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2016年07月01日の記事は以下のとおりです。

邪魔な肉体を捨て去ることとは

 年齢を重ねると,それまで理解出来なかったことが体験によって「なるほどなるほど」と,理解出来ることが増えます。

 それは,ポジティブなものもそうですし,残念ながらネガティブなものもあります。とりわけ,ネガティブな物事については,知らないが故に傍若無人に振る舞えていたことも多く,よくあんな無茶をしたものだとあきれて振り返ってみたり,若い人の無垢さをうらやんだりすることも,増えていきます。

 人間には自然治癒する力が備わっていて,病気をしても怪我をしても,余程の事がない限り,しばらく辛抱すれば治ります。治ってしまえば,その時苦しかったことを忘れてしまうという,都合の良ささえ持ち合わせています。

 子供の頃は,治癒するまでの時間があっという間でした。だから怪我も病気も怖くありません。自分が変化する速度が高速であるためだからでしょうが,その代償として,時間の経過がとても遅く感じ,相対的に周囲の変化の速度がとてもゆっくりに見えます。朝から夜までが長く感じただけではなく,次の日曜日がとても待ち遠しかったことを,思い出して下さい。

 成長期を過ぎ,作り上げた物を少しずつ削って生きながらえるというターンに入ってしまうと,子供の頃の体験とは真逆なものを否応なく押しつけられることになります。自分が変化する速度はゼロ,あるいはマイナスになり,時間の経過は速く,周囲の変化の速度も強烈です。

 そして,怪我も病気もなかなか治らなくなり,治癒するまでの辛い時間も,長くなるのです。

 私の年齢でそれを痛感するのですから,私は自分よりも年齢が上である人々のことを,今以上に辛いのかも知れないと,想像可能になりました。成長だけではなく,運動や思考の速度が落ちてしまう老人になると,今以上に周囲の速度が速くなることでしょう。

 「様子を見ましょう」という医者の見立てというのは,自然治癒力に頼りましょうという意味なのですが,その自然治癒力は年齢と共に落ちていきます。さらに,子供なら治癒する物も年齢を経ると結局治癒しない,と言うことも起きるようになります。

 これを,子供の生命力とか,生きようとする力とか,いろいろ格好のいい言葉で語ることがあるわけですが,蛇足ながら子供の「脳死判定」が極めて難しく,その判定基準が非常に厳しいものになっているのは,大人だと非可逆とされる状況であっても,子供はそこから復活することがしばしばあるとされているからです。

 復活出来る肉体を,復活出来ないものとして処理してしまえば,それは命を奪うことです。加えて子供には大人と同じだけの判断能力がありませんから,自分の命を自分で深く考え,その扱いをしかるべき人々にどう委ねるかを,結論できません。

 まだ復活出来る自分の命のありようを,自分の判断で決める事が出来ないもどかしさに,想像力を働かせるべき大人が,たくさんいるように思います。

 一方で,加齢と共に備わってくる物が,経験と知識,そしてそこから芽吹く心の豊かさです。私は,この3つがあるから,子供の頃に戻りたいとは思いません。今ならあっという間に出来る事に,何時間も何日もかかって,あげく出来ないままに終わってしまうかも知れない,あのフラストレーションは,もう体験したくないことだからです。

 肉体の劣化と,精神の成長。

 この両方を,同時に持つことは不可能です。大人と同じ心を持つ少年はおらず,不老不死の薬も,長年の努力の甲斐もなく,未だに存在しません。

 不老不死?

 私が過去に戻りたくはなく,今の状況を「よい」を認知するのは,前述のように精神の成長を肯定しているからですが,精神とはまさにソフトウェアであるがゆえに,ハードウェアである肉体の必要性や重要度というのは,私にとっては非常に低い物となっています。

 にもかかわらず,残念な事に,肉体という器がなければ,精神が維持できないのです。

 なにもしないでも,ただ生きているだけで100Wの熱を放出するほどエネルギーを消費し,華奢で柔らかく傷つきやすくて壊れやすく,食べ続ける必要があり,出し続ける必要がある。疲れてしまい,眠くもなり,なにかと行動に制約があり,有機物で出来ているがゆえに化学薬品や放射線,紫外線に弱く,力もなく機動力も低く,体の大きさはたかだか2mという,あまりに不都合なこの肉体は,どうも器としては不自由過ぎるように感じます。

 もし,肉体と精神の2つで自分を自覚するのではなく,精神だけで自我を確信出来るのであれば,それが一番理想的ではないか,私はいつしかそんな風に考えました。でも,現実に戻ると,器無しで精神は維持できませんから,誰かがどこかで器を維持管理してくれていなくてはなりません。

 つまり,自立という側面では,確実な後退がおきるわけです。

 私一人が精神だけで生きることを選ぶとすれば,その器は他の人に託せるでしょう。しかし,精神だけで生きることを,多くの人が選ぶようになったり,選ばざるを得なくなったりし続け,やがて大多数が精神だけで生きることになったとします。

 当然のことながら,器の維持管理は,少数の人々に押しつけられることになります。

 そして,精神だけでは「実物」を作る事が出来ませんから,現在の貨幣経済においては,維持管理に必要な費用を自ら稼ぎ出すことは出来ません。肉体を持つ人が,持たない人の分まで働いて稼がねばならないのです。

 全員が精神だけで生きるようになるのは公平でしょう。しかし,それはちょっと考えただけでは,とても難しそうです。精神だけで生きる方法が,今はないからです。

 私は,自分の自分たる根拠を,肉体ではない別の何かに移し替えることができるなら,それが一番楽だと思っていました。怪我や病気で苦しむこともなく,労働することもなく,深い深い思索にだけ生きていることが出来るのは,まさに桃源郷です。

 でも,これは究極のエゴイズムであることに,はっとします。

 繰り返しますが,器の維持管理は,お金もかかるし面倒で,誰だってやりたくないに違いありません。それを「誰か」が引き受けてくれると勝手に思い込むことで,精神だけで生きることを「素晴らしい」と思っていたというわけです。

 ・・・まってください。

 既視感がありますね。

 精神のみで自我を維持することを,思うように体がいう事を利かなくなった高齢者とし,器の維持管理とエネルギー供給を行う役割を担う肉体を持つ人々を,現役世代としましょう。

 そうです。すでに,この世界は,訪れているのです。そして,継続不可能であることも,明らかになっているのです。


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