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朝の出来事

 昨日の朝は,出るのが少し遅くなってしまい,小走りに駅に向かいました。

 1つ,2つ,3つと角を曲がり,少しだけ視野が開けた場所にさしかかって目に入ったのは,いつもより少しだけ離れたところにあった,いつも同じ時刻に目にする出勤途中の女性の背中でした。

 違っていたのは,狭い道の真ん中にかすかに見える膨らみと,それを心配そうに見つめるおばさんの姿が同時に目に入った事です。

 おばさんは困ったという顔をして,すれ違う寸前の私に声をかけました。

 すみません,この子が動けなくなっているのですけど,このまま車にひかれたらかわいそうなので,自分が道の横に動かしてあげられればいいんですけど,ちょっと私はそういうにが苦手なので,できれば動かしてあげられませんか・・・

 彼女はそういって私に本当に困った視線を投げかけました。その視線と私が見たいつもの女性の背中は,この頼みが私だけにされたものではないと知るのに十分でした。

 反射的に私は,足下にあるその膨らみを凝視しました。そこにあったのは,小さなスズメでした。

 死んでいるわけではなく,さりとて大けがをしたり,病気で動けなくなっている様子もないのですが,用心深い彼らが人間二人に囲まれて逃げ出さないはずもありません。なにかがあったのでしょう。

 ほぼ同時に私は困ったことになったぞと思いました。いつもの電車に乗り遅れる,そんな心配をしていたのです。それに,厄介なことは何かに関わるから起こるのであって,逃げてしまえば何も起こりません。

 朝の憂鬱な表情を浮かべる私に声をかけるくらいです。おばさんも,余程困ってのことだったのでしょう。おばさんは私の態度が期待はずれになりそうだと察知して,続けました。

 あなたも,やっぱりこういうの,苦手ですか?

 私も,実はあまり生き物が得意なわけではありません。ええ,実はそうなんですよ,と申し訳なさそうに答えたのですが,その場をさっと去ることも出来ずにいました。いくつかある選択肢の中で,電車の乗り遅れるのが嫌だ,という理由に最もそぐわない行動を取っている私がいました。

 鳥インフルエンザが人間に感染する可能性が心配されています。政府も,死んだり弱っている鳥には触らないようにと呼びかけています。もしこのスズメが鳥インフルエンザで弱っているのだとしたら,私が世界に先駆けて,新しい型のインフルエンザを蔓延させ大被害を起こす元凶となる可能性だってあります・・・

 人間は,中途半端に賢いせいで,面倒なことに壮大な妄想を付加してくだらない言い訳を考えつく動物です。自分がそんな大それた事件の主人公になることを想像しながら,足下のスズメに視線を落とし,同時に,でもこのままだと車にひかれますね,それはかわいそうですね,とおばさんに返しました。

 おばさんも,そうでしょうと頷きましたが,それでは事態は何も変化しません。

 そのまましばらくして,この場を何となくやり過ごすことになるだろうと考えていたところに,それを許さない神の手が,事態をのっぴきならない方向に動かしました。

 ワンボックスカーがやってきたのです。道の幅はぎりぎりです。とても小さなスズメをよけて通ることは出来ないでしょう。果たして我々の眼前で,かくも残酷な事が起こってしまうのでしょうか。

 私は決心しました。手で車に合図を送り,まずこちらの異常に気付いてもらいました。もう後戻りは出来ません。

 私はしゃがみ込み,そのスズメを,出来るだけ出来るだけそっと抱きかかえようと手を伸ばしました。

 こんな近くでスズメを見るのは,何年ぶりでしょう。

 そのスズメは,目をつぶっていました。残念ながらスズメ独特の愛らしい表情を見せてはくれません。半開きになったくちばしの奥には,赤黒い血がたまっています。そしてその足下には,血の跡がついています。

 どこから出た血なのか探してみますが,口以外に見あたりません。それに,意外にちゃんと両足で立っています。震えている様子もなく,丸く膨らんでいるようでもありません。

 私の手が,スズメの一部に少しだけ触れた一瞬,スズメはびっくりしたように,ばさばさと辛そうに飛び立ちました。少なくとも私の視線の高さを超え,彼を見上げることを期待しながら,しかしそれはかないませんでした。

 3メートルほど先の塀にとまったのを見届けた我々は,車に再び合図を送り,止まって待ってくれたことに感謝をしました。運転手の表情は実ににこやかでした。

 おばさんは私に頭を下げ,少し先のマンションまで一緒に歩いて,そして帰っていきました。私は私で,何事もなかったかのように,駅への道程を急ぎました。

 いつもの同じ電車に乗り,いつもの時間の流れに少しだけ挟まったこの事件を振り返りながら,どうして躊躇せず,おかしな言い訳ばかりを考えずに,さっと行動に出ることが出来なかったのだろうか,スズメがぐったり動けなくなっておらず,案外簡単に事態が収束したことを助かったとまず思ったさもしい感情は一体どこから沸いて出てきたのだろうか,結果としてスズメは車にひかれず,おばさんは安心し,私もいつもの通りの生活に戻っているが,私の気持ちは暗いままでした。

 そういえばすっかり春のそれになった日差しに目を細めて,ちいさな丸い姿のスズメをかわいらしいと思った数日前を,私は思い出していました。

 その日の夜,同じ道を帰りに通った時に,私はそのスズメの痕跡を探してみました。暗いせいもありましたが,私はとうとうそれを見つけることが出来ず,自分の望みが叶ったことに感謝をして,自宅にたどり着いたのでした。

 
 

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