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コダックの破産とフィルムの守り方

 名門コダックが,破産法を申請するというニュースが届きました。

 少し前から何かあるごとに破産の話が出ていたので,今さら驚くような話ではありませんが,つい先日組織の再編で伝統のフィルム部門を廃止し,民生部門と産業部門に分けたところでしたから,複雑な思いです。

 こういうニュースが出ると,こぞって出てくるのが経営面での失敗に関する記事です。それは同業の富士フイルムの成功と比較し,コダックの失敗を異口同音に(そして誇らしげに)語るものです。

 彼らは,おそらく写真愛好家ではないし,コダックのファンでもないでしょう。コダックが果たした役割やコダックの理念などを,むしろ邪魔なものと考えているのではないでしょうか。

 もっとも,経営という切り口で語るときに,趣味の問題や過去の歴史に感傷的になることこそ問題でしょう。ならば,そういう立場にない私のような自由なアマチュアが,コダックを語らねばなりますまい。

 コダックには,3つの顔があると思います。

 1つは,圧倒的な技術を持つ会社であることです。技術で新しい世界を切り開いてきたパイオニアという顔です。

 ロールフィルムという携帯性に優れた写真用フィルムの登場は,写真を一部の専門家から写真を趣味とするアマチュア,さらには写真を趣味にはしないが記録を残したいと考える大衆に開放するきっかけになりました。

 写真用フィルムとして最も普及した35mmのフィルムも,もともとは映画用の70mmフィルムを半分にして使い始めた人がいて,その後これを小型カメラに応用した人がいた事が誕生したのですが,明るいところでもフィルムが交換出来るようにパトローネ呼ばれる使い捨てのカートリッジにフィルムを詰め込んだ,現在の形に仕上げたのは他ならぬコダックです。

 それまで,暗室が必要で,またそれなりの技術も必要だったフィルム交換を,そこらへんのおばちゃんでも出来るようにしたことは,誰もが写真家になれる,というコダックの理念に沿うものでした。

 ISO400を実現した高感度フィルムTRI-Xは,それまで撮影不可能だった少ない光りの中でも世界中の出来事を記録し続けましたし,世界初のカラーフィルムKodaChromeによって,人類は初めて色を残すことが出来るようになりました。

 その後の超微粒子フィルムの開発とそれを生かしたフォーマットの小型化(110ポケットフィルムやAPS)はもちろん,現像システム,カメラ,レンズ,印画紙,PhotoCDといった電子写真など,写真に関する標準は,ほとんど全てコダックから生まれ,他社から生まれたものはコダックと違うという理由で,死ぬ運命にありました。

 フィルムの発展によって膨大な記録が画像で残され,そしてそれら画像によって獲得した新次元の説得力は,報道のあり方を根本的に変えました。やがてそれは大衆の意識と世論を変え,特にベトナム戦争後の民主主義のあり方を根底から変えてしまいました。

 もう1つは,消費者に対する,新しいマーケティングを行った,優れた商売人としての顔です。

 消費者は,カメラやフィルムを求めているのではなく,映像記録を簡単に行うことを求めている,という今なら当たり前の考え方を,100年も前に掲げたコダックが,当時いかに先駆的であったかです。

 コダックが発売した「ザ・コダック」という革命的なカメラに与えられた,「シャッターを切るだけ,あとはコダックがやります」というわかりやすいキャッチコピーは,まさにこれを体現しています。

 100枚撮りのフィルムを詰め込んだカメラを消費者は購入し,写真を撮った後コダックに送ると,現像されたフィルムと,新しいフィルムを詰めたカメラが手元に戻ってきます。

 フィルムの装填も現像も,専門知識や設備のない人には出来ません。また,広大なアメリカで,これらを行う拠点をくまなく整備するのは非現実です。こうして,それこそ子供や女性まで,写真を撮るなんて考えも及ばなかった人々の身近なところまで,日々の記録を残すという写真の楽しさが,やってきたのです。

 カメラやフィルムの性能をアピールするのではなく,その結果得られる消費者のメリットを訴求する,これがコダックの商売でした。

 そしてこれは同時に,コダックにとっても大変おいしい商売です。新しいフィルムの入ったカメラが手元に届いた以上,普通はこのフィルムでまた写真を撮るでしょう。するとまた現像とフィルムの装填が行われ,これがずっと繰り返されます。つまり,一度顧客になった人を,ずっとつなぎ止めておくことが出来るのです。

 カメラはただ同然の価格で販売しても,ちゃんとフィルムと現像で利益が出ます。この仕組みは,コダックというより,フィルムをビジネスにする会社の基本方針となります。

 なんと素晴らしいビジネスモデルでしょうか。


 最後の1つは,従業員を家族と考え,手厚く守る,優しい会社の先駆という顔です。コダックは1920年までに,当時としては画期的な退職年金,生命保険,障害補償などの福利厚生を実施,同時に従業員に対する利益配分を方針として掲げました。

 また,従業員が安心して働ける環境の構築に熱心で,安易に工場を移転させたり閉鎖しないで,地元ロチェスターの雇用の創出,終身雇用を守り,可能な限り解雇せず,地域,従業員,そして経営者との関係を良好に保ってきました。

 こうした今なら当たり前の企業のあり方を先取りしたコダックは,超優良企業として世界的に知られるようになります。

 コダックほど長く続いた強力な独占企業で,この3つを特徴として挙げることが出来る例は,希ではないかと思います。

 一方で,覇者の奢り,あるいは小回りの利かない企業体質が競争力を削いでいたことは事実で,よく言われるようにデジタル写真への移行の失敗,卓越したフィルム技術を生かした別事業への転換などが出来ず,フィルムの凋落と運命を共にすることになってしまったことは,否めません。

 フィルムメーカーの,写真文化に対する責任感の強さには感服するものがあり,コダックは利益を度外視してこれまでフィルムの生産を続けてきましたし,富士フイルムも他で儲けたお金をフィルムの維持にあてるなど,利益追求だけでは絶対に残せないフィルムの芸術性や文化的な側面,そしてその役割を本当に理解してくれているのだと,私などはうれしくなります。

 例えば,日本画や陶芸などで使われる特殊な道具や消耗品を,需要が少ないとか儲からないという理由でやめてしまったら,それらの芸術は途絶えてしまいます。フィルムが儲かる工業製品だった時代はともかく,儲からなくなったときにそのフィルムを続けるかどうかは,銀塩写真をその会社がどう捉えているか,とてもはっきり分かるテストと言えるでしょう。

 ただ,コダックは,それを存続させる事に,無頓着でした。自らの使命感の強さ故にフィルムを作り続けたのであったとしても,ただただ赤字で作り続けるだけで,存続するための手を講じないままであったなら,それは最終的にその責任を果たせません。

 私を含めた,写真と写真文化を愛する人間が望んだものは,コダックではなく富士フイルムのありかたであったはずです。コダックのやり方では,結局誰の期待にも応えることが出来ないのです。

 富士フイルムは,企業としての存続という当然の目標からさらに,なぜ自分達が存在し続けなくてはいけないのかというところにまで,考え抜いたのではないかと思います。

 そして,その答えとして,優れたフィルムを供給出来る力を持つ希有な存在として生き残る責任を自覚し,一企業の問題を写真文化の存続にまで昇華させ,フィルムに利益を依存しない体質を作ったのかも知れません。だとすれば,これぞ社会的使命果たそうとする,優れた企業のあり方ではないでしょうか。

 私が,コダックという名門が立ちゆかなくなった現実を見て思うのは,経営の失敗や企業体質の問題という,ステレオタイプな分析でではなく,写真文化の守り方を間違ったんだなあという失望感です。

 デジタルカメラによって劇的に写真は安く,手軽になりました。すぐに写真を見ることが出来たり,あっという間に遠方に届けることも出来ますし,高価で何日もかかった大判への引き延ばしも,家で簡単にできるようになりました。

 一方でコニカが写真から遠い存在になり,街の写真屋さんがどんどん消えて,いずれ現像も手軽に出せない時がやってくるでしょう。これらと同時に失うものがあることを,もう一度考える機会になるかもしれません。

自炊の是非

 スキャン代行業者2社を作家7名が提訴というニュースが入ってきました。7名の作家というのは,まさに日本の文学/マンガ界を代表する方々です。当然ファンも多く,私も大好きな方がいらっしゃいます。

 この方々がスキャン代行業者という「グレー」な存在を違法として提訴した事の意味は,結構重いなあと私は思っています。それは,電子化されていない本を電子書籍として読みたいという欲求から生まれた「自炊」を源流として誕生したものだからです。

 今回の提訴はあくまで業者に対してあり,自炊そのもの,あるいは電子書籍そのものを対象にしたものではありません。しかし,作家の皆さんの記者会見を見ていると,それらを否定する意見が出ていることもまた事実です。

 私は,場所がないという切実な理由で増やすことが叶わなくなった本を,自炊という手段によって買い続けることが出来るようになった人間です。本屋が好きで本が好き,読む本がなくなると不安になり,常に手元に1年分くらいは読む事の出来る本を積んでおくのが常となっている人間として,電子化と自炊というのは,まさに福音でした。

 本を買い続けるためにやむなく自炊を行うに至り,結果として私は,捨てる本,自炊して中身だけは手元に残す本,残す本の3つに分類することになりました。先日も書きましたが,つまらない本は自炊されることもなく捨てられますし,残す価値のある本は紙のまま手元に残ります。

 あくまで私にとって「つまらない」かどうかですので,ここは作家の方や出版社の方には,一個人のふるいにかかっただけの取るに足らない話と笑い飛ばしてくださっても良いし,たった一人の読者からでも末永く愛され手元に残してもらえるような本を作っていこうと考えてくださってもよく,そしてそれはとてもありがたいお話です。

 で,先に書いておきますと,どうも今回の提訴の論旨と,原告団に加わった7名の作家の皆さんの狙いが,かなりバラバラであるなあと感じるのです。なぜそれが提訴の主旨に繋がるのだ,という疑問を持つ方の意見も,私はあるようの思うのです。。

 さらに,原告団に加わった理由に,論理性がないように感じた方もいらっしゃいました。裁判が感情論抜きで行うものではない以上,感情的に提訴されることは問題ではありませんが,裁断された本を見て心が痛むから提訴,というのは,ちょっと短絡的だなあと感じざるを得ません。

 作家の方が本を自分の子供のように思うのと同じように,自動車の設計者には自動車が解体されるのを見るのは辛いだろうし,ミュージシャンが自分のCDの粉砕されるのを直視できるとも思えません。私だって自分の設計した製品が廃棄されるのを見るのは辛いです。

 それら個人的な想いはいずれも尊く,互いに尊敬し合うべきものだと思います。ですが,それらは作り手にとっては唯一無二であっても,一方で大量生産される工業製品でもあります。廃棄や裁断は,唯一無二のものとして行われるのではなく,あくまで工業製品として行われることに,気が付くべきです。

 多くの人の手間をかけ,お金をかけ,時間をかけた製品が廃棄されるのは忍びないものですが,それが廃棄されることや裁断されることを「悪」とする理由には,残念ですがなりません。自動車は工芸品であると同時に移動手段だし,CDは作品であると同時に音楽を入れる器です。同じように,本は作家の紡いだ文章を収める器です。

 器は中身と共に大切なものです。特に日本の本は,編集,印刷,製本に至るまで,本当に美しいものです。頭理のことですが,中身だけが大事だとは思いません。

 ですが,本はもうかさばって,そのままで置いておくわけにはいかないのです。可能であるなら,本が好きな人としてやはり実体にこだわりたいですが,状況がそれを許しません。

 ならお金持ちになればいい,というのも一理あるのですが,現実的な問題として,中身も残さず捨てることになったであろう本が,技術の進歩で中身だけはなんとか残せるようになったと考えると,電子化や自炊が私をどれほど救っているか,分かって頂けるでしょうか。

 ということで,先に私の考えを書いてしまいましたが,少し自炊と電子化,そして代行業者について私なりの結論を書いてみたいと思います。


(1)前提

 まず,前提としてですが,法律に触れてはなりません。これは当たり前のことですので,いちいち細かい事は書きません。


(2)生み出す人に対する尊敬と感謝

 生み出す人,すなわち文学なら作家,マンガなら漫画家,音楽なら作曲家や演奏家,自動車なら設計者,写真ならカメラマンに対する尊敬は,法律の次に大事にされるものだと思います。

 それぞれ,他の人には出来ない事を,その特殊能力によってなし得ているわけで,おかげで我々は自分だけでは決して手に入らないものを手にすることが出来るのです。

 ものを作るというのは,とてもエネルギーがいるものです。しかもエネルギーだけではダメで,その人にしかない能力を使ってもらう必要もあります。同じエネルギーでも,作る人によって結果に大きな差が出るのは,当然のことです。

 ここで大切な事は,みんなそうだということです。作家の方だって自動車に乗るし,野菜も食べるし,パソコンだって使うわけですが,言うまでもなく作家の方々が一人で自動車も野菜もパソコンも作る事はできません。

 それぞれの製品,それぞれのサービスに,それを専門とするプロがいるから,社会全体が豊かになります。だから,私は作家を尊敬するのと同時に,農家を尊敬しますし,自動車の設計者にも敬意を持っています。そして,私自身も,きっと誰かから尊敬を受けていると思っています。

 このように,生み出す人に対しての尊敬は,自分には出来ない事をやってもらっているという感謝の気持ちから生まれるのだと思います。そしてもう一歩進めて,自分も他の人が出来ない事をやって誰かの役に立っているのだ,という誇りから,人間らしく尊厳を持って生きることに,繋がって行くのでしょう。

 このように,生み出す人に対する尊敬と感謝は,全ての人が行うもので,かつ全ての人が受けるべきものであるのです。

 この概念は,法律で決まっているものでもないですし,常識やモラルとして一般化したものでもなければ,教育されるものでもありません。しかし,自分の仕事を大事にして欲しい気持ちは誰にでもあるわけで,つまりは作家や漫画家だけの特別な話ではないということを,1つの尺度にしてはどうかと思います。


(3)電子化は?

 電子化というのは,つくづく考えてみると,なかなか難しい概念です。

 本は電子化しても,その本質に変わりはありません。紙で読んでもiPadで読んでも文章は文章であり,面白い文章は面白いし,面白くない文章は面白くありません。

 しかし,彫刻はどうでしょうか。彫刻を電子化する,例えば三次元スキャナで数値化したものに,価値はあるでしょうか。私はないと思います。彫刻は実体そのものに価値があるからです。

 それは,量産品か一品物かによる違いでしょうか。なら,レプリカが大量にある彫刻の数値データには価値があるでしょうか。これも私はないと思います。

 さらに進めて,プラモデルの数値データに価値はあるでしょうか。製造者や設計者には最重要のデータですが,私たち消費者にはあまり価値がありません。

 では,本のうち,実体に価値があるもの,例えば絶版で新品が手に入らないものだったり,美しい写真や手の込んだ装丁を持つものはどうでしょう。これは確かに実体に価値があります。

 一方で,同じ印刷物の極端な例を挙げてみると,新聞はどうでしょうか。新聞は読んだ直後に新聞紙として別の価値が生まれ,ものを包んだり梱包材にしたりします。これは昔々,それこそ戦前から変わらないことですが,新聞の本来の役割である,文章と情報についての価値は,すぐに消失しまうわけです。

 すでに触れましたが,私だって好き好んで電子化をしているわけではなく,場所の確保と新しい本を買うために,やむなく電子化をしています。本という実体を残しておければ,それが一番いいのは言うまでもありません。

 しかし,現実がそれを許してはくれない場合,本の価値のうちどれを最重要と考えるかによって,残すものを選ぶ事が技術の進歩で可能になりました。あくまで所有者である私個人が,電子化することでも価値の本質が維持されると判断出来た場合に,電子化が行われます。

 だから,所有者が私でなければ電子化されずに実体が残るでしょうし,もしかすると電子化されることなく実体も処分されるかもしれません。

 つまり,あくまで,所有者の価値観にのみ依存するという結論になります。こうした主観的な考え方に立脚する場合,法律や社会通念上の問題がなければ,個人の自由が尊重されるべきでしょうし,他の人が価値観を押しつけてとやかく言うべきではありません。仮にその本を生み出した作家であっても,です。

 1つのアプローチとしてですが,同じ書籍であっても,電子化されるかされないかがそれぞれの価値観によるという結論から考えると,電子化してオリジナルを廃棄してしまうことが出来ないくらい,多くの人にとって魅力的な本を作ることで,相対的に電子化された本の価値を下げることは出来ないでしょうか。

 通常のコミックの単行本は廃棄できても,愛蔵版は廃棄しにくいものです。
 

(4)自炊は?

 電子化の手段の1つとして自炊を捉えるなら,これは許されるものです。言うまでもありませんが,法律に違反しないこと,そして生み出す人に対する尊敬と感謝を持って行うことが前提です。

 ただ,自炊という行為が持つ意味を,可能な限り考えておくことは必要かも知れません。自炊はディジタルデータへ変換ですし,複製作業でもあります。電子書籍端末で利用するためのフォーマット変換という見方もあれば,非可逆圧縮という見方もあります。

 そしてそれぞれの見方によって,メリットもデメリットも変わって来ます。複製なら違法コピーで一儲けも出来るでしょうし,非可逆圧縮なら膨大な書籍をアーカイブすることが出来るようになります。そもそもディジタルデータへの変換によって,世界中のどこにいてもネットワーク経由で読む事が出来るようになるし,検索という大変な機能が手に入ります。

 それら全てを,十把一絡げにして「良い」「悪い」と論じてしまうのは無理があるし,当然利害関係が複雑になるので,調整など出来ません。

 私個人は,自炊の結果生まれるデータは劣化したコピーであり,オリジナルの紙の本の足下にも及ばないと思っていますので,自炊の結果にどれほどのメリットあろうとも,決して自炊がお得になるような事態は起こらないと考えています。

 だから,あくまで「自炊」,つまり個人で行う限りにおいては,堂々と行ってよいと思います。そして自炊をする人は,自炊によって発生する問題が発生しないように,きちんとした責任を全うせねばならないでしょう。

 これはつまり,毒物を扱う人間が正しく管理を求められることと同じです。社会的な責任を負うのだという自覚が,自炊を行っている人の間にどれほど根付いているかは,私にもちょっとわかりません。


 
(5)自炊代行は?

 前述のように,自炊には大きなメリットがあります。それまでなら,置き場所がないという現実に対する解として,完全に処分するか置き場所を確保するかの二択だったものが,技術の進歩によって中身を残しつつ処分するという第3の手段を選択出来るようになったわけです。

 自炊によって失われる本の価値と,スペースが確保出来るというメリットを比べて,どちらが特かをその所有者が判断するという原則から考えると,自炊という選択肢は否定されるものではありません。

 しかし,自炊には,結構な負担があります。

 最初に裁断という作業ですが,綺麗に大量に裁断するには裁断機が不可欠です。しかし裁断機は大きく重く,加えて高価です。本を数冊処分して出来るスペースに置けるようなものではありません。かなりの数の本を処分出来る人だけが,裁断機を購入出来るのです。

 高価な道具は,共同所有して有効活用しようとなるのが自然なことで,その延長に裁断機を貸し出すことや,裁断を代行することを商売にする人が出ることも,それはごく自然な事です。もちろん,裁断機を扱う時間を軽減すること,裁断機を使うことで発生する危険を回避することも,人によっては大きな価値があるでしょう。

 次にスキャンを考えましょう。スキャナも安くなったとは言え,それでも5万円程度しますし,PCの整備にもお金がかかります。それ以上に,スキャンには時間もかかれば,綺麗にスキャンを行うためのノウハウも必要です。

 それらを代行しましょうという話がでれば,それまで自炊をしたくても出来なかった人が,そのメリットを享受できるようになります。これはこれでとてもよいことです。

 だから,純粋に自炊の代行だけなら,私は問題ないと思います。この,純粋にというのがミソでして,彼らに支払われる対価が,純粋に代行だけであるかどうかが争点でなければならないと思います。

 もちろん,市場原理でその対価は決まるでしょうから,一律いくらという話にはならないと思います。しかし,極端に高い料金であったり,逆に処分すると偽って他に転売したスキャン済みの本の売却益を見込んで料金を引き下げることは許されません。

 そうなると,もはや利益を追求しない,実費のみで引き受けるボランティアのようなケースでしか現実的には成り立たなくなってきます。私はこの結論はとても大事だと思っていて,非営利の場合についてのみ,自炊代行は許されるのではないかと考えるようになりました。

 そんなバカな話はない,そう,その通りです。こんなバカな話はありません。つまり実質的に自炊代行は,存在出来ないと言うことになるのです。


(6)スキャン後の本の扱いは?

 スキャンの後に裁断された本ですが,ここがちょっともめるところのようです。

 複製が合法であるのですから,スキャンを行ってもオリジナルを持つことは許されるので,当然処分する必要などありません。つまりあれです,オリジナルのバックアップをスキャナで取ったということです。CDをリッピングするのと同じことです。

 本がアナログである以上,デジタルコピーに該当しません。スキャンしたデータは,本来本が持つ情報から大幅に欠損しているわけですし,オリジナルとコピーが全く同一だからDRMをかけるというデジタルコピーの議論は,ここでは必要ありません。

 ただし,これも個人の場合に限られます。他人に配ったり販売するなどの行為は明らかに違法ですので,これはもう論外です。

 ですので,スキャンした後の本は,当然所有者が持つべきです。

 なら,所有者は,このオリジナルを売却してよいかどうかです。

 というのは,かつてレコードやCDが,カセットテープやMD,最近だとCD-Rにコピーされた後に中古品として買い取られていたという現実を考えたいからです。カセットやMDは劣化コピーですが,CD-Rについてはほぼ完璧なコピーです。

 この行為は,個人での複製を許した著作権法に厳密には違反します。しかし,中古品として売った時に家中の複製を廃棄するというのも,個人レベルではまた非現実であって,黙認されてきたわけです。

 では,本の場合はどうでしょうか。まず,個人レベルでの複製は許されていますから,自炊して電子化することは問題ありません。

 この電子データを販売することは,言うまでもなく違法です。お金儲けを行うという事は,すでに個人レベルの話ではなくなっています。

 では,オリジナルである裁断済みの紙の本を販売することはどうでしょうか。お金儲けを行うのですから,もう個人の話ではなくなっています。よって,アウトでしょう。

 では,裁断済みの本をレンタルするのはどうでしょうか。CDやDVDと同じです。

 この話には2つの問題があります。1つは,CDやDVDのレンタルには,レンタルしても良いという許可を得て行われていて,その対価がレンタル業者から支払われている点です。

 注目すべきはお金の問題と言うより,レンタルを合法化して,かつ関係者がみんなそれなりに潤う仕組みをちゃんと構築したことです。本にはこういう仕組みがありません。

 ではそういう仕組みを作ろうとなるのですが,これが2つ目の点で,レンタルのCDやDVDはコピーだけが目的で行われているわけではなく,買うほどではないがちょっと聴いてみたい,見てみたいという要求にも応えることが出来るのに対し,裁断した本というのはもはやスキャンを行うことにしか,使い道がないものなのです。

 買うほどではないがちょっと読んでみたい,という人は,図書館で本を借りるでしょう。しかし借りた本は裁断するわけにはいきませんので,実質的に電子化することやコピーを取ることは難しいでしょう。本は,その形によって用途が絞り込まれるのです。

 それでも,その本を電子化せずに,本当に裁断しただけであれば,違法性はありません。ですが,ここから先は,生み出す人に対する尊敬と感謝という観点で考える事になるでしょう。

 対価を払って購入し所有権を有する人間が,法律に触れない範囲で裁断したものを売却する行為は,確かに問題ないかもしれませんが,裁断済みの本はスキャンされる,つまり複製されることが明確であり,他の用途には使われません。

 複製が違法になる可能性がある以上,複製しかできない状態の本を販売することは,やはり違法行為を助長するものです。このことと,生み出す人に対する尊敬と感謝とが,およそ両立するとは思えません。

 これには弱点があって,生み出す人に対する尊敬と感謝は義務でも責任でもないので,これを持たない人に対する抑止力にはならないですし,そもそも持たない事を非難できません。

 だから,ルールを作りましょう,良いことと悪いことをはっきりさせましょう,ということで,訴訟という道具を使うことになったのだと,私は考えています。


(7)ということで

 長々と書きましたが,自炊と自炊代行について深く考えるきっかけになりました。

 基本的には個人レベルで行う自炊に問題はありませんが,そこには当然社会的な責任が発生します。もちろん,自炊の結果によってお金儲けを行うなどというのは,すでに個人レベルの話ではなくなっているという点でも,違法であることは明確です。

 当然,自炊をすることで失うものは大きいですから,自炊をして得かどうかは,その人個人の価値観によります。だから,ある人にとっては自炊後廃棄されるものであっても,別の人にとっては何十万円出しても手に入れたい本だったりするのです。だから,自炊や裁断,廃棄という行為そのものを,他の人がとやかくいう事ではありません。

 しかし,自炊があくまで個人的な範囲で行われるべきものである以上,自炊の代行そのものに違法性はないとしても,お金儲けになってしまってはいけませんから,非営利団体の仕事になります。よって営利企業の業務としてはアウトです。

 また,裁断と自炊が個人の範疇で行われる事に限定されたのですから,裁断後の書籍はあくまで個人の管理下にあります。これを販売することは個人の枠を越えますし,違法行為を助長するというモラルの点でも許されません。これは犯罪に使われかねないものを持ってしまった人間が果たすべき義務です。言うまでもなく,スキャンによって発生した電子データを配布,販売することが違法であることは明白です。

 そして,これらの最終的な判断基準には,法律と共に,生み出す人に対する尊敬と感謝があってしかるべきです。そして生み出す人への尊敬と感謝は,自分にも向けられているものであることを忘れてはなりません。


 意見の対立も利害の不一致もあるでしょうが,実は関係者の最終目的は,素晴らしい作品を読みたい,読んでもらいたい,に収れんします。これらを推進できる話には基本的には反対の理由はありませんし,これらを満たさない形では,どんな対策も本末転倒です。

 最終的な目的で食い違うことはなく,ただその方法が違っているだけの話です。最終目的にくいちがいがなければ,必ず良い方法があります。それは,生み出す人への尊敬と感謝と,法律によって許されているかどうかという2つを軸にすることで,生まれてくるものであると確信します。

4004から40年

 1971年11月,世界で最初のマイクロプロセッサ「4004」が世に出ました。2011年の今年は,なんと4004が登場して40年という節目の年になります。

 4004はすでに歴史の中の半導体で,電子部品としての詳細を知る人も少なくなりました。コンピュータである以上は機械語もニーモニックもあるし,周辺チップとの接続方法や,もっと根本的に電源電圧や消費電流,クロックなどの電気的スペックも当然存在します。

 これらは,4004を使うために必要な情報であって,理解には専門知識を擁する技術者でなければ難しいわけですが,4004はすでに歴史的役割が語られるだけの存在になっているので,専門家である必要はありません。

 面白いなあと思うのは,4004の果たした役割に対して勝るとも劣らない8080や8086,80386というCPUを語るには,4004のように役割だけではまだまだ足りず,そこに必ず技術的な話が必要になるということです。

 これはつまり,技術的な話が理解出来る人にしか,その功績を理解出来ないということを意味します。だから,4004に比べて8080や8086,80386の凄さというものが,一般の人々の間にまだまだ知られていないのだと思うのです。

 4004は世界初のマイクロプロセッサであり,ここからの説明は文系の人でも「世の中を変えた」だの「コンピュータが家庭に入った」だのと,まあありがちな話を適当に垂れていればそれで様になります。

 また,実際のところ,技術的側面において4004の凄さを語るのはなかなか難しいのも事実です。

 よく知られているように,4004は電卓ごとに作っていた専用の電卓LSIでは埒があかないので,1つのLSIで様々な電卓を作る事が出来るように,汎用性の高い電卓LSIを目指した中で誕生しました。

 キーボードとディスプレイと電源,場合によってはプリンタを繋げば電卓が完成する専用の電卓LSIは,全てハードウェアで電卓の機能を実現しています。それら機能の追加や変更があったら,いちいちLSIを作り直さねばなりません。

 これではとても大変なので,それらの機能をバラバラに分解し,それらをソフトウェアで動かすように考えたのが,当時のビジコンの開発陣です。足し算には足し算の命令を,かけ算にはかけ算の命令を,平方根には平方根の命令を,プリンタ駆動にはプリンタ駆動の命令を用意し,ハードウェアで作られたそれぞれの機能を呼び出すのに使うわけです。こうすれば,1つのLSIで様々な電卓を作る事ができます。

 ここまでの話を考えたのが,かの嶋正利さんです。このアイデアを実現してくれる半導体メーカーを探し回って,ようやく受けてくれたのはインテルだったのですが,当時のインテルにとって,彼らのアイデアを実現するには回路規模が大きすぎて,とても作る事ができませんでした。

 ここからがとても素晴らしいのですが,インテルのテッド・ホフさんは,この汎用電卓LSIの回路をもっと簡略化し,難しい動作や高い機能はソフトウェアで実現するというアイデアを提案します。テッド・ホフさんも嶋正利さんも,ミニコンピュータや汎用機をそれなりに知っている人ですので,それがコンピュータそのものであることを知らないわけはありませんが,発想はコンピュータのダウンサイジングではなく,電卓LSIの汎用化からです。

 0から9までの数字と,その数字の属性を考えると,一桁の表現力としては4ビットもあれば十分です。桁数の多い計算は何度も繰り返せばいいわけで,桁数分の回路を搭載するのは無駄だという話です。

 こうして,4004は4ビットCPUとして誕生しました。

 発注元のビジコンにとって,4004は彼らの要望を満たすための汎用電卓LSIに過ぎませんでしたが,言うまでもなく4004は超小型のコンピュータそのものでした。インテルはこれに気が付き,カスタムLSIであった4004を一般に販売できるように権利をビジコンから買い取り,MicroComputerSystem-4,略してMCS-4と名付けて販売をします。こうして,世界最初のマイクロプロセッサが登場したわけです。

 ところが,8080の素晴らしさというのはわかりにくいのです。8080の前には8008という8ビットCPUがありましたから,世界初とかインテル初という話にはなりません。しかし8008と8080は天と地ほど差があって,8086が8080の直系とするならば,現在のインテルのCPUの起点であると言って良いものです。

 16ビットのアドレス持ったこと,スタックをRAMに置いてネスティングレベルを事実上無限にしたこと,自由度の高い割り込みを持ったことなどが,明らかにそれまでの世代のCPUとは一線を画しており,下位のミニコンピュータに列ぶ機能を実現していたのです。8ビットCPUとしては,すでに完成形であったといって良いでしょう。

 8086は現在のIA32の元祖ですが,実はこれもわかりにくい存在です。世界初の16ビットCPUではありませんし,インテルにとって8086は当時主流ではなく,膨大な開発費をかけた別の本命CPUまでのつなぎとして考えられていましたし,主役に抜擢されたのも,その本命CPUが大失敗したからに過ぎません。

 8086が16ビットCPUとして優れていたのは,リニアではないにせよ1Mバイトまでアクセス出来るメモリ空間を持っていたこと,8080との互換性はなかったものの,8080を使った人がすんなり移行できるような継続性のあるアーキテクチャを持っていたこと,そして専用の浮動小数点演算プロセッサ8087が用意され,これと組み合わせれば,あたかも最初から浮動小数点演算命令が備わっていたかのように振る舞ってくれたことでしょうか。

 80386に至ってはさらにわかりにくい存在です。32ビットCPUとしてはいくつも先行した他社製品があり,インテル自身にとってですら初めての32ビットCPUではありません。ですが,80386こそ本当の意味で現在に続くIA32のスタートだと言えるものです。

 アドレス空間も32ビットで完全にリニア,ページング方式の仮想記憶をサポートし,メモリ保護機能とリングプロテクションを持っていました。また32ビットの汎用レジスタは機能に差がなくなっており,近代的なコンピュータとして最低限欲しい機能が全て入った,32ビットのコンピュータとして欠点のない,まさに全部入りのCPUだったのです。

 実は,8086もその後継である80286も,ちゃんとしたコンピュータを知る技術者からは散々な言われようをした,欠点だらけのCPUでした。同時期に出ていたモトローラの6800や68000との比較が常に行われ,「電卓あがり」だの「詰めが甘い」だのと,随分揶揄されたものでした。しかし,80386が登場してからそうした悪口を叩く人はすっかり消え,ライバル達もいつの間にかいなくなってしまったのです。

 機能として完成の域に達した80386はのちにIA32と呼ばれるアーキテクチャの起源とされ,以後登場する80486やPentiumは,基本的の80386の高速版として生まれました。のみならず,後継となるはずだった64ビットCPUのItaniumさえも蹴散らし,64ビット拡張まで行われて,まさに王者として君臨しています。

 インテルのCPUとてコンピュータですから,当然技術的に複雑で,加えてコンピュータ自身が急激に進歩した時期に開発が続いたものですから,その進化の意味や後に与えた影響を考察するには,相応の専門的な知識が必要です。

 問題は,そこまで深く理解して考察するべきかどうかで,現在のPCや家電品の高性能化を,果たして4004にまで遡るべきか,あるいは8080,8086,80386まで遡れば済むと考えるかは,それぞれの立場や理解力にかかってくるように思うのです。

 もしかすると,4004がなければ,コンピュータは小型化しなかった,つまりマイクロコンピュータは誕生しなかったという人がいるかもしれません。しかし,4004から数ヶ月遅れで,当時のNECから4ビットのマイクロプロセッサが発表されています。インテルがやらなくても,どこかの会社がコンピュータを半導体に作り込むことは,そんなに時間を置かずに実現していたことでしょう。

 いろいろ書きましたが,それでも世界最初のマイクロプロセッサが登場して40年。冷蔵庫ほどもある「設備」だったコンピュータ本体がシリコンの板に焼き込まれて,印刷物のように大量生産されたことでやってきた世界は,確実に我々の生活を変えたはずです。

 むしろ,インテルにしてもNECにしても,当初なかなか売れなかったマイクロコンピュータに見切りを付け,さっさと撤退してしまっていたらどうなっていたかを考える方が面白いでしょう。今時はどの会社でも,儲からないとわかればさっさと撤退しますから,もしかすると過去に撤退したものの中には,世の中を大きく変えたものがあったかもしれないですね。

GALAPAGOSは撤退か転進か

 シャープの電子書籍端末,GALAPAGOSの2機種が生産終了に伴い,販売終了とという発表がありました。後継機種が出ていませんので,事実上の撤退ということになります。

 GALAPAGOSはなにも端末の名前でもなく,電子書籍端末のサブブランドでもなく,電子書籍ビジネス全般の名称ですので,端末を出さないことが直ちに撤退,ということになるというのはやや勇み足でしょう。

 しかし,1年で100万台売る事を前提にして始めたビジネスが,10万台未満の数字で維持できるというのはあまりに甘く,また端末がAndroidマシンになった段階で,もうGALAPAGOSというエコシステムは実質「消えた」と見るべきでしょう。

 思えばその自虐的な名前で話題になって1年。発売からわずか10ヶ月で姿を消すまでの間に,これほど迷走したプロダクトも珍しいのではないかと思います。

 当初の直販のみという販売方法を実現するには,気が遠くなるほどの反対意見を説き伏せないといけなかったはずですし,それ以前にチーム内での議論にも随分時間をかけたのではないかと思います。

 それだけのことをやっておきながら,あっさりと店頭販売を認めたことが,私にはとても不自然に思えました。これがまず1つ。

 次に先にも触れた,Androidタブレットにするというアップデートです。もともとLiunxベースと発表されていたGALAPAGOSは,実のところAndroidベースと言っても差し支えがない物でしたが,Androidと名乗るにはいくつかの条件があって,それを満たしていなかった,あるいは時間的に間に合わなかったために名乗れなかったのだと思います。だから私は,戦略の変更というよりも,最初からAndroidで出すつもりだった,と考えていました。

 このアップデート自身は歓迎されるものだったと思いますが,これだって相当の議論があったはず。内部だけではなく外部の反論と闘わねばならなかったことは,直販専用にしたことと同じくらい大変だったはずです。これは,iPadと直接比較されるのか,されないのか,というメーカーに取ってもユーザーにとっても,とても大きな違いです。

 それがあっさり,iPadと同じカテゴリに入ってしまいます。ユーザーが欲しかったのは,電子書籍端末であり,なんちゃってiPadではなかったはずです。

 こういう,ユーザーの裏切り方というのは,近年大変珍しいと思います。そのハードウェア,そのビジネスモデル,その将来性,そのコンセプト,その「何か」に共感されて,製品というのはユーザーに買われるわけですが,ユーザーの支持を受けた「何か」が変わってしまうことは,新しいユーザーの獲得に繋がる一方で最もありがたい初期のユーザーを裏切ることに他ならないからです。

 どんなことでもそうですが,変化に追従することを歓迎する人でも,ぶれてコロコロ変わってしまうことを肯定する事は少なく,初期のコンセプトが突飛なもの(直販しかり専用端末しかり)であればあるほど,初期のユーザーの失望は大きくなるものです。

 まして,GALAPAGOSの場合,ぶれるというより,やめてしまうわけですから,もう失敗だったと言ってるに等しく,これを越える支持者への裏切りというのはもはや存在しません。ユーザーに対する罪と言ってもいいくらいです。

 しかし,このこと以上にGALAPAGOSの問題は,もっと本質的な部分,つまり「電子書籍端末」として機能したかしなかったか,にあります。

 この際コンテンツの数が少ない,ということをあげつらうつもりはありませんが,その数少ないコンテンツが面白いものだったか,欲しいと思う物だったか,わざわざ電子書籍で読みたいと思う物であったか,そしてこれが一番大事なのですが,今はなくとも待てばそれら優良コンテンツが出てくる事を期待出来たのか,今読んでいる本の次があるのかどうか,それを継続的に努力して行かなければ,結果は厳しいものになります。

 つまり,今GALAPAGOSをはじめとする電子書籍端末に投資する人というのは,今すぐに利便性を享受したい人以上に,未来への期待とそれに対する投資という観点が多いはずなのです。
 
 シャープはGALAPAGOSを発表するときに,なんといいましたか。

 一方,電子書籍に逆風が思った以上に吹いているということも,無視できません。

 現在,電子書籍を手に入れる方法(これはつまり電子書籍端末を使う方法と同義)には2つあり,1つは電子書籍を買うという方法,もう1つは自分で電子書籍を作るという方法です。

 後者の「作る」と言うのも,自分で書いてしまう自作もあれば,紙の本をスキャンする「自炊」と言われている方法もありまずが,どちらにしても前者の購入という手段があまりに手薄な現在,後者に頼らざるを得ません。

 自分で書いた物を自分で読むなんて普通はしませんから,実質紙の本をスキャンすることしか入手方法がありません。スキャナは進歩し,安くもなりました。なによりニュースなどでも採り上げられて,多くの人の知るところとなりました。

 しかしこのことが,私の想像以上に「負のイメージ」を持つ事に,驚いています。

 つまり,自炊はコピーだという認識です。もっと積極的にいうなら,違法コピーだ,どろぼうだ,ということです。

 私は,自分で買った紙の本を裁断し,スキャンし,捨てています。実体として価値のある物はスキャンせず本棚に入れておきますが,私にとって実体に価値のないものは,電子化しても価値は目減りしません。

 これはごくごく当たり前のことなので,私は自分の凝り性を自嘲気味に,自炊した冊数やスキャンしたページ数で自慢することがまれにあります。

 しかし,周囲の受け取り方がここ最近大きく変化したと感じています。それは,自炊=犯罪者,という見方です。自炊した本が何千冊ある,という言い方は,何千冊も本を買うはずがない,従って電子化された本をどこかからコピーしてきたのだ,という論法です。さらにたちが悪いのは何千冊の本を読むはずもなく,それをただ集めたいからでコピーしているだけ,と言う蔑まれ方です。

 冗談じゃありません。私は2000冊以上の本を自炊しPDFとして持っていますが,そのほとんどを読了しています。また,その本はほとんど全部,これまでに自分で購入した本です。

 まさか,本をデータという形で盗む人がいるなど考えつきませんでした。

 私が自炊をする最大の動機は,せっかく買った本を捨てずに,手元に残すという方法として唯一だからです。そして昨年,ようやくそのデータを紙ではない媒体で読む事が可能になりました。Kindleの購入です。

 買ってきた紙の本を裁断機で分解し,それをScanSnapでPDFにした後,Kindleに流し込んで読むというフローは,私にとってはすでに特別な事ではなく,日常となっています。毎日寝る前に読む本はすべてKindleになっていて,すでにこれが使えないという状況,例えば電池が切れているなどがあると,寂しくて仕方がありません。

 私は,結果として電子書籍端末で電子書籍を読むという行為そのものは,抵抗なく受け入れられるものだと考えています。しかし,その肝心な電子書籍が数冊程度では,たんなるガジェットに過ぎません。

 電子書籍端末は,電子書籍が増えれば増える程その価値が増大します。自炊しか供給元が現実的にない日本の電子書籍において,5冊のPDFと2000冊のPDFでは,自ずと電子書籍端末の価値も変わってきます。

 その自炊という行為が,およそ手軽に出来る物ではないため,ごく一部のマニアだけが電子書籍と電子書籍端末を便利に使っているというのが,詰まるところ今の日本の状態です。

 では,自炊の代行は正しい行為でしょうか。代行そのものは,問題ないと思います。ただし,入力は裁断前の本であり,出力は裁断後の本と電子ファイルのセットである必要があると思います。要するに代行者が勝手に紙を処分するとか,裁断後の紙をスキャンするとか,こういう事は禁止され,あくまで「代行」に徹することと,その責任は代行を依頼した人が全て負うことが必要でしょう。

 だから,裁断済みの本を貸す業者や,裁断済みの本を置くマンガ喫茶にスキャナが常備されるとか,代行業者が本を買ってくるとか,そういう行為はアウトです。

 しかし,この代行という仕事は,とにかく違法行為と隣り合わせです。現実的に犯罪行為を行っていると見られることも不可避でしょうし,代行業者にその気がなくても知らず知らずのうちに犯罪の片棒を担ぐことになることも大いに考えられるわけで,このことを織り込み済みで商売をしない限り,うまくいかないと思います。つまり,手間とリスクと代金の相場を考えると,割の合わない儲からない仕事なのです。

 健全な形は,出版の1形態としての電子書籍が販売されることに他なりません。紙の本と電子書籍を選ぶことが出来ればなお良いし,どちらかだけでも良いのですが,いずれにせよ個人の所有物を加工するという「自炊」は,あくまで個人の所有物だから許されているのであり,これが個人の枠から離れるようなことがあると,その段階で問題となります。

 電子書籍の世界に古本はありませんから,電子書籍の出所は,出版社か個人所有の加工物か,いずれかしか存在しません。

 こう考えた時,GALAPAGOSは,いったいそれを支持したありがたいアーリーアダプタに対し,一体何を与えたでしょうか。電子書籍の整備が出来ないので汎用のAndroid搭載マシンとして使って下さい,というのは,あまりに彼らをバカにしていると思いませんか。

 なかには,こうなることは薄々分かっていたとか,うまくいくはずがないと思っていたので驚かないとか,そういう覚めた意見が出ているようです。ですが,GALAPAGOSを信じて買ったユーザーのためを考えたら,ここまであっさりと「あきらめる」ことがよくも出来たものだと,震えが来るような気分の悪さを感じませんか?

 ここまでの完全撤退だと,かすかな希望も見えません。

 はしごを外されてしまったユーザーが,シャープという会社の責任についてどんな風に考えているのか,知りたい所です。

 もし,amazonがKindleをやめたら?ええ,私は別に構いませんよ。だって,KindleはPDFビューワですから。

 GALAPAGOSだってそういう考え方で使っている人がいるかも知れません。

 1つだけ思い出して下さい。

 GALAPAGOSを始めるとき,シャープはパソコン事業から撤退して,GALAPAGOSに集中すると言っていました。MZ-80に始まるシャープのパソコンの歴史は,日本のパソコンの歴史と言える時期もありましたが,それを生け贄にしてまで始めたGALAPAGOSがこの有様ということは,もうシャープには新しい事業を育てる力はないということを露呈したのだと思います。

Steve Jobsが去るとき

 テレビのニュースでも相当の時間を割いて報道された,米AppleのCEOであるSteve Jobs氏の突然の辞任。私が今さら書くことなどなにもないので,この話には触れないでおこうと思いましたが,Apple][と「二人のスティーブ」を知って30年,Macintoshを愛機として使うようになって20年,そのころから常にAppleとJobsを意識していたことを思い起こすと,やはり1つの時代が終わったと感じざるを得ず,簡単でも書いておかねばならないと思うようになりました。


 昨夜のニュースをいくつか見ていて思ったのですが,どうもJobsを「カリスマ経営者」としてまとめてしまい,変革者としての偉大な功績をたたえることに終始したが故に,その多面性を伝え切れていないように思うのです。

 彼だって人間です。特に若いときの傍若無人ぶりから,多くの敵がいたし,多くの失敗を重ねてきました。今の彼のありようは,当たり前のことですが,それら全てを包含しているのです。

 私とて,彼と友人でもなんでもなく,会ったことすらありませんから,普通の人が触れることの出来る本や映像などの情報から得られる物からの想像によるわけですが,これらに加えて30年近く前からASCIIやI/O,Oh!PCやOh!MZなどの雑誌に目を通し,そこに掲載されていた海外ニュースを通じて,経営者としてよりはむしろ,コンピュータ業界の「お騒がせ屋さん」として彼を「リアルタイム」に知っていた事実は,当時の彼がどんな評判だったかという記憶も加味して,「iPhoneの人」「プレゼンの達人」という程度の知識の今時の人々を凌駕していると自負します。

 まず,Macintoshが生まれるまでのエピソードは,バトルオブシリコンバレーというTVドラマが大変良くできていると思います。元ネタはあれだな,と思う映像がたくさん出てきますが,複数の本を読みこなすより,このドラマを2時間見た方がよほど正確で,楽しく当時の状況を知ることが出来るでしょう。ドラマの放送時点で話題になった登場人物が大変似ている,という話は本当で,「ふつう知らんぞ」と思うような一瞬しか出番のない登場人物でさえも,そっくりです。これだけでも見る価値があると思います。(アデル・ゴールドバーグはちょっと美化されてますが)

 そして,自らが口説いたScullyに追われる身になってからのJobsです。ScullyはJobsを追い出し,その割に彼が大した功績を残せなかったこともあって,評価されてはいませんが,当時のJobsは確かにAppleにとって有害であり,誰かが決断しなければならなかったことを考えると,Scullyは少なくとも自らの野心だけでJobsを追い出したのではないと思います。

 ということで,彼の「失敗」を列挙してみましょう。

(1)Apple///
 Jobsがイニシアチブを取ったApple///は,IBM-PCをに怯えてか,ビジネスよりのマシンとして企画されたが,Apple][との互換性が軽視されたこと,放熱ファンの搭載をJobsが「絶対」に許さなかったことで故障が頻発したこと,そして独自仕様のフロッピードライブの自社生産にこだわりここでも故障を連発したことで大失敗し,Appleに相当の損害を与えた。
 当時Appleを支えたApple][がなぜ売れていたのかを冷静に考えず,また裏付けのないまま直感に頼った方針決定が失敗の原因。

(2)Lisa
 XeroxのPARCで見たGUIに衝撃を受けてLisaを作ったところはさすが,であるが,そのLisaが向いていた方向が,またもやビジネスだった。ビジネスマンが当時マウスとビットマップディスプレイを必要としていたのかどうか,まずそこが疑わしい。
 日本円で100万円を越えるマシンを重役以上がデスクにおくことを狙ったそうだが,それで何台売れると考えたのか。
 またソフトは全てAppleが開発してバンドルするという方針も,ソフト会社を締め出すことに繋がっている。ハードウェアの信頼性も低く,しかも高価な別売りのハードディスクがなければ実質動作しなかった。
 ちなみにMacintoshXLに改修されなかったLisaは,砂漠に埋められたらしい。

(3)初代Macintosh
 Lisaを安くしようという流れは正しく,そのために開発された技術(QuickDrawやToolBox)も確かに素晴らしかった。しかし,相変わらず放熱ファンを許さなかった事による信頼性の低下や,拡張性を認めず,ユーザーが筐体を開くことすら許さなかったことは,Macintoshというマシンを「過信」していた事の現れである。
 この勘違いは,結果として膨大な在庫としてAppleを圧迫し,レイオフまで余儀なくされるほど深刻な事態を引き起こした。
 Jobsが許さなかった放熱ファンの採用と拡張性は,Jobsが追放されてからのマシンには搭載されるようになり,コンピュータとして評価されるようになった。

(4)NeXT Computer
 JobsがAppleを追われて作ったNeXTというマシンは,その先進性が今日伝説になるほどの素晴らしさを誇っていたが,ストレージがハードディスクの何倍も遅い光磁気ディスクであったり,処理能力が不足していたりと,ハードウェアの能力が不足していたのが現実であった。
 また非常に高価なマシンで,納入されたのは大幅なディスカウントがある大学など教育機関がほとんどであったため,利益を生み出すことはなかった。
 後にNeXTはハードウェア部門をキヤノンに売却,AT互換機で動作するNEXT STEPを商売にしようと試みるが失敗。

(5)PowerMacG4 Cube
 Apple復帰後のマシンだが,放熱ファンを搭載しないことでまたもや信頼性を落とした。タッチセンサ式の電源スイッチは誤動作を連発し,ウェルドラインが目立つようなデザインにこだわりすぎたためクレームも連発。短命に終わる。


 (4)と(5)はちょっと置いておいても,(1)から(3)はどれか1つだけでも,創業社長の大失敗としては破格の物があり,普通なら速攻会社を潰したか,緊急動議で社長解任てなことになったと思います。そうならなかったのは,Apple][が利益の源泉として機能し続けたことと,やはり「怖い人」であったJobsに対する遠慮があったのだと思うのです。なんといっても創業者です。やりたい放題で,気に入らない奴には容赦ない罵声を浴びせ,クビにする。

 そんな厳しさの中で,良識ある人は彼の元を去ったし,残った人は彼の機嫌を損ねないようにしていました。彼と対等に話が出来るメンバー,例えばMike MarkkulaやWozniakは,彼を何度もたしなめ,ブレーキを踏み,時に尻ぬぐいまでやるわけです。そして,彼らでさえ「手に負えない」とさじを投げたとき,貧乏くじを引いて彼に最後通告したのが,John Scullyだったというわけです。

 JobsはNext Computerを設立して,自分の作りたかったコンピュータを作ることにしますが,それが必ずしも他の人が欲しいと思うとは限らない事実を思い知ったはずです。しかし,当時の彼には,Appleに一泡吹かせてやりたいという,ある意味で不順な動機が強かったように思います。

 決してうまくいっていない会社の社長が,傍若無人とも言える横柄な態度であったことも問題で,私に言わせればNeXTが失敗したのは必然です。


 そして彼は,ふとした縁からPixarを買うことになります。Pixarは技術的には素晴らしく,これに私財をなげうったJobsの先見性には脱帽で,本当に一文無しになる寸前まで相手を信じてPixarを支え続けて,ギリギリの所で大成功を収めるというドラマチックな話は,Jobsという人の転換点を示しているように思います。

 PixarではAppleやNeXTの時とは違って,お金は出すけども口は出さず,彼らにやりたいようにやらせていました。これは映画,とりわけCGという,Jobsにとっても口出しできない分野だったこともあるでしょうし,そうした素人の口出しが失敗に繋がることを確信していたからだとも言われています。

 なかなか成果が出ないPixarでしたが,それでも,Jobsは信じてお金をつぎ込みます。彼らを信じて成功に導き,Jobsは現在ディズニーの取締役です。

 Jobsはここで,自分以外はバカだ,と言う考えを捨て,相手を信じ,お金を持っている人間が何を成すべきかを考えて,その役割を忠実に遂行することを体得したように思うのです。Jobsが人の上に立ち,成功に導く経営者として飛躍するのは,この時からだというのが,私の考えです。

 Appleに戻ってからのJobsは,専門家として口を出す経営者として数々の成功を収めてきました。iPodは音楽の持ち歩き方を変え,iTunesStoreは音楽の売り方と買い方,そして作られ方をも変えてしまいました。iPhoneは一部のマニアのオモチャだったPDAとスマートフォンを一般に広めて人々の知的能力を平均的に底上げしましたし,MacOSXは常にパソコンOSの先頭を走っています。

 全てがJobsの成果物ではないと思いますが,Jobsは自分が口を出すべきところと,出さざるべき所をちゃんと区別するようになったのではないかと思います。そして,成功によってのみ,自分のいう事を人が聞いてくれるようになるのだという真理も,実感しているのではと思います。

 Jobsという人が人間的に豊かになり,彼の話に涙を流す人が現れて,人間としても尊敬を集める存在になったとき,彼は病魔に襲われます。ニュースで見た,やせこけたJobsの姿は実に痛々しい物ではありましたが,その表情からはつかみかかるような厳しさや傲慢さ,その裏に潜む劣等感が消え,まるで聖人のような気高さのようなものを,持っているように感じました。

 Jobsという人の魅力に,改めて気付かされた,昨日のニュースでした。

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