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ReaderはLeaderになれそうにない

 艦長日誌にいろいろ書きたいことがあるのですが,ちょっと忙しくて困ったものです。私のように,暇な時間を長く過ごすと,忙しい事への憧れであるとか,充足感であるとか,そういうものが脳のシワからしみ出てくるものなのですが,それも限度があり,人間の脳みそというのは,本当に不思議なものだと感じます。

 そんなことはどうでもいいのですが,電子書籍に注目してKindleを2つ買い,自炊の冊数が2000冊を超え,なおも実家から運び込んだ段ボール8箱分の書籍を日々スキャンし続けている私としては,ソニーのReaderが国内発売されるニュースを無視するわけにはいきません。

 なにせ正規の国内販売です。Kindleもamazon.comが販売しているとは言え,輸入という形で入ってきます。サポートもamazon.comが行いますから,日本語によるサポートはありません。

 ソニーという日本の会社が日本人向けに電子ペーパーを搭載した電子書籍端末を販売してくれることを心待ちにしている人も多かったと思いますが,果たしてその期待に応えてくれるものでしょうか。

 欲しいと思っている人は,自炊をしている人,そして電子書籍を購入して読みたい人,の2つあるはずです。特に後者は北米でのKindleとそのサービスに憧れがあるはずです。

 今回国内投入されるのReaderが,意欲的なものになっているなら,私もKindleを買ったことを後悔したかもしれません。しかし,それは杞憂に終わりました。大変残念なことに,ソニーはなーんにも分かっちゃいませんでした。

・パネル

 5インチと6インチの電子ペーパーを採用したところは,まあ順当なところです。eInkはPearlという世代で,Kindle3と同じですから,光学特性などは同じと見て良いでしょう。ですから,ここはKindle3と同じです。

 大きさ

 5インチモデルは文庫本と同じとのことですが,文庫本というのはポケットに入る大きさでありながら,読むときは開いて2倍の大きさになることを,ソニーは忘れています。折りたたむことの出来ない電子書籍端末は,この2つの状態を両立せねばならないのです。

 Kindle3は,ペーパーバックのサイズとほぼ同じで,持ちやすいものです。キーボードがあるから大きく見えますが,仮にキーボードを使わなくてもあのサイズは良くできています。

・質感

 私は質感の高さを重視する人ではありますが,それも機器の性格によりけりです。電子書籍端末は,あくまで電子書籍の再生装置であり,根源的には本,あるいは紙といった従来の媒体のメタファーであることが,今は望ましいと思います。

 その点で,Kindle3は,あのプラスチッキーな安物っぽさが,実に手に馴染むのです。考えてみて下さい。本が,手に取ったときヒンヤリしますか。

・タッチパネル

 Kindleがキーボードであるのに,Reraderはタッチパネルです。しかも赤外線方式で,光学特性に邪魔をしません。これは大したものだと思いますが,私個人は必要がありません。

 本にメモをすることは私はしないし,日本語を入力することも全くないからです。検索も出来ると便利かも知れませんが,むしろ英和辞書を引くにはキーボードの方が都合が良いのです。

 それに,検索は電子書籍の最大のメリットですが,自炊する人はOCRをかけておらず,キーワードの選択が出来ません。この点でReaderを自炊の人が入手しても,せいぜい英語の単語を調べる程度のKindleとあまり変わらない使い方になると思います。

 最初から電子書籍として購入したものは文字情報が入っているので問題なく検索の恩恵にあやかれますが,後述するようにReaderはこうした電子書籍の購入に対して,決定的とも言える後ろ向きな姿勢を示しているので,これも期待できません。

・通信機能

 最大の問題は,この通信機能が一切ないことです。Kindleがなぜ支持されたのか,国内でわざわざKindleを使う人がなぜ絶えないのか,そこを全然わかっていません。

 コスト的な理由もあると思います。国内でのサービスが充実していない現在,3Gを搭載することは無意味という判断もあったのでしょう。

 では,サービスが充実したとき,最初にこのReaderを買った人々は,不便を強いられたままになるのでしょうか。kindleの理想が気高いものであったのは,ここに妥協がなかったことに尽きます。

  Wi-Fiでもよかったのです。Wi-Fiだとあまり使い勝手は変わらないと言う人もいるでしょうが,Kindleは複数のKindleと,PCやその他のデバイス向けのKindleアプリに仕込まれたコンテンツの情報,例えばしおりを挟んだ位置などを,この通信機能で同期出来るのです。

 私のように,通勤時はkindle3,寝る前の布団の中でKindleDXという人は,通勤時に読んだところをいちいちメモすることなく,続きが布団の中で開けるのです。これがどれほど便利なことか。

 DRMの関係で複数の機器でコンテンツを共有出来ないかも知れませんが,私に言わせればそのことそのものが,もはや終わっています。Kindleが出来ていることを,なぜやらないのか。その段階で負けですし,やる意味などありません。

・コンテンツのハンドリング

 Kindleは通信機能を持っていますし,マスストレージでマウントするUSB接続でコンテンツをさっと流し込めます。

 Readerは,あろうことかPCでしか動かない専用アプリを入れないといけないそうです。まあなんと前時代的な。情けないですね。

 このことをこれ以上揶揄しませんが,同じ事を言います。Kindleに出来ていることがどうして後発のReaderでやらないのか,あきれてものも言えません。

・価格は比べるべくもなく,Kindle3の方が安いです。自炊の人にはKindle3で十分,Readerの機能は無駄ですから安い方がいいです。購入の人はReaderを活用できるでしょうが,通信機能もないのに,誰がPCに繋いでわざわざ購入をするのでしょう。一体,誰がどういう使い方をするのかという観点における,一貫性がこれほど欠如している商品も,近年珍しいのではないでしょうか。


・まとめ

 ということで,なにを考えて国内投入したのか,国内のどんな人をターゲットにしたのか,そのターゲットは今の,そしてこれからの電子書籍をどういう形で切り開いていく人々なのか,その辺をもう一度,頭を冷やして考えるべきです。

 今回の導入は,かつてのLIBRIeを彷彿とさせるものがあります。端末はそこそこいい,電子ペーパーも見やすい,しかし誰に売ろうと思っているのかわからない,その人がどういう使い方を望んでいるのか分かっていない,そんなユーザーを愚弄する商品だったが故に,消え去りました。この失敗を,全く糧にしていないのです。

 記者会見では,データディスクマンからの流れだと言っているそうですが,データディスクマンから電子辞書の流れというのは,もっとシンプルでもっと一貫性のある,少なくとも支持したユーザーを裏切るようなことはやっていません。同じにされて困惑するユーザーもいるのではないでしょうか。

 次に期待しましょう。次があるかどうかは,私にはわかりませんが。

文殊菩薩の怒り

 なく子も黙るじゃじゃ馬,高速増殖炉「もんじゅ」が,なにやら大変なことになっているらしいのです。

 先日NHKの9時のニュースで,重量物が落下したとかで,運転再開の目処が立たなくなったという話をしていましたが,これはウソではないにせよ,本当に大事なことを報道していないように感じている人たちが,少なからずいるようなのです。

 私も聞きかじりですし,専門家というわけではないので本当かどうかを精査するだけの力はありません。しかし,どうもただ事ではなさそうだという気がして,ここにとりあえず書いておこうと思った次第です。

 そもそも,「もんじゅ」ってなんだ,という話です。

 高速増殖炉はよく,使った燃料以上の燃料を作り出す「夢の原子炉」などと言われます。確かに高速中性子を使い,燃料であるプルトニウムを,使った以上に生成するので間違いではありませんが,これで人類は無限のエネルギーを手に入れた!などと大騒ぎする人は,さすがに最近はいなくなりました。

 高速増殖炉の狙いは,燃料であるウランの効率的な利用です。ウランという鉱物資源は無尽蔵にあるものではなく,限りがあります。その点では石油や石炭と同じですね。

 現在世界中で稼働している軽水炉はこの天然ウランの中に1%未満しか含まれていない,ウラン235でなければ,動いてくれません。大部分を占めるウラン238では燃えない,つまり連鎖反応が起こってくれないのです。

 そこで,ウラン濃縮とか遠心分離とか,なんとなくパキスターンな,実にきな臭い仕組みが必要になる上,もともと少ない資源の,そこからさらにわずかしか採れない燃料が,近年の原子力発電ブームの影響もあって,ここ最近ビックリするほど値上がりしているのです。

 枯渇の心配があるうえに,世界中で温暖化ガスを出さない「クリーンな発電所」である原子力発電所がボンボコ作られてしまえば,そりゃ値段もあがります。これで原子力発電の経済性が変わってくる可能性さえあるほどです。

 そうなると,今まで捨てていた,天然ウランの大部分を占めるウラン238を利用出来ないものか,と言う話になります。例えばこのウラン238が現在価値のあるウラン235の100倍存在していたら,一気に資源の枯渇まで100倍も時間が稼げます。ある試算では数万年とか。エネルギー問題は解決したも同然と言い切る学者がいてもおかしくありません。

 ところがそうは問屋が卸しません。連鎖反応を起こすためには,中性子をぶつけて核分裂を起こさねばなりませんが,軽水炉で使われている速度の遅い中性子では,分裂しやすいウラン235しか使えません。

 ここで発想の転換です。実は軽水炉でも,飛び出した中性子のうちいくらかは,ウラン238とぶつかってプルトニウム239に変化していて,しかもこのプルトニウム239が中性子にぶつかって連鎖反応し,核分裂してエネルギーを発生させていることが知られています。その割合は,一般的な軽水炉で30%程度といわれています。

 この,ウラン238がプルトニウム239に変化することを,転換といいます。

 なら,この転換する割合をもっと増やして,プルトニウム239を積極的に燃やしてやる(連鎖反応で核分裂させる)ような原子炉を作れば,間接的ですがウラン238を燃やせることになるのではないでしょうか。

 これが,高速増殖炉です。

 ウラン238を積極的にプルトニウム239に転換するために,速度の速い中性子を使う事にします。これが高速増殖炉の名前の由来です。核分裂によって生じた中性子は,軽水炉の場合,生じた熱を取り出すのに使う水にぶつかって速度が落ちます。また,ウラン238にぶつかっても速度が落ちます。すると核分裂の速度が落ちて暴走の危険が少なくなります。軽水炉がそれでも安全と言われるのはこのためです。

 高速増殖炉では,核分裂で生じた中性子の速度を落とさないように,ウラン238にぶつけてプルトニウム239に転換させねばなりません。だから熱を取り出すのに水では都合が悪く,別のものが必要になるのです。

 この,熱を取り出すものを,冷却剤といいます。軽水炉では水が使えた冷却剤ですが,高速増殖炉では中性子の速度を落とさないで済むような液体として,溶けた金属,なかでもナトリウムを使うと言うことが行われています。

 ナトリウム?実物を見たことがない人がほとんどだと思いますが,実は私も見たことがありません。あぶないですからね,私はどちらかというと見たいとも思いません。

 なにせ,水と強烈に反応して爆発します。空気に触れればあっという間に酸化しますし,なにせ反応性が高いので,触れたものはボロボロになります。だから保存は灯油の中に漬けてあるそうです。とても柔らかい金属で,まるでバターのように切れるのだそうですよ。融点は金属としては低く,液体は水に近い重さなので,冷却系の設備の設計が楽だという話も耳にします。

 世界中でいろいろな冷却剤が候補に挙がりましたが,どれも扱いにくく,結局一番ましなナトリウムが使われているというのが実情のようです。

 ナトリウムは中性子の速度を落とさないので,高速中性子をウラン238にぶつけて,効率よくプルトニウム239を作り出すことができます。あとはこのプルトニウム239をガンガン燃やして,ウラン238をプルトニウム239にしてやれば,打ち出の小槌ってわけです。

 プルトニウムを使う危険性の問題,核兵器製造へのリスクの問題,などなど諸問題があるのは実に深刻ではありますが,これも上手く高速増殖炉が稼働したら,の話です。残念ながら開発から60年を経た現在においても,まともに動いている高速増殖炉は1つもありません。

 しかし,その存在自体が大変に危険なものであることは,もんじゅのナトリウム漏れ事故をはじめ,イギリスやフランスの事故でも明らかです。なんという面倒な化け物を作ってしまったものよと,思わざるを得ません。

 さて,そんな物騒なもんじゅですが,今回の事故がどれほどやばいか,です。

 事故は,簡単に言うと,原子炉の上部に取り付けられた,炉心の交換を行うための設備の一部分が,原子炉の中に落ちた,と言うものです。

 原子炉は液体ナトリウムで満たされています。当然空気に触れてはいけないので,反応しないようなガス(アルゴンだそうです)を充填してあります。こんなややこしい設備ですので,当然原子炉のふたは分厚く,ここにパイプを通して,左側から腕を伸ばし,炉心をつまみ出しては,右側に待機する入れ物にいれて,これを原子炉の外に引き上げるような感じです。

 今回落下したのは,この右側で待機している,入れ物に繋がったパイプです。炉内中継装置というそうですが,これを引き上げるフックのようなものが外れて,するすると原子炉内に落ちたんだそうです。

 すぐに引っ張り上げられると思ったようですが,残念ながらパイプの長さを継ぎ足す部分が引っかかり,装置が変形し,抜けなくなったそうです。設計上の限界の力で引っ張り上げたのに,びくともしないのであきらめた,というのが先日の報道だったわけですね。

 さあ困った,どうしましょうか。

 深刻なのはここからです。結論を言うと,どうにもならない可能性があります。

 まず,この炉内中継装置とやらを抜く方法ですが,引っ張っても抜けないことはわかりました。では削るなり切るなりして抜けるかと言えば,金属のくずが出てしまい,これが炉内にパラパラと落ちてしまうため,出来ません。

 では,フタをあけて取り出しましょう。おっと,液体ナトリウムとアルゴンガスが詰まってました。これを抜かないとナトリウムが大爆発しますね。

 でも,抜いてしまうと,冷却剤がなくなってしまうので原子炉が暴走します。これは困った。先に炉心を抜かないといけません。

 あ,炉心を抜く装置が壊れたんだった・・・・

 仕方がない,このもう原子炉は廃棄しよう・・・え,炉心が抜けないので廃棄できないじゃないか!

 ・・・ということは,原子炉の運転も廃棄も出来ないのに,ナトリウムを98度に維持して循環させ,維持管理しないといけないということになるわけですか。放置するために維持管理しないといけないなんて,これって文殊菩薩の怒りを買っちゃいましたか?

 まあ,ちょっと調子に乗りすぎましたか。しかしこの問題はとても深刻なように思います。現状維持,つまり放置するために設備を維持し,運転を続けないといけない状況になっているということですから,お金も手間もかかるのは当然として,いずれやってくる設備の寿命がきたら,この原子炉は暴走するか,大爆発をするしかありません。

 そうならないために,永遠に設備を維持し,更新し,トラブル無しで動かすことが求められるのです。この負の遺産は,想像を絶するものがあります。絶望でめまいがしそうです。

 毎年国の予算で維持されるわけで,費用面でも,安全面でも,とんでもないものを,我々は次世代に押しつけてしまいました。

 そもそも論は言っても仕方がありませんが,やっぱり言いたい。そもそも,ナトリウムを使うような高速増殖炉なんて,あぶないばっかで実現不可能な代物だったんじゃないんですか?

御三家シャープの撤退

 シャープがパソコンから撤退したことが報道されました。いわく,2009年度中に生産を中止していたそうです。

 シャープなんて,まあテレビと家電の会社ですから,パソコンなんてやっててもやめてても,体勢に何ら影響はないと思われるのがおちですが,新聞でも報道されているくらいですので,それなりの大きさのニュースなのだと思います。

 1990年代以降,メビウスやMURAMASAなど,個性的なノートPCで一定のファンを掴んでいたシャープの撤退は確かに1つの事件ですが,私は,実はシャープが日本のパソコンメーカーとしては最古参であるという事実が意外に知られていないことが,残念です。

 日本のパソコンの歴史を紐解くと,1976年にNECから発売された,トレーニングキット「TK-80」が思わぬヒットとなり,個人でコンピュータを所有することが,一般の人たちにも認知されるようになりました。

 これをうけ,主に半導体メーカーが自社のCPUを使ったトレーニングキットを販売するようになりました。CPUにメモリ,テンキーとLEDによるディスプレイが基板の上にハンダ付けされただけのむき出しのものが,普通の人向けに売られていた事が不思議なくらいです。

 この程度の製品では,本当にCPUを自分で操作して終わりで,実用性はありません。ゲームやビジネスアプリなど,結果を求める作業はなにもできないわけで,なんだ,コンピュータってなんにもできないじゃないか,と言うがっかり感も漂うようになります。

 もちろん,実力あるユーザーたちは自分で部品を追加し,ソフトも自分で書いて,フルキーボード,CRTディスプレイ,高級言語の実装を行っていったのですが,彼らにとってはその作業こそが目的であり,楽しみでもありました。

 そうではなく,コンピュータを使って得られる何かが目的の人のために,最初から完成していて,すぐに使えるパソコンが登場するのは,時間の問題でした。

 人によっては,トレーニングキットと中心としたワンボードマイコンのブームを第一次マイコンブームと呼ぶのですが,このブームの中でフルキーボードとCRTディスプレイを持ち,BASICインタプリタが動いて,保守契約を必要とせず,かつ完成品としてセットで30万円までで売られていること,の4つが,次の世代のパソコンの標準という方向が生まれて来ました。

 余談ですが,海の向こうのアメリカでは,かのAppleIIが1976年に登場し,このすべての条件を満たして,新しい時代を切り開いていました。(日本国内では為替の関係で価格という条件は満たしていませんでした)

 日本でこの条件を満たしたマシンが登場するのは1978年になります。あえてこの4つの条件を満たしたものを「パソコン」と定義すると,日本で最初のパソコンはこの年の9月に発売された,日立製作所の「ベーシックマスター」です。

 この「ベーシックマスター」を,日本で最初のパソコンとする考えた方が1つの流派を作っているのですが,3ヶ月遅れた12月に,シャープから「MZ-80K」というパソコンが登場します。

 なお,1979年の9月にはNECからPC-8001が登場し,この三社をして「パソコン御三家」と呼ばれるようになるわけです。

 このうち,MZ-80Kについては,セミキットという形で販売された関係で,厳密に言うと完成品で登場したわけではありません。しかし,実際に作る部分はキーボードの部分だけで,他は既に組み立て済みでしたし,すぐに完成品も登場して数年間の製品寿命を持っていたことを考えると,パソコンに含めてよいと思います。

 インベーダーゲームやYMO,デジタル時計というような「テクノロジー」が文化や世相に影響を与えるような時代背景もあり,個人所有でかつ結果を期待できるPC-8001は大ヒットとなり,ここに第二次マイコンブームが到来します。

 NECはPCシリーズとしてホビーマシンであるPC-6001からビジネスマシンであるPC-9801までフルラインナップ,ポータブルマシンPC-2001やハンドヘルドマシンPC-8201,果てはPC-100のような異端マシンまで繰り出す余裕を見せ,豊富なソフトを武器に王座に君臨,1990年代前半のPC-9801の隆盛へと続いていきます。

 シャープはMZ-80Kから現在のPCと同じような,メモリ空間の大半をRAMとして,BASICに固定せず様々な言語を扱える「クリーン設計」を1980年代後半まで踏襲し,個性的なマシンで熱狂的な支持を得ます。また,別の事業部で作られたとはいえ,MZの遺伝子を持つX1シリーズはテレビとの融合を掲げて誕生し,Z80マシンの完成形と言われるX1turboを経て,X68000という当時最強のホビーマシンを世に問うことになります。

 日立は御三家の中では唯一の68系のパソコンを作るメーカーで,究極の8ビットと評された6809を搭載したマシンを発売したりしましたが,1980年代中頃にはその存在に陰りが出始めていました。その直系であるMB-S1というマシンは,8ビットパソコンとしては最強のパワーと高い完成度を誇っていましたが,すでにホビーマシンとしてしか売れなかった8ビットパソコンの世界において,その勝負は付いていました。もしもMB-S1が68000とACRTCを持ったマシンだったら・・・とは,当時からよく言われた「IF」です。

 残念な事に,日立はMB-S1を最後に,独自アーキテクチャのパソコンから撤退します。代わって登場した68系の盟主が富士通で,1981年に登場したFM-8を皮切りに,FM-7,FM-77といったヒットモデルを連発し,新御三家の一員として,後に明らかにX68000を意識したと思われるホビーマシン,FM-TOWNSで勝負に出ます。

 この,第二次マイコンブームに参入した国内メーカーと代表機種をざっと挙げてみると,東芝がPASOPIA,カシオがFP-1100,松下がJR-100,ソードがM5,トミーがぴゅう太,バンダイがRX-78,セガがSC-3000,エプソンがHC-20,キヤノンがX-07,ソニーがSMC-70,IBMがJX,三菱がMULTI8,と言った具合です。概ね,シリーズ化もできないくらいの短い間の出来事でした。

 そしてBASICインタプリタで圧倒的シェアを握るマイクロソフトと,日本のアスキーが仕掛けたMSXが,主にパソコン参入のきっかけを失った家電メーカーから多数登場し,1980年代の第二次マイコンブームはピークを迎えるのです。

 しかし,この時期に登場したファミコンがこれらパソコンの主用途であるゲームという分野を奪い取り,次第にパソコンは仕事の道具という性格を強めていくことになります。

 ちょっと話が長くなりましたが,最古参のパソコンメーカーであるシャープは,1978年から2009年までの31年にわたって,パソコンメーカーであり続けたのです。決して1990年代のIBM互換マシンからが,彼らの歴史ではないということを,どこか1つの新聞くらいは書いて欲しかったなあと,そんな風に思うのです。

 もうちょっと遡ってみましょう。

 シャープは今日でも電卓メーカーとして知られていて,その熾烈な生存競争の勝者であることは有名な話です。リレーやトランジスタで作られた電卓をIC化して小さく安くしたことは,電卓の進歩のみならずマイクロプロセッサ誕生にも繋がる話ですが,なぜラジオやテレビのメーカーだったシャープが計算機に手を出すことになったかというと,当時の若手社員が「次の飯の種」と考えていたからです。

 NECや日立,富士通が電子計算機を立ち上げようとしていたころから,シャープは大学の先生から教えを請い,コンピュータの分野への参入を画策していました。

 しかしコンピュータは莫大な投資が必要で,製品の価格も大きく,数を売る商売ではありません。シャープはその電子計算機の基礎検討を,電卓や小型コンピュータの開発に応用するという,実に賢い選択をしました。

 ただ,こうした経緯もあって,当時は二流といわれた家電メーカーのシャープは,かなり本格的な電子計算機の基礎技術と,自社でコンピュータに使われるような大規模な半導体の生産が可能な,ちょっと特異な会社だったのです。

 1970年代前半にはミニコンピュータHAYACを事務処理用のコンピュータとして展開していましたし,1980年代にはCPUに68000シリーズを採用し,OSにはUNIXを搭載したワークステーションOAシリーズをラインナップしていました。さらにマイナーなところでは,1986年にRISCプロセッサを用いた32ビットのスーパーミニコンIX-11まで発売しています。

 また,8ビットパソコンを席巻したZ80を始め,16ビットのZ8000など高性能なCPUや,そのファミリLSIを大量に生産する能力を有し,SRAMやマスクROMにおいても常に時代の先頭を走る製品を持っていました。さらに,今では誰も逆らえないARMというプロセッサを国内メーカーでいち早く導入したのもシャープでした。

 日本のコンピュータの黎明においては,電電グループと呼ばれたコンピュータメーカーが主役を演じますが,実はシャープのような傍流にも,それなりの存在感を示すメーカーがあったのです。

 そして,その歴史あるシャープは汎用コンピュータから2009年に撤退しました。HAYACが,OAが,MZやCZが紡いできたその糸が,ここで切れたのです。

 もちろん,シャープはコンピュータから撤退したわけではありません。電卓,電子辞書,携帯電話,ネットブックマシン,そして今回のガラパゴスと,コンピュータそのものといっていい商品群で相変わらずの存在感を示しています。ただ,なんでもできる汎用コンピュータのラインナップがなくなることに,かつてのシャープを知るものとしての,寂しさがあります。

 さて,終わりに,その後の日本のパソコンを書いていきましょう。

 1990年代中頃にPC-9801で我が世の春を謳歌したNECは,その後Windowsと海外勢との競争に巻き込まれ,独自アーキテクチャのマシンから撤退し,基本的にIBM互換機メーカーとして現在に至ります。国内でのシェアは上位だそうですが,それも事業として安泰というレベルではなく,また海外ではさっぱりダメという状態ですので,かつてのIBMがそうだったように,NECにとってのパソコンというものを,再定義する時期はそう遠くないように思います。

 新御三家の富士通は,PC-9801との勝負を幾度となく仕掛けましたが,FM-16β,FM-Rシリーズ共に惨敗。これが独自アーキテクチャのマシンからの撤退を早め,現在に続くIBM互換機のFM-Vへの全面的な切り替えを行います。

 日立は早くからIBM互換機へのスイッチを行っており,コンスーマーマシンへの撤退と再参入を繰り返しながら,2000年代初めにはパソコンからの撤退を行っています。日本で最初のパソコンメーカーは,その名誉を守ることができませんでした。

 東芝,三菱,松下といった電機メーカーはぱっとしない状態でしたが,東芝はラップトップマシンで高い評価を得てノートPCに強いメーカーとなりました。

 MSXは最終的にファミコンに始まる家庭用ゲームマシンに敗れ去り,1990年代中頃までに市場から消え去りました。

 そしてシャープ,1986年に登場したX68000はMZ,そしてX1の流れを汲むホビーマシンの最高峰として,PC-9801やMacintoshとは違う世界を作り出しますが,加速度を増す技術の流れに背を向けて性能向上を怠ったことや,PlaystationやSEGA Saturnといった次世代ゲームマシンの登場により急速に陳腐化,Windowsの時代の到来と共に消え去ります。

 よく知られた話ですが,実は最終機種であるX68030の後継として,CPUにPowerPCを搭載した次世代Xの開発はほぼ終わっており,量産するかしないかという判断まで来ていたそうです。この話,私も後日関係者から聞いた記憶があります。

 シャープとしては,ホビーマシンをこのまま継続することは得策ではなく,またこの時登場したメビウスが大変好調であったことから,パソコン事業をメビウスに一本化することとし,PowerPCを搭載したXは幻に終わりました。

 ただ,もしもこのPowerPC搭載のXが登場していたとしても,まず現在まで生き残っている可能性はないと思いますし,おそらく1年か2年で撤退することになって,何も残さず,大きな損失を出していたことでしょう。X68000シリーズの後継かどうか,PowerPCを搭載するのかどうか,が問題ではなく,時代とユーザーの質が,すでにそのコンセプトと大きく乖離していたであろうから,です。

近代デジタルライブラリーの役割

 著作権が切れてしまった書物をスキャンしてデジタル化によるアーカイブを行うことがあちこちで行われています。

 我が国でも国会図書館が「近代デジタルライブラリー」という名称で2002年から行われており,今年7月の時点で明治,大正期の約17万冊が,インターネットを経由し,WEBブラウザで誰でも自由に閲覧できます。登録なども必要ありません。

 明治や大正の書物というのは,普段の生活には全く必要ありませんし,面白いものでもありませんが,興味を持ち始めるとそれは底なしという感じがあります。私の場合,産業史や技術史が好きだったりしますので,特に無線や電気工学が急速に進歩する1920年代の書物に触れることは,とても刺激的です。

 海外の文献について,これらの時期のものを目にすることはあったりしたのですが,日本語の文献を見るには国会図書館に行くしかないなあと思っていたところ,その国会図書館がプロジェクトを進めていたことをふと思いだし,「無線」をキーワードに検索すると200件近くがヒットすると知り,喜んで閲覧を始めました。

 PDFでのダウンロードも可能なのですが,サーバー負荷を考慮して一度にダウンロード出来る数は見開きで20ページ(ということは10枚ですね)に限定されているため,1冊丸々のダウンロードには手間も時間もかかりますが,貴重な資料に誰でもアクセス出来るという魅力の前には,大した壁にはなりません。

 考えてみると,資料や情報というのは,囲ってしまった人が勝者です。これらは全ての活動の源泉ともいえ,これらに自由にアクセス出来ないから,そこに差が作られます。

 文字を読む,文章を綴るという事を教育の根幹とするのはそのためですし,これらの「道具」を使って,先人達の知恵に触れるチャンスを持つことは,その人自身の可能性を広げるという意味においても,大変民主的なことだと私は思います。

 ある人が,3000円の本を書いたとしましょう。これが1000冊売れると,300万円の価値があったことになります。この人は,世の中に300万円の価値を生み出した訳ですね。

 この本はがすぐに絶版になってしまったとすると,著作権が存在するために,新たにこの本を読む機会がなくなります。全く存在すら知られず,消えてしまうこともあるでしょう。しかし,もしこの本が「誰でもアクセス出来る」ような状態だったなら,新しい読者が新しい価値を生み出してくれる可能性が出てきます。

 例えば,ですが,1960年代に一斉を風靡した,世界で最初のスーパーコンピュータとされるCDC6600というコンピュータの,アーキテクチャを説明した本が出版されたことがあります。

 CDC6600は現在のコンピュータに至る過程で生まれた,多くのアイデアが盛り込まれていて,現在も使われているものもあれば,現在は別の方法で解決された問題もあります。

 しかし,CDC6600はすでに過去のもので,この本も絶版になって久しい技術書です。

 著作権は消えていませんので,当然コピーも出回りませんし,そんなことをしたら犯罪です。

 ところが,この本の価値を知るある人が,スキャンして配布したいと考え,版元に連絡をしました。版元はちゃんと受け付けて,著者の連絡先を紹介しました。

 残念な事に,著者はすでになくなっており,奥さんが権利の保有者になっていました。この本をこのまま眠らせるのは惜しいという熱意に,奥さんはこの本をスキャンして配布することを,快諾しました。

 それからしばらくして,私は偶然そのデータを入手しました。大変に面白く,数々のアイデアに脱帽しました。1960年代は現在に通じる数々の機構が開発された時期で,それが出た当時にどれくらい画期的であったのかを知ることは,とても興味深いことです。

 私はそのことで,直接の価値を生み出していないかも知れません。しかし,こうして絶版となった名著が志あるものの目に触れ,彼が新しい価値を生み出したら,それは社会全体に,もっというと人類全体にとってプラスになることだと思えないでしょうか。

 知恵の継承というのは,こうして行われて来ましたし,そこで新しい技術が生まれて,人はさらに進化していくわけです。著作権という権利はとても重要な概念ですが,諸刃の剣であることを痛感した出来事でした。

 日本語は全世界で1億数千万人しか使わないローカルな言語です。しかしその長い歴史を考慮すると,蓄積された情報量というのは膨大なものになることでしょう。それが特別なものではなく,広く希望する人に行き渡ることで,新しい価値が生み出されるはずです。

 国会図書館が,こうしたプロジェクトを地道に行っていることは,一見無駄に見えるかも知れませんし,マニアックで,一部の人の利益にしか鳴っていないように見えるかも知れませんが,直接閲覧して面白いと思うならそれはそれでよいし,直接ではなくても間接的に,必ず社会全体の利益になると,私は信じています。

 注意しないといけないのは,昔の本ですから,ウソも書いてあるという事です。電波は「エーテル」を媒質に伝わると,これだけ豪快に言い切ってしまう文献を,歴史的なものとして見るだけのゆとりがないと,恥をかきますのでご注意あれ。

ネットワークオーディオが変えるハイエンドオーディオの世界

 ここ最近,ちょっと大きな変化が来ていると感じていることがあります。

 それは,ハイエンドオーディオの世界で起きつつある,ネットワークオーディオへの脱皮です。

 私はハイエンドオーディオの所有者でもないし,それほど興味があるわけではありませんが,ディジタル技術に対しては比較的保守的と言える姿勢の人々に対して,各メーカーがこぞってネットワークオーディオ機器を用意していることに注目をしています。

 CDの売り上げが下がり,配信による売り上げが大きくなっていることはすでにご存じのことと思いますが,これは携帯電話で音楽をダウンロードし,そのままそれを聴く,あるいはiTunesStoreで音楽を買い,それをiPod/iPhoneで聴く,と言うスタイルの定着によって起きていることであり,つまるところオーディオのカジュアル化がさらに進んだ結果であると,考えられる傾向があるようです。

 私もそう考えていました。つまり,CDは大規模店でないと買えなくても,ダウンロード販売ならいつでも1曲単位で買えるという利便性が支持されているのだと信じていたわけです。利便性と引き替えに失ったものは音質であり,圧縮された音楽は,およそHi-Fiとは言えないものであって,面倒な事でも「儀式」として尊び,全ては音質のためにというハイエンドオーディオには,およそ無縁だと思っていたのです。

 しかし,ハイエンドオーディオがネットワークオーディオに舵を切っている事は事実です。これをオーディオのカジュアル化という文脈で捉えようとすると,失敗するように思います。

 これらハイエンドオーディオをターゲットにしたネットワークオーディオ機器の特徴は,USBによるマスストレージに記録されたファイルと,DLNAなどネットワークで運ばれるファイルの再生を行うもので,その点ではカジュアルなオーディオ,あるいはゼネラルオーディオとなんら変わらないように思えます。

 しかし,これらの機器が,24bit/96kHzといったフォーマットにちゃんと対応していることを見逃してはいけません。16bit/44.1kHzでさえも,あれだけの物量を投入するマニアの人たちですから,情報量が2.5倍にも膨れあがる24bit/96kHzに対しては,それを上回る高音質化を行わなければ納得しないでしょう。

 私が先日購入したZoomのH1も,1万円そこそこで24bit/96kHzの録音と再生が可能です。しかし,潜在的に多くの情報を含むデータから,その情報を余すことなく再生するシステムを組み上げるのは尋常ではありません。

 ここでふと気が付きます。つまり,音楽を聴くことに大きな価値を感じてお金と時間を投入するマニアをして,すでにCDやSACDといったパッケージメディア見限ったのではないか,ということです。

 CDは30年近く前のフォーマットで,制作現場で使われている24bit/96kHzに対してあまりに器が小さすぎ,かなりの情報を削り落として押し込んでいます。SACDは音質には定評がありますが,いかんせん新譜が少なく,供給という点で問題があります。

 ハイエンドオーディオのマニアが,これらのメディアに対して長年不満を募らせていたことは事実で,その中で出てきた1つの流れがLPレコードへの回帰だったと言えるのかも知れません。

 このままパッケージメディアに頼っていては,スタジオで鳴っている音には永遠にたどり着かない,そのことに気付き,焦り始めたマニアが,自然に目を向けるようになったのがネットワークオーディオだったとすると,それはとても自然です。

 言うまでもなくハイエンドオーディオのマニアたちの執念は強烈で,1mあたり何十万もするケーブルに一喜一憂し,スピーカーの位置を1cmずつ動かしてはその変化に聞き耳を立てる人たちです。どちらかというとディジタルオーディオに懐疑的な人種でありながら,フォーマットの優劣はケーブルくらいでは越えられないこともまた良く承知している聡明な人々でもあるので,彼らが本気になってネットワークオーディオに取り組み始めた時には,もうその流れを止めることは不可能でしょう。

 数年前から,24bit/96kHzなどのフォーマットをPCとUSBオーディオ機器を使って高音質再生するという試みが一部のマニアの間で検討されていましたが,オーディオ用にチューニングされていない機器を使いこなすのは難しいことであったようですし,そもそも高音質フォーマットによるソースの供給が少なすぎて,主流にはならなかったようです。

 そこへ,ネットワークオーディオに特化したハイエンドオーディオ機器が,きちんとしたチューニングとD共に相次いで登場して来たことを,見逃してはいけません。

 この流れの一番乗りは,イギリスのLINNというハイエンドオーディオメーカーです。

 高級オーディオ機器のメーカーとして知られるLINNは,2009年の年末をもってCDプレイヤーの生産を取りやめました。なんだかんだでオーディオソースの主役であるCDをラインナップから外すという英断に,私は当時大変驚いたのですが,2007年ごろから彼らが注力してきたネットワークオーディオ機器,LINN DSシリーズに対するユーザーの反応が,この大きな決断の背中を押しているわけです。

 LINNがいうには,2009年度はワールドワイドの売り上げのうち,ネットワークオーディオ機器が売り上げ全体の30%を稼いでるというのです。しかもCDプレイヤーの売り上げは前年比4割減です。もうそんな時代になっているのかと驚かれるのではないでしょうか。

 CDも,その長い歴史の中で高音質化が行われてきましたが,やはりフォーマットの壁はいかんともしがたいわけで,アナログ放送の地上波が,どれだけ高画質化しても根本的な情報量に絶対的な差のある地上デジタルのハイビジョン映像には全く歯が立たないのと同じ話です。

 ネットワークオーディオにはフォーマットへの縛りが緩いという特徴もありますし,駆動系がなく音質にも有利,しかも信頼性も高いです。PCとの親和性も高く,利便性にも優れています。中身と器を完全に分けたというのも現代においては必須の概念でしょう。

 利便性によって普及したネットワークオーディオは,ここに至ってオーディオ史上最高音質という能力を身につけ,一躍ハイエンドオーディオ向けの最重要ソースになりつつあります。

 LINNの勇気ある決定に続き,ここ最近数十万円クラスのハイエンドオーディオ機器にもネットワークオーディオが用意されるようになりました。日本のメーカー重い腰をあげてようやく参戦しつつあります。LP,CDに続く,ソースの主役に君臨する日は,もうすぐそこです。

 自宅にネットワークが張り巡らされ,サーバーには24/96を含む可逆圧縮のオーディオデータが収められて,これが数百万円のアンプとスピーカーを鳴らし切る,そんな時代がすぐそこまで来ています。これは,音楽を聴く人にとってはもちろんのこと,音楽を作る人にとっても,極めてエキサイティングなことだと思います。

 しかしながら,CDはおそらく消えません。音楽を詰め込んだパッケージには,最新の音楽を高音質で配布するという役割だけではなく,文化と歴史の担い手という非常に重要な役割があります。

 SP盤は音質としては決して良いとはいえません。しかし今でも愛好家がいますし,むしろ貴重な録音,貴重な記録という文化的側面が強いわけです。LPもしかり,CDもしかり。いずれも,これほど多くの資産を持つメディアですから,そうそう簡単に消えはしないでしょう。メディアが担う役割の比重は,年々変わっていくのです。

 ならば,ネットワークオーディオの時代になると,供給される音楽はどういう形でアーカイブされ,文化として次代に引き継がれることになるのでしょうか。

 そう,趣味性の強いハイエンドオーディオにおいては,その音質で主役になることは間違いないでしょうが,パッケージメディアが持つアーカイブという能力が欠如していることについての議論は,まだまだ浅いのではないかと思います。

 LPレコードの再生に数百万円の出費を厭わないマニアだからこそ,今の音楽を次にどうやって残していくのかを,一緒に考えてもらいたいものだと,私はそう思います。

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