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ちょっと昔のこと~その2

  • 2015/05/14 16:14
  • カテゴリー:備忘録

 ちょっと昔のこと,の続きです。今回は学校のことを書きたいと思います。

 最初に書いておきたいのですが,私は自分の出身大学も学部も,とても誇りに思っています。隠すようなことでもないので,聞かれればきちんと答えます。

 ただ,日本では学歴について話をする事は憚られますし,自慢をするようなことでもないですから,自分から積極的に話して回りません。

 学校に対してはとても感謝していて,前回書いたように,勉強がさっぱり出来ない私に対しても「まあ来たいのならおいでよ」と拒まず迎えてくれて,私に賭けてくれました。

 勉強が出来るか出来ないかは大した意味を持たず,それぞれがどうしようとどうあろうととても寛容であり,ルールを守っている限りは自由が許される一方,それぞれのやりたいことには積極的な支援をきちんと用意してくれているという,非常に懐の大きな学校で,私はのびのびと勉強させてもらいました。

 勉強がさっぱりだった私のような人間でも,人並みに働いて自立できていること,しかも子供の頃から夢見てきた「技術者ですと自己紹介する自分」でいられることの大きな要因は,紆余曲折の末にここで学べたからだと,思っています。

 さて,父親の命令で,不本意ながらK大学の夜間に行くことになったことは前回書きました。今でこそ全国に名前を知られるようになったK大学ですが,当時は関西だけで知られる大学で,それも「大したことないでかいだけの大学」という感じでした。

 私の印象でも,勉強するところというよりも,社会人になるまでの余暇を過ごす場所,という認識の学生が集うところ,という感じでしたから,大学で好きな電子工学をきちんと学びたいと思っていた私が,まさかここの学生になるとは思っていませんでした。まして,一癖も二癖もある事情を抱えた人が集まる,夜学です。自分には完全に縁のない別世界が,急に自分の住む世界になるというのですから,その急激な変化にめまいがしました。

 この学校と最寄り駅までの通りは,通称「親不孝通り」と呼ばれています。ゲームセンターや雀荘が建ち並び,学校にたどり着くまでに,ほとんどの学生がこれらに吸い込まれてしまうからです。

 こういう話を聞いたりすれば,もうここは私の居場所じゃない,もっとも私が関わりたくない場所だったと,考えたことも無理からぬ事です。

 この学校の校風は,先程も書きましたが,一言で言えば「自由」です。自由というのは文字通りの意味ですが,大切な事は自由であることが許される雰囲気があったということです。それは,制度として許されると言う意味ではなく,先生も生徒も職員も,みんなみんな,とても寛容だったということなのです。

 この大学は,いわゆる偏差値は高くありません。総合大学ですので,それはもうたくさんの学生がいます。勉強できる人も出来ない人も,勉強している人も遊んでいる人も,10代もいれば30代もいて,白衣を着ている人と演劇を習っている人とが,日常的に同じ食堂でご飯を食べているような学校です。

 話は飛びますが,K大学の当時の食堂の最安メニューは素うどんの60円で,これはもちろん缶ジュースを飲むより安いです。ゆえに,友人達とは「ジュースでも飲むか」ではなく「うどんでも食べよか」でした。

 もちろん学校ですので,成績の良い人も悪い人もいますが,成績の良い人は悪い人をバカにはしません。悪い人も良い人をバカにしませんし,もちろん勉強の邪魔するようなことは絶対にしません。

 そんなことに興味がないといえばそこまでなんですが,つまりこの大学では,もともとそんなに勉強の出来る人が集まっていないので,成績が個人の優劣を決めはしないのです。成績がよくても自慢にならず,それに価値はありません。そんなことより「おもしろい奴」かどうかが最大の評価ポイントです。

 こうなってくると,勉強したい人は思いっきり勉強できますし,遊んでいたい人はそれはそれで徹底的に遊べます。幸いにして学内には様々な人がいて,最強の価値観である「おもしろさ」を競い合っています。いくらでもおもしろい体験は可能でしょう。

 この校風をして,外の人は不真面目だといいますし,ぱっとしない学校だと思われてしまうんだと思うのですが,学生がそんなことを全然気にせず,のびのびやっていたことは,今思えばとても良いことだと思うのです。

 私自身は,大学生というのはみんなそういうものだと思っていたのですが,後年,学校によって窮屈さに差があることを耳にして,自由でおおらかなのはこの学校の個性だったのだと,気が付いたのでした。

 いよいよ入学式を終えて,新入生向けのオリエンテーションです。忘れもしません,私はこの日,インフルエンザにかかり,40度近い熱を出して全身の寒気が収まらず,腰や関節が激しく痛み,体をまっすぐ伸ばして歩くことも出来ない状態でした。

 それでもこの日に休むとまずいだろうと,母親は私に付き添って,学校まで一緒にきてくれたのです。夜学ですのでオリエンテーションも夜ですが,母親はオリエンテーションの間,外で時間を潰して私を待ってくれていました。

 帰りも,私は電車に朦朧としながら座っていましたが,母親が私の前に立っていたことを覚えています。

 ですが,このオリエンテーションは,私にとても重要な意識を与えてくれました。

 お歳を召した学部長の先生が,我々に強い口調で挨拶をします。

 大学というのは最高学府である,諸君はその最高学府で学ぶことになったのだ。卒業すれば学士の資格を得ることになる。その自覚を持ってもらいたい。

 夜学ではあるが,文部省のモデルケースとして,4年で大学卒業の資格を取得出来るカリキュラムになっている。通常夜学では卒業に5年かかったり,短期大学の卒業資格になることが多いが,諸君がもらう卒業証書には「学士」とかかれ,昼は夜かはどこにも書かれない。

 取得単位は昼と全く同じ,カリキュラムもほぼ同じなのでとても厳しいが,夜学だからと考えずに,胸を張って学んで欲しい。

 熱でぼんやりしていた頭で聞いた私は,この言葉がウソではないことを,後日知る事になります。

 学部長が言われたことは,こうです。

 文系の学部ならまだよいのですが,私が進んだ理工系の学部では,取得単位や履修が必須な科目が多く,また実験や実習も避けられない関係で,時間の限られる夜学で,しかも4年で昼間部と同じ卒業資格が取れるところは希でした。

 私の学校でも,確か機械工学科が先行し,私が進んだ電気工学科は私が1期生だったんじゃないかと思います。

 文部省のモデルケースだったかどうかはわかりませんが,確かにこういう珍しかったと記憶しています。

 とはいえ,絶対時間が少ないのですから,全く同じというわけではありません。まず授業時間が少しだけ短いです。通常1コマ90分ですが,確か80分だったと思います。これで一日3コマあり,毎日きっちりあります。

 理系に付きものの卒業研究は,これに類する卒業レポートという形になります。この点だけは昼間部と大きく違う所です。

 これ以外は全く同じです。同じ教科書を使い,同じ単位を決まった数だけ取得せねばなりません。

 勘のいい人はここで気が付くと思いますが,1日3コマで毎日びっしり4年間ということは,もしも単位を落とすと,翌年に再履修する科目が本来取るべき科目と重なってしまうので,自動的に留年が決まってしまうということです。

 特に必修の単位を落とすことは,他で代替できませんから,もう留年決定です。みんな目の色を変えて勉強をしていました。出席率も高いままでした。逆の言い方をすると,一度脱落するともうリカバー出来なくなるので,そういう学生は二度と顔を見なくなってしまいます。

 また,毎日びっしりと授業が並んでいますので,昼間部のように興味があるから履修しようとか,同じ単位を取得出来る複数ある科目からどれかを選ぼうとか,そういう自由はありません。また,例えば教職課程のような特別な科目も,時間的に履修できませんし,そもそも開講されていない講座も多いです。

 そういう意味では厳しいものでしたが,私はもともと,自分の大好きな電子工学を学ぶのが楽しみで大学に行きたかった人ですから,むしろこうして効率的に勉強させてもらえることは,ありがたいくらいでした。

 しかも,学費が半額以下でした。

 そして,さすがに巨大な総合大学だけあって,設備はそれなりに充実していました。夜学とはいえ,この大学の学生ですので,図書館も食堂も生協も利用資格があります。見たこともないような大きな歴史ある図書館で,貴重な本を見る機会に恵まれたことは,本当に良かったと思います。

 実験設備などは昼間部とは別でしたので大したものはありませんでしたが,それでも後述するように,インターネットがまだ学術利用しか許されていなかったころに,私はac.jpのドメインのアドレスをもらって,電子メールで他校の友人とやりとりをし,SunのワークステーションでSystemVをさわり,viを使えるようになって,TeXでレポートを書き,ftpでフリーウェアをダウンロードしていました。

 特筆すべきは,教授陣のすばらしさでした。

 正直なところ,偏差値が50を割るようなボンクラばかりが,仕方なく集まった夜学ですから,教える側も「仕方なく」教えることになった人ばかりだろうと思っていたのです。無難に簡単な試験をして,適当に卒業させればいいか,くらいに考えていると,私は誤解していました。

 もちろん,そうい先生も中にはいたと思います。昼間部の講師だけでは食えないので,夜間もバイトとして働くとか,そういう若い先生もいらっしゃいました。でも,こういう先生はもともと優秀な方ですし,若いだけに話も洗練されていて,面白いのです。

 ですが,なんといっても,お歳を召された先生方です。年齢的に大学を退官なさったような方か,民間企業を定年退職されたような方なんですが,調べてみると京都大学で教授をやっていた電気工学の重鎮だとか,その先生の弟子でこれまた重鎮が恩師に口説かれてやってきたとか,シャープの研究所にいた半導体の専門家だとか,そういう立派な先生が多いのです。

 なにが悲しくて,地位も名誉もお金もある方が,その年齢に抗って毎日毎日夜の9時半まで働かねばならんのか。

 これは,先生方も言われていましたが,使命感からだそうです。夜学の生徒はやんごとなき理由で夜に勉強している,とても真面目で意欲も高く,自分達もこういう生徒をぜひ教えたいという,そういう熱意から,我々生徒と一緒に夜遅くまで一緒に頑張ってくださいました。

 一人二人という話ではなく,少なくとも私が学んだ先生方は,ほとんどこういう熱意のある方でした。

 熱意があるから,指導にも身が入ります。学生も少なく,部屋も小さいので,先生も我々の顔と名前を覚えてくれます。それはもう,中学高校の延長です。

 また,我々の大学特有の事情もありました。我々の大学はスポーツが強く,多くのアスリートが推薦で入学してきます。彼らはスポーツで好成績を期待され,実質的にクラブ活動が本業となります。

 そうなると,昼の大部分をクラブ活動にあてるため,なかなか授業に出ることができません。そこで、我々の大学には昔から夜学があるのです。

 それでも取得単位の多い理工系の学部で夜学というのは当時も珍しかったのですが,私の学科にも野球部の学生が数人いて,とても頑張っていました。考えてみると,自分の運動能力という才能を伸ばすために,二十歳そこそこその若者がこれほどの努力を律して続ける事が出来るというのは,本当にすごいことだと思います。

 そして,こうした努力に応えるだけのインフラを,大学側がきちんと用意していることも,我々の大学の自由な校風を育んでいたのだと思います。

 もともと夜学は,学校にいる時間が短く,それぞれに仕事を持っている人が多いため,友人達と授業前後に一緒に遊ぶことも少なく,休日もあわない事から,学校で友人が出来る事は少なく,私の場合も1年の秋頃までは,一人で行動していました。

 もともと私は一匹狼でしたし,高校までの友人はほとんど私の元を去って行ってしまいましたから,一人でいることが苦になりませんでした。

 唯一助け合いが必要なテスト対策だって,普段からきちんとしておけば少なくとも私が誰かに助けてもらうことなど,ありません。

 ですが,声をかけてくれる友人はいるもので,彼を核として親しくなった友人3人と私の4人は,卒業までいつも学校で行動をしていました。この4人は成績も上位で,卒業後も良い就職先に就職しました。付かず離れずでおかしな下心もなく,年齢もまちまちだったことを考えると,とても居心地が良かったことを覚えています。

 おかげさまで,昼のバイトはとても楽しく,ここでも多くの友人に恵まれましたが,学校の勉強も良い先生のおかげで楽しく出来,特に高等数学や量子物理についてはその本当の意味を教えてもらいました。

 すでにある程度の知識を持っている,電子回路や論理回路については独学に誤りがないことを確かめるチャンスでした。

 実験は客観的なデータの取り方とレポートの書き方を学び,不都合な結果が出てもそれはそれで正直に,誠実にレポートすることが大切だと学びました。

 夜学でも一般教養はちゃんと履修せねばならず,当初面倒だと思っていた私は,履修後に目から鱗が落ちました。

 専門課程の先生なら熱意も理解出来ますが,一般教養の先生方に熱意など期待していなかったのです。しかし,少人数で行われるだけに,まるで市民講座のような良い雰囲気がありました。

 覚えているのは日本史で,江戸時代の出版業についてでした。先生の著作を読むだけの授業と言えば印象が悪いのですが,そもそもこの本が面白く,これに軽快な語り口の先生の講義が加わるので,とても面白く毎週楽しみにしていました。

 この先生のことを調べてみると,私が学んでから6年後に他界されていました。講義に使った著作は最初の版元のものは絶版,別の版元から復刊したものが在庫のみになっていました。寂しいものです。

 社会学も面白かったです。基礎的なことしか習っていないのだと思いますが,新しいものの見方を学びました。経済学は簡単でしたがこれも面白く,心理学も大変興味深いものでした。

 語学で言えばドイツ語が面白かったのですが,先生が長くドイツにいらした先生で,ドイツの文化をニコニコしながら話してくれます。これが,当時のアメリカ一辺倒な空気に違和感のあった私に1つの答えを示してくれて,ヨーロッパに目を向けさせるきっかけになったと思っています。

 そうそう,体育もあるんですよ,夜学にも。私は苦手で,面倒だったのですが,人数の関係から他の学科との共同で行い,そこで普段顔を合わせる事のない人達と一緒に体を動かしたことは,貴重な機会だったと思います。

 専門課程は当初は期待した程面白いものではなく,電気工学についてはたいくつな交流理論に辟易していました。しかしこれが今も役に立っているんですから,大切な事だったんでしょうね。電気機器は要するにモーターですが,これが今,とてもホットなキーデバイスになっていることを当時想像できたでしょうか。

 半導体工学は,例えば青色のLEDが商品化されない理由が理解出来たことをよく覚えていますが,これもすでに過去の話。LEDが世界を一変させてしまいました。

 私は電子工学を独学で学んでいましたが,学科は電気工学科です。発電所の作り方や大きな変圧器の設計など,強電の分野を学んだことは,自分の幅を広げるのにとても役に立ちました。

 電子計算機の実習というものがあり,私はこんなもの必要ないと生意気な態度を取っていましたが,理工系の人間にとって当時はまだFORTRANが避けて通れない時代でしたから,自分だけでは絶対に知り得なかった知識を得たチャンスでした。その代わりCを実習で取り扱わないのは,当時としても問題だったかなと思います。

 もう1つ大事な事を忘れていました。数学です。手書きのテキストを使って熱心に指導して下さった,これまたお歳を召した先生だったのですが,解析学などの数学と,量子力学を教えて下さいました。

 私はそれまで,数学は嫌いではなかったけどもさっぱり出来ずにいたのですが,ここで数学の面白さに触れたことで,その意味を知り,学ぶことに大きな価値を見いだしました。今でも数学は好きですし,道具として活用すべき存在です。これは,本当に感謝です。

 そして2年経過し,私は学科でトップの成績を維持していました。入学時は昼間部への転部試験を受けて,3年次からは「普通の大学生」になることを考えていた私でしたが,学科長の先生の「転部試験を受けたらどうか」というアドバイスに対し,はっきりと「いえ,ここでずっと勉強させて下さい」と,即座に意思表明を行う事になりました。

 当時一緒にいた6名の仲間のうち,2名が転部試験を受けて昼間部にいきました。他の4名ははっきりいって彼らより成績上位でしたが,それぞれの事情もあり転部しませんでした。

 私は,この時までに,自分が在籍する夜学が,とても好きになっていました。誇りを持つようにもなっていました。なにより,目の前にいる学科長の先生も含め,夜遅くまできちんと向かい合ってくれる,熱意のある先生方の講義を,もっともっと受けたいと思っていました。

 即座に転部試験の受験を断り「君なら確実に転部できるんだけどな」と言った先生は,「そうかそうか」という満足げな表情を隠しませんでした。ここに至って,私は夜学に通う自分を,積極的に肯定するに至ったのです。

 3年次の終わり頃,昼間部の卒業研究と同じ,卒業レポートのテーマと指導教官を決めるときが来ました。実習や実験を担当していた講師の先生や,先の学科長が指導するテーマも魅力的でしたが,私はあえて,全く知らない先生を指導教官に選び,ここでソフトウェアとUNIXを学ぶことにしました。

 先生はまだ講師で,しかも他の学校から移ってきたばかりでした。新参者で階級の低い先生が,始めて教えるのが夜学の学生ということで,随分遠慮がちな感じもありましたが,私は先生を実に尊敬していました。

 4年次の4月,初日の研究室でのテーマの説明と,習得すべきものを始めて顔をあわせたメンバーに話された先生は,「この中でUNIXとVIを触ったことがある人」と尋ねて,私一人がそろそろと手をあげたことで,ちょっと驚いていたようです。

 1994年といえば,パソコンと言えばPC-9801にMS-DOS,ようやくWindowsが選択肢として認知され初め,DOS/Vと言われたIBM互換機がメジャーになりつつあった頃の話です。

 インターネットはまだ学術用途に限定されており,無線LANはおろかEthernetも特殊なものでした。コンピュータネットワークといえばパソコン通信がすべてで,14400bpsのモデムでホストコンピュータに電話回線で繋いで,電話料金に戦々恐々としながら,文字だけの画面で外に繋がる浮遊感を満喫した時代です。

 UNIXはパソコンで走らせるにはまだまだ厳しいOSで,ワークステーションやミニコンで動く雲の上のOSでした。それらの高性能マシンはとても高価で大きく,個人で所有することは非現実でしたから,当時の学生でUNIXもVIも触ったことがあるという答えは,先生にとっても予想外のことだったでしょう。

 ではなぜ私が触ったことがあるのかといえば,これはPC-9801に用意された,NEC純正のUNIXであるPC-UXを格安で手に入れたからです。とても古いバージョンのものを,ある商社が不良在庫の処分として持ち込んだのですが,興味本位で買って帰ったのです。

 80286搭載機であるPC-9801VXをターゲットに用意されたものですが,さすがに高価なOSだけあって,マニュアルの分厚さがものすごかったことを覚えています。

 ここで一通りインストールを行い,VIで編集してCコンパイラを使った記憶があるのですが,スタンドアロンで使っていたこと,テキストベースであったこと,マルチタスクを実感するような使い方をしなかったことで,ちょっと遊んで終わりでした。

 なにより,その異質な臭いが,鼻について仕方がありませんでした。

 ですが,私はここでUNIX大好きな先生とすっかり仲良くなり,UNIXの洗練された仕組み,ネットワークで繋がることで倍増する価値をすることになります。

 ようやくRISCになった頃の古い古いSun4(Solarisではない)に,複数の人間がターミナルとして用意されたPC-9801からログインして,UNIXとCを学ぶことから始まった講座ですが,私は特別に自分の使い慣れた端末としてMacintosh SE/30を持ち込み,これを先生が使っていたSPARC Classicにシリアルで繋がせてもらい,最初からSystemV系を使う事が許されました。

 今にして思えば,当時としてもSPARC Classicの能力は低く,本当なら独り占めしたかったはずなのに,私に接続を許してくれたことは,私を歓迎してくれていたんだろうなと思います。体が大きく,目つきも悪くて,ぶっきらぼうで言葉の少ない先生でしたが,一方で大変に気が付く,優しい,それでいて学生を自分と対等に扱う,とてもよい先生でした。

 私はここで,FFTを学んで実装し,パターンマッチングの基礎を考察したことと,これを通じてUNIXとワークステーションでインターネットにこぎ出すこと,そしてC言語を学びTeXでレポートを書くことを覚えました。

 自宅にはPC-9801で動くSystemVのUNIXであるPANIXをインストールし,X-WindowsでGUI環境を手に入れて,その心地よさを満喫していました。Linuxもまだまだマイナーで,PC-UNIXといえばBSD系のものが大半だったことを考えると,私は偶然にも,今に続くUNIXへの好感をこの時に培ったのだと思います。

 確かに,大したことではないかも知れません。大学院の先輩もいなければ,徹夜で実験ということもなく,またUNIXでもシステム管理をやっていたわけではありません。しかし,夕方から夜までの限られた時間の中で,出来るだけ最新の環境を味あわせてやろうという,先生の配慮があったからこそ,私はこれだけの恵まれた経験をすることができたのだと思います。

 そういえば,ある時私は,電車でぐっすり眠ってしまい,乗換駅を寝過ごしてしまいそうになりました。日々の疲れが溜まったのでしょうね,

 そうすると,ある方が「おきなさいよ」と私を起こしてくれました。あわてて飛び起きて電車を降りたのですが,冷静に考えてみるとなんで彼が,ここで私が降りると解っていたのか,不思議でなりません。

 おそらくですが,教科書を広げては眠りこけて,あわてて降りていくのを毎日毎日見ていたのでしょうね。周りの方々の暖かさにも助けられていたのだと思います。

 そうして私は4年次を過ごしつつ,就職活動,そして卒業することになりました。

 ここまでに落とした単位はなく,成績も学科では一番,学部でも二番でした。就職は昼間部を含めてほとんど入社したことがない「まさか!」の某一流企業に決まり,教授のツテもなく,学校の推薦もなく,まったく縁もゆかりもないなかで,この事実に一番驚いていたのは学校の就職担当部署だったと思います。

 当時は大阪に本社のあった電子楽器メーカーを第一志望とし,ここは最終面接まで進んだところで,他が決まってお断りしました。

 もう1つ,これも在阪の大手メーカーの子会社が,私を熱心に誘ってくれていたのですが,こちらもお断りをしました。お断りをする時に,直接出向いてお詫びをしたのですが,この時も熱心に誘って下さいました。

 この時,うちに来るかどうかは別の話として,と前置きした上で,期待と不安と申し訳ない気持ちで一杯の私を,こう励ましてくれました。

 「就職というのは,高速道路と同じで,合流するときが一番難しい。けれども一度流れに乗ってしまえば,あとはすいすいと走れるようになるものだ」

 この言葉は,今でも私の支えになっています。

 就職で大金星をあげ,成績もトップだったことから,私はありがたいことに卒業式で総長賞を頂きました。

 ゴミくず同然で入学を許してもらった私が,夜学で学んだことを誇りにし,数年後にこうして賞まで頂いて,胸を張って卒業し社会に出たことは,なんと不思議なことかと思います。

 勉強が出来ないという事実だけで,学ぶチャンスを得られないことは間違っているとは思いません。しかし,勉強が出来ない人間でも,こうして立派な成績で卒業できることが自分の経験として存在すると,決して正しい事だとは思えないのです。

 その点で,K大学は,勉強が出来ないという理由で私を拒むことなく,求めに応じて学ぶ機会と環境を与えて,育ててくれました。この大学の懐の深さに私は救われ,自分の人生を切り開いていくことが出来たのだと思うと,心の底から感謝をし,そして誇りに思うのです。

 残念な事に,K大学の理工学部2部は,平成13年で募集を取りやめており,現在は存在しません。わずか10年ほどの間だけ存在した,希有な存在の「理系のフルスペック夜学」は,卒業証書に夜学である事を記載されず,公式の記録にほとんど残ることなく,ひっそりと消えていき,我々卒業生と関係者の記憶の中だけの存在となりました。

 確かに,この4年間は,時間的には楽ではなかったかもしれません。

 しかし,私は,自分に与えられた環境としてこれほど自分の適したものがあっただろうかと,思います。講義は毎日短時間でしたが集中的に無駄なく行われ,昼はまとまった時間として働く時間に割り当てて自分を磨くことができます。

 そして一度学内に入れば,するもしないも自由という寛容な空気,学びたい学生には総合大学らしい強力な支援が約束され,これに高い志を根拠に夜学という特別な環境に自らを置いた先生方に恵まれるという,素晴らしい環境が私を育ててくれました。

 今,私が若い人に夜学をおすすめするかと言えば,出来ません。おすすめしたくても,もうこうした夜学は,ほとんど残っていないからです。

 わずか10年だけ,まるで私のために用意されたかのような錯覚さえしてしまうくらいの短い期間ですが,このタイミングでもし私がもう少し勉強が出来ていたら,あるいはもう少し勉強が出来なかったら,きっと今の状況はなかったでしょう。

 当時はそんなに肯定できなかったのですが,今はこの環境を与えてくれたK大学に,心から感謝したいと思います。

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