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想定を越えたら仕方がないことなのか

 私は原子力や核物理学については門外漢ですし,その知識は大変に乏しいものです。

 どんなことでもそうですが,ある事柄が危険なことや問題のあることは説明が出来ても,それが安全であることや問題のないことであることを説明するのは,とても高度な知識と経験,そして勇気が必要になるものです。

 つまり私程度の一市民が持つ知識や経験で安全であると納得することは不可能であり,ゆえに専門家の助言や判断をあてにすることになるのですが,そうなるとその専門家のいう事をどこまで信用するのかという,高度な判断を行わねばならなくなります。

 これも難しい話で,結局の所,国や行政と言った,最終責任を取ってくれそうな所の判断を仰ぐことになってしまいますが,当然これらだって原子力については素人の集団であるわけで,もう私にはお手上げです。

 一連の原子力発電所の問題について言えば,その分野の専門家,つまり学者と技術者の役割として,なにが危険でなにが安全かを区別し,それを我々のような知識も経験もない市民にわかりやすく提供することが,工学倫理や技術者倫理という観点からも大いに期待されるのですが,新聞・テレビと言ったマスメディアからtwitterによるつぶやきまで,いろいろなメディアを通して発言をされていることについては,社会の期待に応えるべく活動してらっしゃるという点において,その役割を果たされているなあと感じています。

 実を言うと私は原子力発電推進派の人間でした。電力は動力から熱,果ては演算能力にまで高効率で変換でき,作る方法も複数ありますし,安価で,とても安全で使いやすいエネルギーです。

 そしてその理想的な,何にでも使えるエネルギーを得る方法として,大気を汚さず,二酸化炭素も出さない原子力を利用出来るのも,大きなメリットです。

 原子力が最終手段で理想的なエネルギー源とは思っていませんでしたが,本命たる別の究極のエネルギーが登場するまでのつなぎとして長く付き合っていくしか,人類には残されていないのだから,現実問題としてただただ反対を叫ぶのではなく,うまく共存する方法を模索すべきであり,かつそれは十分可能なだけの技術レベルにある,というのが,私の持論でした。

 でした,というのは文字通り過去形で,今は残念な事に慎重派です。これは,今回の事故があったからという直接の理由もさることながら,工学倫理や技術者倫理という視点において,もう原子力は終わったものと考えざるを得ないからです。

 工学倫理や技術者倫理の世界では,その分野における専門家,例えば技術者を,

・誰にでも出来る仕事ではない
・新しいものを創造する力を有する
・自分の生み出すもので社会に貢献し,文化を創造する
・一定の自由裁量が認められている
・一方で大きな社会的責任を負う

 といった存在として位置づけます。

 技術者も一人の人間で,社会の一員ですが,それぞれが属するコミュニティに応じた倫理観を持って生活しないと生活が成り立ちません。日本に生きる,家族と生きる,ということに,それぞれの倫理観が必要なのと同じように,技術者にも特有の倫理観が必要で,自分のしたこと,自分の持つものが,他にどういう影響を与えてしまうのかをきちんと考慮する力が求められます。

 これを倫理的想像力と呼ぶのですが,倫理的想像力を養うことは,一定の自由裁量を社会から許されるためにも必ず必要なことです。そりゃそうですね,自分のしたことがどれだけ社会を変えてしまうのか,どれだけの人に喜んでもらって,逆に迷惑をかけてしまう事になるかを考えない人に,諸刃の剣である科学技術を任せるわけにはいきません。

 誰にでも出来る仕事ではないけども,誰かがやることによって世の中が良くなり,生活が豊かになるから,そのために必要な知識と経験を持つ「技術者」が,社会から信用をもらって,その裁量を認めてもらっているわけです。

 例えば自動車です。ピーク時よりも少なくなったとは言え,今でも多くの方が交通事故で亡くなっています。でも,その多くの犠牲があっても,自動車は危険だから廃止せよ,ということにならないで,自動車がもたらすメリットと天秤にかけ,共存しようということになっているわけです。

 ただし,共存するには余りにも危険だった自動車は,自動車技術者の手によって少しずつ安全な乗り物へと進化してきました。この進化は専門家だから可能だったことですが,もしもこの専門家が良心を失い,暴走していたら,社会は自動車を安全なものとは位置づけられず,犠牲がさらに増えていたかもしれないのです。

 自動車技術者が目先の利益に走って,安全性よりも見た目のスペックを重視し,ぶつかれば紙のようにくしゃくしゃにつぶれてしまう軽いボディに,不釣り合いな強力なエンジンを付けて,しかもコストを下げるために性能の低いブレーキを搭載するようなことがあったら,どうでしょう。

 そんな自動車しか作ってくれないなら,社会はもう自動車との共存はできません。自動車メーカーと自動車の技術者は,安全という社会が求めるテーマに真摯に努力し結果を出してきたから,社会の共存をするという方針は揺らぎません。

 技術者にしたって「安全を軽視しません」というスタンスを社会に理解してもらい,信用してもらっているから,その技術を使って新しい製品をある程度自由に作る事を許されているわけですね。

 経済活動とはちょっと違った視点なので,これと混同するとちょっと危険なのですが,技術者の教育のうち,比較的新しい分野である工学倫理や技術者倫理というのは,基本的にはこういう考え方に基づいています。

 社会は,技術者を信用し,彼らに危険だけども有望な専門的な技術を駆使して新しいものを創造することを許す。そして全体が豊かになる。

 技術者は,その信用を得るために,倫理的想像力を駆使して社会に迷惑をかけないことを約束し,そしてそれを社会に説明し理解してもらって,社会から新しい技術をつかって仕事をすることを許してもらう。そして全体が豊かになる。

 もっと積極的に,技術者は,その技術がどれほど社会に有用なものであるかと,同時に危険かどうか,安全かどうかをちゃんと説明して,社会からの信任を得る義務を負っていると,強い言い方をしてもよいでしょう。社会はその説明で技術者を信用したなら,危険だけども彼らなら大丈夫,彼らの力を信じて社会がより豊かになることを託してみようと,そういう依存関係が社会と技術者にはあるわけですね。

 もう1つ重要な事があります。ある分野で専門性を持つ技術者は,別の分野においては技術者に信任を与える側に付くのだということです。

 自動車の技術者は,自動車のメリットとデメリットを説明し,デメリットの克服を社会に約束して,新しい技術を使う事を許されますが,そんな彼らも原子炉については素人であり,専門家である原子炉の技術者に信用を与える側になるということです。

 およそ仕事をしている人は,その分野の専門家です。互いを信用し合って,世の中が進歩して,豊かになる,これが現代社会です。

 専門家は,時にその専門分野が非常に危険なときは,警鐘を鳴らし,社会に是非を問う勇気も必要です。内部告発というのはこの一例と考えて良いでしょう。技術者も,技術者を雇う会社も,その技術で報酬や利益を得ているので,自らを守るためにずるいことをしたり,ウソをついたり,隠し事をしたりするかも知れません。

 彼らならそんなことはしないはずという信用を得ることがいかに大事か,また必要に応じて第三者機関が監視を行う仕組みがいかに必要なものか,お分かり頂けると思います。

 こうした,工学倫理や技術者倫理という観点で,今回の原子力発電という技術と社会の関わりを見ていくと,どうにも破綻していると考えざるを得ないです。

 まず,技術者はこの大変危険で有用な技術を,本当に手なずけられたのか?

 技術者は,彼らの考える「手なずけた」を,社会が信用するに足りる形できちんと説明を行ってきたのかどうか?

 そして技術者は,この技術を使う事に対して,社会からの信任と,一定の自由裁量を本当に得ていたのか?

 社会は,彼らの言葉を本当に信じていたのか?その大きすぎるメリットに目が眩んで,危険を軽視し技術者の言葉を盲目的に信用してしまってはいなかったか?

 一部の技術者が警鐘を鳴らしていたその危険性について,社会は耳を傾け,議論の場を作ってきたか?

 原子力は,非常に大きなお金がかかり,リスクもメリットも桁違いです。エネルギー政策,原子力政策という国の方針として進められるのはその大きさゆえですが,社会も「国」という錦の御旗を掲げたこの技術を,実力以上に過信する傾向があったことは否めません。

 そして,原子力は安全,安全で安い,ゆえにエネルギー問題解決の切り札なのだと,強く推進されてきました。しかし今回の天災によって実は手に負えないものであったことが浮き彫りになってしまいます。

 今回の事故は,とても大きな教訓を残してくれます。15メートルの津波は想定出来なかったと,専門家,技術者は言っています。これは「それじゃ仕方がないなあ」と我々に諦めの気持ちをもたらすのと同時に,「つまり想定を越えたら取り返しが付かないのね」と,反対論を確実に喚起するものです。

 原子力反対の意見として,何かあったら取り返しが付かないというのがありますが,かつての私を含んだ賛成論者はそんなことは起きない,と言うだけでした。

 人的なエラーを含め,様々な問題を想定し,それを回避するように巧妙に設計が行われている,だから万が一は起きません,が彼らの社会に対する説明でした。しかし,これは想定されていたものについての話であり,想定を越えたものについては回避できないといっているのと同じだったことに,市民は気付くべきでした。

 どんなものにも,想定を越えたものが起こる可能性があります。ただ,その場合に起きることが「取り返しのつくもの」なら,リスクとメリットを天秤にかけて議論出来ます。自動車しかり,薬の副作用しかりです。

 原子力はどうかというと,これは「取り返しの付かないもの」です。ですから,リスクとメリットを天秤にかけることは出来ません。つまりリスクは無限大であり,どんなメリットをもってしても,メリットが勝る可能性はゼロだからです。

 そこで結論ありきで動く人々は,論法のすり替えを試みます。万が一は起きません,起きないのだからリスクはゼロ,です。つまり天秤に乗せれば,必ずメリットが勝利するようになっています。この話のすり替えに気が付くのが遅かったと,私自身は反省しています。

 万が一起きたらどうします?という詰問は,時に「仮定の話はやめよう」という声に潰され,議論の機会さえない場合があるものです。しかし,これがいかに危険なものかを,今回の事故は教えてくれました。

 このことを,全ての技術者が気が付いて,万が一を軽視しない,正しい評価が定着することを,私も含めて肝に銘じるべき時がやってきたのだと思います。

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