府下でも有数の,大規模な文化祭を開催することでも知られていました。1年の時は様子見もあって喫茶店などでお茶を濁すのですが,2年では半分,3年ではほとんどのクラスが演劇をクラスの出し物とします。

 劇をやると,大道具から小道具,衣装や音響など,総力戦になります。まあこういっては何ですが,キャストはクラスでも目立ちたがり屋がやりますし,シナリオは特殊能力なのですぐに決まります。

 後の人間は裏方に回るのですが,最初はダラダラやっていた人間でも,最後には夢中になって,最後には涙するというのが通例でした。結局脱落する人間が少なかったなあと思います。

 そういえば,私たちの時は1学年で13クラスもありました。約40ものクラスがあって,多くが演劇をやるわけですが,演劇をやるクラスは立て看板を作りますから,あちこち立て看板だらけになるわけです。

 立て看板の良し悪しが人気に直結するので,自ずとクラスで最も絵のうまい人間が担当します。シナリオのうまい奴,台詞の通る奴,工作のうまい奴,ミシンがけがうまい奴,そして画を描くのがうまい奴と,普段なかなか見れない「一芸」が見られる機会でした。

 ところで,そんな何十もの演劇を上演するのは普通無理だと思うでしょ。でも我々の学校の舞台は講堂,新体育館,旧体育館に加えて,近くの公会堂を使わせてもらっていました。4つの舞台を3日間の期間中,すべてのクラスやクラブで共用するのですが,見たいものが複数にまたがると,走り回ることになります。

 あと,美術の先生がアップライトピアノを斧で割り,ペンキを塗りたくるというパフォーマンスをやってました。やってるときはいいんですが,終わってからの妙なむなしさをよく覚えています。


・なんでも本気で

 球技大会は「ペナント」と呼ばれていました。なんでそう呼ばれるのか私はわからんのですが,とにかくただの球技大会に,みんな本気になります。今はなにやらコスプレをしながら試合をするそうですが(うらやましい),私の頃はただの体操服で,なにがおもろいねん,と冷めていました。

 クラス対抗ですから,みんな本気に勝ちに行きます。昼休みや放課後はもちろんですが,朝練も普通に行うので,私のような朝弱い人間には辛い物がありました。

 ですが,終わった後の一体感というのはなかなかのものがあり,こうした一体感の醸成が,文化祭に結実するんだなあと思います。


・個性的な人間への寛容さ

 みんなそれなりに勉強が出来て,校則や制服がなく,自由な校風に憧れてわざわざ田舎の高校にやってくるのですから,それなりにみんな寛容ですし,のんびり屋さんです。

 それぞれの個性をとても大事にしますし,勉強や運動が出来るか出来ないかなどに,あまり興味はありません。変わった奴は「変な奴」と言われることはあっても,仲間はずれにされたり,低く見られることはなく,みんな同じ仲間として,互いに尊敬し合う居心地の良さがありました。

 私の母に言わせると,そのへんが「おぼこい」らしいのですが,いじめや暴力が蔓延して緊張の連続だった中学校に比べると,まさにそこは理想郷でした。


・地域性

 この学校の学区は,大阪市内から南河内一帯に広がる地域で,都会から田舎まで,様々な地域から人が集まっていました。まあ高校というのはそういうものなのですが,都会の人間は友人の家に遊びに行くことで田舎を等身大で見るようになりますし,逆に田舎の人間が友人のいる都会に行けば,都会を現実の物として意識するようになります。学校が田舎にありましたから,都会育ちの人間には新鮮だったはずです。

 私は,都会と田舎の中間点にいました。どちらかと言えば田舎寄りだったと思いますが,友人達はみな「通過点だ」と言ってました。中途半端だったんでしょうね。

 私の個人的な経験からいえば,それでもやっぱり都会の人間は都会の人間で,田舎の人間は田舎の人間で仲良く固まる傾向はあったと思います。ただ,それぞれ仲が悪かったわけではありませんし,付き合いがないわけでもなく。なんとなく仲良しが集まると似たような地域になるという,それだけの話です。


・古い校舎

 木の床,高い天井,鉄製の窓枠など,戦前の建物を我々は使っていました。大掃除の時に床に開いた穴から,20年も前の漫画雑誌が出てきたり,後輩へのメッセージが出てきたりと,古い学校ならではの楽しみもありました。

 そんな校舎も老朽化によって今は取り壊されて,新しい物に建て変わっています。私は新しい校舎を見たことはありませんが,随分綺麗になっているそうです。

 講堂は文化的な意味もあるということで,取り壊しをせず,保存する声も高かったそうですが結局実現せず,当時の面影はほとんど残っていないそうです。

 そういえば,階段教室があった学校なんですね。ちょっと珍しいでしょう。私がいたクラブはここが根城でしたので,とても馴染みがあります。


・学生食堂

 学生食堂は盛況で,朝からやっていたそうです。私は昼は弁当でしたのであまり馴染みのない場所ではありましたが,時々友人と話をしたりと,楽しい思い出があります。

 そういえば,学校の近くには市役所があり,ここの食堂が安くて美味しいと評判でしたが,利用するのは禁止です。

 一度,自習の時に友人と市役所の裏側に抜ける秘密のルートを使って抜け出し,市役所の食堂に向かった事があるのですが,事もあろうにその食堂からかえってきたと思われる生活指導の先生と鉢合わせし,「飯なら学食で食え」と怒られて引き返したことがありました。


・高校時代で覚えていること

 まず部活の話。私は中学生の時にフォークギターを始めたのですが,ベースの重要性を知ったことで,高校では軽音楽部に入って,ベースを担当しようと思っていました。

 同じクラスで軽音楽部に入るつもりだった人に声をかけてもらい,入部をしようとしたのですが,どうも人数と担当楽器の問題から折り合いが付かず,結局入部しませんでした。面倒になったと言うか,気押されたというか,そんな感じでしょう。

 結局正式な部活ではなく,同好会レベルのフォークソング同好会にギター一本抱えて入り,そこで音楽をやってました。実際のところ,その主要メンバーは軽音楽部と掛け持ちしており,軽音楽部の「アンプラグド」版だったことを後で知ります。

 フォークギターはそこそこ演奏出来たので,放課後にはギターを抱えてあちこち歩き回ったり,運動場で演奏してきたりと,派手ではないですが楽しくやらせてもらってました。

 ですが,人前で演奏した記憶がほとんどなく,唯一後夜祭で先輩と一緒に朝礼台の上で演奏したことを覚えているだけです。

 で,しばらく正式な部活には入らなかったのですが,1年の時ある友人から「お前なら直せるんじゃないか」と,電子工作の腕を見込まれて連れて行かれたのがラジオ部でした。

 ラジオを聞くのか,といつもいわれた部でしたが,その実電子工作クラブと言った感じで,当時のことですから8ビットのパソコンとか,そういうのを得意とする人がぼつぼつ集まっていた,弱小クラブですね。

 結局私はそこであまり手伝うことはなかったのですが,その後すっかりそこの緩い雰囲気が気に入って,入部してしまいました。当時の1年上の3人の先輩は,実のところ今でもとても親しい親友です。

 もう1つ,写真部というのもありました。部活動として拘束されるのを嫌っていたので入部しなかったのですが,非常に真面目なクラブで,当時仲が良かった二人の友人が所属していたことで,私も部外者として部室に入り浸るようになりました。

 今にして思えば,ここにも入部すれば良かったなあと思うのですが,当時は父親から黙って借りていたボロボロのAsahi Pentax SPに50mmのレンズ1本しかなく,新しいカメラを買うお金もなかったので,躊躇していたのだと思います。現像なんかは別に家でも出来ますし,暗室を用意して引き延ばし機も自分で作ったりしていたので,群れることなどないよと,おかしな意地を張っていたのでしょう。

 でも,私がカメラを学校に持ち出す決意をしたのは2年生の時からで,それまでは自分の趣味を悟られることのないようにしようとしていました。だから,1年の時と2年の時とで,それぞれの周囲が持った印象は全然違っていたんじゃないかと思います。

 3年になると,打ち込みを本格的に始めていましたから,学校にシンセサイザーを担いで持って行くことも度々ありました。放課後の教室で音を出していたこともよくあったので,2年と3年でまた印象が変わっていたんじゃないかと思います。

 ただ,3年間共通していたのは,マニアックであったことです。今で言えばgeekというかnerdというか,そんな感じです。授業中に半導体のデータブックを読んでいたかと思えば,休み時間に黒板にコード進行を書き殴ってみたりと,高校生にしてはちょっと難しいことをやったりしたので,そこを気味悪がられたか,はたまた面白がられたかは,よくわかりません。ですが,こういった印象が強かったことは確かでしょう。

 当時の理系が得意とする科目をことごとく苦手としており,得意だったのは,数学では確率統計,理科では化学,国語では現代国語,社会では日本史と世界史,英語は全滅という感じで,理系の学生が有利になる科目は全く得意ではなかったのです。

 見るに見かねたある現代国語の先生は,文系に進めばもっといい大学いけるのになあとつぶやいたくらいなのですが,どうにかなると思い込んでいた私はその後,世の中にはどうにもならないことがあることを思い知るわけです。もしあの時,文系に進んで,苦手科目を避けてちょっと良い大学に進んでいたら,私の人生はどうなっていたでしょうか・・・

 当時は理系に進むことに全く迷いはなく,今も失敗したと全く思っていないのですが,どうなっていたかなあと思うことはあります。

 今にして思うと,周囲は私を勉強の出来ないアホと思っていたでしょうが,一方の私は世界史や化学で文系の人間に張り合う成績を残していましたので決してアホとは思っていませんでした。ただ,現実を直視できていないという意味での「アホ」であったことは間違いありません。
 

100年目の皮肉

 日本を代表する電機メーカー,シャープが大変なことになっています。早川徳次が創業して今年で100年という節目に,存亡の危機に立たされています。

 100年か・・・すげーな・・・戦後生まれのそこらへんの会社とはまさに桁違いです。1980年代,東芝,ヤマハといった伝統あるメーカーが100周年を迎えたときには感動さえ覚えたものですが,いよいよシャープも仲間入りという時に,こんな皮肉があるものかと思います。

 大阪らしいと言いますか,生きた金しか使わん,という堅実な気質を,私はシャープという会社に見ていました。古くは1970年の万博に出展せずその費用で天理に工場を建てた話や,最近だと大阪の阿倍野に出来る超高層ビルに本社を移さないかという誘いを断ったなどは,素人にわかりやすいが本業の直接のプラスにならないような話には財布の紐が固いというのが,この会社の文化なんだろなあと思っています。(余談ですが,1980年代後半のパソコンのイメージキャラクタとして,PC-8801のNECは斉藤由貴,FM-77の富士通は南野陽子なのに,X68000のシャープはツタンカーメンのマスクと,その三段オチに当時も苦笑が漏れたものです・・・)

 私はもともと大阪の人ですし,実家は当時主力工場の1つだった八尾工場の近く,本社のある阿倍野は大阪市内への玄関口で,シャープという会社にはとても親近感がありました。お隣さんや友人の兄貴がシャープの社員なんてこともあって,気さくな印象を持っていたのかもしれません。

 1970年代は,シャープはやっぱり二流三流のメーカーでした。テレビも冷蔵庫もラジカセも,安かろう悪かろうだったように思います。当時は一流メーカーである松下電器と,安売りを標榜して急成長したダイエーとの間が険悪でしたから,ダイエーなどのスーパーマーケットの家電売り場には,シャープや三洋などのちょっと垢抜けない家電品が並んでいたものです。

 ちょっと横道にそれますが,今でこそヤマダ電機やヨドバシカメラなどの量販店が幅を利かせていますが,家電量販店が小売りの主軸になる前は,ダイエーやジャスコなどのスーパーマーケットが,家電販売の主戦場だった時代があります。

 それまでは,そうそう高額商品を在庫で持つわけにいかない小さな街の電気屋さんが,基本的に定価で家電を売っていたわけで,数をバックに安く仕入れるというスーパーマーケットの手法が家電にも浸透した結果,消費者はいろいろなメーカーの商品を見比べて,しかも値引きをして安いものを買うことが出来るようになったのです。これはとても画期的なことでした。
 
 全国津々浦々にナショナルショップを持ち,各店舗に1個ずつ仕入れてもらうだけで数万個も売れてしまう圧倒的な販売力を持つ松下電器が,ダイエーの安売りを認めてしまうと,ナショナルショップを裏切ることになります。今風に言えば,ビジネスモデルの崩壊です。

 だからダイエーには品物を卸さないといった強硬手段を講じることになりましたし,ダイエーはダイエーで,松下以外のメーカーのものを安く売ることにしたわけです。やがて,街の電気屋さんは次々に廃業し,一方でスーパーマーケットを経て大規模な家電量販店へと主な販路が移り変わっていったのです。

 結果的に,配下のチェーン店が少ないメーカーほど,スーパーマーケットで売られることになり,次第に大きな存在感を示すようになります。そしてこの流れは松下電器でさえも無視できなくなっていきました。

 つまり,この時日本の家電の売られ方が大きく変わったのです。我々から見れば,安くても良いものがすぐに買えるようになるという,その布石が打たれたといえるでしょう。

 さらに時は流れ,松下はナショナルショップの扱いに苦慮することになるのですから,潮目を読み違えることの怖さを感じてしまいます。

 話を戻しましょう。

 シャープがかつて,家電品では垢抜けない二流メーカーだったことは否めません。定価販売はなく,スーパーの家電売り場でよく見かけるメーカーでした。

 しかし一方で,なかなか手広くいろいろな新しい事に手を出していた面白いメーカーでもありました。電卓,液晶なんてのは有名ですが,特にコンピュータやOA機器(あんまりこういう言い方は最近しませんね,要するに事務機のことです),半導体といった分野に,ちゃんとユニークな足跡を残しています。

 コンピュータについては,HAYACという小型のオフコンを手がけていました。シャープはその昔,早川電機という社名でしたから,そこからHAYACと命名されたわけですが,その最初の製品であるHAYAC-100は1964年に誕生しています。

 日立や富士通,NECのような大型機を作っていたわけではありませんが,NECや三菱などのオフコンと混じって,HAYACは1980年代初頭まで販売されていました。

 さらに,UNIXを搭載したワークステーションのOAシリーズを開発しており,これは1990年代前半まで販売されています。そう,当時ダウンサイジングという言葉と共に隆盛を誇ったUNIXワークステーションにも,ちゃんと参入しているのです。

 そしてパソコンです。1978年,日本で最初のパソコンである日立のベーシックマスターに遅れること数ヶ月でMZ-80Kを発売,以後2010年に撤退するまでパソコンを販売していました。AXパソコンで取り組み始めたIBM互換機路線以後は別にして,それ以前のシャープのパソコンにはとても個性的なものが多く,また当時のユーザーの技術レベルの高さは語りぐさになっています。

 そうそう,ワープロを忘れてはいけませんね。書院シリーズは,当初はHAYACのような大型のものでしたが,1990年代までの個人用ワープロブームの中ではダントツの強さを誇っていました。

 電卓の強さは言うまでもありませんが,ここから派生した2つの流れ,事務機という流れからは複写機やFAXなどの事務機,電池で動くポータブル電子機器という流れからはポケットコンピュータや電子辞書,電子手帳,PDAが誕生します。直接の関係はないのですが,携帯電話にも圧倒的な強さを誇った時期がありました。

 もう1つ,家庭用の電子レンジについては先駆者でした。戦争中のレーダー技術だったマグネトロンを民生に応用した電子レンジは,当初は厨房用品としてプロに向けて売られていましたが,これを家庭用に最初に量産したのもシャープで,松下より1年早い1962年のことでした。まさに電子レンジのパイオニアなのです。

 こうしてみると,シャープという会社はモーターをぶん回す,「動力家電」には今ひとつだったかも知れませんが,電子機器,半導体を使う機器については,なかなか強いものがあったことがわかります。

 で,もう少し深掘りすると,シャープが半導体メーカーとして強力な存在であったことに目が行きます。

 シャープは,半導体製造に乗り出した時期こそ新しく,いわゆるゲルマニウムトランジスタなどは一切生産していませんし,汎用のシリコントランジスタも私の知る限り,作っていなかったように思います。

 しかし,シャープの電卓開発を推進した佐々木正さんがザイログと仲良しだったこともあり,当時世界的にも珍しいザイログのセカンドソーサとして,Z80を作りまくって売りまくりました。

 Z80は8080の欠点を改良した8ビットCPUですが,シャープ製の品質と価格,そして納期の確実さを抜きにして,ここまで普及したかどうかは,私はわからないなと思っています。Z80といえばシャープ,MSXを分解すればそこにシャープのZ80,そんな時代があったのです。

 Z80はNECも生産していましたが,シャープはCPUだけではなく,Z80ファミリも生産します。Z80CTC,Z80PIO,Z80SIO,Z80DMAなど,8080のペリフェラルよりもはるかに高機能なLSIを大量に生産していました。のみならずZ8000シリーズやZ8シリーズも手がけていて,シャープが果たした役割はとても大きかったと言えると思います。

 また,光半導体もシャープは強く,古くからLEDは定番化していましたし,フォトトランジスタもよく知られていました。またフォトカプラのPC900は,MIDIインターフェースには必ず使われたと言っていいほど,メジャーな存在でした。

 今ではWindowsさえも動いてしまうくらい立派になったARMも,シャープは無名時代からライセンスを受けて生産をしていました。

 カスタムLSIの一種であるゲートアレイも自社で開発する体制を持っていたり,NOR型フラッシュメモリではインテルと共同で開発にあたり,一時期圧倒的な存在感を示していたことがありました。SRAMもシャープ製がよく出回っていましたね。ラジオやテレビ用のアナログICも多くラインナップされていましたし,シャープの半導体というのは,実は結構凄かったのです。

 そんなシャープが,なぜ転がり落ちるように,業績を悪化させたのでしょうか。私は経済分野の専門家ではありませんので,分析は専門家に任せるとして,こうしたここ30年くらいの歴史を鳥瞰して思うところを書けば,液晶事業にちょっと重心を置きすぎた,あるいは液晶以外を軽く考えすぎていたという,液晶偏重が元凶だったと思います。

 これは結局,当たればでかいが外れればすってんてん,という一点買いの大ばくちのようなもので,電卓に端を発し世界をリードしてきた液晶技術とその応用に絶大なる自信をもち,その結果冷静さを欠いた結果だろうと,そんな風に思います。

 液晶ビューカムがなければ,未だにデジカメはファインダーを覗き込んで撮影をしていたかも知れません。初代PSPのLCDには,その画質故にあえてライバルメーカーであるシャープ製のものを使うことになったそうです。

 誰もが「無理だ」と思っていた液晶テレビへの切り替えは,シャープの言うとおりに進み,ブラウン管はとっくに駆逐されてしまいました。液晶応用製品として誕生した電子手帳やザウルスは,あの時代にモバイルコンピューティングを具現化していました。

 こうしたシャープの強さの証には,枚挙にいとまがありません

 しかし,その裏で,あれほどの存在感を持っていたCPU,LED,SRAM,フラッシュメモリなどの半導体はすっかり勢いを失いました。ARMも本来ならシャープは老舗として君臨していても良いはずなのに,全く話を聞かなくなってしまいました。 

 パソコンもワープロも撤退,ビデオカメラもPDAも撤退,携帯電話はじり貧で,自社の半導体の強みを生かした電子機器も,軒並み力を失っています。集中と選択という言葉が流行りましたが,液晶こそ正義とばかりに液晶に肩入れしすぎたことが,この結果を招いたと思っていますし,他がやらない分野を技術力で席巻するシャープの個性が失われたことを,とても残念なことだと思っています。

 同時に,これら液晶以外の製品に関わり,それなりの成果を上げていた社員の皆さんが,集中と選択の結果受けた仕打ちと,そして現在の状況に対して抱く複雑な感情を察すれば,液晶のシャープは文字通り「液晶のシャープ」であって,かつての個性豊かな「目の付け所がシャープでしょ」ではないことを,改めて私に突きつけます。

 果たして,これは年寄りの懐古主義でしょうか。そうかも知れません。しかし,それまで二番手三番手だったシャープが,液晶によって憧れの「一流クラブ」に入ってから有頂天になり,足下が見えなくなってしまったように思えてなりません。

 人が変わってしまった・・・単純な「昔は良かった」とは,ちょっと違うかなと思います。

 こういうとき,創業者の存在というのは,いろいろな意味で大きいもので,水道哲学は今のパナソニックにも通じるものがありますし,独自技術で世間をあっと言わせることは今のソニーにも受け継がれていますから,その点では創業者がやったことが今でも肯定され尊敬されています。

 しかし,シャープは早川徳次が何を見いだし,何をしたのかと考えると,創業者が例外なく抱いたはずの強烈な使命感や哲学は,今のシャープにとって影響を与えず,また経営陣や社員たちが頼ることもない,伝説になっているように思います。

 極論すれば,シャープは100年の会社ですが,設備産業である液晶にどかんと投資した新興メーカーと何も変わらん,と言われても仕方がありません。のみならず,現状と創業者の意志との間の距離感を,誰も確かめずにここまで来てしまったことが,シャープの最大の問題であったと私は思います。

 果たして,これが100周年を祝う会社のあり方として,妥当かどうか。気の毒なことに,企業にとって奇跡的と言える100周年を大々的に口に出来ないシャープに,ある種の後ろめたさがあるのではないかと,私はそんな風に勘ぐってしまうのです。

最大の功績

 1980年代にソニーを率いた,大賀典雄さんが亡くなったのが昨年の春。

 あれほど偉大な著名人であったにもかかわらず,その扱いの小ささに,時代の流れを理由に求め,その結果さらに寂しい思いに浸ってしまったことを思い出します。

 すでに過去のこととして過ぎ去った彼の死ですが,遅まきながら彼の大ファンである私も,ようやくにして少しだけ思いを書き綴ってみようという気になりました。

 私は,当然ながら,大賀さんとは一度もお会いしたことはありません。底辺に暮らす私など,どうやっても大賀さんに会うことかなうはずもなく,そのことは至極当然の事と思っているのですが,彼を知る誰もが「怖い人だった」と振り返れば,私もそんな彼に一度怒られてみたかったかなあと,思います。

 というのも,彼の言葉,彼の思いには,非常に人間くさいところが多くあり,いちいち共感出来るからです。もし私が彼の逆鱗に触れ怒られたのであるとすれば,それはおそらく私も自らを欺いた故であろうと思うし,もし彼が私を諭すのであれば,それは私の誤りを正す光になっていたはずだからです。

 これが,同じソニーの経営者(創始者)であった,井深大さんや盛田昭夫さんであったなら,おそらく反論もしただろうし,言い訳もしたことでしょう。すでに神格化されたお二人は,私にとっては遠すぎて,その人間性をリアルに感じることは出来ません。

 神格化されると,その人の過ちは,偉大な功績によって塗りつぶされてしまいます。美しい芸術品に仕上がった人生は,ますます賞賛を浴びる一方で,本来の人生とは違う道を,一人歩きはじめてしまいます。

 大賀さんは,まだ神格化されていません。

 ですので,彼の過ちを我々も知る事ができます。大賀さんの魅力は,自信に満ちた方であると同時に,過ちを自ら評価し,誤りであったことを悔やむ,その人間性にあると思っています。

 有名なエピソードで,まだ役員になりたての大賀さんは,当時の社長であった岩間さんが,アメリカのメーカーでさえもさじを投げ,誰も成功すると思っていなかった撮像素子・CCDの開発に,会社が吹っ飛びそうなほどの投資を行うと決めた時に,大反対をしました。

 語られるところによると,それは穏やかに反対するというものではなく,どえらい剣幕で岩間さんとCCDをなじったというのです。岩間さんにしてみれば,自らへの批判だけならともかく,技術者として「これだ」と信じたCCDを否定されることに,心中穏やかならぬものがあったことと思います。

 果たしてCCDは大変な苦労を伴い,なんども絶望の淵を彷徨いながら,実用化にこぎ着けます。CCDはその後,ソニーの製品に搭載され莫大な利益を生み,CCDそのものも主要な半導体製品として,ソニーに大きな貢献をすると共に,映像を記録する装置の高性能化と小型化を実現し,大げさな言い方をすれば人類の発展に大きく寄与することになります。

 固体撮像素子の伝統を持つソニーは,現在もこの分野のリーディングカンパニーで,すでに肉眼では見えないものが見えようになった,ここ数年のデジタルカメラの進歩は,ソニーのCMOSセンサによるところが大きいです。

 しかし,これほどの大成功に,岩間さんは自ら立ち会うことを許されませんでした。まだまだCCDが開発中だったころ,岩間さんは突然亡くなります。

 岩間さんの後を継いで社長に就任した大賀さんは,あれほど反対したCCDの開発を中断しませんでした。そして,ようやく量産に成功したCCDを岩間さんの墓石に埋め込み,その墓前で涙ながらに「自分が間違っていた」と謝罪をするのです。

 誰にでも過ちはあります。判断のミスが大きな損失を出すこともあります。しかし,そのことを悔やむことをしない人は,同じ過ちを何度も繰り返してしまいます。悔やむこと,それはとても苦しいことで,出来る事なら忌避する事を望むものです。

 悔やむことと同時に,謝罪することは,その地位が高いほど,そのプライドが高いほど,難しくなります。ソニーという日本を代表する企業のトップが,自らの過ちを認め謝罪し,そして功績をたたえるという行為を,すでに亡くなった人に対して行うという,この真摯さ,誠実さ。

 岩間さんの「先見の明」を賞賛するこのエピソードに,私はむしろ大賀さんの自らへの厳しさ,他人に対する優しさといった,豊かな人間性を見ます。

 東京芸術大学で声楽を学び,ドイツに留学した音楽家でありながら,経営者としてソニーを世界の大企業に育てた大賀さんは,よく知られているように音楽と技術に精通した経営者でした。

 音楽,すなわちコンテンツと,技術,すなわちコンテンツを記録・再生するハードウェアの両方を「両輪」と例えたその考え方は,まだまだハードウェアの生産に勤んでいた日本の製造業に,なかなか違和感のある考え方だったろうと思います。

 もう1つエピソードをご紹介します。

 大賀さんと言えば,今なお音楽メディアとして主役の座にいるコンパクトディスクの推進(私は開発者と呼んでいいと思うのですが)にあたった,中心人物です。

 CDは,オーディオ信号をディジタルで扱う技術と,レーザーと強力なサーボ機構を用いた光ディスクの技術の2つが揃わねば完成しません。今にして思うと,1970年代後半にこれだけ難しい技術を完成させて,巨大なビジネスに繋げた大賀さんの手腕には驚嘆するものがあります。

 まだCDという名前がなく,LPレコードの次世代技術として各社がめいめいに提案していたディジタルオーディオディスク「DAD」の1つに過ぎなかったころ,その開発の陣頭指揮にあたっていた大賀さんの元に,ソニー方式のDADの開発者が説明にやってきます。

 曰くディジタルだから音がいい,曰く光学読み取りだから高密度,ゆえにLPレコードと同じ30cmの大きさで,13時間も音楽が高音質で入るのです,と。

 当時,DADを提案するメーカーは世界中にありましたが,どれもLPレコードでおなじみの30cmという大きさを変えることはしませんでした。それくらいLPレコードの存在が大きく,音楽を配布するメディアとして「30cm」という大きさに疑問を持つこともなかったのでしょう。

 LPという名前は,LongPlayの略です。LPの誕生後SPと呼ばれるようになった当時のレコードに対し,圧倒的な高音質と長時間記録を誇ったLPは,音楽メディアの技術開発が,音質と記録時間を軸に行われたことを物語っています。ディジタルオーディオと光技術は,その正常進化を劇的に進める決め手だったはずでした。

 技術者の報告を聞いて,大賀さんの顔色が変わります。

  君は,音楽の価値をなんだと思っているのか。
 音楽家が,1つの音楽を作るのに,どれだけの苦労をしているか,分かっているのか。
 1枚のレコードに13時間入ります,などと,よくもそんなことを平気な顔で言えたものだ。
 一体,そのレコードを,いくらで売るつもりなのか。
 君は,音楽家を殺す気か。

 その30cmの巨大なDADをやにわに掴んだかと思うと,壁に投げつけたと言います。

 そして,各社「高音質」「長時間録音」をうたい文句にするDADを尻目に,ソニーとフィリップスは高密度記録によって得られるメリットを「ディスクの小型化」に求め,やがてそれは高音質でも高密度でもなく,小さい事を名前に持つ「コンパクトディスク」と呼ばれるようになるのです。

 ここで重要な事は,ディスクの直径についてよく知られる,フィリップス提案の11.5cmの大きさに対して,カラヤン指揮の第九が丸々入る75分に必要な12cmをソニーが主張し譲らなかったことではなく,技術の進歩によって当然のことと思われていた「長時間記録」というゴールを音楽を作る側の立場で否定し,その進歩を「小型化」に振り向けたことです。

 以後,12cmというディスクのサイズは,扱いやすいディスクのサイズとして否定されることなく,現在のBlu-rayに至るまで,守られ続けています。

 もし,普通の製造業の社長なら,音楽制作の苦しみなど知るはずもありませんから,そうかそうか,従来のLPと同じサイズで6時間も入るのか,それは素晴らしい,と大いに喜んだことでしょう。

 しかし,大賀さんは技術に明るい芸術家です。音楽家がどれほどの苦しみを乗り越えて音楽を産み出すのか,それこそ死ぬ思いで作りあげているかをよく知っていたからこそ,高密度記録という新しい技術は,正しい方向に使われるようになったのです。

 6時間記録出来る30cmのDADが覇権を握っていたら,どうなっていたでしょうか。アルバムを仕上げる労力は数倍になり,だからといって1万円では買ってもらえるはずもなく,クリエイターはクオリティの低い音楽を生み出すことになったでしょう。ベスト盤や古い録音もたった1枚のディスクにたくさん詰め込まれ,たたき売られるのです。結果として音楽の価値はずっとずっと下がってしまったことでしょう。

 大賀さんのここまでの予見に,私は大賀さんのディジタルオーディオへの功績は,まさにこの一点にあると確信するのです。

 音楽は感動を生み,弱った人を支え,心を豊かにするものです。一方でその音楽は,音楽家の想像を絶する苦痛の中から生まれます。この事実こそ,音楽の価値だと私は思います。

 技術の進歩は,音楽をより身近に,より安価に提供する道でもありました。一部の王族や貴族だけがかかえることを許された楽団の時代から,少人数で演奏出来る大音量の楽器の発明と大人数を集めることで安価に提供できた大衆向けコンサートの実現,そして音楽を記録して「工業製品」として量産できる仕組みの誕生と,マルチトラック録音などの効率的な音楽制作手法の確立と,一度たりとも技術が低価格化に貢献しなかったことはありません。

 おそらく,CDが史上初めて,技術の進歩を経済性ではなく,利便性の原資にあてた例ではないかと思います。

 私は,この話を聞いて,大賀さんが音楽を救ったのだと思いました。

 そして今,音楽は1曲単位でばら売りされ,アルバムという発表のあり方はすでに瓦解してしまいました。あれほどの心血を注いだ音楽が,1曲わずか100円です。

 技術の進歩は,いよいよ低価格化,低価値化に使われてしまい,誰もそれを止めることが出来ませんでした。

 よく言われるように,音楽業界は崩壊寸前です。

 アップル,つまりスティーブ・ジョブズは音楽を愛し,音楽家を愛していて,その音楽が広く手軽に聴けるような仕組みを作りました。

 残念だったことは,彼が音楽制作側の人間ではなかったことです。


 幸いなことに私は,大賀さんに献花をする機会を得ました。わずか数分の出来事ですが,私なりのお別れをしたつもりです。

 遅くなりましたが,こころから,安らかにお眠り下さい。

川の字

 昨年11月に娘が生まれました。

 あまりプライベートなことを書くのもどうかと思っていたので,ここではほとんど触れることはしませんでしたが,3ヶ月を過ぎ,毎日毎日変化がある娘を見ていると,今の興味の対象と生活の中心が彼女の存在にあることに気付かされます。

 私は男ですので無理からぬ事だと思うのですが,娘は私たち夫婦の目の前に,突然やってきた感じがします。むろん,その10ヶ月前から分かっていたことですし,生物学的に彼女が誕生した瞬間を否定するものではありませんが,我々二人だった空間に,もう一人の人間が突然現れ,しかもこれから長きにわたって一緒に暮らすことになるというのですから,これはもう大変なことです。

 しかも彼女は小さく弱く,自分だけでは生きることが出来ませんし,そのため突然の泣き声を発したり,無垢な笑いを我々に投げかけては,自分の存在をこまめにリマインドしています。

 人間一人が増えると書きましたが,これは猫や犬が増えることとは本質的に異なるものです。言うまでもありませんが,彼女は生物学的にヒトとして分類されるものとして誕生した生命体ですが,同時に日本の国籍を持ち,日本国民として,基本的な人権をすでに持っています。ヒトであることと同時に,人間だということです。

 従って,彼女は人間らしく生きることを保証されているのです。この点において,私と彼女の間に全く差はありません。

 我々夫婦は,結婚という契約によって生活を共にし,最も小さい社会単位を新たに作りました。この単位の構成員が二人から三人に突然増えたことは,子供が生まれれば当たり前のことですが,このケース以外では普通は起きない,やはり特別な事なんだと思います。

 とても尊く,大きな存在である人間が突然増えるという事実はとても重く,感動的です。もちろん,その大きさにふさわしい存在感を我々に放っています。

 そして,なにより重要なことは,突然やってきたその存在が,我々夫婦を幸せにし,結束させ,そして決して否定されることのない新たな価値観を作り上げた事実です。

 三人が川の字になって眠ることは,私の夢でもありました。毎晩毎晩,その夢が現実になったことに幸せを感じて,眠りにつきます。

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