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マイクロコンピュータ小史~その2 第二次マイコンブーム

 今回は第2回目,日本の,世界のマイコンが熱かった,あの時代を振り返ります。

・第二次マイコンブーム(1978年から1980年代中盤)

 電子工作の延長で始まった第一次マイコンブームは,その動機がコンピュータを作り,所有するという点にあり,コンピュータそのものの実用的利用を念頭に置いたものではなかった。

 しかし,ワンボードマイコンが完成品として安価に手に入るようになって,自分で部品を集め,組み立てる必要がなくなり,また拡張機器が充実することにより,やがて実用的な利用を動機とする人々向けのコンピュータが主流になる。

 それまでワンボードマイコンを販売してこなかった家電メーカーや事務機メーカーなど,多様な会社の参入があり,多くの機種が誕生し,雑誌にも多くの広告が掲載されるようになった。

 また,この時期のマイコンの使用目的としてBASICを使ったプログラミングとゲームに加え,家計簿や住所録,学校教育のアシストといった真面目な用途ついても期待されたが,これらはそもそものコンピュータの性能が低いことやプリンタやフロッピーディスクといった外部記憶装置を含む周辺機器が本体並みに高価だったことから実現出来ず,結局BASICプログラミングとゲームが主な用途となっていた。


・この頃のマイコンの特徴

1.8ビットのCPUを搭載している

 かつては多くのCPUが存在していたが,このころになると8ビットCPUはインテルの80系か,モトローラの68系の2つに集約される。80系の代表は8080上位互換のザイログ製Z80であり,68系の代表は8ビットCPUとしては最高性能とされた6809である。

 8ビットのCPUは,一度に管理できるメモリ空間が64kバイトであり,当時主流となりつつあった64kビットのDRAMチップと相性が良かったことに加え,フロッピーディスクやハーフVGA程度までのグラフィクス,あるいは3和音程度の音楽機能を持たせるには適当だったということもあり,どうしても高価なシステムとなる16ビットCPUは「ビジネス用途」のコンピュータに限定される時代が長く続いた。

2.OSは存在せず,BASICインタプリタがOSとエディタの機能を持っている

 OSは存在せず,電源を入れると即座に起動するBASICインタプリタがOSとエディタの機能を包含していることが,この時代のマイコンの最大の特徴である。

 これ以前のワンボードマイコンの場合,モニタからBASICインタプリタを起動する必要があるなど,BASICインタプリタが単独のソフトウェアとして位置づけられていたが,ベーシックマスターやPC-8001の登場によって,電源を入れると即座にBASICインタプリタが動作することが標準となった。

 これは,BASICインタプリタがダイレクトモードによってコンピュータに指示を出せたこと,外部記憶装置や画面制御などの資源を管理出来るようになったこと,スクリーンエディタの機能も持つようになったことで,これらを区別せずに実装する方が,より使いやすかった上に,メモリも小さくて済んだことによるものと考えられる。

 また,現実的な問題として,高級言語としてBASICは習熟が容易であり,扱いの難しいコンパイラではなくインタプリタとして実用になったことも,BASIC以外の言語を選択する必要がなかった理由であると考えられる。

 ただし,シャープのMZシリーズやX1シリーズはBASICインタプリタをROMに持たず,メモリ空間の大部分をRAMに割り当ててあった。ユーザーはブートローダによって外部記憶装置からBASICインタプリタをロードしなければならなかったが,反面BASIC以外の言語を利用出来たり,CP/MなどのOSを簡単に動かすことが可能であった。

3.メーカー間,あるいは機種間の互換性がない

 異なるCPUを選択したマイコンに互換性がないことは当然として,周辺LSIの違いやメモリマップといったハードウェアの違いや,BASICの言語仕様の違い,BIOSコールのアドレスやROMサブルーチンの仕様の違いといったソフトウェアの違いによる機種間の非互換性は,当時はごく当たり前のこととされていた。

 機能の違いや使いやすさ,価格の高低などはこうした違いから生まれるものであり,むしろ積極的に他との違いをアピールすることが普通であった。

 結果として,マイコンごとに得意なことや不得意なことが生まれることになり,用途や目的を満たすために最適なマイコンを選ぶことから始める必要があった。

 また,このことがユーザーの派閥を生むことに繋がり,特定の機種に入れ込む熱狂的なファンが他機種を非難するなどの行為が,実質的なパーソナルコンピュータのアーキテクチャの統一が図られる1995年頃まで続くことになる。


・このころのマイコン

 1978年に登場した日立製作所のベーシックマスターは,その名の通り電源を入れれば即座にBASICインタプリタが立ち上がる,後のマイコンの源流となった記念すべきコンピュータであり,この点において日本で最初のパーソナルコンピュータと位置づけられる。CPUには6800を装備し,多くのユーザーによって支持されたが,絶対性能の低さ,市販ソフトのスクなさゆえ,次第に存在感が薄くなってゆく。

 1980年には日本で最初に6809を搭載したマイコンとしてベーシックマスターLevel3が登場,1984年にはその後継となるS1が登場するが,意欲的な機能と性能に評価は高かったものの,大ヒットすることはなく日立製作所は独自アーキテクチャのマイコンから撤退することになる。

 同じ1978年にはシャープからMZ-80Kが登場する。CPUにはZ80を搭載し,ディスプレイとキーボード,カセットデッキまでを1つの筐体に格納したオールインワン設計と,BASICインタプリタをROMに持たず,メモリ領域の大部分をRAMに割り当てたクリーン設計によってヒットする。

 MZ-80Kはキーボードの組み立てにハンダ付けが必要なセミキットとして販売されたが,このアーキテクチャを踏襲するMZ-80C,MZ-1200,MZ-700,MZ-1500などの機種では完成品として販売されることとなる。

 1981にはMZ-80Kを大幅に機能アップしたMZ-80Bが登場する。オールインワン設計とクリーン設計を踏襲しつつ,メモリの拡張,高解像度グラフィックのサポートなどで高度な処理に対応し,後にMZ-2000,MZ-2200,MZ-2500といったマシンの源流となる。

 一方,MZシリーズとは異なる事業部において,テレビとの融合を図ったX1シリーズが1982年に登場する。クリーン設計は引き継ぐもディスプレイとキーボードは本体から分離したデザインで,当時の家電を意識したデザインとレッド,シルバー,ホワイトのカラーバリエーション,サウンド機能や640x200ドットで8色カラーのグラフィクス,PCGといったゲームに有利な機能と業界標準であったマイクロソフトBASICに近い文法を持つ高機能なHu-BASICを搭載し,独自のユーザーを獲得する。

 1984年にはZ80ファミリを全面採用し,16ビットマシンに匹敵する表示能力を持ったX1turboシリーズが登場し,8ビットマイコンの終息期まで生き延びた。

 1979年には日本電気からPC-8001が登場する。PC-8001はこの当時求められた機能の多くを搭載した完成度の高いモデルであり,かつ168000円という低価格によって大ヒットとなり,その後の日本電気のパーソナルコンピュータ事業の礎となった。

 CPUにはZ80,カラー表示とセミグラフィックを備えており,世界標準であったマイクロソフト製の強力なBASICインタプリタをROMで実装,電源投入で即座に利用可能となっていた。

 1981年には基本的なアーキテクチャを踏襲して日本語の表示機能や大容量メモリを搭載したPC-8801と,機能を落としより低価格にしながら,グラフィックとサウンド機能については強化を図ったPC-6001が登場し,この後しばらくのラインナップとなる。

 1985年にはPC-8801の後継機種であるPC-8801mk2SRが登場し,他メーカーを押さえて8ビットマイコンの覇者として君臨する。ゲームを始めとしたソフトウェアはこのPC-8801mk2SR向けに優先的に開発される傾向が強くなり,当初のビジネス向けの性格からホビー向けの性格を強くしてゆく。

 この後,PC-9801などの16ビットマシンに移行するに従い,8ビットマイコンはその使命を終えることになる。

 1981年に富士通から登場したFM-8は,CPUには6809を2つ用い,マイクロソフト製のBASICをROMに持つ8ビットマイコンとして登場する。当時最先端だった64kビットDRAMを採用し,大容量メモリを標準で実装し,オプションでJIS第一水準の漢字ROMまで搭載できた。

 グラフィックは640x200ドットの8色カラーであるが,48kバイトにもなるVRAMの実装と高速化のためにグラフィックを担当するサブCPUを用意し,ここにも6809を搭載したことを大きな特徴とする。

 また,バブルメモリという当時期待された外部記憶装置のスロットを本体に装備しており,豊富なオプションと共にどんなことにも対応出来る意欲的なコンピュータであった。

 1982年にはFM-8からADコンバータなどあまり使用されない機能を省き,サウンド機能を追加,処理速度を向上させた下位機種のFM-7が発売になる。126000円という低価格で20万円近いライバルと真っ向勝負が可能というコストパフォーマンスの高さにより大ヒットとなる。このことで富士通はNEC,シャープと列んでパソコン御三家と呼ばれるようになる。

 1985年にはFM-7を源流に,大幅にグラフィック性能を向上したFM-77AVが登場し,このアーキテクチャが8ビットマイコンの終息まで生き残る。


・MSXの流れ

 こうした個性的なコンピュータが販売される一方で,8ビットマイコンの共通規格を策定し,各メーカーはこれに従ってハードウェアとソフトウェアの互換性を維持する動きもあった。

 BASICインタプリタで圧倒的なシェアを持つマイクロソフトと,日本のアスキーによるMSXがそれで,CPUにはZ80を,VDPにはTMS9918,PSGとしてAY-3-8910を採用し,これに強力なMSX-BASICインタプリタが搭載され,各社から1983年に発売された。

 ゲームを主な用途に据えていたこともあり,ROMカートリッジによってソフトウェアが供給されるような仕組みを備えていたほか,BIOSによってBASICのバージョン違いやちょっとした非互換部分を隠蔽化する仕組みも持ち,機種間の互換性は非常に高いものがあった。

 しかし,実際にはMSXという単一の8ビットマイコンがいろいろなメーカーで製造され,販売されただけのことといえ,それぞれのメーカーでは個性を出すことと互換性を維持することの両立に頭を痛めていた。

 結局NECとシャープはMSXの発売を行わず,富士通も1機種出すにとどまった結果,パソコン御三家対その他の弱者という構図が定着することとなる。

 ただし,MSXは世界展開を視野に入れ,韓国やヨーロッパでは一定の成功を収めた。また1985年にはグラフィック性能を向上したMSX2が登場,1998年にはグラフィック周辺を改善したMSX2+が登場し,MSXにおける事実上の標準となった。1988年にはCPUを高速化したMSXturboRが登場するが,10万円以上という価格と絶対性能の低さ,また結局松下電器1社しか発売しなかったことなどからこれを最後にMSXは消滅した。


・周辺機器の進化

 1980年代は,劇的な技術革新による価格の低下により,それまで高嶺の花だったものが民生品として手に届くようになっていた。

 1980年代初期には本体価格よりも高価だったフロッピーディスクドライブは1980年代後半には5万円台の本体に内蔵されるようになり,メディアの価格も大幅に下がることで,爆発的普及を果たした。

 プリンタについても,日本語ワープロの爆発的普及に端を発した高精細な日本語熱転写プリンタが安価に提供され,カラー印刷も可能になっていった。

・機能の進化

 複雑な処理と高度なグラフィックに不可欠なRAMも大容量化が進み,1980年代初頭には16kビットが標準だったDRAMは,1984年頃には64kビットに,1980年代後期には256kビットのものが使われるようになった。

 また,サウンド機能も大きな進化を遂げ,初期にはビープ音のみだったものが,タイマICを使った音程を可変出来る仕組みに発展,やがて3和音を奏でるPSGと呼ばれた専用LSIが標準的に搭載されると共に,これをBASIC上で駆動するためのMMLというマクロ言語が普及することで,コンピュータによる自動演奏への道が開けた。

 さらに,LSI化することが容易という特徴を生かして,ヤマハによるFM音源を搭載したデジタルシンセサイザLSIが搭載されるようになると,多くの和音を多種多彩な音色で演奏することが可能なり,その豊かな表現力によってマイコン利用の1つのジャンルとして定着するに至った。


・表示能力の進化

 初期の代表機種であるPC-8001は160x100ドットのセミグラフィック(1つの文字に2x4ドットのグラフィックパターンを書き込んでおきこれをテキスト画面に並べることで擬似的にグラフィック表示を行うもの)を持っていたが,メモリの価格が下がることで256x192ドットや320x200ドットといったフルグラフィックが利用出来るようになる。

 そして高解像度グラフィックとして640x200ドットのフルグラフィックが1つの到達点となり,高級機種はこの表示能力を持つことが標準となる。16ドットの漢字が1行に40文字表示することが出来るこの能力は,特に国内のコンピュータに強く求められるものであった。

 PC-8801などは,水平周波数を15kHzから24kHzにした超高解像度表示をサポートしており,モノクロながら640x400ドットという表示能力を持っていた。このモードでは16ドットの漢字を40x25文字という十分な文字数表示することが可能であり,特にビジネス用途において必須となっていった。

 しかし,この画素数は,処理速度やメモリ容量から8ビットCPUには荷が重く,本格的に利用されるようになるのは16ビットコンピュータが主流になって以降の話で,ディスプレイとして家庭用テレビをそのまま利用したり,専用であっても安価であった200ライン表示が,この頃の標準であった。


・ファミコンとゲーム

 8ビットマイコンによって,ゲームを作る,ゲームで遊ぶことが家庭で実現したが,それでもゲームセンターにあるゲーム機に比べてハードウェアもソフトウェアも貧弱だったマイクロコンピュータで作ったゲームは大きく見劣りするものであった。

 そんなおり1983年に登場したファミリーコンピュータは,ゲームセンターのゲーム機を基本性能を損なわないような形で簡略化し,徹底的なコストダウンによって14800円という低価格を実現し,大ヒットとなった。

 それでも,いわばプロ仕様であるゲームセンターのゲーム機の進化は激しく,ゲームセンターでヒットしたゲームがどのくらい家庭用の機器で忠実に再現できるのかが,そのゲームソフトの評価基準の1つであったといえる。

 また,基本的にゲームセンターのゲーム機の開発を専門とするメーカーが,ファミコンなどの家庭用ゲーム機に参入してソフトウェアの開発と販売をビジネスにするのも,このころの大きな転換点の1つであった。


・ポケットコンピュータの存在

 科学技術計算の現場や大きな金額を取り扱う事務所などでは,処理能力の高い電卓がしばしば利用されていた。これらは自動計算を行うためのプログラムが可能だったり,複雑な関数を持っていたり,小型のCRTディスプレイで高い表示能力を持っていたり,プリンタを内蔵したものもあった。

 これらの中には,プログラム電卓専用の言語を引き継がず,BASICを搭載するものも現れた。電卓を源流に持つマイクロコンピュータの誕生であるが,一般の量販店では販売されることが少なく,高価なものが多かった。

 やがてこれらの電卓はポケットサイズになってゆくが,通常の関数電卓とは違った流れとして,BASICを搭載したプログラム電卓という独自のジャンルを形成し,ポケットコンピュータと呼ばれるようになる。

 最初のポケットコンピュータは1980年に登場したシャープのPC-1210である。小型で安価,フルキーを備えBASIC言語が扱えるマイクロコンピュータとしてヒットしたが,翌1981年には弱点であった処理速度とメモリ容量を改善し,本格的なBASIC言語を装備したPC-1500を登場させ,この分野を確立した。

 また1981年にはカシオがfx-702Pを発売,翌1982年にはシャープがPC-1210の後継であるPC-1250を発売し,速度,メモリ容量を拡大,またさらにサイズを小型化して真のポケットコンピュータと呼べるものが登場するようになる。

 そしてカシオから,14800円という低価格で1982年にPB-100が登場し,BASIC言語を扱えるコンピュータとして初めて15000円を切った価格で衝撃を与え,多くのユーザーを獲得した。

 ポケットコンピュータはその後,PC-1250を源流に持つもの,PB-100を源流に持つものを軸に1990年代中頃まで販売が続けられるが,BASIC言語に対するニーズが激減し,工業高校や理工系の大学における教育用のコンピュータとしての役割もほぼ終えたことから,現在新品でポケットコンピュータを入手することは難しい。

 ポケットコンピュータは,BASICによってプログラムを作成出来るプログラム電卓の一種であり,当然関数電卓としての基本機能を失っていない。よって多くの機種で電卓モードとプログラムモードを備えており,電卓モードでは通常の電卓同様に扱うことができる。

 学校で教材として触れた学生もいれば,安価なマイクロコンピュータとして手に入れた人も,また持ち運びが可能なコンピュータとして活用した人もおり,現在も一部の人々の間で重用されている。

 
・このころ参入した8ビットマイコンメーカーと機種

 東芝:パソピアシリーズ・・・Z80を中心に構成されたパソコンで,特に後期に登場したパソピア7は,高いグラフィック能力とサウンド機能を武器に一定の存在感を示したが,販売台数が伸びず,市販のソフトも少ないまま消滅。その後MSXに軸足が移る。

 三菱:マルチ8・・・Z80を中心に構成されたパソコンで,ビジネスにも対応出来る能力を備えてはいたが,いかんせん市販ソフトがほとんどなく,存在感を示すことなく消滅。こちらもMSXに参入するが,ここでも存在感を示せず撤退。

 松下電器:JR-100/200・・・実際には松下通信工業が開発した初心者向きのマイクロコンピュータで,CPUには6800を使っていた。JR-100は54800円という廉価な価格でBASICを学習できるホビーマシンで,モノクロでグラフィックを持たないがPCGを装備していた。JR-200ではカラー対応とサウンド機能を持った後継機種である。JRシリーズは松下電器産業がMSXに参入する際に終息している。

 ソード:M5・・・ゲームを志向した小型のマイクロコンピュータで,CPUにはZ80,VDPにはMSXと同じTMS9918を使っていた。Z80のモード2割り込みを使った数少ない機種の1つ。TMS9918の機能であるスプライトや,サウンドジェネレータをフルサポートしたゲーム作りに最適なBASIC-Gが別売りで用意され,人気のあった機種であった。しかしMSXと似たようなスペックであったことと発展型の後継機種が出なかったこと,メーカーであるソードの経営不振などもあって,早い時期に市場から消える。

 タカラ;ぴゅう太・・・オモチャメーカーであるタカラが作った16ビットマイクロコンピュータで,CPUにはTMS9995,VDPにはTMS9918を搭載していた。国内仕様ではBASICがすべてカタカナによる日本語で記述することになっていた。その後英語表記のBASICに戻した後継機種も出ているが,これもMSXと似たようなスペックだったこともあり,それ程普及せず終息。

 バンダイ:RX-78・・・バンダイが発売したマイクロコンピュータで,ゲームを主な用途としていた。製造はシャープが請け負ったが,ヒットせず市場から消える。

 セガ:SC-3000・・・ゲームメーカーのセガが発売した廉価版のマイクロコンピュータで,29800円という低価格で発売された。SC-3000からキーボードを省いた専用ゲーム機がSG-1000であり,セガの家庭用ゲームマシンの源流である。CPUにZ80,VDPにTMS9918というMSXと類似の仕様となっており,ほぼ同時期に発売されたファミリーコンピュータからは見劣りした。
 
カシオ:FP-1000・・・カシオが発売したセパレート型のマシンで,CPUはZ80 ,内部BCD演算の高精度なBASICを搭載,PC-8801に匹敵する性能をはるかに安い価格で実現した良心的モデルであった。計算機のカシオらしいマシンであったがシリーズ化されることなく終息。

ソニー:SMC-70・・・CPUにZ80を搭載,アナログRGBによる中間色を扱える高度なグラフィック機能に,新開発の3.5インチフロッピーディスクが用意された,CP/Mを思考した意欲的なマシン。後に低価格化したSMC-777も登場したが,MSXへの参入をきっかけに終息。

エプソン:HC-20・・・電池で長時間駆動するフルスペックのマイクロコンピュータとして注目された,世界初のハンドヘルドコンピュータ。CPUはCMOS版のHD6301Vで,メモリを含むほとんどのICがCMOSで構成されていた。強力なマイクロソフトBASICを装備し,RAMもバックアップが行われ,内蔵のNi-cd電池で50時間の動作が可能,当時としては大型のLCDとフルキーボードを装備,プリンタやカセットデッキも内蔵していた。HCシリーズはその後長く機種展開を続け,周辺機器として音響カプラも用意され,今で言うモバイルコンピューティングを具現化した記念碑的マシンと言える。

三洋電機:PHC-25・・・CPUにZ80,VDGに6847というPC-6001によく似た構成を持っているが,BASICで作られたプログラムに多少の互換性があるという程度であり,よく言われるような互換機ではない。サウンド機能などを省いて価格を下げたホビー向けのマイクロコンピュータであった。この後PHCシリーズはMSXに移行し,独自アーキテクチャのマシンは終息する。


・このころの外部記憶装置

 当初,外部記憶装置と言えば,音楽用のカセットテープであった。FSKを変調方式に使い,300bps程度のシリアルデータと音を相互に変換し,この音をカセットテープに録音する仕組みであったが,低速で信頼性が低く,また寿命も短い上にランダムアクセスが出来ないなど,致命的な欠点を持っていた。

 8ビットマイクロコンピュータとはいえ,64kバイトを越えるメモリを搭載するようになると,高速化されたカセットテープであっても10分程度の待ち時間を要する場合もあり,フロッピーディスクへの憧れがユーザーの間で高まっていった。

 フロッピーディスクは当初8インチのものしかなかったが,高速大容量であった一方で非常に高価であり,扱いも決して楽ではなかった。ほぼ同じ構造を踏襲し小型化した5.25インチのフロッピーディスクが登場し,Apple][で標準的に利用されるようになると,マイクロコンピュータの外部記憶装置として手頃なものとして急激に普及するようになった。

 1980年代中盤にメディアは1枚1000円エイド,ドライブは2ドライブのもので20万円弱というのが相場であったが,徐々に値段も下がり,1980年代後半にはメディアは1枚100円程度,ドライブも2ドライブで6,7万円で手に入るようになった。また10万円程度のマシンにドライブが標準されるようになったことも大きい。

 後に固いジャケットとシャッターを備えた3.5インチフロッピーディスク,5.25インチの互換性を重視した3インチフロッピーディスクなど,小型化されたものが登場するが,最終的には5.25インチと3.5インチが生き残ることになる。

 一方,カセットテープ並みの安さ,手頃な記憶容量と,ディスクの高速性を両立した手軽なメディアとして,クイックディスクの存在がある。大きさは約2.5インチで,渦巻き状に記録される。片面64kバイトという8ビットマイクロコンピュータにぴったりな容量を持ち,8秒でセーブとロードが完了する高速性と,特にドライブが安価であったことから,MZ-1500やファミリコンピュータディスクシステム,電子楽器などに用いられた。

 バッテリバックアップが可能になったC-MOSのSRAMを用いたRAMカートリッジやRAMカードを採用したケース,バブルメモリという時期バブルを応用した新しい記憶装置を採用したもの,MSXのようにマスクROMをカートリッジに収めたものなど,高価なフロッピーディスクの代わりになるメディアがいくつも提案されたが,結局フロッピーディスクの低価格化によってそれらはほとんど消滅した。


・このころのデバイス

 ロジックICはTTLの74LSシリーズが多く用いられたが,マイクロコンピュータ用の大規模なLSIはnMOS化が進み,ほとんどのLSIが5V単電源のnMOSとなっていた。

 DRAMは16kビットから64kビット,256ビットと順調に集積度が上がり,また扱いやすく改良されるようになって,多くのマイクロコンピュータで使われるようになった。

 一方のSRAMは低消費電力でバッテリバックアップ可能なC-MOSで作られた6116シリーズが登場し,DRAMとは別の用途に用いられるようになる。特にポケットコンピュータやSRAMカードといったバッテリバックアップという性能を十二分に生かした用途は,これらがなければ成り立たなかった。

 CPUはもちろん,周辺LSIの充実もこの時期に行われ,PPI,UART,DMAC,タイマといった基本機能を実現するファミリLSIを始め,PSG,CRTC,LCDC,FDC,GDC,GPIBコントローラや浮動小数点演算を行うプロセッサなど,多くの品種が揃っていた。

 ROMについては大容量で安価なマスクROMが主流であったが,紫外線で消去し,専用のライタで書き込むUV-EPROMが書き換え可能なROMとして主役の座にあった。また,マスクROMにあらかじめJIS第一水準や第二水準の漢字フォントを書き込んだ状態のROMを漢字ROMとして販売していた。

 1980年代後半から,nMOSやTTLよりも消費電力を引き下げ,かつ高速動作が可能なC-MOSのICを製造する技術が確立し,TTLシリーズと肩を並べるようになった74HCシリーズがロジックICとして急速に普及を果たす。同時にnMOSで作られたCPUなどもC-MOSで作られるようになり,電池駆動が可能なマイクロコンピュータが実現するようになった。


・このころの汎用OS

 8ビットのマイクロコンピュータでは,一般にOSを持たず,BASICインタプリタがその役割を果たすことは既に述べた。しかし,汎用のOSを動作させて,この上でプログラムの開発や実行を行うケースも多く,一部のマニアや技術者が利用していた。

 このころのマイクロコンピュータ用OSは,特定の機種専用という形ではまだ販売されておらず,ハードウェアに依存した部分をユーザー自らが変更して,自分のコンピュータで動作させるのが普通であった。

 CP/Mはデジタルリサーチが開発した8080用のOSで,当時ようやく利用出来るようになってきたフロッピーディスクを前提にした,マイクロコンピュータ用の汎用OSとして世界最初のものである。CP/Mは8080やZ80では標準となっていたOSであり,FORTRANやCOBOL,Cをはじめとした各種高級言語,マクロアセンブラやリンカ,Wordstarなどの高機能なエディタなど充実したソフトウェアが揃っていた。

 OS/9はマイクロウェアが開発した6809用のOSで,6809の高い性能を生かすことの出来る,非常に優れたOSであった。もともと6809用の高級言語であるBASIC-09が開発され,この言語が動作する環境として整備されたOSという経歴を持つ。マルチタスク,リエントラントといった特徴を持つもので,その信頼性の高さから製造機器の制御などの工業用途にも多くの採用例があった。

マイクロコンピュータ小史~その1 第一次マイコンブーム

 今でこそ,手元に必ずあり,家電量販店の一角で主力商品の1つとして販売されるようになったパーソナルコンピュータですが,こうなるまでに紆余曲折が随分とありました。

 電子工作が大好きで,作る事と使う事を楽しめた私も,何度か訪れたパソコンのブームにはそれなりの経験をしていますが,その頃を語る資料や書籍に目を通すと,必ずしも自らの記憶と合致するものとは限らないことがままあります。

 これは,住んでいた場所,周囲の人々との関わり合い方,お金持ちだったか貧乏だったかという経済状況,他のことに興味があったかなかったかに大きく左右されるところがあって,特に1980年代中盤を少年として過ごした人々にとって,それこそ千差万別の記憶として残るものだからと思います。

 というところまで考えた上で,私なりに少しまとめてみることにしました。今後不定期に書いていこうと思います。

 私は1971年の生まれで,住んでいたのは大阪の郊外,両親はどちらも文系で,どちらかというと貧しく,私自身もそれほど勉強が出来たわけではありません。ま,当時としてはごく普通の家だったんじゃないでしょうか。

 まず第1回目は,第一次マイコンブームです。

 そもそも,マイコンブームとは何だ,と言うところから考えなければなりません。諸説ある中で,私自身が考えるマイコンブームを定義し整理します。また,本来その中心地であるアメリカの状況を無視して考えるわけにはいかないのですが,とりあえず国内の状況を軸にします。

 なお,私自身は第一次マイコンブームは経験しておらず,どんなものかをリアルタイムでは知りません。第二次マイコンブームはの渦中にいた時,一昔前の話として当時の雑誌や人づてで知った事が中心になっているので,例えばこの時すでに30歳代だったミニコンのSEの人たちの感じた印象と食い違っていることは,当然あり得るでしょう。


・第一次マイコンブーム(1970年代中盤から1979年)

 1971年に登場した4004というマイクロコンピュータをきっかけにし,それまで大きく高価だったコンピュータが,個人で所有出来るようになったことから,マイクロコンピュータが技術者だけではなく,学生や一般の人々を巻き込んだ一大ブームになった。最初のマイコンブームだったことから,これを第一次マイコンブームと呼ぶ。

 それまで,トランジスタやゲートICなどの部品を多数集めて作らざるを得なかったコンピュータは,専門の知識,技能,そして相応の経済力を持たなくては買う事も作る事も出来ず,きちんとした利用目的を持った専門家が購入するものであった。

 しかし,半導体技術の進歩によって登場したマイクロコンピュータを利用すれば,LSIを数個から数十個組み合わせるだけで小型のコンピュータを作る事が出来るようになり,アマチュアが趣味で取り組む事が可能になった。

 初期は処理能力も低く,高価だったマイクロコンピュータも,1976年頃になるとミニコンピュータの下位機種程度の性能を持つ8bitのCPUが1つ数千円で購入できるようになり,またその入手や取り扱いも簡単なものになってきた。

 このブームの中心にいたのは,電子工作を得意とするホビーストやアマチュア無線家,理系の学生や企業の技術者など,すでにコンピュータとは何かを知っている人たちであり,コンピュータを自分達で作り,また所有して独占使用するという憧れが,強い動機になっていた。

 CPUやRAMなどを部品で購入し,これをハンダ付けして組み立てる事は,個人が趣味で出来るようになったとはいうものの,やはり技術力と根気,そして大きな資金が必要であった上,組み立てた後のソフトウェアを作る事も当然自分達で行わねばならず,基本的には全てが手作りであった。

 この頃創刊されたマイコンに関する雑誌として,I/O,ASCII,マイコンなどがある。これらはまだまだ少なかったコンピュータを作るという作業に必要な情報を発信する,非常に貴重な存在であった。

 このブームの後半である1976年には,日本電気からTK-80というトレーニングキットが登場する。これは面倒なハードウェア製作の手間を減らし,マイクロコンピュータの利用と習熟を目的とした,CPUを売る立場の半導体メーカーが用意したキットの1つだが,当初顧客であるメーカーの技術者をターゲットに想定したTK-80は,その思惑から外れアマチュアが秋葉原などの小売店で購入し,自ら組み立てるという形で異例のヒットを記録し,NECのパソコンビジネスの途端を開いた。

 TK-80のヒットに触発され,日立製作所やシャープ,富士通といったCPUメーカーから相次いで同様のトレーニングキットが発売され,これらは総じてワンボードマイコンと呼ばれるようになる。

 こうしてワンボードマイコンは,本来の技術者のトレーニングにも使われる一方で,一般の消費者にも小売店で販売され,フルキーボードやTVモニタ,大容量のRAMやBASICといった高級言語が利用出来るようになるなどの拡張が行われていった。そして,誰でもお金さえ出せばコンピュータが手に入るワンボードマイコンによって,第一次マイコンブームはピークを迎えることになる。

・このころのCPU

 国内外の半導体メーカーから多種多様なCPUが登場し,価格も性能もまちまちであったこの時代,自分で気に入ったCPUを探してこれを中心にコンピュータを作り上げるのが普通であったことから,まずどのCPUを選ぶかがコンピュータを手に入れる,最初の作業であった。

 8080はインテルの8ビットCPUであり,現在まで続くx86の原点と言えるもの。この当時の代表的CPUの1つであり,64kバイトのメモリ空間やスタックポインタの実装など,当時の8ビットCPUの基準となった。ただしハードウェアの設計はやや難しく,これが大きく改善されたZ80が登場すると,主役の座を降りることになる。

 6800はモトローラの8ビットCPUであり,現在小型の組み込みマイコンとして使われるフリースケールのHC08の源流である。ミニコンピュータの設計を手本にしたアーキテクチャで知られる。6800は後に6809となり大幅に機能が強化され,究極の8ビットと呼ばれるようになる。

・このころのメモリ

 大容量を実現出来るダイナミックRAMはまだまだ扱いが難しく,また高価で信頼性も低かったことから,もっぱらアマチュアにはスタティックRAMが用いられた。スタティックRAMは現在のような低消費電力を特徴とするものではなかったため,わずか4kバイトのメモリを実装するのに1kビットのSRAMが32個も必要なるなど,規模の大きな回路と大きな消費電力,そして発熱に悩まされた。

 ROMはUV-EPROMがまだ一般的ではなく,マスクROMが主流であったが,ユーザーの手元で書き込みが出来るROMとしてはヒューズROMもしくはEEPROMが使われた。

・このころのデバイス

 ミニコンピュータを始め,多くの電子機器で大量に使われたICがTTLであり,特に当時最新だったLSシリーズが消費電力と性能を高次元でバランスしており,主流であった。

 現在主流のCMOSは,低速でも低消費電力で,広い電圧範囲で動作するといった特徴を有した特殊なICであり,腕時計やおもちゃなどに限定的に使われたに過ぎない。また,pMOSやnMOSについては集積度が上げられること,TTLに比べて消費電力を下げられることから次第に大規模なLSIに使われるようになっていった。

・このころの技術な流れ

 マイクロコンピュータが普及するに至り,民生品へのマイコン搭載が当たり前になってくると,技術者達に求められる技術として,デジタル回路とソフトウェアが求められるようになる。しかしその主流はまだまだアナログ技術であり,完全なリアルタイムで動作する電子回路を複雑に動作させることで,所望の仕様を実現していた。

・このころのヲタク

 第二次ベビーブームの少年達の趣味は,豊かになった親の世代に支援を受け多様化する。ブルートレイン,テレビゲーム,アマチュア無線,電子楽器,カメラ,生録音,ステレオ,BCL,スロットレーシング,簡単なラジコン,電子工作,Nゲージ鉄道模型,などが流行った。総じてエレクトロニクスの発展が新しいホビーを生み出すきっかけになっていた。

梅雨の花

 東日本も梅雨に入り,しとしとと雨が降るようになって来ました。

 私は雨が大好きで,晴れた休日にある慌ただしさもなく,気温もそれほど上がらず,じっとしていればそこそこ過ごしやすい梅雨時は,引きこもるには魅力的です。

 昨日,ふと玄関先で,お隣の紫陽花の美しいグラデーションを見かけたので,DP1sで撮影してみました。

ファイル 382-1.jpg

 28mm,F4,現像はPhotoshopCS5です。トリミングをしています。

 つくづくDP1sというカメラのポテンシャルにはうならされます。そしてその性能に自分の力が全く追いついていないことを痛感します。

 ところで,クローズアップレンズを使ってみたのですが,画質やボケはそこそこのものだったのに,オートフォーカスの精度が甘く,フォーカスがきちんと来ていませんでした。

 マクロ撮影ではフォーカスが難しくなることをうっかり忘れていたせいもありますが,さりとてマニュアルフォーカスはこのLCDでは簡単とはいえず,なんだかこういう理由でもこのレンズが「寄れない」仕様になっているようになっているのかも知れないなと思いました。

メーカーに煽られる消費者と3Dテレビ

 AV業界は3Dでもちきりです。

 タモリ倶楽部じゃないですが,そっちのAVではありません。(それはそれでどんなものか見てみたいですが)

 国内外のテレビ関連メーカーで,テレビの3D対応が進んでおり,2010年はその元年と言われています。

 わずかに高いだけでかつてない経験が出来るという触れ込みで一気に普及させたいとするメーカー側に,当初否定的だった評論家達が,ここへきてどういうわけだか「いいんじゃないの」と提灯をぶら下げるようになって,風向きが変わりつつあるように思います。

 私としては,商機を逃さないと頑張るメーカーさんには,B-CASやら補償金やらダビング10やらの問題を常に提起し続けて,とっとと解決してもらった方がみんなが幸せになるのではないかと思うのですが,考えて見るとこれは国内問題であって,海外で苦戦を強いられている日本のメーカーとしては,世界的潮流である3D化を進めないわけにはいかないのでしょう。

 最初に断っておきますが,私は3Dには極めて否定的です。ただし,映画館でも3Dを体験したことがない人ですので,その上での否定です。

 理由をごちゃごちゃ書くことすら無駄だと思われるほどバカバカしい話だと思っているので箇条書きにします。いや,メーカーや提灯評論家たちはすでにここで書くことなど,論破したつもりでいるので,私は声高に主張しません。

・メガネがいる
 -> 家族揃って大晦日に,3Dメガネをみんなしながら紅白をみるんですか?
   なんちゅうサイバーな家族ですか,そいつは。
   生まれてからずっと「テレビはメガネをして見る物だ」と思って
   育つ子供の気持ちになってみて下さい。

・家族の崩壊が進む
 -> メガネが足りない場合,メガネをしたくない場合,メガネをしていない人は
   普通に家族揃って一緒にテレビを見られません。
   よくも大画面テレビが「一家団欒の中心」などといえたものです。

・コンテンツがない
 -> 徐々に揃うでしょうが,そんなことより先にBlurayの普及じゃないですか。

・手軽な無料放送である地デジで試せない
 -> 一般の人たちは地デジで十分なんですよ実際。

・体に合わない人がいる
 -> 頭痛,めまい,疲れ,違和感,吐き気,肩凝り・・・
   そこまでして3Dでみたいかと。

・3Dでみたいものがない
 -> ひな壇バラエティーで奥行きを感じたいですか?
   ニュースで奥行きが必要ですか?取材映像は3Dじゃないですよ。
   北朝鮮からの映像は未だに4:3のSD解像度ですし。

・テレビの役割
 -> テレビの役割は,映像の伝送であって,仮想現実の伝送までは
   多くが望んでないじゃないでしょうか。

・画質の低下
 -> 3D(2Dの疑似3D化も含む)のために演算パワーや消費電力,
   帯域をあてがうより先に,もっと先にすべきことがあるんじゃ
   ないですか。

・そもそも誰のため
 -> 消費者が欲しいといって用意されたものではなく,メーカーの
   都合で出てきたもので,うまくいった試しがありません。

・そもそもテレビをみない
 -> みなさんテレビみてます?


 先日,朝電車の中でつらつらと,「押しつけられる違和感」を感じながら,昨今の3D化に煽られる状況を考えていると,過去に似たような違和感を感じて成功した事例って本当にないのかなあと考え込んでしまいました。

 例えば,白黒テレビを見た人は,しばらくするとやっぱりカラーが欲しいと思います。メーカーはカラーテレビを作り,消費者のニーズに応えるわけです。

 アナログテレビが誕生したとき,その解像度は14インチ程度のテレビを前提に決められたわけですが,消費者は大画面テレビと,大画面化によって必要になった高画質化を望みました。

 それらはテレビの主流となったわけですが,繰り返すとおり消費者のニーズが先にあったということが共通しています。ごく自然な流れです。

 では,消費者のニーズが少なく,メーカーの押しつけの結果大失敗に至ったものをちょっと探してみましょう。今回のテーマは,本来はこれです。


・4チャンネルステレオ

 ステレオがブームになり,立体音響の素晴らしさが浸透したあと,単純に後ろにもスピーカーを置こう,と安易に消費者を煽った4チャンネルステレオ(あえて当時の書き方であるチャンネルと書きます)は,1970年代に各社がこぞって実用化しました。
 最悪だったのは,真面目に4チャネル分の音を記録できるようにフォーマットに手を入れたメーカーがある一方で,ステレオの音から残響成分を取りだしただけのなんちゃって4チャンネルステレオも存在し,これらがメーカーごとに「うちのが一番」と展開されたことで,用意しないといけないものや実際の効果の違いが大きくバラツキ,消費者にそっぽを向かれたという事実です。
 後にサラウンド,などといって10年ごとに手を変え品を変え,似たようなものが出ては消え出ては消えして現在に至っていますが,消費者は音に包まれることよりも,音を持ち歩いて個人で楽しむ事を選んだのです。


・Lカセット

 これも1970年代ですね。コンパクトカセット(いわゆるカセットテープです)を一回り大きくしたもので,テープの幅を広げ,かつテープの走行速度を速めて高音質化し,オープンリールの性能とカセットの使いやすさを兼ね備えたものとして登場しました。
 しかし,消費者はカセットテープの性能向上を望み,Lカセットはあっという間に死に絶えました。後に登場するメタルテープによるカセットテープにより,オープンリールさえ完全に消え去りました。それだけあのサイズの使い勝手が良かったということでしょう。


・クリアビジョン

 アナログテレビ放送の高画質化を行う手法として,映像信号の隙間に高画質用の信号を挟み込み,対応のテレビで見れば高画質になるという触れ込みで1980年代後半に始まりました。でも,結果は一目瞭然。消費者は微々たる高画質化を地上放送で期待などしてなかったのです。


・FM文字多重放送(みえるラジオ)

 1990年代に始まったFM文字多重放送ですが,今放送されている音楽の曲名やキャンペーン情報を一緒に放送できるということで,それなりに期待されたようです。しかし,ラジオを聞いている人が常に文字情報を見られる環境にいるのか,と言われればそんなわけもなく,やっぱりラジオを聞いている人がどんな人なのかを見誤った結果ではないかと思います。


・AMステレオ放送

 1990年代に鳴り物入りで始まったAMステレオ放送は,始まって10年もすると,受信機の入手さえ難しくなりました。AMラジオを聞いている人がどういう人たちで,何を望んでいるのかを完全に見失った結果でしょう。個人的には残って欲しかったんですが・・・


・キャプテンシステム

 もうね,恥ずかしくって「ニューメディア」なんて,口に出来ませんよね。超ナローバンド,低解像度,少ない色数で貧弱な表現力,緩慢な動作,それでいて結局なにが出来るのかさっぱりわからないのに,トップダウンですごいすごいと言われ続けた代表格でしょう。知らない?ええ,知らないままで結構です。


・レーザーディスク

 それでも普及してた,と言う人もいるでしょうが,冷静に考えるとレーザーディスクなどは,マニアしか持ってませんでした。
 光学ディスクに映像を入れるということで得られるメリットは,頭出しが素早いことと,画質が優れていること,あと製造が楽で値段が下がることだったはずですが,そもそも映画で頭出しをすることは少なく,高画質化と言っても所詮525i,しかも値段は全然下がらず,では一般への普及などあるはずはありません。
 だから,カラオケ用に偏ったわけです。


・DCC

 音質云々は別にして,コンパクトカセットをディジタル化したDCCは,ミニディスクに敗れました。これは勝ち負けというより,DCCが少なくとも国内の消費者のニーズを無視していたことにあると思います。消費者は十分高音質になったコンパクトカセットのディジタル版が欲しかったわけではなく,録音と編集のできるCDを欲しがったということなのです。


 ・・・まだまだあると思いますが,AV関係だけでもぱっとこれだけ見つかりました。まあ,メーカーもそんなに悪意があったわけではないでしょうが,古今東西,消費者というのは案外賢く,あざとい考え方でものを売ろうと思ってもダメなものです。

 そう考えていくと,3Dテレビっていうのも,似たようなもんだと思えてなりません。

 私はむしろ,3Dは映画館で楽しむもの,と言うことになるんじゃないかと思っています。大画面,大音響,そしてあの独特な雰囲気と,映画を見るということだけを目的に足を運び,お金を払い,2時間拘束されるあの覚悟が,映画を映画館で見ることの意義であり価値であるわけですが,ここに3Dによる非日常が加わるということの方が自然です。

 一方で,個人で映画館を持つ事など出来ませんが,ミニ映画館を作るための方法として,プロジェクタやサラウンドシステムが売られています。でもそれはマニア向けで,そうした設備に価値を見いだせる一部の人の趣味の世界なわけです。しかも,どんなにお金をかけようとも,結局のところ映画館のサブセットに過ぎません。

 3Dが家庭に入ることがあるとすれば,この世界からになるのではないかと思います。普通は映画館で楽しむ,マニアはそれを自宅で再現する,再現することそのものも目的になる,という形で,細々と使われていくのではないでしょうか。

 消費者というのは賢いくせに,面倒くさがりです。おそらくメガネをすることを面倒くさがり,次第にメガネをしなくなります。メガネをしないと,3Dにならないのですから,3Dテレビの必要性も出てきません。そうするとコンテンツ,特に地デジでは3Dになる可能性は低くなり,3Dテレビは絶望的状況になります。

 別の言い方をすると,3Dで見たいときだけメガネをしますが,それってプロジェクタで映画を見ることと,同じ気分ですわね。せっかく映画を見るんだから,できるだけいい状態で楽しみたいということです。ですからAVマニアも,ニュースや天気予報は普通のテレビで見ているんです。

 そんなこんなで,私は3Dテレビは黒歴史になると思っているのですが,声高に3Dを叫んでいないメーカーを良心的だとも感じています。

 引っ越ししたら,いいテレビを買いたいなあとずっと思っていましたが,もうすぐ引っ越しという絶好の機会が訪れます。実は,もう新しいテレビを手配済みで,今回のテーマは,そのテレビの選択を正当化する屁理屈だった,というオチなのです。

イタズラ電話で考えたこと

 昨夜22時半過ぎに突然電話が鳴り,何事かと思って電話に出ました。有り体に言えば,不動産屋のセールスの電話だったわけですが,

  要件はなんだ -> 聞いてくれればわかります
  もう寝るんだが -> 聞いてくれないと寝れませんよ
  私には話を聞く理由がないんだが -> こちらにはあるんです
  なんであなたの事情を考えないといかんのだ -> 電話しているからです

てな,まるでちょっと賢い小学生と話をしてるような,かみ合わない会話でした。
しまいには,相当頭に来ていた私の口調を,おどけてオウム返しするような子供っぽいことを彼はやってましたが,それでも彼はこれまできちんと周りに話を聞いてもらってきたのでしょうから,随分恵まれた境遇だったんだなと,うらやましくなります。

 言葉遣いは非常にきっちりしてたので,さすが不動産屋とは思いましたが,言葉遣いとやってることのギャップがあまりに大きく,正直に言うと何度か思わず笑ってしまいました。

 今考えて見ると,腹が立つと言うより,真面目に応対したことが失敗だったなと。一種のイタズラ電話だったと考えれば,まあ水に流してあげられます。

 終止私を「ご主人は」と名前で呼ばず,どっかの名簿を買ってかけてきたんでしょう。ググってみると,それらしい不動産屋が近隣にありました。要注意ですね。

 不動産業界は今とても大変らしく同情もしますが,こんなことをやっても逆効果ですよ。景気が悪いときこそ効率を追求しないと,私に費やす時間で3人は電話できたでしょう。勧誘の電話は数ですよ数。ダメだと思ったら深い追いしないのがコツです。

 それはそうと,携帯電話のように相手の電話番号をブロックしようと考えたのですが,有線の電話は,相手の電話をブロックするどころか,相手の電話番号さえもわからないシステムになっていることに気が付きました。

 相手の電話番号を知る事は,毎月の追加料金と電話機の買い換えで対応できますし,迷惑電話おことわりサービスなる月々600円のサービスを申し込めば,一応遮断は可能ですが,外側からしたい放題の無防備な状態がデフォルトで,結構な金額の別料金で少しだけまともな状態になる,というのも,携帯電話やPC,ネットの世界に慣れていると,よくもこんな仕組みが成り立っていたもんだと,あきれてしまいます。

 悪いことをする人を占めだし,割に合わないことだと悪いことそのものをなくしていくことで全体を良くするという思想ではなく,悪い目にあった人を単独で保護すればそれでよい,というその場限りの発想も,いささか古い考え方のように思えます。

 つまるところ,有線の電話は,進化が完全に止まっているということです。セキュリティ意識も低いし,顧客を守るという思想も希薄で,ますます有線電話の商品価値は低下していくし,それに気が付かない人が増えることでしょう。

 昨日,私は電話を切った後にもしつこくかけてくる相手に対抗するため,電話線を抜いて寝ることになったのですが,このことで私の電話機はノードから外れてしまいました。

 電話は1台では何の意味もなく,2台以上あって初めて価値が生まれます。電話は台数が増えるほど価値が増大するものですから,私の電話機が外れれば,それだけ価値が低下するということになります。(初期のskypeを思い出して下さい。かけたい相手にskype入れてくれとわざわざお願いした経験はありませんか?)

 わかりやすい話で,私に電話をして勧誘すれば,私が引っかかるようなサービスだってあったかも知れないわけですし。でも,その可能性は電話線を外した瞬間にゼロになりました。

 当のNTTはなにをやっているかと言えば,有線電話の価値を上げるようなことは最近なにもやってません。Dモードも中止になりましたし,逆に携帯電話料金に維持費用の一部を負担してもらっている体たらくです。

 信頼性と確実性の維持をNTTは自慢し,それが売りだといっていますが,いってみればインフラですから当たり前の話で,ずっと以前からそれが売りであったことを考えると,維持されて当然の商品でです。現状の維持だけで先に進もうとしない,進化が止まったというのはこういうことです。

 今すぐにイタズラ電話を遮断する仕組みがない,このことに気が付いた昨夜の私は,改めてイタズラ電話で嫌な思いや怖い思いをしてきた人を気の毒だと思うようになりました。人生何事も経験ですね。

 私が高校生だったときの師は「電話は暴力だ,こちらの都合を考えない」と私に説きましたが,その究極の事態がイタズラ電話なんだなと思った次第です。

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