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ちょっと昔のこと~その1

  • 2015/05/13 15:38
  • カテゴリー:備忘録

 今年で社会人になって,なんと20年になりました。

 つい最近のこと,とまでは思っていませんでしたが,そんなに昔の話でもないと感じていただだけに,その考えは改めないといけないなと思っているところです。

 20年ですから,もう一昔以上もの時間が経過しています。自分の実感(というか勘違い)と,曖昧になりつつある記憶との間に,感覚的な違和感があることは,実は途切れ途切れになった記憶の方が正しいということを,正しく認識せねばなりません。

 私の場合,高校生の頃まではなにかと思い出すことがあるのですが,それ以降の事については「懐かしい」という気分でもないせいで,あまり記録していません。記憶もあやふやであることを考えると,このまま私の手元から消えてしまう情報となるかも知れません。

 それで,客観的な資料を思い出す手がかりにしょうと,google先生に聞いてみたのですが,ちょうど20年くらい前というのは,インターネットがまだ普及しておらず,情報の電子化も中途半端だったこともあり,あまり残っていないんですね。もう少し古いとマニアがちゃんと調べて残してくれているのですが,1990年代から2000年代というのは,案外ミッシングリンクになるように思います。

 そこで,少し詳しく,私の大学生の頃の話を,思い出しながら書くことにしました。思い出しながら書くことを一度もしなかった時代なので,いい機会です。


 まず,高校で遊びほうけた私は,ほぼ全員が有名な大学に進学する進学校において,完全な落ちこぼれになりました。勉強がさっぱり出来ず,運動もクラブ活動も全然だった私は,やや偏屈な性格が呼び込む厳選された友人達と3年間を,それなりに楽しく過ごしていました。

 先生や先輩達の「うちの高校は4年制」と自重気味に話すのは,もともと勉強出来る人間が集まっているのに,ちっとも現役時代に勉強せず,おかげで現役で大学受験に失敗するものが大半,一浪して本気を出すという,誠になめ腐った伝統があったからで,これを「まあどうにかなるさ」と解釈してしまうところに,大きな問題がありました。

 なるほど,大半はそうかも知れませんが,何事にも例外というものはあり,一浪しても本気を出さない人,本気を出しても駄目な人,というのはあるもので,私がまさにその例外でした。

 考えてみると,例外なんて言い方はおかしくて,勉強しなかったんだからその結果は当たり前です。他が勉強している間に私は自分のしたいことだけをやっていたんですから,これを例外なんて言うのは甚だおかしいでしょう。

 そういうことはちゃんと当時の私も解っていて,都合2度味わった挫折感に「世の中どうにもならないことってあるんだな」とつぶやいたことを,よく覚えています。

 うちははっきりいって貧しかったので,一浪することも大きな負担だったので,まさか二浪することなど考えられませんでした。

 「このままでは大学に行けない」と焦り始めたのが,もう寒くなり始めたころで,確かにそのころの集中力は現時点でも最高のものがありましたが,時既に遅し。勉強したことが血と肉になるには,最低2ヶ月くらいはかかることもこの時学んだのでした。

 センター試験もまさかの惨敗,3月の国公立は受けるだけ無駄という状況で,2月の私大が全滅したことで,私の2シーズンに渡る受験は幕を閉じました。

 当時はバブルの終盤で,まだまだ製造業が強かった時代です。トラ技の広告も分厚く,求人広告などいくらでもありました。高卒でも大丈夫,実家から通える電子系の仕事ならなんでもいいと,本気で就職を考えていたのですが,これもそこらへんの大卒者よりは知識があると自負していたからです。

 浪人中になにをやっていたかといえば,これはもうひたすら電子回路の設計です。ちょうどこの頃アナログ回路の面白さに目覚め,トランジスタの動きが手に取るようにわかるようになってきた時です。高校で習った数学や物理が,電子工学や音響工学とリンクし始めたのもこの頃で,なんて楽しいのだろうと夢中になっていました。

 通っていた予備校がまた難波にだったこともあって,予備校の行き帰りに日本橋で部品を買って帰り,家で実験して翌日また足りないものを買いに行く,なんてことを繰り返していたせいで,勉強はさっぱり出来ないけども妙な自信と達成感だけは持っていたのです。

 ですが結局「今必要なものは,それではない」と,どこの大学も私を拒んだことで,自分の失敗を悔いたのです。

 見るに見かねた母が,新聞の切り抜きを持ってきてくれました。1つはO大学の短期大学部の,もう1つはK大学の夜学の,2次募集の案内でした。私大の受験はとっくに終わっていましたが,欠員が出ていたところを目ざとく見つけてくれたのです。

 母は,まだあきらめるなと言ってくれました。

 どちらも,まったく想定していなかった短期大学部と夜学でしたが,就職よりもすっと素晴らしい選択肢に見えた私は,2つとも受験し,合格しました。

 どこも私を「おいで」と言ってくれなかったのに,この2つは「きてもいいよ」と言ってくれたのですから,それはそれはうれしかったことを覚えています。

 問題はどちらに行くかです。私は,短期大学とは言え電子工学に特化した単科大学であるO大学に行きたいと強く思っていましたが,父は総合大学であるK大学へ行くように,私を叱責しました。最初はアドバイス程度だったのに,最後は命令になり,打ちひしがれた私をまたも母が慰めてくれたことを,よく覚えています。

 そこまで父が頑なになった理由ですが,誰に効いてもK大学の方が通りがいいと,そういうことでした。父自身がどうかというより,人に聞いたところ,というのが,今も昔も変わらない父の根拠の軽蔑すべき特徴なのですが,この時も私の説得材料として振りかざしました。

 子供の頃は感心した父の人脈の広さですが,この頃になると自分を持たず,人の意見を強い根拠に出来てしまう,弱い人間だったと気が付いていましたから,速く自分の考えが対等に扱われるような年齢になりたいものだと,思ったものです。

 ただ,これは私が直接聞いたわけではありませんが,短期大学部から転部して4年制大学の卒業資格を得るのと,夜学で卒業資格を得るのとでは,学費が倍以上に違っていました。もしかすると,当時の夜学の学費は国立大学よりも,安いくらいだったかも知れませんが,ここが最大のポイントになっていたのではないかと思います。

 かくして,私はK大学の夜学に進みました。どうせ落ちこぼれだし,可能なら昼間部に転部して普通の大学生になろう,駄目でもさっさと卒業してしまおう,と,割り切って考えていました。

 ただ,昼間遊んでいるわけにもいかないので,日本橋のとあるパソコンショップで夕方までアルバイトをすることにしました。ここは今はもう潰れてしまったのですが,今の私を形作った,とても重要な場所です。

 そもそも,高校1年の夏休みにアルバイトをしようと,ダメモトで電話をしたシリコンハウス共立で,デジットなら雇ってやると言われ,二つ返事でOKしたことが,電気街を働く場所にしたスタートでした。

 高校2年でも夏休みにお世話になったデジットですが,現役の受験に失敗し,2ヶ月近く出来てしまった自由時間にまたお世話になろうと思ったら,アルバイトは足りているので必要ないと断られてしまい,その足でいきなり店頭で「雇ってください」とかけあったのが,このパソコンショップでした。

 いきなり大きな甲高い声の,とてもスピード感のある店長が即決で採用を決めてくれて,晴れて私はここでアルバイトすることになりました。ここは,店頭での接客はもちろん,買って頂いた商品の発送,お持ち帰りでお客様の自動車までの荷物運び,入荷品の検品や荷さばきなど,何でもやらねばなりません。

 偉いとか偉くないとか,担当とか責任とか,そういう話はほとんど無関係で,手が空いた人がどんどん片付けていく,そういう活気にあふれていました。私もここで,最初は力仕事から,徐々に接客を学んで行きましたが,自分が接客したお客さんは,きちんと自動車まで運んで,その自動車が走っていくまでお見送りすることを,モットーとしていました。最初から最後まできちんと接客をすることが出来たのは,この店が大きすぎず小さすぎずだったからで,とても良いお店で働かせてもらったと思っています。

 浪人中にアルバイトはさすがにまずいので一度辞めさせて頂き,忘れ去られないようにちょくちょく顔を出しながら,翌年には夕方までの勤務を毎日こなすアルバイト店員になったというわけです。

 なにせ繁盛記の緊急バイトではなく,レギュラーメンバーです。お客さんの少ないときの仕事も見せて頂きましたし,中古パソコンの買い取りと商品化の担当を持たせてもらいましたし,名刺も作って頂きました。「本業は学生」というおかしな自負が,同じように毎日朝から出勤しているフリーターの卑屈さをかき消していたので,おかしな空気を醸し出していたんではないかと思います。

 こうして私は,高価な最新のパソコンやソフトウェアに触れ,ミナミに働く場所として毎日通い,ハードロックと夜遊びを覚えて,自分の小遣いを本気で稼ぐ数年間を過ごすことになります。

 とはいえ,朝は10時前にお店に入り,17時まで仕事をし,18時からの授業の前に軽く腹ごしらえ,授業が終わると21時30分をまわって,帰宅すると22時半,風呂に入って23時のニュースを見ながら遅い夕食を摂る,と言う生活を続けていました。土日は学校がないので,朝から夜までフルタイムです。その代わりお休みは平日で,普通は火曜日と木曜日にお休みを頂いていました。この時も夕方には学校に行きますので,一日家にいる日というのは,ほとんどありません。
 
 不思議とこれが苦にならず,楽しかったのです。母親などはこういう生活の私を見て後に「不憫だった」などというのですが,当の本人はまったくそうは思っていませんでしたが,社会人になったらこういう生活はなくなり,休みは土日,夜はもっと早くに家に帰ってくるのだろうと,漠然と思っていました。

 長くなったのでとりあえずここまで。次は学校のことを書こうと思います。

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