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2014年02月07日の記事は以下のとおりです。

PC雑感

 PCはいつから,こんな「面倒な存在」になってしまったのでしょうか。

 そんなことをつくづく考えさせられる事が続いています。PCという事業からの撤退や売却です。

 1980年代を駆け抜けたメーカーは,その出自も含めて強い個性を放ち,製品と共に我々ユーザーに強力なアピールを続けてくれていました。これらメーカーの動向をウォッチすることは,それ自身がとても楽しい行為でした。

 思えば,作り手も使い手も,共に模索し,成長をしていた時代だったということなのでしょう。

 しかし,気が付けば,縮小,撤退,売却と,暗いニュースばかりがウォッチされ,変化が進歩と同義である時代は,終わってしまっていました。

 TK-80を経てPC-8001,そして我が世の春を謳歌したPC-9801を生み出したNECと,PCの本家本元でありDOS/Vで日本のパソコンを根底から覆した日本IBMは宿敵のライバル同士であり,それこそ汎用機から個人用のPCまで,まさにあらゆる分野で競い合った間柄でしたが,PC事業は共に中国発祥のレノボに売却されています。この両者がボロボロになった末に同じ傘の元にいることなど,誰が想像出来たでしょう。

 日本のパソコンの先駆けであるMZ-80を世に問うたシャープもPCからは撤退,世界最高水準の半導体と汎用機をバックに持ち,日本で最初のパソコンであるベーシックマスターを作り上げた日立も法人向けをOEMで扱うだけで事実上の撤退,かつて御三家と呼ばれたパソコンメーカーのうち,今でも頑張っているのはFM-7の富士通くらいのもので,そこはさすがにコンピュータ専業メーカーの意地なんだなと思わせるものがあります。でもきっと苦しいでしょうね。

 日本初の16ビットマシンであるMulti16を投入した三菱電機は随分昔にPCからは撤退,ビジネス機からホビー機まで節操なく作っていた三洋電機は会社自体がなくなりました。

 強力な半導体開発力を持つ東芝も早くからパソコンに参入したメーカーです。でも富士通とは違ってコンピュータを作るきっかけは,その部品,演算素子である真空管のトップメーカーであったことが大きいと思うのですが,ふと見渡すと,1980年代から業態を変えずに総合電機メーカーとして生きているのは,東芝だけになってしまったことに気が付きます。

 Dynabookという固有名詞は,アラン・ケイによって創造された言葉ですが,これに(アラン・ケイの理想とは少々違ってはいても)実態を与えた東芝は,もっと評価されてしかるべきではないかと思います。

 あとはエプソンです。時計メーカーとして誕生し,プリンタで独り立ちしたこのメーカーは,時計で培った低消費電力の半導体技術を生かして,世界で最初のモバイルパソコンHC-20を生み出しましたが,PC-9801の互換機でパソコンメーカーとして強い印象を我々に与えて,今もちゃんとPC事業を営んでいます。

 そして1980年代にSMC-70という独自マシンを発売し,その後MSXでリベンジ,一方でUNIXワークステーションであるNEWSを手がけ,QuarterLという業務用パソコンから満を持してVAIOで個人用PCに再参入を果たしたソニーが,とうとうPC事業を切り離します。

 パイオニア,キヤノン,セガ,ソード,松下電器,日本ビクター,リコー,カシオなど,会社自身がなくなったり,パソコンをやっていたことすら知られていないメーカーもたくさんあるわけですが,新しい製品が市場を作り,その成長期には様々な分野からの参入が相次いで激しい闘いが繰り広げられた後,敗れた多くが静かに消えゆくという図は,別に珍しいことではありません。

 日本国内の工業製品に限った場合でも,バイクがそうでしたし,自動車もそうでした。カメラもそうですね,かつてはメーカー名の頭文字がAからZまで全部揃うと言われたほどあったのですが,今は数えるほどしかありません。

 しかし,これらとパソコンとの大きな違いがあります。メーカーは減っても製品そのものは進化を続け,その製品が十分に魅力的で,技術的にも経済的にも文化的にも先頭を走っているのか,そうでないのか,ということです。

 一言で言うと,その製品への周囲の期待度の差というのでしょうか。注目度の差というのでしょうか。突き詰めればその製品が放つ輝きの差とでもいうのでしょうか。

 PCはコモディティ化が進み,道具になったと言う人がいます。だから魅力を失ったという人もいます。しかし,本当に素晴らしい道具には,それ自身の魅力があり,大きな期待がかかるものです。果たして今のPCにそんな魅力があるでしょうか。

 似たような製品があるとすれば,電卓がそれでしょう。非常の高価なものがどんどん安く,小さくなり進化を続けて多くのメーカーが一気に参入,その後価格が下がって撤退が相次ぎ,今は数社しか残っていません。進化そのものも止まり,どこでも買えるものではありますが,どれを買ってもそんなに違いはありません。

 電卓とPCに共通するものは,それがビジネスツールであったことです。ビジネスツールに求められるのは,個人用のものとは根本的に違い,効率が優先されます。横並びで安く,必要最小限の機能があればよく,個性はむしろ疎まれます。

 しかし,業務用と個人用は,元来お互いに食い合うものではありません。例えば自動車のように業務用のトラック,ワンボックスカーやライトバンが,SUVやミニバン,ツーリングワゴンと名を変えて売られることに違和感を持つ人はいないでしょう。

 ではなぜ,PCではそうならなかったのかというと,業務用のPCをそのまま個人用に持ち込んでしまったからです。これは電卓もしかりです。

 先程の自動車の例では,トラックやワンボックスカーがそのままSUVになったりミニバンになったりしているわけではありません。初期にはそうであったかも知れませんが,進化と共に乗用車をもとにした製品に生まれ変わり,個人が所有するにふさわしいものになっています。

 PCはどうでしょうか。CPUやメモリー,HDDなどは別に共通でも構いません。自動車のエンジンやタイヤが,業務用と個人用で多少の差はあっても基本的な違いがないことと同じです。

 人に触れる部分,キーボードやマウス,ディスプレイはどうでしょうか。これは自動車で言えば,ハンドルやレバー,ペダルに相当しますが,これも多少の差はあっても根本的には違いません。むしろ違っていると同じ操作ができなくなってしまいます。

 では,残った部分,OSと,OSが提供するユーザーインターフェースやユーザー体験はどうでしょう。

 ここではっとするのは,会社のPCと自宅のPCが,いかに外観が違っていても,動き出してしまえば「全く同じもの」であることです。

 会社で表計算ソフトを使う,あるいはワープロを使う,一方家ではゲームをする,音楽を聴く,という風に違う目的で使うのに,画面も操作感も全く同じ。あのいつものWindowsです。

 PCは,その筐体を眺めることが目的ではありません。もっと言えば,操作を始めてしまえば,誰も外観など気にしません。注目するのは画面の中です。

 その画面の中は,会社でも家でも,全く同じなのです。

 果たして,それで楽しいでしょうか。面白いでしょうか,操作することそのものに,興味を持てるでしょうか。

 自動車には,目的地に人や物を移動させるという,業務用と個人用とに共通した本来の目的があることに加えて,個人用に特有である「運転することの楽しさ」と「所有することの楽しさ」があります。

 逆を言えば,運転することと所有することが楽しくないなら,個人用の自動車ではないということです。だから,どの自動車メーカーも,個人用の自動車には運転することの楽しさと持つ事の楽しさを,非常に大切な要素として貪欲に取り込んでいます。そしてそれが,自動車が単なる道具に成り下がることなく進化を続けていることにつながるのです。

 PCは,情報処理という業務用と個人用に共通の目的があります。もしPCに単なる道具以上のものを付加して進化を自動車と同じように望むのであれば,個人用のPCにはこれ以外の目的がなければなりません。

 個人用の自動車が備える目的である,運転という行為に相当するのはPCを操作することです。PCにも所有する楽しさが見いだせればいいのですが,これはかなり高度で難しいことですから,そこまでは望めなくとも,「操作することが楽しい」状況がない,それどころか,会社のPCと全く「同じ」という状況に疑問を持たず,それをずっと個人に押しつけてきた怠惰を,PCを提供する立場にある人々は,猛省すべきです。

 ここで私がメーカーと言わずに,「提供すべき立場」と書いたのは,そこにOSのメーカーであるマイクロソフトの責任が大きいとみるからです。

 マイクロソフトの大きな勘違いは,自分達がOSを独占できたことを,Windowsが万人に広く支持されたと解釈したことです。PCは生産性を向上させる道具ですから,自ずと業務用が大きな数を占めます。そこで支持されたことが,すべての人々に支持されたと勘違いしたことに,罪深さがあるのです。

 商用車のジャンルにライトバンがあります。乗用車の扱いやすさとたくさん荷物が積めるという利便性は個人用途にも魅力的で,1990年代には個人用にもツーリングワゴンとしてブームとなりましたが,この時自動車メーカーはライトバンをそのまま個人用に売るのではなく,ちゃんと乗用車として作って個人用に販売し,その期待に応えてきました。

 PCだって同じです。仕事の道具をそのまま個人に売るのではなく,個人にふさわしいものをちゃんと丁寧に作り込んで,提供することをなぜしなかったのでしょうか。

 私は,PCにおける唯一の勝者といっていいマイクロソフトの奢りがすべてであったと思います。専門家にとってWindowsを操作することは,業務用のマシンを操作することと同じ楽しさを味わえるかも知れません。しかし世の中の大半の人々は,バスやトラックを運転して楽しいとは思わないのです。

 繰り返しになりますがマイクロソフトは,業務用と個人用を分けるべきでした。同じ物をほとんど同じ状態で売ったことは,厳しい言い方をすれば個人のユーザーの感性を低く見積もった結果だと言えるでしょう。

 その意味では,PCメーカーは実質的なOSの選択肢がなかったことで,業務用と個人用を根本的に作り替えることが出来ず,限られた方法で窮屈な試行錯誤を余儀なくされたわけで,すなわち彼らもまたマイクロソフトの犠牲者だったと,言えるかもしれません。

 すでに個人は,そうした状況を意識するかしないかは別にしても,すでにPCを見限り,高性能化したスマートフォンやタブレットに移行しています。いずれもアップルが道を開いたものですが,アップルが個人に問うたのは,自らも製品を持っているPCを進化させて個人用に提供することではなく,全く別のデバイスを作り上げたことが非常に興味深いところです。

 ここで,アップルは,PCが個人にそもそも適したものではないと考えていたことに気が付きます。マイクロソフトが大きくて運転が楽しくないトラックをそのまま個人に買わせようとしたのに対し,アップルはトラックではなく,もっと小さな自動車を自ら作り,運転そのものも楽しくしました。

 PCは大きな節目を迎えています。

 かつては人間よりも快適な環境に鎮座し,専任のオペレータにお願いすることでしか利用出来なかったコンピュータはまさに神であり,オペレータは神に仕える巫女でした。

 やがて神は新しく生まれた技術によって,気付かないうちに我々の身近なところにいる存在となりますが,それでも我々とは直接会話をすることも見る事もない,特別な神のままでした。

 そんな状況の変化に気付いた一部の人々は,ただ神と直接話がしたいという知的好奇心だけを理由に,巫女を介在しない直接の対話を目指し,寝食を忘れてその作業に没頭しました。

 結果,我々一人一人が直接神と対話し,神を独占できるようになったのです。ここに至って神は,そうした熱意ある人々の,とても親しい友人になりました。

 この友人は,最初は本当になにも出来ず,ただ知的好奇心を満たすだけの話し相手に過ぎませんでした。それでも,それまで直接話をすることさえ許されていなかった互いが友情を育むのに,そんなに時間はかかりませんでした。

 この友人は,我々の想像を超える速度で成長を遂げ,少しずつ我々の可能性を拡大し,生活を豊かにしていきました。そして遂に,この小さな神が互いに繋がって世界中を覆うようになり,爆発的な速度でその能力を高めていったのです。

 そんな小さな神は,一番の理解者である親友と共に,とても幸せな時間を過ごしていましたが,そんな緩やかな時間は長くは続きませんでした。

 あるとき,驚異的な能力を持つ小さな神をみた商人が,「これはもしかするとお金儲けに使えるんじゃないか」と思いついたのです。

 神は,お金儲けを考えた人達の,その潤沢な資金と組織力によって,一気にお金儲けをするための道具に作り替えられていきました。

 そして,良き友人は,ただのお金儲けの道具になってしまいました。あらゆる商人が群がっては,その力をむしり取っていきました。

 時は流れ,その道具は特別なものではなくなり,もはやお金が稼げなくなっていました。お金を儲ける事が出来なくなった小さな神は,役立たず,穀潰し,いくらお金をかけたと思ってるんだと商人に罵られながら,あるものは潰され,あるものは外に売られていきました。

 かつて,今よりもずっと力がなかった小さな神様と,親友として過ごした楽しい時間を覚えている人々は思います。多くの人が見捨てても,我々はずっとそばにいようじゃないか。だって,我々は親友なんだから。

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