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Break away from the past

 Googleが老舗のモトローラを買収したニュースは,お盆でぼやけていた日本人の頭をたたき起こすようなニュースでした。Androidが1兆円近いお金をかけてもらえる子供に育ったことを,関係者はどんな風に見ているのでしょうか。

 私個人は,携帯電話メーカーとしてのモトローラにはそれほどの思い入れはありませんが,三角波と正弦波をうまく組み合わせて「M」という頭文字をデザインしたあのロゴは,小学生の時に眼にして以来「いいなあ」と思っていました。

 モトローラは1928年(昭和3年)にシカゴで創業,当時は創業者の名前を冠してガルビン製造会社と名乗っていました。ラジオの部品(という補助パーツ)を作っていた経緯から,1930年代の自動車ブームに乗って,カーラジオの製造に乗り出します。

 当時のラジオは大きく重く,さらに自動車という劣悪な環境で動かすにはとても難しいものでした。電源だって,初期は大きな蓄電池やAC電源を使うもので,およそ「モビリティ」とは相容れないものでした。

 ガルビンのカーラジオは,自動車を表すMOTORとラジオを表すOLA(これはピンとこないでしょうね,でも戦前のなんとかオラというラジオの名前はよく見られたのです)を組み合わせたMOTOROLAをブランド名にします。公式には動きを表すMOTOと,ラジオを表すROLAを組み合わせたものとなっていますが,まあ意味するところは同じようなものでしょう。

 なんと1928年の創業です。ラジオを手がけ,軍用を含み通信機を手がけ,戦後は半導体を手がけ,コンピュータを手がけて,モトローラは通信とコンピュータという20世紀の特徴的な技術で巨大な会社となりました。

 私くらいの世代にとってのモトローラは, C-MOSロジックの14000シリーズと,MPUであるMC6809やMC68000,そしてPowerPCでしょうか。モトローラは戦前から続く大企業ですし,意志決定や品質維持のためのプロセスはすでに確立しており,話を聞くととても官僚的だし,出世のための派閥抗争も並の民間企業程度にはあったそうです。

 半導体はいわばベンチャービジネスで,ライバル達はインテルやナショナルセミコンダクタなどの若い会社ばかりです。TIやレイセオンがようやく相手になる会社かなと思っていたのではないでしょうか。

 ですが,モトローラの半導体は,日本市場を重視してくれていたこともあり,とても入手しやすかったのです。私が子供の頃,部品屋さんで4000シリーズを買うと,日本製よりもモトローラ製の方が多かったこともしばしばです。価格も安く,性能も良く,品種も揃っているので,子供だった私はあのMマークを見て,アメリカというエレクトロニクスの本家本元に胸を焦がしていたものでした。

 そして1980年代,マイクロプロセッサは若くて元気のあるインテルの80系と,大量の資金と優秀な技術者を抱えた巨大な老舗モトローラの68系という,何もかも対照的な2つで覇権争いが本格化します。

 これだけ違うものですから,棲み分けだって出来たと思うのに,彼らは闘うことを選びました。後に巨大企業のIBMと組みPowerPCを手がけることを,この頃誰が想像したでしょうか。

 モトローラが顧客としていた企業に,アップルがあります。初期のMacintoshはMC68000を用いていました。アップルはインテル以上にくだけた会社でしたが,ヒッピーの集合体のような会社を,1970年代にモトローラがまともに相手をしていたとは思えません。

 Macintoshが登場したときには,すでにアップルは大きな会社になっており,アメリカンドリームを具現化した夢の会社として有名でしたから,さすがにその頃にバカにされることはなかったでしょうけども,それでもモトローラが彼らの文化や思想を理解出来ずにいたことは,想像に難くありません。

 そのモトローラは,次第に儲からないビジネスを切り売りしていきました。

 半導体は大規模なLSIをフリースケール,トランジスタや小型の半導体をオンセミコンダクターとして分社化,すでにMマークの半導体を手に入れることは出来なくなっています。ICの型番にMCがついているところに,その名残を見ることが出来ます。

 モトローラはテレビ工場を1980年代にパナソニックに売却してテレビ事業から撤退していますし,軍事関係はジェネラルダイナミクスに売却,衛星電話もイリジウムの破綻で撤退しています。世界で最初の携帯電話を開発した会社らしく,携帯電話メーカーとしての生き残りをかけていましたが,それも携帯電話部門とソリューション部門で会社を分割し,これをGoogleが買ったことにより,モトローラは我々から非常に遠い会社になってしまいました。寂しいものです。

 かつて,MC68000が登場した時,そのユーザーズマニュアルの表紙には,「Break away from the past」と書かれていました。

 インテルが8ビットを引きずった8086を出していたことに対し,MC68000は未来を見据えた気高い思想と引き替えに,究極の8ビットと呼ばれたMC6809との互換性を捨てました。

 MC68000は高い評価を受け,絶賛されたわけですが,勝負は結果としてインテルに軍配が上がり,モトローラは切り売りされてしまったのです。

 なにがモトローラをそうさせたのか,その理由を知りたいものです。

春が来る

 春になりました。

 4月だというのに,東北の被災地では雪もちらつき,首都圏でも朝と夜には冷たい風が吹きますが,それでも注ぐ太陽の光は,明らかに春先のそれです。

 桜の花もまるで暦を数えていたかのように咲き始めました。我々の周囲で起こっていることなど,気にもかけないたくましさを感じ,やや複雑な気分になります。

 私は春という季節が嫌いです。花粉症はありませんから身体的な都合は皆無ですが,冬の寒さが好きな私は暖かくなる気配を感じることがそもそも鬱陶しいのです。

 6月の梅雨,7月と8月の猛暑,9月の残暑と,湿気と暑さに弱い私にとってはこれから始まる数ヶ月の厳しさに,まさにめまいがしそうです。

 私にとって,新年度のスタートはもはや夢も希望もなく,3月の次の月が4月というだけの話に過ぎません。

 春だから,と言う単純な理由で浮かれる人たちが多くいることをも,気に入りません。もっと積極的にいうと,春が嫌いな事以上に,浮かれた人を見るのが大嫌いです。

 寒いのにおしゃれをしたいという理由で震えながら丈の短いスカートをはく女の人。寒いのに桜の木の下で震えながら冷たい弁当を騒ぎながら食べる人。それは本当に自分の意志でやってますか。誰かに何かに踊らされていませんか。

 まるで虫が這い出してくるようにそこらかしこに人が増え,わざわざ通勤の電車を混雑させ,しかも彼らは一様に土埃を引き入れてきます。一体どこに行くのですか。

 どうして春でないといけないのか。

 変わらぬ日常を楽しみ,繰り返される連続の中で平穏を生きることの落ち着きを,春という季節の訪れと環境の激変が,完全に吹き飛ばして壊してしまいます。

 ・・・壊す,そう,1年に一度,この季節は,凝り固まった体を伸ばし,活動のためのトリガをひく,そんな時期です。もし,この季節がなかったら,日々の平穏と引き替えに,新しい発想も,新鮮な気分も,1年に一度必ず手に入れていたはずのものを,失っていたかも知れません。

原子力発電~11の疑問

 原子力発電には,かねてからいろいろな意見があり,必要だとする人とやめるべきだという人とに分かれているように思います。どちらの意見にも正当性があり,かつ単純な良し悪しではない要素を含んでいるため,なかなか綺麗に判断出来ません。

 そんな曖昧な中で国の原子力政策は進んできたところがあるのですが,今回の大きな事故で原子力政策はおろか,原子力そのものに対する信頼は地に落ち,私のようなかつて推進派だった人間の目から見ても,もう日本で原子力が受け入れられることはないだろうなと思わざるを得ません。

 反対派の人も推進派の人も,それなりの論拠を持って自らの主義主張を組み立てているわけですが,中にはそれが正確ではなかったり,それまでの経緯を知らなかったりで,当てはまらないものもあるように思います。

 私も同じ疑問を持っていたことがありますが,今知る限りのことを書いてみます。


(1)そんなに原子力発電が安全なら,東京になぜ作らない?

 これは,作らないのではなく,作る事が出来ないが正しいようです。

 原子力発電所の建設には,地震が起きにくい地域であること,万が一の地震にも十分耐えうる固い地盤,消費地に近く,冷却用の水資源に恵まれ,かつ広大な土地である必要があります。

 実は,東京の周辺には,こうした土地が少ないのです。そこで,福島や新潟といった所に建設せざるを得ないのです。決して原子力発電が危ないから東京を避けているというのが理由ではなく,無理に東京に作ったら本当に危ない施設になってしまうから,と考えるべきと思います。

 東京に作ると土地の獲得に膨大なお金が必要になり,建設費が高騰するでしょうから,土地の価格が安いところに作ろうという理屈は,地方に半導体の工場が多くあるのと同じ理屈でしょう。原子力発電所も大規模プラントですから。

 ただし,誰も口には出しませんが,万が一の時に首都が消滅するか地方都市が1つ地図から消えるか,どちらを選択しますか?という話が,内緒で議論されなかったはずはないと,私は思っています。


(2)原子力発電所を受け入れたところにお金をばらまくのは買収じゃないか?

 そういう側面があることは否定できないと思いますが,これも1970年代のエネルギー政策にその経緯を見ることが出来ます。

 経済成長が進み電力需要が高まるなか,日本は主に水力発電所を建設してその需要に応えてきました。しかし,日本国内にはもう大規模な水力発電所を建設する場所はなく,また天候に左右されることもあって,次の一手を考える必要が出てきました。

 その頃,ちょうど石油が安く安定して供給されるようになったので,水力発電を主にするのではなく,火力発電所を主にする方針に切り替わりました。そこにやってきたのがオイルショックです。

 ここに至って国はさらに新しいエネルギーを考える必要が出てきたのですが,その結論が原子力だったのです。原子力発電は戦後多くの国で稼働し,その安全性も信頼性も一定の評価を得ていました。また,規模の大きな発電所を作る事も可能で,しかも発電コストが安く,燃料の枯渇を心配することもないという,まさに理想のエネルギー源だったのです。

 火力発電所は東京の周辺,例えば川崎などにもあったのですが,同じような場所に原子力発電所を作る事は立地条件から難しいため,どうしても地方に建設せざるを得ません。

 そこで,当時の政府が考えたのが,

東京に建設できない発電所を地方に作る->
 発電所で作った電気を東京に送ってもらう->
  その電気で東京がお金を稼ぐ->
   感謝の気持ちを込めて地方に儲けたお金を戻す

 という仕組みです。この「感謝の気持ち」は私の脚色ですが,当時の政府の考え方は,新幹線と高速道路で国中を結んぶ列島改造がプランとしてありましたし,再配分による富の平均化という観点から考えても,あながちウソではないのではと思うのですがどうでしょうか。

 ところが,こういう流れを勝手にやるわけにはいきません。そこで作られた法律がいわゆる電源三法です。この法律によって,上記の仕組みが整備されたわけです。

 これを「買収」というのは確かに事実かも知れません。しかし,原子力が安全という前提で話をすると,米の産地,魚の産地,工業地帯,首都機能,と言ったように,それぞれの地域がそれぞれの役割を担っていくことはごく普通のことです。

 原子力発電所にはそれ相応のリスクもあるし,そこに済んでいる方々の心情も考えねばなりません。お金で解決といえばダークな話ですが,現実問題としてお金以外に再配分する方法もまた,見当たらないのです。

 ところで,この考え方は,経済成長が続き,法人税を含む税収が毎年伸びて,そのお金をどこに使うか,と贅沢な悩みをしていた高度成長期のころのお話であることも頭に入れておいた方がいいかも知れません。現在のように収入の多くを借金に頼り,人口は減り続け,毎年税収が落ち込むかも知れないという状況では,必ずしも正しい方法とは言えないと思います。


(3)なんで原子力発電でなくてはならないの?

 原子力発電所を1つ作ると,ざっと100万キロワット以上の発電能力のある発電所が,安定して数十年間稼働し続けます。こんな発電所は,今は他にはありません。

 火力発電は石油にしても天然ガスにしても,日本にないエネルギーを燃やしますので,ハードウェアとしての発電所を作っても,それが安定して稼働するかどうかはわかりません。それに,昨今の環境問題を考慮すると,これが本命の発電方法とはどうしても思えません。

 水力発電は理想的かも知れませんが,発電量が圧倒的に小さく,原子力発電所の1/4とか1/5程度しかありません。それこそ,大きな川をせき止め,山間の村を1つ2つ水没させ,それでこの程度の発電量というのは,私には割が合わないように思えます。

 太陽熱発電,風力発電など,確かにいろいろ考えられていますが,1機で100万キロワットを安定して発電できるような設備にはほど遠いのが現状で,現実問題として原子力発電以外に,今の電力需要に応える方法がない,というのが私の結論です。

 ただし,これも原子力発電が安全であることが,大前提です。


(4)電気は貯めておけないの?

 電気を貯めておければ,夜のうちに作って貯めておくとか,外国から買うとか,いろいろ手は考えられそうな気がします。

 しかし,電気は貯めておけません。もちろん,充電池を使えば貯めることは出来ますが,これは電気エネルギーを化学エネルギーに変換して蓄えるものであり,電気そのものを貯めているわけではないことに注目してもよいでしょう。

 エネルギー変換を行うわけですので損失も結構出ますし,充電にも放電にも一度に出し入れできるエネルギー量に制限があるので,実はとても面倒なのです。それに,発電所の代わりになるような大きな電力を蓄えるだけの電池は世の中には存在せず,それは最近ようやく実用になった電気自動車が,それでも走行距離で200km程度だったりすることからも,明らかでしょう。

 ということで,電気を貯めておくことが出来ない以上は,必要な需要分だけ発電しておくしかありません。しかし,最近の計画停電で広く知られるようになったとおり,電力需要には一日,あるいは一年で変動があり,その最大値に合わせて発電を行っていると,無駄が大きすぎて話になりません。

 かといって,原子力発電や火力発電は発電量のコントロールが難しく,最大効率で動かすには一定の発電量を維持するのが望ましいのです。

 そこで,発電量の調整に,先程の水力発電をつかうのです。水力発電は発電量こそ小さいですが,水を落とせば発電し,止めれば発電も止まりますから,発電量の調整が比較的簡単にできるのです。そこで,原子力発電や火力発電で一定の電力を発電しておき,変動分を水力発電でカバーする方式が,最近は一般的です。

 もう1つ,揚水発電という方式もあります。夜,電力需要の小さい時にダムに水を電気でくみ上げておき,電力需要の大きくなった昼間にその水をダムから落として,発電します。これは,電気エネルギーを位置エネルギーに変換して蓄える仕組みです。

 大変合理的な方法だと思ったのですが,これもどんな発電所でもできる訳ではなく,一説ではすでに日本で揚水発電が可能なダムは新規に建設出来ないのだそうです。


(5)原子力発電を使えば石油と違って無限のエネルギーを得られるんだけど?

 これは間違いです。よく,原子力は夢のエネルギーと言われますが,現在の原子力発電所は天然ウランのうちわずか0.7%しか含まれていない,「燃えるウラン」しか使えません。現在の燃えるウランの需要と採掘コストを勘案すると,ざっと60年で枯渇します。

 例えば30年後に巨費をかけて建設した原子力発電所は,ウランが枯渇する30年以上の長期稼働が出来ないことになり,それ以後はゴミになります。恐ろしい話です。

 なにも,埋蔵量の少ないウランを燃やすことはないのでは,という発想から,プルトニウムや天然ウランの主成分である「燃えないウラン」を無理矢理燃やす原子炉も研究されています。これが高速増殖炉ですが,とても難しい技術ですので,まだ誰もこれを商用に実用化したことはありません。


(6)原子力発電は低コストの発電だよね?

 その発電量と稼働率,稼働期間から考えると,確かにエネルギーあたりのコストは他に比べてずっと低いと言われています。

 経済産業省が出した2008年エネルギー白書のデータですが,1kWあたりの発電コストは,

水力:8.2~13.3円
石油:10.0~17.3円
天然ガス:5.8~7.1円
原子力:4.8~6.2円

 と言うことです。

 この数字を信じると「ほらみてみ原子力は安いんやで~」と推進派は小躍りしそうなものですが,ここには3つの要素がかけています。

 1つは,燃料価格の高騰です。日経によると,昨年秋のスポット価格は,昨年春に比べて4割以上も上昇したとのことです。世界的な原子力発電ブームを受けてウランの需要が高まっていること,旧ソ連の核兵器を解体したときに出てくるウランをアメリカが購入する契約が2013年に切れること,そしてこれらを見越した投機マネーが流れ込んで来ることから,ウランの価格が上がっています。ウランは一度装填すれば数年燃え続けますので,短期的な変動の影響は受けにくいかも知れませんが,それでも価格高騰の影響があることは避けられないと思います。

 2つ目は,稼働率です。この白書では,稼働率を最大85%としていますが,小さいトラブルがあったりして,実際には50%程度と言われています。稼働率の低下はコストにきいてきますので,今の稼働率で考えるとこの価格ほど安くはないでしょう。ある試算では,稼働率が50%で約8円になるそうです。ん?天然ガスよりも高くなってる?

 そして最後に,廃炉の費用です。これは私も正しい情報の入手をしていないのですが,1989年以降,毎月の電気料金に広く薄くのせられ,積み立てられているようです。ただし問題なのはその金額で,1基あたり約550億円を前提にしてあります。

 しかしながら,100万キロワット級の原子力発電を廃炉にした例がほとんどなく,その費用がどのくらいかかるか正確に分かるはずもありませんし,そもそも放射性廃棄物は処分ではなく保管しか手がない中で,最終的な処分費用など見積もれるはずがありません。

 費用だけではなく放射性廃棄物という負の遺産まで,未来にかかる負担を先送りにし,今のコストで電気代を我々は支払っているわけで,いわばツケを次世代に先送りしているだけなのかも知れません。これって許されることなのかなあと,私などは心配になります。

 参考までに,中部電力は浜岡原発1号機と2号機の廃炉に,それぞれ約900億円を見積もっているのだそうです。本当にこの費用で収まるのか,解体中に事故でも起きたら一気に費用は膨れあがりますし,お金だけではなく解体作業にかかる時間が何十年(一説では30年もかかるらしい)もかかること,その間危険を伴うこと,そして廃材の一部は結局保管するしかないということから考えて,これほど後始末が大変なプラントを作る事が果たして正しかったのか,やっぱり首をかしげたくなります。

 そうそう,1つ言い忘れていました。この積み立てのお金は,先の発電コストには入っていません。さらに,かなり大きな金額になる核燃料の再処理費用も含まれていません。


(7)核燃料サイクルと原子力発電の関係は?

 とてもややこしい話なのですが,前述の通り原子炉で燃えるウランは天然ウランのうち0.7%ほどしか含まれていませんし,全量輸入に頼る日本としては,安定した燃料の供給を考えていかないと,原子力発電が継続できません。

 ところで,この燃えるウランを燃やすと,プルトニウムができます。本来このプルトニウムは普通の原子炉では燃えないのですが,実は一部は核分裂を起こして燃えています。

 こうして,使用済みの核燃料にはプルトニウムが生成されています。もともとウランを燃やす原子炉は,核兵器製造用のプルトニウムを作る原材料プラントとして稼働を始めたという経緯もあるくらいです。

 このプルトニウムを取り出し,燃えないウランと混ぜて新しい燃料を作ります。そしてこれを「高速増殖炉」と呼ばれる原理的に異なる原子炉で燃やします。高速増殖炉は燃えないウランやプルトニウムを燃やすことが出来るばかりか,投入した燃料以上のプルトニウムを作り出す,夢の原子炉です。

 最初は,高速増殖炉が実用になり,燃えないウランとどんどん作られるプルトニウムによって,ほぼ無限のエネルギーを得る予定でした。しかし前述の通り高速増殖炉はあまりに難しく,結局予定通り実用にはなりませんでした。

 しかし,燃えるウランは数十年で枯渇し,しかも燃えた結果プルトニウムはどんどん溜まっていきます。これでは原子力発電は近い将来立ちゆかなくなります。

 そこで,普通の原子炉でも一部のプルトニウムは燃えていることに目を付け,使用済み核燃料から燃え残った燃えるウランとプルトニウムを取り出し,新しい燃えるウランと適当な割合で混ぜて,普通の原子炉でも燃える燃料に再加工します。これが再処理です。

 こうすると,今までどうすることも出来なかったプルトニウムを燃料として使うことができ,同時に燃えるウランの使用量も減らせます。これをプルサーマルといいます。(プルサーマルは和製英語で,日本でしか通じませんのであしからず。)

 しかし,問題はここからです。プルトニウムの割合を増やしたプルサーマルでは,ほとんど燃えないアメリシウムやキュリウムという馴染みのない元素が生成されてしまいます。これはもう本当に使い道がないそうで,プルサーマルばかりをやっていても結局高い放射能を持つ生成物が溜まってしまうのです。

 ところで核燃料サイクルにはもう1つ大事な意味があります。それは,核兵器を作る原料となるプルトニウムの使い道を作り,「ためてないよ」という国際的な宣言をすることにつながることです。

 プルトニウムは大変やっかいな元素ですが,なんと言っても核兵器を作る事の出来る材料だけに,作るだけ作って使い道がない,などということはとにかく物騒です。核兵器を作ってません,といっても信じてもらえるかどうかわかりませんし,本当に作っていなくても盗まれたら終わりです。作った分だけ厳重に管理しておかねばなりません。

 だから,使ってしまわないといけないわけですね。繰り返しになりますが,本来ならプルトニウムや燃えないウランを直接燃やす高速増殖炉が実用化していれば,こんなことは心配なかったのでしょうが,人類が無限のエネルギーを手に入れるなどというのは,神様もお許しにならなかったということでしょうか。
 

(8)他のエネルギーはないの?

 現実問題として,かなり難しいのではないかと思います。先程のエネルギー白書によると,1kWの発電コストとして,太陽光が46円,風力が10~14円と試算されています。

 太陽電池があるじゃないか!じゃんじゃん作っていけば問題ないよという皆さん,太陽電池を作るために必要なエネルギーを忘れていませんか?ここ数年で,製造時に必要なエネルギーを,その太陽電池が寿命までに生み出すエネルギーがようやく上回ったと言われています。これまでは,太陽電池を作れば作るほど,エネルギーは減っていました。

 ただし,太陽電池も途中で壊れますし,光りが当たらないときもあります。そういう状態まで考えるとまだまだ製造時に必要となったエネルギー以上を生み出せるようにはなっていません。

 燃料電池という話もありますね。でも,これも同じ理屈です。燃料電池の燃料は水素,もしくはエタノールや天然ガスなどの炭化水素です。これを作るのに電気がいるのです。

 究極的には,人工太陽である核融合炉を作る事でしょうが,これはもう全く,可能性さえ見えないくらいに遠いところにある未来技術です。それに,核融合炉を研究し,作るのに,エネルギーがふんだんに使えることが前提です。

 そういう尺度で見た場合,やっぱり現実的な話として,今のエネルギー政策を延長させていくしか,もう方法がないんじゃないかと,そんな風に思うのです。


(9)電気じゃなきゃだめなの?

 そんなことはありません。しかし,電気は貯められない代わりに,熱にも動力にも計算能力にも,様々なものに高効率で化けることの出来る万能エネルギーであることを忘れてはいけません。

 石油も天然ガスも高いエネルギーを持つ燃料ですが,基本的にこれらからエネルギーを取り出すには燃やすしかありません。燃やしてしまうと熱にはなりますが,これを別の形にするには手間もお金もかかって,しかも多くを熱のまま失ってしまいます。もったいない話です。

 火力発電も原子力発電も熱を電気に変えるところまでは同じなのですが,なにせ規模が大きいので,その変換効率をあまり悪くしないで済みます。プラントというのは,規模が大きい方が効率がよいのが普通です。火力発電では実に40%もの効率を達成していますし,一部には60%もの効率を誇るものもあるそうです。これはすごいですね。


(10)この際,昔のエネルギー消費量の水準に戻して慎ましく暮らさないか?

 うーん,私もそれが出来るなら,そうした方がよいのではないかと思うのですが・・・少し考えてみましょうか。

 空調は,この際我慢しましょう。熱い寒いは昔の人は辛抱しました。テレビなんかどうせ見てませんし,なくても困りません。いらないです。

 冷蔵や冷凍はどうしましょうか。産地と消費地を距離に関係なく結ぶこの技術がなくなったら,昔のように消費地の周辺に産地を作らねばなりません。これは結構大変かも知れないですね。

 鉄道や物流などのインフラもずっと慎ましいものになります。工場などの企業活動も大幅に小さなものになり,日本のGDPはぐぐっと押し下げられます。

 さーて,携帯電話はどうでしょう?当然廃止です。基地局がどれだけ電気を食っているか,考えたことがありますか。

 パソコン?当然停止です。電気が計算能力に化けるとはいえ,その計算能力が本当に必要かどうかは精査しないといけません。

 インターネットも動きません。世界中のサーバ,ルータ,ストレージがどれほどの電気を消費しているか,その量は膨大です。そうして維持されているインターネットで我々はなにをしているでしょうか?

 てな具合に,今は昭和の時代と違って,電気が本当に多くの用途に使われています。トイレを流すにも電気が必要,高層マンションなんてのは電気で動くエレベータが前提の建築物です。

 電気が湯水のようにあることを前提にして作ってきた社会を,今になって電気なしで動かそうとしても,それはもう急には無理な話,なのです。


(11)そもそも,大前提であるはずの安全は大丈夫なの?

 原子力発電所は,万が一の事があると大事故になり,その影響は何十年,あるいは何百年と続くもので,人類を破滅させかねません。膨大なエネルギーを少しずつ取り出すことの難しさ,生命にとって毒となる放射線を扱う事の難しさを,ここ数十年で嫌と言うほど経験しても,それでもなおこのエネルギーを手なずけるに至っていないことを,我々は真摯に受け止めるべきだと思います。

 人の作ったものに絶対はありません。ミスをしますし,不測の事態も起こります。それを天災ということも人災という事も簡単でしょうが,原子力発電はどちらを理由に起こったことでも,やり直せない,取り返しの付かないことになってしまうものです。

 絶対のない我々が使うものが,やり直しの利かないものでよいのでしょうか?

 絶対がないならやり直しが出来ないといけないし,やり直しが利かないのであれば,我々人類には荷の重い,扱いきれないものと考えなければいけないでしょう。

 この点で,今の原子力発電と人間という生き物との組み合わせにおいて,安全でないという結論を出さざるを得ません。

 今回の事故は,想定外の地震と津波だったといいますが,想定外である時点でもうすでにアウトです。やり直しが利かないものを作ってしまったのだから,全部想定できていないといけないはずでした。

 実際には,全部想定するなど不可能です。人間には未来を知る力はありません。ならば,ミスをしない人間になるしかありません。でもそれも無理です。ということは,これはもう人間には扱いきれない代物であったとあきらめるほかないのではないでしょうか。

 そう考えると,人類は身の丈に応じたエネルギー生産と,それに応じたエネルギー消費で生きていく必要がありますね。(10)とは矛盾した結論を出していますが,新しい原子力発電所はもう作らない,そしてその発電所が生きているうちに,少しずつ計画的にエネルギー消費を押さえていく,結果日々の生活が今以上に不便になり,貧しく,慎ましくなっても,それはそれでもう受け入れる,なぜなら,それが我々の身の丈だから,そういう民意を醸造するしかないのではないでしょうか。

 省エネの技術は重要です。しかし,削減された電気が,別の用途に使われ,より便利で豊かな生活に費やされる仕組みが改まらないと,根本解決にならないことも,我々はまた知るべきでしょう。

 新幹線は,昔に比べて随分少ない電力で走るようになりました。しかし,以前よりもずっとずっと本数も増えました。人の移動が増えたからです。人の移動を制限しますか?経済活動を抑えないといけませんね。それもやっぱり我々の身の丈を越えたところの話だった,ということなのでしょうか。

 難しい話です。
 

想定を越えたら仕方がないことなのか

 私は原子力や核物理学については門外漢ですし,その知識は大変に乏しいものです。

 どんなことでもそうですが,ある事柄が危険なことや問題のあることは説明が出来ても,それが安全であることや問題のないことであることを説明するのは,とても高度な知識と経験,そして勇気が必要になるものです。

 つまり私程度の一市民が持つ知識や経験で安全であると納得することは不可能であり,ゆえに専門家の助言や判断をあてにすることになるのですが,そうなるとその専門家のいう事をどこまで信用するのかという,高度な判断を行わねばならなくなります。

 これも難しい話で,結局の所,国や行政と言った,最終責任を取ってくれそうな所の判断を仰ぐことになってしまいますが,当然これらだって原子力については素人の集団であるわけで,もう私にはお手上げです。

 一連の原子力発電所の問題について言えば,その分野の専門家,つまり学者と技術者の役割として,なにが危険でなにが安全かを区別し,それを我々のような知識も経験もない市民にわかりやすく提供することが,工学倫理や技術者倫理という観点からも大いに期待されるのですが,新聞・テレビと言ったマスメディアからtwitterによるつぶやきまで,いろいろなメディアを通して発言をされていることについては,社会の期待に応えるべく活動してらっしゃるという点において,その役割を果たされているなあと感じています。

 実を言うと私は原子力発電推進派の人間でした。電力は動力から熱,果ては演算能力にまで高効率で変換でき,作る方法も複数ありますし,安価で,とても安全で使いやすいエネルギーです。

 そしてその理想的な,何にでも使えるエネルギーを得る方法として,大気を汚さず,二酸化炭素も出さない原子力を利用出来るのも,大きなメリットです。

 原子力が最終手段で理想的なエネルギー源とは思っていませんでしたが,本命たる別の究極のエネルギーが登場するまでのつなぎとして長く付き合っていくしか,人類には残されていないのだから,現実問題としてただただ反対を叫ぶのではなく,うまく共存する方法を模索すべきであり,かつそれは十分可能なだけの技術レベルにある,というのが,私の持論でした。

 でした,というのは文字通り過去形で,今は残念な事に慎重派です。これは,今回の事故があったからという直接の理由もさることながら,工学倫理や技術者倫理という視点において,もう原子力は終わったものと考えざるを得ないからです。

 工学倫理や技術者倫理の世界では,その分野における専門家,例えば技術者を,

・誰にでも出来る仕事ではない
・新しいものを創造する力を有する
・自分の生み出すもので社会に貢献し,文化を創造する
・一定の自由裁量が認められている
・一方で大きな社会的責任を負う

 といった存在として位置づけます。

 技術者も一人の人間で,社会の一員ですが,それぞれが属するコミュニティに応じた倫理観を持って生活しないと生活が成り立ちません。日本に生きる,家族と生きる,ということに,それぞれの倫理観が必要なのと同じように,技術者にも特有の倫理観が必要で,自分のしたこと,自分の持つものが,他にどういう影響を与えてしまうのかをきちんと考慮する力が求められます。

 これを倫理的想像力と呼ぶのですが,倫理的想像力を養うことは,一定の自由裁量を社会から許されるためにも必ず必要なことです。そりゃそうですね,自分のしたことがどれだけ社会を変えてしまうのか,どれだけの人に喜んでもらって,逆に迷惑をかけてしまう事になるかを考えない人に,諸刃の剣である科学技術を任せるわけにはいきません。

 誰にでも出来る仕事ではないけども,誰かがやることによって世の中が良くなり,生活が豊かになるから,そのために必要な知識と経験を持つ「技術者」が,社会から信用をもらって,その裁量を認めてもらっているわけです。

 例えば自動車です。ピーク時よりも少なくなったとは言え,今でも多くの方が交通事故で亡くなっています。でも,その多くの犠牲があっても,自動車は危険だから廃止せよ,ということにならないで,自動車がもたらすメリットと天秤にかけ,共存しようということになっているわけです。

 ただし,共存するには余りにも危険だった自動車は,自動車技術者の手によって少しずつ安全な乗り物へと進化してきました。この進化は専門家だから可能だったことですが,もしもこの専門家が良心を失い,暴走していたら,社会は自動車を安全なものとは位置づけられず,犠牲がさらに増えていたかもしれないのです。

 自動車技術者が目先の利益に走って,安全性よりも見た目のスペックを重視し,ぶつかれば紙のようにくしゃくしゃにつぶれてしまう軽いボディに,不釣り合いな強力なエンジンを付けて,しかもコストを下げるために性能の低いブレーキを搭載するようなことがあったら,どうでしょう。

 そんな自動車しか作ってくれないなら,社会はもう自動車との共存はできません。自動車メーカーと自動車の技術者は,安全という社会が求めるテーマに真摯に努力し結果を出してきたから,社会の共存をするという方針は揺らぎません。

 技術者にしたって「安全を軽視しません」というスタンスを社会に理解してもらい,信用してもらっているから,その技術を使って新しい製品をある程度自由に作る事を許されているわけですね。

 経済活動とはちょっと違った視点なので,これと混同するとちょっと危険なのですが,技術者の教育のうち,比較的新しい分野である工学倫理や技術者倫理というのは,基本的にはこういう考え方に基づいています。

 社会は,技術者を信用し,彼らに危険だけども有望な専門的な技術を駆使して新しいものを創造することを許す。そして全体が豊かになる。

 技術者は,その信用を得るために,倫理的想像力を駆使して社会に迷惑をかけないことを約束し,そしてそれを社会に説明し理解してもらって,社会から新しい技術をつかって仕事をすることを許してもらう。そして全体が豊かになる。

 もっと積極的に,技術者は,その技術がどれほど社会に有用なものであるかと,同時に危険かどうか,安全かどうかをちゃんと説明して,社会からの信任を得る義務を負っていると,強い言い方をしてもよいでしょう。社会はその説明で技術者を信用したなら,危険だけども彼らなら大丈夫,彼らの力を信じて社会がより豊かになることを託してみようと,そういう依存関係が社会と技術者にはあるわけですね。

 もう1つ重要な事があります。ある分野で専門性を持つ技術者は,別の分野においては技術者に信任を与える側に付くのだということです。

 自動車の技術者は,自動車のメリットとデメリットを説明し,デメリットの克服を社会に約束して,新しい技術を使う事を許されますが,そんな彼らも原子炉については素人であり,専門家である原子炉の技術者に信用を与える側になるということです。

 およそ仕事をしている人は,その分野の専門家です。互いを信用し合って,世の中が進歩して,豊かになる,これが現代社会です。

 専門家は,時にその専門分野が非常に危険なときは,警鐘を鳴らし,社会に是非を問う勇気も必要です。内部告発というのはこの一例と考えて良いでしょう。技術者も,技術者を雇う会社も,その技術で報酬や利益を得ているので,自らを守るためにずるいことをしたり,ウソをついたり,隠し事をしたりするかも知れません。

 彼らならそんなことはしないはずという信用を得ることがいかに大事か,また必要に応じて第三者機関が監視を行う仕組みがいかに必要なものか,お分かり頂けると思います。

 こうした,工学倫理や技術者倫理という観点で,今回の原子力発電という技術と社会の関わりを見ていくと,どうにも破綻していると考えざるを得ないです。

 まず,技術者はこの大変危険で有用な技術を,本当に手なずけられたのか?

 技術者は,彼らの考える「手なずけた」を,社会が信用するに足りる形できちんと説明を行ってきたのかどうか?

 そして技術者は,この技術を使う事に対して,社会からの信任と,一定の自由裁量を本当に得ていたのか?

 社会は,彼らの言葉を本当に信じていたのか?その大きすぎるメリットに目が眩んで,危険を軽視し技術者の言葉を盲目的に信用してしまってはいなかったか?

 一部の技術者が警鐘を鳴らしていたその危険性について,社会は耳を傾け,議論の場を作ってきたか?

 原子力は,非常に大きなお金がかかり,リスクもメリットも桁違いです。エネルギー政策,原子力政策という国の方針として進められるのはその大きさゆえですが,社会も「国」という錦の御旗を掲げたこの技術を,実力以上に過信する傾向があったことは否めません。

 そして,原子力は安全,安全で安い,ゆえにエネルギー問題解決の切り札なのだと,強く推進されてきました。しかし今回の天災によって実は手に負えないものであったことが浮き彫りになってしまいます。

 今回の事故は,とても大きな教訓を残してくれます。15メートルの津波は想定出来なかったと,専門家,技術者は言っています。これは「それじゃ仕方がないなあ」と我々に諦めの気持ちをもたらすのと同時に,「つまり想定を越えたら取り返しが付かないのね」と,反対論を確実に喚起するものです。

 原子力反対の意見として,何かあったら取り返しが付かないというのがありますが,かつての私を含んだ賛成論者はそんなことは起きない,と言うだけでした。

 人的なエラーを含め,様々な問題を想定し,それを回避するように巧妙に設計が行われている,だから万が一は起きません,が彼らの社会に対する説明でした。しかし,これは想定されていたものについての話であり,想定を越えたものについては回避できないといっているのと同じだったことに,市民は気付くべきでした。

 どんなものにも,想定を越えたものが起こる可能性があります。ただ,その場合に起きることが「取り返しのつくもの」なら,リスクとメリットを天秤にかけて議論出来ます。自動車しかり,薬の副作用しかりです。

 原子力はどうかというと,これは「取り返しの付かないもの」です。ですから,リスクとメリットを天秤にかけることは出来ません。つまりリスクは無限大であり,どんなメリットをもってしても,メリットが勝る可能性はゼロだからです。

 そこで結論ありきで動く人々は,論法のすり替えを試みます。万が一は起きません,起きないのだからリスクはゼロ,です。つまり天秤に乗せれば,必ずメリットが勝利するようになっています。この話のすり替えに気が付くのが遅かったと,私自身は反省しています。

 万が一起きたらどうします?という詰問は,時に「仮定の話はやめよう」という声に潰され,議論の機会さえない場合があるものです。しかし,これがいかに危険なものかを,今回の事故は教えてくれました。

 このことを,全ての技術者が気が付いて,万が一を軽視しない,正しい評価が定着することを,私も含めて肝に銘じるべき時がやってきたのだと思います。

2010年の散財を振り返って

 さて,毎年年が明けると,昨年1年の散財について振り返るのですが,今回は新生活を始めるということもあって,かなりの散財をしました。

 先に書いておきますが,その大部分を占める生活家電については,確かに高価なものを買いましたが,そのおかげで快適に過ごせていることは確かで,決して無駄遣いではなかったと言えると考えています。

 無駄遣いというのは,すぐに興味を失って稼働率が下がってしまうものだと考えれば,毎日のように使ってその結果が分かりやすい生活家電こそ,自分の生活スタイルを具体的にイメージし,これにぴったりなものを選択基準として据えて,脚気として生活の質が改善されるのであれば,金額の大小は二の次にしてもよいのではと思います。

 いや,そもそも生活家電の値段は随分下がりましたよ。20年前,あるいは30年前,今のものよりもっと性能の低いものが,今の高級機種と同じかそれ以上で売られていたのですから,少々高価であっても長く使うつもりで買ってみるのもよいかも知れません。

(1)洗濯機

 パナソニックの斜めドラム式でした。20万円近くもする高級品ですが,洗濯という実に面倒臭い家事が劇的に改善される事への感激と,完璧というものはなく工夫して使いこなすことを忘れてはいけないという,2つの面で印象深い家電でした。

 さすがヒートポンプ式の乾燥機は電気代が心配になることなく使えますし,大きさの割には大容量,水の量も洗剤の量も少なくて済み,汚れ落ちも問題ありません。

 とはいえ,当たり前のことですが,洗濯と乾燥では容量が異なり,洗濯の気分で乾燥を行うとちゃんと乾きません。

 また,おまかせコースでは,入れすぎについての警告が出にくいのも問題で,特に乾燥まで行うモードでは,タオルなどに臭いが残ることもあります。ま,このあたりは使い方の問題ですね。

 なにが一番楽といって,下着やらタイルやら靴下やら,細かくて外に干すのに手間がかかるものを,乾燥まで一気にやってくれることです。シャツなんかはハンガーに引っかけるだけですので,別になんてことはないのですが,小物を干さずに済むということで,どれほど時間が節約できたかわかりません。

(2)アイロン

 パナソニックの,両端が尖っているタイプです。スチーム不足が心配で,実際少し足りないなと思うこともありますが,そもそも家庭用のアイロンに過度な期待をするのがおかしくて,向きを変えずにアイロンがけが出来ること,滑るような軽さ,そして適度な重さに,初めてのコードレスということで,アイロンがけが面倒でなくなりました。

 時間短縮への貢献はわずかで,正直これを期待すると失敗すると思う訳ですが,アイロンがけをしているときの心地よさが,面倒という間隔を和らげてくれます。ちょっと高価ですが,アイロンの買い換え時には是非検討されてはと思います。

(3)ガステーブル

 リンナイのもので,ガラストップ,両面グリルです。国産品としてはやや高価なものではありますが,価格分のメリットはあります。

 まず,ガラストップの素晴らしさ。かのSchottのガラスということで,ネタになると思って買いましたが,拭き掃除がとても楽,傷も付かず,凹むこともなく,いつまでも新品同様の美しさを保ってくれます。

 ゴトクが外せて毎回洗えることも素晴らしく,料理の後にガステーブルと綺麗に掃除することがルーチンワークになるくらい,抵抗がありません。

 そして両面グリル。魚を焼くのに,これ以上楽で上手に焼く方法は,もう必要ないのではないでしょうか。タイマーもついて,素人でも魚さえ買ってくれば,おいしい焼き魚が食べられます。煙も出ず,お手入れも楽ちん。

(4)掃除機

 シャープのサイクロン式です。サイクロン式に懐疑的な私でしたが,8ヶ月ほど使ってみて,期待以上のものがあります。

 デザインは×,重くて取り回しの悪さも×,意外に重たいハンドルも×ですが,吸引力は確かに落ちませんし,燃えるゴミを出すごとに,手を汚さずワンプッシュでゴミを捨てることが出来て,紙パック式に比べ清潔を保てます。

 タービンブラシも悪くはないのですが,エコモードの挙動がちょっと遅いことが気になります。油断してヘッドを床から浮かすとモータの回転数が落ちますが,床につけてもすぐには回転数は戻りません。少し待たねばなりませんが,これの方がよほどエコではないんじゃないかと,思ったりします。

(5)ホットカーペット(かんたん床暖)

 年末,冬休みに入ってから本格的な寒さがやってくると聞き,私が主に検討を行う部屋にもホットカーペットを入れようと考えました。数千円の小さいものをと近所の電気屋に行きましたが,一応店員さんに,椅子やテーブルを置いても大丈夫なホットカーペットがないか,聞いてみました。

 といいますのも,居間に置いてある1畳のホットカーペットが,テーブルを椅子を避けるように敷いてあったからです。誰も座っていないところが暖かく,足下は結局寒いという状況が改善できるなら,それが一番だと思いました。

 今時,こういうニーズもあるんですね,かんたん床暖という名前で,またしてもパナソニックから出ていました。お値段はプレミアムな価格で,2畳で25800円。amazonだと2万円を切っているので,軽いショックを受けました。

 これをエイホエイホと担いで帰り,早速敷いてみましたが,これがなかなかよいのです。足下から暖かいし,部屋の温度も18度くらいまで上がります。

 消費電力は意外に大きく,最大700Wとちょっとしたエアコン並みですので,電気代の削減にはならないと思いますが,エアコンよりもずっと優しい暖かさで,頭がぼーっとしないという,私にとってはありがたい暖房器具です。

 実はこれ,折りたたんで収納できません。基本的には夏でも敷きっぱなしということで,表面はフローリングっぽい印刷がなされています。

 ところがうちは,フローリングにカーペットを敷いていますから,その上に2畳のフローリングが出現します。なんか不細工です。もっと綺麗な色の床暖があったらいいのになと思います。

 それと,どうしたことか,この床暖をカーペットの上に敷くと,いつの間にやら20cmくらい,テーブルを椅子を載せたまま動いているのです。私が座っている場所がドンドン狭くなり,なにやら窮屈だなと思って気が付きます。きっとカーペットの目の向きが関係しているのだと思います。

(6)プラズマテレビ

 日立のWoooで,1世代前のものです。42型という大きさは,プラズマでプルHDなら最小サイズなので文句は言えませんが,やはり大きすぎるかなという印象です。うちはニュースやドキュメンタリーが主で,大画面である必要はもともとなかったわけですが,そのうち慣れると思って買った42型は,今もってアナウンサーに「見られている」ような気分が抜けません。

 まあそれはそれとして,画質は慣れました。液晶テレビをお店で見ると「こんな汚い画像で売れるというのはおかしくないか?」と思うほど,プラズマの画像になれてしまいました。

 LCDのテレビも,今は良くなっていると言いますが,原理的に明るいところと暗いところの差が小さく,工夫で見かけ上の差を大きくしているのが現実です。プラズマの持つポテンシャルとは根本的に違うのですが,これは画像マニアが真剣に画像を評価するときよりもむしろ,ニュースなんかを見てるときの自然/不自然として,大きな差があるように思うのです。

 ブラウン管が消えて久しいですが(私は特に10年前にブラウン管を廃止しましたからね),プラズマは明部がまぶしくなく,しかし華やかで元気があります。ブラウン管と同じ傾向は,とても満足です。

 ただ,画像の調整はなかなか難しいです。今でも調整をいじっていますが,上手い場所が見つかりません。

 ところで,プラズマテレビの将来ですが,残念ながら私は悲観的です。確かに自然な画像を表示出来る潜在能力の高いディスプレイですが,高画素化していくLCDに対し,プラズマディスプレイは原理的に高画素化が難しいため,このスペックが主戦場になってしまうと,ついて行けなくなる可能性があります。

 同じ話はフルHDになる時にも騒がれましたが,幸いプラズマディスプレイは苦心の末フルHDを実現できました。しかし,これ以上の高画素化は画期的な技術でもない限り難しいでしょうし,実現出来てもLCDにリーズナブルな画面サイズや低い価格を達成出来ないのではないかと思います。

 まあ素人の戯言ですが,私がちょっと驚いているのは4K2Kと呼ばれる高精細なテレビが今年の年末にも出てくるのではないかという予測が出ていることです。地デジはもちろん,BDでも我々が手に出来る映像ソースはフルHDが最高ですから,4K2Kなど意味がないと考えていました。しかし,SD解像度のDVDをフルHDで見るときに画素を補完する超解像技術の進歩は想像以上のものがあり,アルゴリズムとしてはかなりのところまできています。

 フルHDのソースを4K2Kにするのに壁となるのは画素数が4倍に増えることによる,処理能力の問題になるわけですが,これはすでに質ではなく量の問題ですので,半導体の進化があれば自然に(勝手に)解決してしまう話です。これが4K2Kというパネルと一緒に立ち上がってくれば,新しいテレビの登場が現実になります。

 ようやく16:9が当たり前になったところで,業界内には21:9というワイドテレビの話も出ています。4:3のテレビを無理矢理16:9にしたあの過ちを,また我々は繰り返さねばならないのかと思うと暗い気持ちになったものですが,4K2Kなら一応正常進化と言えるのではないでしょうか。

 一方,これまで日本のお家芸だったテレビ用の大型LCDパネルも,今年からは中国での生産が本格化します。日本のメーカーはさらに技術的に難しいものを作らないといけなくなるわけで,4K2Kを急激に立ち上げようとする力は,こういう事情もあって強くなるのではないでしょうか。

 こういう将来が1年くらいの間にやってくるとして,高画質が売りのプラズマディスプレイが,画素数で太刀打ち出来ないと,存在意義が薄れます。仮にプラズマディスプレイがLCDよりも低コスト(そのかわり低画質でもよい)だったら,廉価版のテレビ向けに生き残る方法もあるんでしょうが,LCDより高くついてLCDより画素数が少なければ,本当に高画質なものであっても市民権を得ないでしょう。売れないですからますますコストの差は開きます。

 プラズマディスプレイを見限って手放したメーカーが大多数,一方であれだけの投資を行ったパナソニックの,将来の見通しを聞いてみたいものです。

(7)トルネ

 遊び心で進化を続けるレコーダ,トルネです。まだ品薄だった昨年連休明けごろですが,偶然ヨドバシ.comで見つけて購入。PS3という大飯ぐらいのゲームマシンをわざわざ録画機にすることもなかろうという気持ちはあったものの,ユーザービリティについては業界中が大騒ぎになったこともあって,手に入るようになったら買おうと思っていました。

 テレビに録画機能があるのでこれをメインに使うことはないのですが,時々番組が重なったときなど使って見ると,なかなかこれが快適なのです。テレビの録画機のインターフェースがいかにユーザーに我慢を強いるものになっていたかを思い知らされます。

 最近,twitterへの投稿機能を持つようにアップデートされましたが,これもなかなか楽しい機能です。残念ながら,twitterを動作させると画面が小さくなるのでおまけ機能の印象は拭えませんが,うまくするとニコニコ動画のような面白さが出てくるようになるかも知れません。

 トルネには,まだまだ進化して欲しいところがあります。ダブルチューナーへの対応,録画予約機能の充実(フィルタやソート),EPGを定期的に取りに行く機能など,本格的に利用するにはまだ今のままでは足りません。

(8)MacBookAir

 10月に電撃的な発表があった新しいMacBookAirですが,11.6インチを発売日に手に入れた私の満足度は,抜群に高いです。

 ユニボディで作られたアルミの筐体は,ラフに扱っても傷もゆがみもなく,パタンと閉じたときの吸い付くような感じもなめらかさも購入したときのままです。

 高い剛性を持つおかげで,キーのタイピングが快適であることも特筆すべき点です。

 さて,私が購入した構成は,BTOでメモリを4GBにし,キーボードをUSにした以外は最小構成のものです。64GBのSSDはちょっと心許ないのですが,今のところ半分程度の空きがあり,これからも増える事はないと思いますので,今は心配していません。

 むしろメモリの4GBは無駄だったかなと思うくらいです。そんなに高価なオプションではなかったので安心代だと思えばいいのですが,4GBあってよかったと思うことは,とりあえず今はありません。んー,厳密に言えば,2GBだと狭いと感じたかも知れないので,最初から4GBになっているとそのありがたみが分からないだけかも知れません。

 拡張性のなさや,持ち歩くにはもう少し小さい方がいいとか,いろいろ不満もありますが,私は少なくともiPadではなくMacBookAirを選んだことは大正解だったと思っています。

(9)DP1s

 3層構造のCMOSセンサ「FOVEON X3」を使ったデジタルカメラは,いずれ手にしたいと思っていたところ,昨年春頃に処分価格が出ていて,私も4万円ほどで買いました。4万円と言えばコンパクトデジカメなら複数台が,一眼レフでも買えてしまうほどの価格ですが,DP1sにはDP1sの代え難い魅力があります。

 一眼レフはちょっと大げさだな,でもこだわって撮影したいと言うときに,DP1sは重宝します。くせもぼつぼつ分かってきましたし,反応速度も含めてだいぶ慣れてきたように思います。

 DP1sのポテンシャルの高さは,センサの素晴らしさとレンズの良さがあります。高画質を得るにはこれは外せないわけですが,正直なところ,どちらもまだまだ画質に直結させることが出来ていないように感じます。

 センサから出てくる情報を画像にするプロセスがやはり未熟だと思うことが多くて,それは発色が過ぎることが多いのと,暗部のつぶれが結構あることで,日常的に感じる不満点です。

 いずれも現像をPCで行えば済むことですが,現像ソフトも決して使いやすいわけではないし,RAWが未だにPhotoshopで扱えないのは言語道断です。

 暗部をぐっと持ち上げると,結構画像が浮かび上がってくるので,センサの力はかなりあると思うのですが,これがまだまだ技術的にこなれていないころのカメラですし,まあ使いこなしでなんとかすることになりそうです。

 ところで,自動開閉のレンズキャップにアルミ削りだしのグリップと革張り,そして外付けのファインダーまだ装備したオリジナルDP1sですが,結果としてコンパクトデジカメとはもはや言い難い大きさと面構えになりました。

 そんなこともあり,物理的精神的な気軽さから,一番稼働率の高いデジカメは,実は大昔に買ったサイバーショットのDSC-U20だったりします。

(10)各種置き時計

 新生活を始めた部屋は,いくつかに部屋が分かれており,他の部屋の時計を見ることが全く出来ない状況でしたので,それぞれに時計を置かねばならなくなりました。

 居間にはカシオの電波時計を起きました。大きな表示で,温度と湿度が表示出来ますが,LCDなので暗いと見えません。まあ居間ですからかまいません。

 寝室には,どっかのパチモンのLED時計を起きました。お値段はこの手の時計としては破格の5000円!いやー,5000円の商品の質感はみじんも感じません。

 なのになぜ買ったか。青緑色の大型LEDを持つ時計だったからです。

 普通の黄緑のLEDなら大型の7segLEDも手に入ります。しかし青緑はまだ簡単に買える訳ではありませんし,値段も高価です。自分で作ろうと思うと残念ながら5000円では作る事が出来ません。

 電波時計という事もありますし,デザインはとんでもなく格好悪いですが,買うことにしました。

 しかし,というかやはりというか,この時計には散々泣かされました。

 まず,購入直後,電源が突如切れてしまうという問題が発生。ACアダプタのジャックの付け根で断線しているようでした。購入直後ですから素直に交換してもらえばよかったのに,まあジャックだけなら交換すればよいかと自分で修理を試みたのが失敗でした。(ちっとも学習しませんね)

 これが片付いたら,今度は表示が明るすぎて眠れないという問題が発生です。明るさはHighとLowの2段切り替えですが,Lowでもまぶしいくらいです。

 そこで分解して,明るさを決める抵抗の値を大きくしました。何度か調整してかなり暗くして,現在はなんとか慣れました。

 最後に,電波時計として動かなくなってしまったことです。電波の受信が全然出来なくなりました。感度は元々低い時計でしたから,時折受信出来ないことはあったのですが,1週間も2週間も受信出来ないのは故障でしょう。つくづく最初に交換してもらえばよかったのにと反省しきりです。

 結局,また分解して修理を試みることに。時計の基板,ラジオの基板,そして電波時計関係の小さい基板の3つが,ぐちゃぐちゃに配線されて繋がっているという,大変に不細工な低信頼な製品ですが,どうも電波時計のアンテナコイルを基板にハンダ付けする部分がテンプラハンダになっていて,ちゃんと繋がっていなかったようです。

 これをハンダ付けし,一応電波が受かるようにはなったのですが,相変わらず感度が低いのは仕様の通りですから,その後も受信出来ない度に「またこわれたのか」「真の原因は別にあったのか」と一喜一憂することを続けています。

 どうも気温が高すぎても低すぎても受信し損ねるようです。夏の暑いときも冬の寒いときも失敗する確率が高いようで,温度安定性もいまいちな,どう考えてもイカチンなものを掴まされた気がします。

 なお,この電波時計の修理は,猛暑の続いた真夏に行ったのですが,この作業の後軽い脱水症状で動けなくなったことを付け足しておきます。

(11)携帯電話

 携帯電話を昨年の連休頃に着替えました。ただ,全然使いこなしていませんし,使いこなそうとも思いませんので,特にここに書くほどのことはありません。

 ・・・で終わらせてもつまらないので,ちょっとBluetoothの話をします。

 iPhoneの台頭で,通話や音楽を聴くのにBluetoothのヘッドセットを使う人が少しは増えたような気がします。日本人は,まだヘッドセットを使って通話することになれていなくて,本人も周りの人も違和感があるというのが実際ですが,実はこれ,やってみるとなかなか快適なのです。

 私はソニーエリクソンのMW600を買いましたが,もっぱら通話専用になりました。いや,普段のちょっとした通話にまでいちいちMW600を使うわけではありませんが,実家の母と長話をするときなど,特定のシーンでとても重宝しています。

 なんといっても両手が空いているのがいいです。ちょっとおなかがすいた時も,ビールを飲むときも,トイレに行くときも全然邪魔になりません。寝そべるも良し,ちょっとPCを使って調べ物をするのも良し,とにかく便利です。

 その意味では,私など片耳だけのモノラルヘッドセットを買っても幸せになった人だと思います。でも,音楽を聴きたい人には片耳はありえません。

 かようにBluetoothは,人それぞれの使い方が違っていて,かつ製品も別物になったりするので,メーカーもお店も訴求の仕方が難しいのでしょうね。

 それゆえ日本国内のBluetooth普及率は低いのだと思いますが,厳しいことを言ってしまえば,Bluetoothという規格が「なんでも出来るようにしよう」にあったことが真の原因なんじゃないかと思うのです。

 どんなニーズにも対応出来ることは一見すると正しいことですが,実はそれが何を解決してくれるものかが分かりにくくなります。わかりにくくなるから,お知らせするのも難しいし,お知らせするのが難しいから,問題が解決するという事実すら知らずにいる人が多いのでしょう。

 片手で通話ができる事がどれほどの問題と捉えられているか,問題と考えている人がどれくらいいるのか,そもそもそれが少ないんじゃねーという話も分かりますが,不便な事を解決するための売り方以外に,不便でなくとも使ってみたら良かった,と言う売れ方だってあるはずで,Bluetoothはまだまだユーザーへのアピールが出来ていないのではないかと,そんな風に思います。

 あまり注目されていないBluetoothですが,海外の普及度合いから考えると,日本は後進国もいいところです。新しい半導体の開発,新しいプロファイルの登場など,Bluetoothも進歩していますが,それは少なくとも日本人を相手にしておらず,日本にはすでにコモディティ化した状態のものが店頭に並びます。世界最先端の商品が手に入る国,日本において,Bluetoothについては数少ない例外であるとつくづく感じます。

(12)Kindle

 昨年は電子書籍元年などと言われましたが,電子書籍に火を着けたiPad-Appleと,Kindle-amazonが蚊帳の外に置かれ,それ以外の「こびと」達の話ばかりが報道される日本国内の状況は,もはや異常と言うほかありません。

 ガラパゴスであることをむしろ売り文句にした端末も鳴り物入りで登場した割には,電車の中で全く見ることはありません。SonyReaderもしかり,です。

 端末はおそらく買った人も多いと思いますが,それで読む本がないのでしょうね。自炊は一般化しつつも,他に使い道がない裁断機とドキュメントスキャナを買わねば始まりませんから,それ相応の覚悟が必要になりますし,その点で私は,2010年を「電子書籍前年」とあえていいたいと思います。

 私にとって2010年は紛れもなく電子書籍元年です。なんといってもKindleを手に入れ,紙に印刷すること以外の出力先を手に入れたからです。

 Kindleの素晴らしさは過去にも書きましたので同じ事を書くことはしませんが,あれから半年近くが経過して,もっと街中で見るかと思ったKindleでさえ,全く外で見ることはありません。

 かくいう私も,9月くらいから電車の中でKindleを読むことはしなくなりました。誤解されたくないのは,Kindleに飽きたわけでも,使い勝手が悪いわけでもなく,文庫本のハンドリングの良さを再認識したからです。

 そもそも,Kindleは,それまで文庫と新書以外の大型本を持ち歩くための解として購入しました。内容に割に大きく重いハードカバーの本を何冊も入れておけるkindleはまさに福音と言えたわけですが,これが文庫本だとあまり御利益がありません。

 ですので,文庫本で読むものがあるうちは文庫で読み,それ以外を読むときにはKindleを使うという使い分けを行っています。9月から読んでいる「蒼穹の昴」の4冊は,その後「珍姫の井戸」と「中原の虹」に進むこととなり,これらを終わらせないと,Kindleの出番は来ません。少なくともあと1冊ちょっとの間は,Kindleに出番は来そうにありません。

 ところで余談ですが,この年末年始は,実家から持ち込んだ多量の本のスキャンにも時間をかけました。ハードカバーや雑誌というのは,1冊のスキャンをすると随分と見た目にかさが減ったのでやりがいも出ましたが,文庫と新書というのは,スキャンに時間がかかる割には,あまりかさが減らず達成感がわかないものであることを発見しました。

 文庫や新書というのは,なかなか高効率なパッケージのようです。

(13)ホットプレート

 新生活をスタートさせたら,是非買おうと思っていたものの1つが,ホットプレートです。別に珍しくもない普通の家電品ですが,焼きそばやお好み焼きといったテーブルでワイワイいいながら作って食べるものには,好都合です。

 ちょっと奮発して象印の焼き肉用のプレートが付いたものを買いました。焼き肉など我々夫婦はほとんど食べないので,使う事はないかなと思ってましたが,年末においしそうなステーキ肉が特売されていたのを思わず買ってしまい,どうやって焼くとおいしいかを考えたところ,これを使うとうまくいくかと思ったわけです。

 結果は上々。余計な油は落ちて,良い火加減で焼くことが出来ました。片付けの手間はそれ程大変でないことも分かってきましたから,もっと積極的に使うのもよいかも知れません。

(14)GOPAN

 言わずと知れたGOPANですが,予想を超える大ヒットに生産が追いつかず,今年春まで販売を休止するという話になってしまいました。私は初期ロットを発売日に入手しましたが,あれ以後,おいしいパンを作って食べる習慣が出来ました。

 米パンもおいしいですが,小麦で作ったフランスパンがおいしく,何となくこちらに軸足が移ってしまいそうです。フランスパンなら別に買ってきてもいいのですが,自分で作るとカマンベールチーズをたっぷり入れて,少し赤ワインをいれて作ると,これが絶品なのです。こういうフランスパンを食べようと思ったら,自分で作るほかありません。

 あと,パウンドケーキもそれなりにおいしいですし,お餅もうまくつけました。

 米パンは,やっぱりミルの音が非常にうるさいことと,やっぱり今ひとつ香ばしさがなくて食べ飽きてしまうことが問題のように思います。また,GOPANの肝であるあの羽根も,使う度に傷が増えています。パンの中にこれが知らず知らずの間に交じっている訳ですから,あまり気持ちのいい話ではありません。春までの販売中止は,実はこの問題の改良にあるんじゃないかと私は密かに勘ぐっています・・・

 そんなGOPANですが,年末に三洋さんから登録者キャンペーン当選の景品が届きました。ちょうど1斤分に小分けされた,各地域のブランド米が10種類ほどと,グルテンのセットです。米パンの面白さは,日本人のこだわりが詰まった様々な品種のお米を選んで作る事が出来ることにもありますが,米パンに向いたお米を見つけることはそう簡単ではありません。いわば「評価キット」としての価値は極めて大きく,景品ではなく2000円くらいで販売してくれるとうれしいのですが・・・

(15)LED電球

 LED電球は,すっかり生活の中に溶け込み,それが当たり前になりました。こうやってブームというのは沈静化していくのでしょうが,明るくしていてもそれが電気代に影響しないという生活が,これほど快適とは思っていませんでした。

 階段に薄暗い照明を常に入れておくと足下がいつも同じ明るさになり安心ですが,これが実現したのもわずか3.8WのLED電球のおかげです。40Wも消費するミニクリプトン球ではこうはいきません。

 トイレも風呂も玄関も,LEDにするとこんなに快適です。初期投資はやや大きいですが,毎日「LEDにしてよかった」と思うことが出来るだけ,価値あるものだと思いました。

(16)ICレコーダ

 ZOOMのICレコーダを,FM放送の録音用に買いました。1万円ほどで十分高音質なレコーダですので持っていて損はありませんが,稼働率は非常に低く,あれから一度も使っていません。

 録音など日常では行いませんし,ましてマイクを使った生禄などこれまで数えるほどしか行ったことがありませんから仕方がないことだと思います。

 エアチェックも含めて,とにかく自分で録音するということが減りました。私に限らず,多くの方がそうでしょう。現在の記録を未来に残す,これが録音や録画の本来の意味ですが,録音をしなくなったという事は,未来の私が過去を振り返るきっかけがなくなるということを意味するわけで,仮にこれが私だけの話でないとすれば,学生時代のカセットを発掘して懐かしく感じたり,昔のVTRから古いCMをYoutubeにアップロードするという,楽しく懐かしい経験をするための「仕込み」が途切れてしまい,これまでの資産を食いつぶすことに終始することになるのです。

 そしてますます新しいコンテンツが粗製濫造され使い捨てられる世の中になるのかなと,その未来に重たい空気を感じざるを得ません。

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 まだ他にも買ったものはありますが,このくらいにしておきましょう。価格以上の価値があったもの,価格以下の値打ちしかなかったもの,価格云々ではなく本当に必要だったのかそもそも疑問だったもの,いろいろありますが,総じて良くできているものが多かったと思います。

 1年ではさすがに小さな差でしょうが,3年,5年もすると,もう完全に別物というくらい,性能も向上していると感じるのですが,空いた時間を何に使うか,浮いたお金でなにを買うのか,本当はそこまで考えるべきなのかなーと,振り返りながら思いました。

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