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ゲームと学習

 ひところ,「ゲーム脳」なる言葉が流行りました。

 私たちが子供の頃,ちょうどファミコンが出てから以降,その時々の大人達はゲームに没頭する子供にあれこれと負の影響を諭していたのですが,その頂点が「ゲーム脳」でした。

 海外がどうかは知りませんが,日本においてこの手の話というのは,多分に胡散臭いものであったり,非科学的であったり,感情的であったりするので,大体の場合において本論からずれたところで毎度同じような議論がなされ,やがて興味を失った人達が一人二人と抜け落ちたあげくに,どこにも着地することなく自然に消滅するという流れを踏襲します。

 長く生きているというこういう無益な議論に割く時間も労力も無駄と思うので傍観を決め込むわけですが,それがますます議論を空洞化することになることも知っており,こうした後ろめたさから逃避するために,自分とは関係ないことだ,という論理武装をすることになってしまうのです。

 しかしその実,多くは健康に影響するものであるゆえに,無関係であるはずはなく,いずれどこかで同じ問題に向き合う必要が出てくるものです。

 ゲーム脳については,ゲーム漬けになった我々の世代が,いろいろ問題を起こしつつも概ね「普通」に生きていることを考えると,極端で深刻な永久はなかったように思いますし,私が感じる日本人に対する機器間はゲーム以外の他の要因でも醸造されたものであるので,科学的な因果関係はそもそも議論を始められないなあと思っています。

 ただし,ゲームが我々40代以下の人間に,悪い影響を与えたものの1つであることは,否定できないなと思っています。

 まず,これを考えてみて下さい。

・非常に魅力的であり人を強く引きつける
・報酬を与える
・何度も何度も繰り返す

 人間は,この3つによって,学習を加速させます。

 人間は面白そうな物事には積極的に取り組みます。つまらないことよりは面白い事に没頭できるので,勉強だってそうした工夫をしているわけですね。

 人間は,報酬に弱いです。人間と言うよりおよそ生物全般と言っていいでしょうが,報酬によって快楽中秋が刺激されて,心地よさが得られるというのは,経験的にも科学的にも知られていることです。

 そして,何度も繰り返すことで,定着がおこります。公式を覚える,楽器を習う,テニスをする,あらゆることが,繰り返しによって「身につく」ことを利用して,我々は困難に打ち勝ってきたわけです。

 ということで,この3つは人間が学習し,ある技術を会得するために昔から行われて来たことです。そしてこれらを人工的に引き起こし,別の用途に応用することも行われています。わかりやすいのは,ドラッグでしょう。
 
 さて,この3つ,薄々気が付いていると思いますが,あえて主語を外しています。そこで主語として「ゲームは」を追加してみます。

・ゲームは非常に魅力的であり人を強く引きつける
・ゲームは報酬を与える
・ゲームは何度も何度も繰り返す

 いかがですか。さらにいうと,多くのゲームの目的が破壊や攻撃にあることを考えると,さらにこう読み替えることが出来ます。

・暴力行為は非常に魅力的であり人を強く引きつける
・暴力行為で報酬を与える
・暴力行為を何度も何度も繰り返す

 うーん,さすがにまずいですね,これは。

 もちろん極論ですし,言葉遊びに過ぎない気もします。ですが,冷静に考えてみて欲しいのですが,人間はなんだかんだで暴力に惹きつけられます。駅で起こった喧嘩をみんな注目しますし,ボクシングもプロレスも人気があります。

 ゲームで敵をやっつけるとうれしいですよね。そして敵が倒せるようになるまで何度も何度も繰り返しますし,ひょっとすると何度も敵を倒して快楽を得ることを目的に繰り返す人がいるかも知れません。

 少し前に話題となった「コンプガチャ」も,射幸心を煽ることに批判がありましたけど,これも報酬による快楽にあらがえずに,大金をつぎ込むことが問題だったわけです。薬物中毒と同じ構図です。

 「コンプガチャ」はアイテムを集めることが目的でしたが,もしこれが暴力行為だったらと思うと,私はちょっと恐ろしくなります。

 おわかりのように,ゲームの危うさというのは,こうした学習能力を高めるメソッドが強く盛り込まれている一方で,それこそ有益なものから暴力的なものまで幅広く応用可能であることでしょう。

 つまり,人殺しをゲームに応用すれば,人殺しは肯定され,報酬のために積極的に繰り返し取り組み,そのスキルを会得するべきものとなるわけです。まずいですね,これは。

 楽器の習得もにたようなものがあり,単調な繰り返しを辛抱して続けると,ある時突然上達を実感し,そこからはもう楽しくて楽しくて仕方がなくなります。最初の山をいかに乗り越えられるかが勝負だと思うのですが,乗り越えてしまえば報酬と繰り返しの連鎖です。

 ですが,楽器の習得には,人の生命や財産を奪うことを肯定する要素はありません。もし肯定する要素があるなら,楽器の習得というのは,否定されねばならないでしょう。

 ゲームも同じです。げーむゲームそのものは右にも左にも向かえるものですが,人の生命や財産を奪う行為が肯定されているか否定されているかは,楽器の習得と同じレベルの話でしょう。というよりむしろ,楽器の習得もゲームの1種だといっていいかも知れません。

 人じゃなければいいのね,という詭弁で行われているのが,ゾンビや怪物を敵に暴力を行うゲームです。特にゾンビはひどいですね。形状といい質感といい挙動といい,それは人に近く,生命体に近いものです。人か人でないかは,作った人が決めただけの話です。

 そもそも,人であるかないかにかかわらず,残虐な行為を肯定し,報酬を与えて繰り返し行わせて学習させるというのは,それによって何が起こるかを想像すると,やはり問題があると思わざるを得ません。

 繰り返しになりますが,ゲームにしても,楽器にしても,報酬と繰り返しは,習得のための最善のメソッドです。長期的に見て,そのメソッドで何を得られるかが重要であり,このあたりをもう少し考える必要があるのではないかと,私は思っています。

 ゲームそのものを機械的に否定しているのではありません。私はゲームが好きですし,文化的側面や技術的な魅力,クリエイター達の創造力に感嘆しますが,ゲームに限らずどんなものにも裏と表があり,毒にも薬にもなるものです。

 政府に規制を委ねるとろくな事がありませんが,かといって野放図になることも問題です。良識ある大人が,公平かつ納得いく形で,うまく表と裏を調整出来ることが理想だと思います。時に表現の自由は,他の事例と同じように制約を受けることになるかも知れません。

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