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2012年10月05日の記事は以下のとおりです。

25年前の高校生活をふと思う

 今から25年も前の話,私は高校生だったのですが,最近になってようやく一歩下がったところからそのころの生活を見ることが出来るようになってきました。

 私が通った高校は大阪の府立高校で,私の住む街でも名の知れた,名門校でした。私は中学生の時が最も勉強が出来た人で,トップ校には少々手が届きませんでしたが,2番手のこの学校には十分な学力を持っていました。

 ただ,親も中学校の先生も,はたまた塾の先生や友人達も,その当時の学力にマッチしていたからというより,その校風に「お前ならぴったり」と本人以上の納得をしていたことを,思い出します。

 自主自立。それがこの学校のモットーでした。1970年代の学生紛争が高校にも飛び火し,私の母校は校則と制服が廃止されました。かつての制服(男子は詰め襟,女子はセーラー服)を「標準服」と呼び,標準服を含めたどんな服装も許されていましたが,それは本当に自由という事ではなく,高校生にふさわしい服装を自分で考えて着てこい,と言う自由でした。

 今はどうか知りませんが,私のいた頃はほとんどが標準服でした。なかに完全な私服もいましたが,それは自己主張が強く,周囲からちょっと一目置かれていた,いい意味で変わり者がそうだったように思います。


・アホに洗脳される

 当時の学区で2番目の進学校ですから,それなりに勉強が出来ないと入ることが出来ない学校でしたし,校則や制服がない,自由な校風に憧れる生徒が集まる人気のある学校でしたから,競争率も低くはなく,誰でも行ける学校ではなかったと思います。

 ですが,面白い事に,合格した途端に成績がガタガタと落ちるんですね。ちっとも勉強しないようになる人も多くて,当時は先生もあんまりやかましく勉強しろとは言いませんでした。

 ですから,中学時代は成績上位でも,高校生になると成績がばーっと下がり,アホに洗脳される学校と呼ばれていました。

 かくいう私も勉強をちっともせず,底辺を彷徨っていました。同じようにアホになった友人から,お前アホやろ,と面と向かって言われたり,卒業できんのか,と心配されたことも一度や二度ではありません。


,4年制の学校

 そんな高校でしたが,卒業生の大半は大学に進む進学校でした。ですが現役で大学に通る人は半分以下,大半は浪人して大学に進みます。

 それゆえ,4年制の高校といわれたものです。

 当時の先生の口癖は,「やれば出来る子」でした。なんとなくですが,先生も生徒も浪人を許した上で,楽しい高校の3年間を満喫するのもよいだろうという,そんな空気も漂っていました。でも,親はたまったものではありませんわね。


・文化祭

 大阪府下でも有数の,大規模な文化祭を開催することでも知られていました。1年の時は様子見もあって喫茶店などでお茶を濁すのですが,2年では半分,3年ではほとんどのクラスが演劇をクラスの出し物とします。

 劇をやると,大道具から小道具,衣装や音響など,総力戦になります。まあこういっては何ですが,キャストはクラスでも目立ちたがり屋がやりますし,シナリオは特殊能力なのですぐに決まります。

 後の人間は裏方に回るのですが,最初はダラダラやっていた人間でも,最後には夢中になって,最後には涙するというのが通例でした。結局脱落する人間が少なかったなあと思います。

 そういえば,私たちの時は1学年で13クラスもありました。約40ものクラスがあって,多くが演劇をやるわけですが,演劇をやるクラスは立て看板を作りますから,あちこち立て看板だらけになるわけです。

 立て看板の良し悪しが人気に直結するので,自ずとクラスで最も絵のうまい人間が担当します。シナリオのうまい奴,台詞の通る奴,工作のうまい奴,ミシンがけがうまい奴,そして画を描くのがうまい奴と,普段なかなか見れない「一芸」が見られる機会でした。

 ところで,そんな何十もの演劇を上演するのは普通無理だと思うでしょ。でも我々の学校の舞台は講堂,新体育館,旧体育館に加えて,近くの公会堂を使わせてもらっていました。4つの舞台を3日間の期間中,すべてのクラスやクラブで共用するのですが,見たいものが複数にまたがると,走り回ることになります。

 あと,美術の先生がアップライトピアノを斧で割り,ペンキを塗りたくるというパフォーマンスをやってました。やってるときはいいんですが,終わってからの妙なむなしさをよく覚えています。


・なんでも本気で

 球技大会は「ペナント」と呼ばれていました。なんでそう呼ばれるのか私はわからんのですが,とにかくただの球技大会に,みんな本気になります。今はなにやらコスプレをしながら試合をするそうですが(うらやましい),私の頃はただの体操服で,なにがおもろいねん,と冷めていました。

 クラス対抗ですから,みんな本気に勝ちに行きます。昼休みや放課後はもちろんですが,朝練も普通に行うので,私のような朝弱い人間には辛い物がありました。

 ですが,終わった後の一体感というのはなかなかのものがあり,こうした一体感の醸成が,文化祭に結実するんだなあと思います。


・個性的な人間への寛容さ

 みんなそれなりに勉強が出来て,校則や制服がなく,自由な校風に憧れてわざわざ田舎の高校にやってくるのですから,それなりにみんな寛容ですし,のんびり屋さんです。

 それぞれの個性をとても大事にしますし,勉強や運動が出来るか出来ないかなどに,あまり興味はありません。変わった奴は「変な奴」と言われることはあっても,仲間はずれにされたり,低く見られることはなく,みんな同じ仲間として,互いに尊敬し合う居心地の良さがありました。

 私の母に言わせると,そのへんが「おぼこい」らしいのですが,いじめや暴力が蔓延して緊張の連続だった中学校に比べると,まさにそこは理想郷でした。


・地域性

 この学校の学区は,大阪市内から南河内一帯に広がる地域で,都会から田舎まで,様々な地域から人が集まっていました。まあ高校というのはそういうものなのですが,都会の人間は友人の家に遊びに行くことで田舎を等身大で見るようになりますし,逆に田舎の人間が友人のいる都会に行けば,都会を現実の物として意識するようになります。学校が田舎にありましたから,都会育ちの人間には新鮮だったはずです。

 私は,都会と田舎の中間点にいました。どちらかと言えば田舎寄りだったと思いますが,友人達はみな「通過点だ」と言ってました。中途半端だったんでしょうね。

 私の個人的な経験からいえば,それでもやっぱり都会の人間は都会の人間で,田舎の人間は田舎の人間で仲良く固まる傾向はあったと思います。ただ,それぞれ仲が悪かったわけではありませんし,付き合いがないわけでもなく。なんとなく仲良しが集まると似たような地域になるという,それだけの話です。


・古い校舎

 木の床,高い天井,鉄製の窓枠など,戦前の建物を我々は使っていました。大掃除の時に床に開いた穴から,20年も前の漫画雑誌が出てきたり,後輩へのメッセージが出てきたりと,古い学校ならではの楽しみもありました。

 そんな校舎も老朽化によって今は取り壊されて,新しい物に建て変わっています。私は新しい校舎を見たことはありませんが,随分綺麗になっているそうです。

 講堂は文化的な意味もあるということで,取り壊しをせず,保存する声も高かったそうですが結局実現せず,当時の面影はほとんど残っていないそうです。

 そういえば,階段教室があった学校なんですね。ちょっと珍しいでしょう。私がいたクラブはここが根城でしたので,とても馴染みがあります。


・学生食堂

 学生食堂は盛況で,朝からやっていたそうです。私は昼は弁当でしたのであまり馴染みのない場所ではありましたが,時々友人と話をしたりと,楽しい思い出があります。

 そういえば,学校の近くには市役所があり,ここの食堂が安くて美味しいと評判でしたが,利用するのは禁止です。

 一度,自習の時に友人と市役所の裏側に抜ける秘密のルートを使って抜け出し,市役所の食堂に向かった事があるのですが,事もあろうにその食堂からかえってきたと思われる生活指導の先生と鉢合わせし,「飯なら学食で食え」と怒られて引き返したことがありました。


・高校時代で覚えていること

 まず部活の話。私は中学生の時にフォークギターを始めたのですが,ベースの重要性を知ったことで,高校では軽音楽部に入って,ベースを担当しようと思っていました。

 同じクラスで軽音楽部に入るつもりだった人に声をかけてもらい,入部をしようとしたのですが,どうも人数と担当楽器の問題から折り合いが付かず,結局入部しませんでした。面倒になったと言うか,気押されたというか,そんな感じでしょう。

 結局正式な部活ではなく,同好会レベルのフォークソング同好会にギター一本抱えて入り,そこで音楽をやってました。実際のところ,その主要メンバーは軽音楽部と掛け持ちしており,軽音楽部の「アンプラグド」版だったことを後で知ります。

 フォークギターはそこそこ演奏出来たので,放課後にはギターを抱えてあちこち歩き回ったり,運動場で演奏してきたりと,派手ではないですが楽しくやらせてもらってました。

 ですが,人前で演奏した記憶がほとんどなく,唯一後夜祭で先輩と一緒に朝礼台の上で演奏したことを覚えているだけです。

 で,しばらく正式な部活には入らなかったのですが,1年の時ある友人から「お前なら直せるんじゃないか」と,電子工作の腕を見込まれて連れて行かれたのがラジオ部でした。

 ラジオを聞くのか,といつもいわれた部でしたが,その実電子工作クラブと言った感じで,当時のことですから8ビットのパソコンとか,そういうのを得意とする人がぼつぼつ集まっていた,弱小クラブですね。

 結局私はそこであまり手伝うことはなかったのですが,その後すっかりそこの緩い雰囲気が気に入って,入部してしまいました。当時の1年上の3人の先輩は,実のところ今でもとても親しい親友です。

 もう1つ,写真部というのもありました。部活動として拘束されるのを嫌っていたので入部しなかったのですが,非常に真面目なクラブで,当時仲が良かった二人の友人が所属していたことで,私も部外者として部室に入り浸るようになりました。

 今にして思えば,ここにも入部すれば良かったなあと思うのですが,当時は父親から黙って借りていたボロボロのAsahi Pentax SPに50mmのレンズ1本しかなく,新しいカメラを買うお金もなかったので,躊躇していたのだと思います。現像なんかは別に家でも出来ますし,暗室を用意して引き延ばし機も自分で作ったりしていたので,群れることなどないよと,おかしな意地を張っていたのでしょう。

 でも,私がカメラを学校に持ち出す決意をしたのは2年生の時からで,それまでは自分の趣味を悟られることのないようにしようとしていました。だから,1年の時と2年の時とで,それぞれの周囲が持った印象は全然違っていたんじゃないかと思います。

 3年になると,打ち込みを本格的に始めていましたから,学校にシンセサイザーを担いで持って行くことも度々ありました。放課後の教室で音を出していたこともよくあったので,2年と3年でまた印象が変わっていたんじゃないかと思います。

 ただ,3年間共通していたのは,マニアックであったことです。今で言えばgeekというかnerdというか,そんな感じです。授業中に半導体のデータブックを読んでいたかと思えば,休み時間に黒板にコード進行を書き殴ってみたりと,高校生にしてはちょっと難しいことをやったりしたので,そこを気味悪がられたか,はたまた面白がられたかは,よくわかりません。ですが,こういった印象が強かったことは確かでしょう。

 当時の理系が得意とする科目をことごとく苦手としており,得意だったのは,数学では確率統計,理科では化学,国語では現代国語,社会では日本史と世界史,英語は全滅という感じで,理系の学生が有利になる科目は全く得意ではなかったのです。

 見るに見かねたある現代国語の先生は,文系に進めばもっといい大学いけるのになあとつぶやいたくらいなのですが,どうにかなると思い込んでいた私はその後,世の中にはどうにもならないことがあることを思い知るわけです。もしあの時,文系に進んで,苦手科目を避けてちょっと良い大学に進んでいたら,私の人生はどうなっていたでしょうか・・・

 当時は理系に進むことに全く迷いはなく,今も失敗したと全く思っていないのですが,どうなっていたかなあと思うことはあります。

 今にして思うと,周囲は私を勉強の出来ないアホと思っていたでしょうが,一方の私は世界史や化学で文系の人間に張り合う成績を残していましたので決してアホとは思っていませんでした。ただ,現実を直視できていないという意味での「アホ」であったことは間違いありません。
 

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