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2012年10月の記事は以下のとおりです。

25年前の高校生活をふと思う

 今から25年も前の話,私は高校生だったのですが,最近になってようやく一歩下がったところからそのころの生活を見ることが出来るようになってきました。

 私が通った高校は大阪の府立高校で,私の住む街でも名の知れた,名門校でした。私は中学生の時が最も勉強が出来た人で,トップ校には少々手が届きませんでしたが,2番手のこの学校には十分な学力を持っていました。

 ただ,親も中学校の先生も,はたまた塾の先生や友人達も,その当時の学力にマッチしていたからというより,その校風に「お前ならぴったり」と本人以上の納得をしていたことを,思い出します。

 自主自立。それがこの学校のモットーでした。1970年代の学生紛争が高校にも飛び火し,私の母校は校則と制服が廃止されました。かつての制服(男子は詰め襟,女子はセーラー服)を「標準服」と呼び,標準服を含めたどんな服装も許されていましたが,それは本当に自由という事ではなく,高校生にふさわしい服装を自分で考えて着てこい,と言う自由でした。

 今はどうか知りませんが,私のいた頃はほとんどが標準服でした。なかに完全な私服もいましたが,それは自己主張が強く,周囲からちょっと一目置かれていた,いい意味で変わり者がそうだったように思います。


・アホに洗脳される

 当時の学区で2番目の進学校ですから,それなりに勉強が出来ないと入ることが出来ない学校でしたし,校則や制服がない,自由な校風に憧れる生徒が集まる人気のある学校でしたから,競争率も低くはなく,誰でも行ける学校ではなかったと思います。

 ですが,面白い事に,合格した途端に成績がガタガタと落ちるんですね。ちっとも勉強しないようになる人も多くて,当時は先生もあんまりやかましく勉強しろとは言いませんでした。

 ですから,中学時代は成績上位でも,高校生になると成績がばーっと下がり,アホに洗脳される学校と呼ばれていました。

 かくいう私も勉強をちっともせず,底辺を彷徨っていました。同じようにアホになった友人から,お前アホやろ,と面と向かって言われたり,卒業できんのか,と心配されたことも一度や二度ではありません。


,4年制の学校

 そんな高校でしたが,卒業生の大半は大学に進む進学校でした。ですが現役で大学に通る人は半分以下,大半は浪人して大学に進みます。

 それゆえ,4年制の高校といわれたものです。

 当時の先生の口癖は,「やれば出来る子」でした。なんとなくですが,先生も生徒も浪人を許した上で,楽しい高校の3年間を満喫するのもよいだろうという,そんな空気も漂っていました。でも,親はたまったものではありませんわね。


・文化祭

 大阪府下でも有数の,大規模な文化祭を開催することでも知られていました。1年の時は様子見もあって喫茶店などでお茶を濁すのですが,2年では半分,3年ではほとんどのクラスが演劇をクラスの出し物とします。

 劇をやると,大道具から小道具,衣装や音響など,総力戦になります。まあこういっては何ですが,キャストはクラスでも目立ちたがり屋がやりますし,シナリオは特殊能力なのですぐに決まります。

 後の人間は裏方に回るのですが,最初はダラダラやっていた人間でも,最後には夢中になって,最後には涙するというのが通例でした。結局脱落する人間が少なかったなあと思います。

 そういえば,私たちの時は1学年で13クラスもありました。約40ものクラスがあって,多くが演劇をやるわけですが,演劇をやるクラスは立て看板を作りますから,あちこち立て看板だらけになるわけです。

 立て看板の良し悪しが人気に直結するので,自ずとクラスで最も絵のうまい人間が担当します。シナリオのうまい奴,台詞の通る奴,工作のうまい奴,ミシンがけがうまい奴,そして画を描くのがうまい奴と,普段なかなか見れない「一芸」が見られる機会でした。

 ところで,そんな何十もの演劇を上演するのは普通無理だと思うでしょ。でも我々の学校の舞台は講堂,新体育館,旧体育館に加えて,近くの公会堂を使わせてもらっていました。4つの舞台を3日間の期間中,すべてのクラスやクラブで共用するのですが,見たいものが複数にまたがると,走り回ることになります。

 あと,美術の先生がアップライトピアノを斧で割り,ペンキを塗りたくるというパフォーマンスをやってました。やってるときはいいんですが,終わってからの妙なむなしさをよく覚えています。


・なんでも本気で

 球技大会は「ペナント」と呼ばれていました。なんでそう呼ばれるのか私はわからんのですが,とにかくただの球技大会に,みんな本気になります。今はなにやらコスプレをしながら試合をするそうですが(うらやましい),私の頃はただの体操服で,なにがおもろいねん,と冷めていました。

 クラス対抗ですから,みんな本気に勝ちに行きます。昼休みや放課後はもちろんですが,朝練も普通に行うので,私のような朝弱い人間には辛い物がありました。

 ですが,終わった後の一体感というのはなかなかのものがあり,こうした一体感の醸成が,文化祭に結実するんだなあと思います。


・個性的な人間への寛容さ

 みんなそれなりに勉強が出来て,校則や制服がなく,自由な校風に憧れてわざわざ田舎の高校にやってくるのですから,それなりにみんな寛容ですし,のんびり屋さんです。

 それぞれの個性をとても大事にしますし,勉強や運動が出来るか出来ないかなどに,あまり興味はありません。変わった奴は「変な奴」と言われることはあっても,仲間はずれにされたり,低く見られることはなく,みんな同じ仲間として,互いに尊敬し合う居心地の良さがありました。

 私の母に言わせると,そのへんが「おぼこい」らしいのですが,いじめや暴力が蔓延して緊張の連続だった中学校に比べると,まさにそこは理想郷でした。


・地域性

 この学校の学区は,大阪市内から南河内一帯に広がる地域で,都会から田舎まで,様々な地域から人が集まっていました。まあ高校というのはそういうものなのですが,都会の人間は友人の家に遊びに行くことで田舎を等身大で見るようになりますし,逆に田舎の人間が友人のいる都会に行けば,都会を現実の物として意識するようになります。学校が田舎にありましたから,都会育ちの人間には新鮮だったはずです。

 私は,都会と田舎の中間点にいました。どちらかと言えば田舎寄りだったと思いますが,友人達はみな「通過点だ」と言ってました。中途半端だったんでしょうね。

 私の個人的な経験からいえば,それでもやっぱり都会の人間は都会の人間で,田舎の人間は田舎の人間で仲良く固まる傾向はあったと思います。ただ,それぞれ仲が悪かったわけではありませんし,付き合いがないわけでもなく。なんとなく仲良しが集まると似たような地域になるという,それだけの話です。


・古い校舎

 木の床,高い天井,鉄製の窓枠など,戦前の建物を我々は使っていました。大掃除の時に床に開いた穴から,20年も前の漫画雑誌が出てきたり,後輩へのメッセージが出てきたりと,古い学校ならではの楽しみもありました。

 そんな校舎も老朽化によって今は取り壊されて,新しい物に建て変わっています。私は新しい校舎を見たことはありませんが,随分綺麗になっているそうです。

 講堂は文化的な意味もあるということで,取り壊しをせず,保存する声も高かったそうですが結局実現せず,当時の面影はほとんど残っていないそうです。

 そういえば,階段教室があった学校なんですね。ちょっと珍しいでしょう。私がいたクラブはここが根城でしたので,とても馴染みがあります。


・学生食堂

 学生食堂は盛況で,朝からやっていたそうです。私は昼は弁当でしたのであまり馴染みのない場所ではありましたが,時々友人と話をしたりと,楽しい思い出があります。

 そういえば,学校の近くには市役所があり,ここの食堂が安くて美味しいと評判でしたが,利用するのは禁止です。

 一度,自習の時に友人と市役所の裏側に抜ける秘密のルートを使って抜け出し,市役所の食堂に向かった事があるのですが,事もあろうにその食堂からかえってきたと思われる生活指導の先生と鉢合わせし,「飯なら学食で食え」と怒られて引き返したことがありました。


・高校時代で覚えていること

 まず部活の話。私は中学生の時にフォークギターを始めたのですが,ベースの重要性を知ったことで,高校では軽音楽部に入って,ベースを担当しようと思っていました。

 同じクラスで軽音楽部に入るつもりだった人に声をかけてもらい,入部をしようとしたのですが,どうも人数と担当楽器の問題から折り合いが付かず,結局入部しませんでした。面倒になったと言うか,気押されたというか,そんな感じでしょう。

 結局正式な部活ではなく,同好会レベルのフォークソング同好会にギター一本抱えて入り,そこで音楽をやってました。実際のところ,その主要メンバーは軽音楽部と掛け持ちしており,軽音楽部の「アンプラグド」版だったことを後で知ります。

 フォークギターはそこそこ演奏出来たので,放課後にはギターを抱えてあちこち歩き回ったり,運動場で演奏してきたりと,派手ではないですが楽しくやらせてもらってました。

 ですが,人前で演奏した記憶がほとんどなく,唯一後夜祭で先輩と一緒に朝礼台の上で演奏したことを覚えているだけです。

 で,しばらく正式な部活には入らなかったのですが,1年の時ある友人から「お前なら直せるんじゃないか」と,電子工作の腕を見込まれて連れて行かれたのがラジオ部でした。

 ラジオを聞くのか,といつもいわれた部でしたが,その実電子工作クラブと言った感じで,当時のことですから8ビットのパソコンとか,そういうのを得意とする人がぼつぼつ集まっていた,弱小クラブですね。

 結局私はそこであまり手伝うことはなかったのですが,その後すっかりそこの緩い雰囲気が気に入って,入部してしまいました。当時の1年上の3人の先輩は,実のところ今でもとても親しい親友です。

 もう1つ,写真部というのもありました。部活動として拘束されるのを嫌っていたので入部しなかったのですが,非常に真面目なクラブで,当時仲が良かった二人の友人が所属していたことで,私も部外者として部室に入り浸るようになりました。

 今にして思えば,ここにも入部すれば良かったなあと思うのですが,当時は父親から黙って借りていたボロボロのAsahi Pentax SPに50mmのレンズ1本しかなく,新しいカメラを買うお金もなかったので,躊躇していたのだと思います。現像なんかは別に家でも出来ますし,暗室を用意して引き延ばし機も自分で作ったりしていたので,群れることなどないよと,おかしな意地を張っていたのでしょう。

 でも,私がカメラを学校に持ち出す決意をしたのは2年生の時からで,それまでは自分の趣味を悟られることのないようにしようとしていました。だから,1年の時と2年の時とで,それぞれの周囲が持った印象は全然違っていたんじゃないかと思います。

 3年になると,打ち込みを本格的に始めていましたから,学校にシンセサイザーを担いで持って行くことも度々ありました。放課後の教室で音を出していたこともよくあったので,2年と3年でまた印象が変わっていたんじゃないかと思います。

 ただ,3年間共通していたのは,マニアックであったことです。今で言えばgeekというかnerdというか,そんな感じです。授業中に半導体のデータブックを読んでいたかと思えば,休み時間に黒板にコード進行を書き殴ってみたりと,高校生にしてはちょっと難しいことをやったりしたので,そこを気味悪がられたか,はたまた面白がられたかは,よくわかりません。ですが,こういった印象が強かったことは確かでしょう。

 当時の理系が得意とする科目をことごとく苦手としており,得意だったのは,数学では確率統計,理科では化学,国語では現代国語,社会では日本史と世界史,英語は全滅という感じで,理系の学生が有利になる科目は全く得意ではなかったのです。

 見るに見かねたある現代国語の先生は,文系に進めばもっといい大学いけるのになあとつぶやいたくらいなのですが,どうにかなると思い込んでいた私はその後,世の中にはどうにもならないことがあることを思い知るわけです。もしあの時,文系に進んで,苦手科目を避けてちょっと良い大学に進んでいたら,私の人生はどうなっていたでしょうか・・・

 当時は理系に進むことに全く迷いはなく,今も失敗したと全く思っていないのですが,どうなっていたかなあと思うことはあります。

 今にして思うと,周囲は私を勉強の出来ないアホと思っていたでしょうが,一方の私は世界史や化学で文系の人間に張り合う成績を残していましたので決してアホとは思っていませんでした。ただ,現実を直視できていないという意味での「アホ」であったことは間違いありません。
 

デジタルカメラ列伝 その4~Nikon D800

・D800(Nikon,2012年)

 ニコンのフルサイズ初号機にして,その高感度特性から「肉眼では見えない物を見る道具」として,新しい撮影領域にフォトグラファーを解き放った,名機D3。そしてその血統を受け継ぐ弟,D700。デジタル一眼レフとしての完成度の高さ,大きさと性能の卓越したバランス,そしてこなれた価格でプロ・アマチュアを問わず,D700を絶賛する声は止むことがない。

 当然,その後継には大きな期待がかかる。D3にはD4という正統後継者が間違いなく登場し,苛烈なるロンドンオリンピックを闘うことになる。ならば当然,D700の後継機はD4の弟であろうと,誰もがそう考えていた。

 一方,タイを襲った洪水は,主力工場を彼の地に持つニコンにも想像以上の被害を与えた。新製品発表のスケジュールも大きくずれ,D700は予定通りその製品寿命を全うしたが,その後継機の発表は2012年にずれ込み,主力機不在の「空白期間」に,期待と不安が多くの噂を世界中にまき散らした。

 ジグソーパズルのピースが徐々に埋まっていくように,時間が経つにつれてD700の後継機の姿が少しずつ浮かび上がる。

 本当にこれがD700の後継機?

 未完成のパズルは,そこに前代未聞のデジタル一眼レフの輪郭を,浮かび上がらせていた。

 3630万画素という驚異的な画素数。名前はD800,というらしい。しかも,ローパスフィルタを持たないモデルが別に用意されるというのだ。

 くだらない噂だと一笑に付すフォトグラファーが多かったのは,D700の後継に求めるものが,画素数ではなかったことを意味していた。むしろ高画素化で失う物こそが,D700の後継に,まさに求められるものであったからだ。

 果たして,2012年2月,噂は現実になった。

 しかし,不安は杞憂に終わった。

 そして,絶賛に変わってゆく。

 前代未聞の3630万画素は,従来のデジタル一眼レフを越えたばかりか,フラグシップであるD4にすら届かない高みである。絶対なるこの個性をして,誰がこんな高画素を欲しがるのか,という批判を繰り出す者は,「中判の画質を狙っています」という生みの親の心に触れて,沈黙せざるを得なかった。

 高感度特性が犠牲になる,という批判もまた正しい物に思われた。それほどD3やD700の切り開いた世界は,全く違う象限に存在したのである。高画素化と感度は相反する要素であり,しかるに我々は高画素化を求めているのではない,と彼らは叫び,自らがたどり着いた,その素晴らしい世界を失う事に,心底恐れを抱いた。

 常用感度ISO6400,拡張感度ISO25600。この数字に見覚えがある人ほど,恐れは期待に変わってゆく。そう,名機D3と同じ。D800の否定はすなわち,D3の否定であり,自らが住む世界への肯定はすなわち,D800への肯定である。

 だが,ノイズにまみれた高感度など存在の価値はないと,口の悪い者はなおそう言った。

 しかしそこにあったのは,センサの高いポテンシャルとこれを最大限に引き出す画像処理が織りなす,新しい地平であった。

 高画素と高感度の両立こそ「肉眼で見えない物を見る道具」の正常進化でなくて,なんであるというのか。どちらか一方だけを高めたところで,その先にあるのは所詮は一歩前に過ぎないことに,ようやく皆が気付いた。

 それでも批判の声は止まない。高画素になればブレが目立つ。

 笑止。

 なぜ,己が技量の低さを顧みない声に,いかなる説得力も存在しないことに気が付かないか!

 レンズの性能が追いつかない。高画素なんて無駄。

 笑止。

 なぜ,これまで捨てざるを得なかった,レンズの個性をも飲み込む「力」であることに気が付かないか!50年前のMicroNikkorは,D800によって往年の切れ味を再び我々の眼前に突きつけたではないか!

 連写速度が足りない。

 三度笑止。

 連写速度というスペックの本質は,高速連写に必要な筋肉とこれに耐えうる骨格を持つことであり,高速なレスポンスを手に入れたかどうか,つまり1秒間に何コマ撮影出来るかではなく,1コマをどれくらい短い時間で撮影出来るかにある。6コマ/秒のD800が持つ体躯は,アスリートのそれである!

 そんなことより,3630万画素を支える,ずば抜けた基本スペックを見よ。

 20万回の寿命を誇るシャッターユニット,D4譲りの51点AF,一昔前のデジカメと同じ91万画素のRGBセンサによる高精度AE,野外での撮影を躊躇しない防塵防滴,プロ機の証ともいえるファインダー視野率約100%。

 作例をみた我々は,さらに驚愕する。拡大をする,拡大をする,さらに拡大をする。

 しかし,拡大をする度に,新しい情報がせり出してくる。鬱蒼とした森を表現した写真が内包する,それを構成するコケの一本一本までを取り込む緻密さに畏怖を抱き,震えが止まらない。

 D800は,過去の何にも似ていない,孤高のカメラとなった。D800が切り開く世界は,まだ人類が到達しない新しい世界であり,あらゆるものとの比較はナンセンスである。

 D800にとって不幸だったのは,それが安価であることだ。孤高のカメラは,いつの時代も常に使い手を選ぶ。こんなカメラが,品薄で入手困難など,あってはならない。

 だが,おそらく我々は後生に胸を張って言えるであろう。我々の日々の営みはそれまでとは比べものにならない情報量をもって,記録されるようになる。それはすなわち,D800があまねく広まることで現実になる,人類の夢であると。

デジタルカメラ列伝 その3~PENTAX K10D

・K10D(PENTAX,2006年)

 King of SLR ---

 かつて,戦争に敗れ貧しく疲弊した東の国に,アサヒフレックスと名付けられたカメラが生まれた。彼の国が世界のカメラを席巻する,その種が蒔かれた瞬間である。

 日本で初めての一眼レフを生んだ小さな工場は,やがて創業者が「一眼レフの王たれ」と夢を託した,ASAHI PENTAX Kを誕生させる。ドイツの名門の血を引くマウントを引き継ぎ,忠誠を誓う宰相Takumarも,もちろんそばにひかえている。

 そう,レンジファインダーを備えたカメラが,すべての頂点だった時代の話である。

 次なる王は,長く続いたドイツ生まれのマウントから脱却し,新しいマウントを備えた次世代カメラとして生まれた。ASAHI PENTAX K2と名付けられたその一眼レフには,当時考え得るあらゆる可能性を盛り込んだマウントが備えられていた。

 高性能レンズの設計を容易にする大口径,連動ピンを内部に持つ信頼性,プラクチカマウントと同じフランジバックを引き継いで,簡単なマウントアダプタでも完璧な精度が出る巧妙な仕組み。そして門外不出であるはずの仕様の公開。

 最新の高性能レンズと,過去のレンズ資産との共存。全てのレンズが跪く。誇り高き王にふさわしく,そのマウントはKマウントを名乗った。

 かように,ペンタックスにとって,Kとは,特別である。

 Kとは,これすなわち王である。しかるに妥協があってはならない。

 6x7や6x4.5といった中判フォーマットの最高級機でさえ,Kを名乗る事は許されなかった。この事実は,重い。

 時は流れ,旭光学はペンタックスになり,ASAHI PENTAXはPETAXになった。しかしペンタックスはあえいでいた。銀塩時代から続く不振と,高度化する技術に振り回される。先頭集団からの遅れは開き,買収の噂は絶えず,事業撤退の危機と隣り合わせの状況に,玉座の主がいないまま,ペンタックスは疲弊してゆく。

 そんな中生まれた待望のデジタル一眼レフ*istDは,高い評価を受けながらも,その凡庸さゆえ,会社を救いはしなかった。続く機種にも,迷いがある。

 まだだ,まだKを名乗ってはいけない。

 満を持して誕生した三人目の王は,K10Dと言った。

 防塵防滴という鎧をLXから譲り受けた新しき王K10Dは,伝統の小型軽量のボディを纏って我々の眼前に姿を現し,玉座に着いた。

 王者のマウントに忠誠を誓うあまたのレンズに,K10Dは1000万画素の高画質と,センサ駆動式手ぶれ補正を分け隔てなく与えた。かつて祖父が苦楽を共にしたTakumarにも,王はねぎらいの言葉と共にその手をさしのべることを厭わず,のみならず,すでに没落したドイツの名門に生まれたカビだらけの老兵にさえ,最新技術の恩恵を与え賜うた。

 ペンタックスのAFレンズには,古いものでもMTFのデータが書き込まれている。今すぐ役に立つ事はなくとも,いずれきっと役に立つときが来る,そう信じて,生みの親たちはMTFのデータ密かに埋め込んだ。

 Z-1とMZ-Sから受け継いだMTF優先プログラムAEによって,眠り続けたMTFデータは覚醒しその真価を発動させた。K10Dを通して設計者のメッセージを受けとった我々は,そのレンズの真の姿に触れる。

 ペンタックスの王は,常にレンズと共にある。誇らしげに,瞳に王冠を奢った御旗を掲げて。

LaCie d2 Quadraを買うが大失敗

  • 2012/10/01 13:08
  • カテゴリー:散財

 なにかと入り用な昨今ですが,またも掟破りの散財をしてしまいました。

 LaCie d2 quadraです。1TBです。

 理由は,安かったからです。7980円でした。もちろん新品です。

 1TB?8000円もする外付けHDDが「安い」だなんてぷぷ。

 そんな嘲笑が聞こえてきますが,私は20年来の筋金入りのMacの人ですから,そんな嘲笑にはすっかり慣れています。むしろ,最近のAppleのメジャーっぷりには,尻のムズムズした落ち着かない感じが実に心地悪いです。

 Macの界隈では,LaCieというメーカーは有名です。高価ですがしっかり作ってある,老舗でMacが独自路線の頃からサポートしてくれていた珍しいメーカー,ということで,それこそ20年前の日本においてはヤノかLaCieかって感じでした。

 そんなミーのおフランス調のシェーな(実年齢以上におっさんくさいなおい)LaCieも今はエレコムが代理店をやるようになり,大手の流通に乗るようになったのですが,そのエレコムはロジテックを買収したことで,ロジテックのアウトレットに並ぶようになったのですね。

 箱が壊れている代わりに安いというアウトレットを見つけて,10分悩んで買うことにしました。(しかして翌朝には売り切れていました)

 決め手はいろいろありました。

 増え続けるデジタルカメラのRAWデータを外付けHDDに移民させてすでに5年。RAWデータが独立戦争を挑んでくる事はありませんが,データ量が膨大になりUSB2.0では作業が止まる時間が長くなって,効率が悪いのでeSATAにしていることは何度もここに書いています。

 MacBookProでeSATAを使うにはExpressCardを使うしかありませんが,こいつが実にじゃじゃ馬でして,認識しない,レインボーサークルが回りっぱなしになる,突然カーネルパニックが発生するなど,不安定なことこの上ないのです。

 一時期安定し始めたので気をよくしていたのですが,今はとにかく不安定で,なにがきっかけなのか分からずじまいなのですが,結局何度かExpressCardを抜き差ししして,騙し騙し使っている状態です。

 2.5TBのHDDで,中身はすでに2TBほどありますから,データのロストが一番怖いわけで,マウント中に突然動かなくなったりするともう心臓に悪くて仕方がありません。

 かといって,USB2.0は今さらないと思いますし,USB3.0の導入はMacではなかなか高い壁です。USB3.0搭載機種への買い換え以外では,GbEthernetでNASに書き込むのが一番高速なんじゃないかと真面目に思います。

 そんな中で,Macにおいて最も信頼できるインターフェースがあります。FireWireです。今となってはすっかりレガシーなインターフェースですが,開発がAppleなだけに純正です。申し訳ないですがUSBよりも崇高な理想を掲げたインターフェースで,もともとSCSIの高速化を図る中で生まれたものです。

 USBが12Mbpsでよちよち歩いていた頃,FireWireはいきなり400Mbpsでした。しかもプロトコル的にもハードウェア的にもホストのCPUの負担が小さく,理論上の速度と実際の速度の差が小さいこともメリットでした。

 専門的な話になりますが,FireWireもUSBもシリアル伝送ですから,クロックとデータの分離が必須です。データにクロック成分を練り込んで,これを受信したときに分離するための仕組みはなかなか大変で,USBではごく当たり前にPLLを使っています。

 PLLは純粋なアナログ回路ですから,USBインターフェースをLSIにする時には,デジタルとアナログの混載となり,この手のLSIには荷が重いのです。

 これを見越したFireWireは,DSリンクという巧みな方法を採用しています。データとストローブという2つの信号を使うのですが,この2つをXORするとあら不思議,クロックがちゃんと分離できるのです。信号は2つになりますがクロックをそのまま送るわけではないので周波数は低く抑えられますし,XORですからアナログでもなんでもなく,LSI化するのに何の問題もありません。当然低コストになるはず,でした。

 しかし,かのドズル中将が述べたとおり,戦いは数だよ兄貴,です。

 圧倒的な数が出荷されたUSBは,PLLなどなんのその,USB2.0はさらに高精度な物が要求されたにもかかわらず,FireWireよりも安い値段で市場を席巻してしまいました。

 つまりですね,連邦軍の勝利は,ガンダム一機でもたらされたわけではなく,その低コスト版であるGMの量産に成功し,実戦配備出来た事によるものなわけです。

 閑話休題。

 FireWireはMacにはずっと標準で装備されたもので,OSでのサポートもしっかり行われており,高い信頼性を持っています。しかもFireWireも一度だけアップデートがあり,2つ束ねて800Mbpsに速度アップしたIEEE1394bがこなれてきており,USB3.0やeSATAが登場するまでは,最速のインターフェースでした。

 しかし,マイノリティというのはいつも不遇です。FireWire搭載のHDDは,数が少なく,しかも非常に高価なのです。USBだけなら1000円のHDDケースは,eSATAが付くと3000円,FireWireが付くと一気に1万円になります。

 高嶺の花であったFireWireが,しかも800Mbps対応のLaCieが,8000円。なにかと調子の悪いeSATAでデータを吹っ飛ばしてしまってからでは,遅いと考えて,買うことにしたのです。

 無論,1TBでは少なすぎますから,保証が効かなくなることは承知の上で,2.5TBのHDDに入れ替えます。1TBのHDDはそれでもそこそこ使い道がありますので,動画ファイルの保存にでも使うことにしましょう。

 で,先日届きましたので,早速HDDを入れ替えて見ましたが,ここで撃沈。2.5TBのHDDが認識しません。いわゆる,2TBの壁を越えられないブリッジチップだったようです。

 やられました。このd2 Quadraには3TBの品種もあり,きっと大丈夫だろうと思っていましたが,冷静に考えると今回買った商品は箱潰れのアウトレットです。古い物であることは当然考慮すべき事でした。

 事実,内蔵されていた1TBのHDDはHGSTのもので,2010年の製造のものでした。内蔵のHDDが2年前なら,ブリッジチップのファームウェアも当然この時代のものでしょう。

 LaCieですから,ファームウェアのアップデートがあるかと思い,探してみたらいろいろ出てきます。対応してそうなものをダウンロードして片っ端から試してみましたが,どれもだめでした。1つ,途中まで進んで途中で失敗するというアップデータがあったのですが,これもOSのバージョンを変えたりしても改善されず,結局ファームは古いままです。

 ただ,これだと完全に使えないかと言えばそういうわけではなく,eSATAならちゃんと2.5TBで認識します。ブリッジをバイパスするからだと思いますが,あてにしていたFireWireを使えないのは残念だとして,最悪捨てるという事は回避出来そうです。

 これを踏まえて,とりあえずHDDを入れ替える前にベンチマークです。いつものようにXbenchを使います。

 まずは,eSATAから。

Sequential101.44
Uncached Write192.29 118.06 MB/sec [4K blocks]
Uncached Write132.96 75.23 MB/sec [256K blocks]
Uncached Read44.70 13.08 MB/sec [4K blocks]
Uncached Read230.45 115.82 MB/sec [256K blocks]
Random42.26
Uncached Write13.90 1.47 MB/sec [4K blocks]
Uncached Write138.91 44.47 MB/sec [256K blocks]
Uncached Read101.56 0.72 MB/sec [4K blocks]
Uncached Read176.08 32.67 MB/sec [256K blocks]

 100MB/sec越えということで,やっぱり高速です。このHDDのパッケージにも,eSATAなら120MB/sec出るよと書いてありましたので,まさに偽りなしです。といいますか,HDDの速度がそのまま外に出ている幹事ですね。

 次に,本当は使いたかったFireWireの800Mbpsです。よく考えたらこのMacBookで,初めて使うんですね,このポート。

Sequential84.23
Uncached Write110.35 67.75 MB/sec [4K blocks]
Uncached Write91.84 51.96 MB/sec [256K blocks]
Uncached Read47.31 13.85 MB/sec [4K blocks]
Uncached Read156.23 78.52 MB/sec [256K blocks]
Random40.30
Uncached Write13.73 1.45 MB/sec [4K blocks]
Uncached Write97.07 31.07 MB/sec [256K blocks]
Uncached Read104.31 0.74 MB/sec [4K blocks]
Uncached Read152.92 28.37 MB/sec [256K blocks]


 うーん,eSATAよりは遅いのですが,それでもリードで78MB/secですから,理論値である800Mbpsに対して8割ほど出ています。USBなら半分くらいしか出ませんので,これはさすがにFireWireです。

 動作も安定していたし,これが使えないというのは残念です。

 最後に,参考までにFireWireの400Mbpsでも試して見ます。

Sequential57.70
Uncached Write63.78 39.16 MB/sec [4K blocks]
Uncached Write53.77 30.42 MB/sec [256K blocks]
Uncached Read45.20 13.23 MB/sec [4K blocks]
Uncached Read77.41 38.90 MB/sec [256K blocks]
Random38.75
Uncached Write14.00 1.48 MB/sec [4K blocks]
Uncached Write73.76 23.61 MB/sec [256K blocks]
Uncached Read103.04 0.73 MB/sec [4K blocks]
Uncached Read116.87 21.69 MB/sec [256K blocks]


 ここまで来ると,さすがにインターフェースによる速度限界が見えてきます。40MB/secですから,一昔前なら十分高速だったのですが,今となってはさすがに見劣りします。

 USB2.0は・・・面倒なのでやめておきます。

 ということで,高級品のLaCie d2 quadraを安く買うことができました。しかし,安いなりの結論になり,その不安定さ故に出来れば使いたくなかったeSATAを使う事になってしまったのは,大きな誤算でした。

 確かに,2TBまでのHDDにすれば使えるはずで,一時は2TBにしようかなと思ったのですが,D800の吐き出すデータが膨大なため,すぐに窮屈になるのは目に見えています。それを2TBに制限して,FireWireにこだわって運用するというのも,あまり賢い方法とは思えません。

 ということで,FireWire800はあきらめ,eSATAにします。より高速なわけだし,まあいいか。今使っているMarvellのチップを使ったExpress/34カードはどうも不安定ですから,昔使っていたカードに戻してみたところ,動作も安定して快適に使えるようになったようですから,これでもういいことにします。

 悔しいので,LEDも変えてみました。LaCie d2 quadraにはまるでHAL9000のような大きな目玉が付いており,これが青く光ります。あまりに青いので気持ち悪く,青緑のLEDに交換したのですが,より一層気持ち悪くなりました。

 そこで,白色に交換です。目玉が水色ですので,白色のLEDだと綺麗に光ります。よし,これでいい。

 結局根本解決には至りませんでしたが,eSATAのバイパスの仕組みも,このd2 Quadraが採用しているOxfordのチップだと,チップ内部で切り替えるもので,少しは安心でしょう。安いチップだとバイパスと言うよりパラレルで繋いであるだけだったりして,不安が拭えませんから,とりあえず問題なく動作してくれれば,もう文句は言いません。

 ついでにいうと,NASへのアクセスも,OSが10.8.2になってからよくなりました。10.8になってからプログレスバーが長い間止まったままになり,バックではちゃんとコピーは続行しているというややこしい問題がありました。

 これが,NASのドライブをマウントしていると,eSATAでも起こってしまうので困っていたのですが,10.8.2ではNASでもそういう問題は起きなくなりましたし,もちろんeSATAでも問題なく動くようになっています。

 こういうマイナーなトラブルは油断していると足下をすくわれますので,心してかからないといけません。特に私は,子供の写真のRAWデータを大量に失っていますので,この手の失敗でデータを失う事があると,ダメージは計り知れません。

 問題は,いずれやってくるMacBookProの買い換え時にどうするかです。

 MacBookProの現行モデルには,ExpressCardが使える機種はありません。ThunderboltではFireWireに変換することは出来ても,まさかeSATAにすることは出来ません。ThunderboltをExpressCardにするものは売られていますが,こういうイロモノに手を出すのも怖いです。

 ThunderboltネイティブのHDDケースを使えばいいのでしょうが,これはこれで高価ですし,USB3.0を搭載するMacもまだまだマイノリティです。Macをとりまくストレージ環境は,まだまだ過渡期という感じです。

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