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この20年の流れを思い出してみると

 Windows95が登場したのが1995年,今年は2017年ですので,もう22年です。すごいですね。

 20年というと,この年に生まれた人は成人式を迎えますし,働き盛りの45歳だった人は65歳で高齢者の仲間入りです。

 私の感覚でも,20年なんてあっという間に,ついこの間のことのように感じてしまいます。

 しかし,2017年の20年前である1997年は,今とそんなに変わらないように思うのです。これが1984年の20年前である1964年ということなると,もう全然違うように想うのです。

 100円玉が銀貨だった時代ですよ。500円が紙幣だった時代ですよ。1万円札がまだ珍しかった時代ですよ。

 20年の変化は,これくらいあって当然だと思っていた私は,1997年から2017年の20年を同じ物とは,ちょっと思えません。自分が歳を取ったからだとか,みんなそういんだよとか,そういうありがたい格言はそれはそれで伺いますが,差し引いてもこの20年の変化の緩やかさたるや。

 これが失われた20年なのか。

 しかし,コンピュータの世界は,1995年から2017年で随分変わりました。そんなつもりもなかったのですが,改めて見ると確かに変わっていると,そんな風に思います。

 いや,クロック周波数が高くなった,メモリ容量が増えた,HDDが大容量化した,というような,何かの延長になるような変化というのは,それはそれで大切な事だし大変なことなのですが,不連続に突如現れる変化があり,それが社会を動かすという事が何度もありました。

 ちょっとそのあたりを,つらつらと思い出してみようと思います。


・インターネットの登場と普及

 これはもう,誰でも一番に言うことでしょう。インターネットの登場はもっと前ですが,1992年頃に商用利用が許されて,一気にお金が流れ込んで爆発的に広がりました。

 ここでいう商用利用というのは,お金儲けに使えるという狭い意味ではなく,お金さえ出せば誰でも利用出来るようになった,という意味です。逆に言うと,それまでは,お金儲けを直接目指さない,学術研究用途に限るという「資格」がなければお金をいくら出しても使えない物だったのです。だから学校ならどこでもOKというわけではありませんでしたし,私企業でも研究用途なら繋がっていました。

 先駆的な諸先輩方のおかげで,日本は幸い学術利用に限定された頃から関係者の間では当たり前の存在になっていたため,商用利用が許されても特に大きな混乱もなく,順調に広がって行ったように思います。

 というのは,商用の世界では「パソコン通信」が1980年代から普及しており,これらとインターネットが繋がりさえすれば,その日から誰でもインターネットの海に飛び出すことが可能でした。

 パソコン通信は,当時は富士通系のNiftyServe,NEC系のPC-VAN,ASCII系のASCIIネットが圧倒的だったわけですが,1992年にNiftyがインターネットの電子メールを受けられるようになったあたりから,両者の境目が不明確になってきました。

 インターネットというと,今ではWEBなわけですが,当時はWEBなどそんなに普及しておらず,チャットはirc,コミュニケーションは電子メール,情報交換は電子掲示板によるネットニュース,検索はgopher,ファイル転送はFTPと,コマンドラインを駆使して別々に使っていました。

 WEBは一部の感度の高い人の間でぼちぼち立ち上がるようになってきましたが,それでもハイパーリンクが一番の売りだった時代ですから,出来上がっても「だからなんだ」という程度の反応に過ぎず,作った人の自己満足に終わったような気もします。これが変わったのは,検索エンジンの登場からでしょう。

 私は,遠く離れた友人とほぼリアルタイムでメールのやりとりが出来ることに感激していて,これで本当に物理的な距離が無意味になると信じたのと同時に,それまで信じていた距離と時間のとらえ方が大きく変わり,不安になったことを覚えています。

 また,当時は雑誌やクチコミでしか入手出来なかった海外のフリーウェアが,直接手に入るようになったこことも感動的で,日本にいながら海外の情報が瞬時に手に入ることを,母親などに自慢した記憶があります。

 でも,これはあくまで学校での話。学生が学校に行けば使う事が出来る窓口でした。それが,1995年に大きく変化し,IIJやbekkoameといったサービスプロバイダが個人を対象に,ダイアルアップでIPアドレスを割り振る事業をスタートさせます。

 ここから雪崩を打って,のちにISPと呼ばれるサービスプロバイダが登場し,価格が下がって淘汰されていきます。考えてみれば電話回線を確保し,モデムを置いて,かかってきた相手にIPアドレスを割り振るだけの商売ですから,初期投資に見合うだけの会員を集めれば儲かりますわね。

 それで,会員の獲得競争が激しくなります。これは,後に書くADSLが普及するまで続きました。

 このころ,本当に本当に苦労して手に入れたIPアドレス。動的に割り振られて他の人と使い回すような物ではなく,本当に世界で唯一の私の番号を,自分のマシンに打ち込むときの,あの感激と誇らしさは,今思い出してもゾクゾクする物がありました。


・ADSLの登場と普及

 自宅でも電話回線を通じて世界と繋がるようになったのはいいことなのですが,学校では常時繋がっているインターネットも,家では電話回線故に繋ぎっぱなしは許されず,必要な時だけ最短時間で繋いでいました。

 モデムの高速化は当時もとどまることを知らず,2400bpsだったものが9600bps,14400bps,28800bps,33600bps,57600bpsとなってきましたが,すでに57600bpsは理論的限界を迎えていましたし,理想的な通信環境においてのみ発揮された性能だったので,実力はそんなに出ていませんでした。でも,14400bpsのモデムに切り替えた時には,圧倒的な速度に涙が出ました。

 いくら高速になったとは言え,従量制で最短時間だけ繋ぐという使い方では便利になるはずもなく,これが常時接続になることで大きく世界が変わるだろうことは,私の目にもはっきりしていました。

 そこでISDNが注目されたのですが,それでも高いし,遅いのです。そこで,これまでのアナログ回線をそのまま使い,高速なデジタル通信を実現する技術が登場しました。ADSLがそれです。

 アナログモデムが57.6kbps,ISDNが128kbpsだった時代に,ADSLは1.5Mbpsですから,そりゃ驚きました。これをISDNよりも安い値段で提供しようと表舞台に躍り出たのが,ソフトバンクです。

 ソフトバンクと言えば,それまでソフトの卸業と出版だけやっていた,マニアしか知らない会社だったわけですけど,ADSLの普及を加速させ,モデムを駅前で無料で配るようになって,一般にも知られるようになってきました。

 最初はトラブルも多く,さんざんにこき下ろされたものですが,後になって急激に普及し,常時接続環境が手頃な値段で利用出来るようになったことは,まさにパラダイムシフトと言えました。

 遅くてもいいのです。ずっと繋がっていることが重要なのです。


・携帯電話の登場と普及

 携帯電話についても,それまで高額な保証料と端末のレンタル制度があったおかげで,社長さんかヤクザしか使ってないと言われていたものが,保証料の撤廃と端末の買い切り制度がきっかけになり,これもまた1995年頃から急激に普及するようになりました。

 当時はアナログから,契約者の急増を支えるためにデジタルへの移行が急務だった時代でしたが,ぼちぼち今で言う3Gが登場してくる頃でした。

 アナログの時代にもモデムを使って通信をする人はいましたし,デジタルになれば標準でデジタル通信が可能になりました。パケット交換式もこのころに出てきたはずです。

 ここから携帯電話のメールサービスがインターネットと繋がるようになり,携帯電話があれば世界中の人とメールがやりとりできるようになりました。小型端末にあわせて仕様を軽く作ったWEBサービスである「iモード」の登場により,インターネットが個人レベルにまで降りてきたのも,この時です。

 こうなると音声よりもデータ通信,もっというとパケット通信の方が重視されるようになり,3GからHSDPA,そして4Gとデータ通信が高速化されて,最終的には音声でさえもパケットで送られる時代になりました。

 携帯電話は,一種のトランシーバーであり,基地局が公衆回線に繋がっていることで,電話として機能します。同様に基地局がインターネットに繋がればネット端末になるわけで,最終的にはかつてのスーパーコンピュータが手のひらに収まって,かつてのイーサーネットよりも高速な速度で,データがやりとりされているわけです。



・NANDフラッシュの登場と普及

 大量のデータが交換され,生み出されると,それを蓄えておく場所が必要になります。それまで,高速だけど高価な半導体メモリは一時的な記憶に,安価だが低速のテープやディスクなどの記録メディアは長期の保存にと使い分けられていました。

 メモリカードはいずれ普及するだろうと思われていましたが,まだSDカードも出ておらず,ストレージにはコンパクトフラッシュしかない時代でした。

 そのコンパクトフラッシュが,ある時急激に安くなった時がありました。それまでの16MBの値段で,32MBが買えるようになったときには,驚きました。

 私は当時,ザウルスポケットというPDAを使っていました。とても便利に使っていたのですが,アプリの追加ではやっぱりストレージの拡張が必須で,確か6000円ほどで32MBが手に入った時に,何があったのかと不安になったほどでした。

 のちに,NANDフラッシュという新しいフラッシュメモリが登場したことが原因だったと知るわけですが,このあとすぐプロセスリーダーをDRAMから奪い去り,最も高い集積度と最も安いビット単価を実現したメモリの王者になります。

 NANDフラッシュにはそれまでのフラッシュとは違う弱点もあったのですが,これが逆にストレージという用途にはまるで関係がなく,MP3による音楽のデータ化にも後押しされて,どんどん大容量化と低価格化が進んでいきました。



・USBの登場と普及

 あるとき,PCの背面に,見慣れない不細工な四角いコネクタがあるのが目に付きました。当時のOSであるWindows95ではまだサポートされておらず,ここに繋げる物もほとんどめにすることなく,意味のない穴になっていました。

 USBとして,世の中のあらゆるものがここを目指すような存在に君臨するのはもう少し後です。

 それまでのインターフェースというのは,まず用途別に分かれていました。プリンタとマウスとキーボードとHDDを繋ぐコネクタは,それぞれ別だったのです。

 その上,そのコネクタからは電源が供給されませんでした。

 USBはこれら周辺機器のインターフェースの統合を目指しました。そのために速度を高速化し,電源の供給も行われるようになりました。ソフトウェアも柔軟な構造になっていて,繋がった相手によって,OSからの見え方が変わるように配慮されていました。

 とはいえ,まだまだUSBは不安定で,なかなかうまく動いてくれません。キーボードやマウスも,OSが動き出してからようやく動作するものでしたから,OSが立ち上がるまではなにも出来ない状態だったのです。

 これが一気に変わったと思うのが,iMacの登場です。iMacではキーボードやマウスをUSBに統一し,フロッピーさえもなくしてしまいました。また,USBはHDDやメモリカード等の高速転送もカバー出来るように仕様が拡張され,USB2.0に発展します。

 これが決定的となり,PC用の標準インターフェースとして君臨することになるのです。


・TFTカラーLCDの登場と普及

 LCDが小型携帯デバイスの要になることは1980年代にもはっきりしていましたが,時計や電卓で使われていたLCDは表示品質が悪くて,およそPCやテレビに使えるようになるとは思っていませんでした。

 やがてポケコンやワープロの搭載されるようになったLCDですが,それでもまだまだ。ノートPCに搭載されるようになっても,やっぱりまだまだ。反応速度は遅いし,色は白黒ではなく白青,もしくは緑と黄色でした。

 これでは当時流行っていたxxxなゲームが全然楽しめません。

 ですが,1991年の春,PowerBook170というMacintopshの最上位ノートを見て,私は自らの認識に誤りがあることを悟りました。LCDがダメなんじゃないんですね,LCDを駆動する方式が問題だったのですね。

 PowerBook170は,かつての名機MacintoshPortableで人々を驚かせた,ホシデン製のモノクロアクティブマトリクスLCDを搭載していました。色が完全な白黒ではないことを除けば,反応速度もコントラストも非常に高く,我々が知るLCDのイメージを完全に吹き飛ばすものでした。

 これと同じ物と思われるLCDが,Macintosh初のノート型の最上位機種に搭載され,私は改めてその実力に驚いたのでした。

 しかし本当の驚きは,この半年後に訪れます。PC-9801NCの登場です。TFTカラー液晶をいきなり搭載した98ノートの登場です。これを見た時,私はもうブラウン管の時代は終わったと思いました。お金の問題はいずれ解決するとして,今の段階でこれだけの品質のLCDが出来ているなら,もうあとはこの延長線上の進化だけでいいと,そう信じたからです。

 この頃,PC-9801のラップトップにや東芝のJ-3100にも,プラズマディスプレイを搭載したモデルがありました。高速かつ高コントラストで見やすいディスプレイだったのですが,これも消費電力や大きさ,カラー化の難しさからLCDに駆逐されました。

 実は,当時私はとあるパソコンショップの店員をしており,PC-9801NCも売りました。単価が大きくて60万円とかしたはずでしたのでかなりビビって売ってましたが,やっぱドット抜けのクレームが一番しんどかったことを覚えています。

 今でこそ,ドット抜けなど「取説に書かれた言い逃れ」に過ぎないくらい,実害が出ていないものなのですが,当時のLCDは本当に2,3個程度のドット抜けは当たり前でしたから,当たり外れがあったのです。

 お客さんが買っていったものが,展示機よりもひどい状態だと,そりゃ交換して欲しいとなります。こちらとしても交換したいのですが,メーカーが「不良品」と認めてくれないと交換出来ないわけで,お店の判断ではどうにもならないところがあったのです。

 メーカーとしては,2,3個なら良品として譲りませんでした。ドット抜けがないものだけを良品としていたら,不良品が続出するのでとてもこんな値段では売れないというのが,言い分でした。

 説得力のある説明としては,この大きさのICを作るのと同じだから,ドット抜けゼロというのはもうアリエナイ話なんだ,という事でした。概ね,このあたりの話をすればどんなお客さんも納得してくれたわけですが,それでも5,6個抜けていたお客さんの,悲しい目を私は忘れません。60万円もしたんですからね。

 やがてLCDはどんどん良くなり,高精細化,高輝度化,大画面化,そして色域の拡大,何より低価格が進んで,LCD以外のディスプレイを見る事はなくなりました。でも,見慣れたPCの画面が薄っぺらいLCDで表示されたときの新鮮な違和感は,今思い出しても感動します。


・googleの登場と普及


 コンピュータ工学をきちんと学び,大変に賢く,最先端の事情に明るかったとある友人が,「最近googleを使ってる」と私に教えてくれました。え,gooの間違いじゃないのか,と素人丸出しの私ですが,まだ日本語の画面も出ていないような時代に,私もgoogleを使うようになりました。

 gooに比べると,確かに出てくる候補が的確でしたし,予想外の面白い結果も出てくるので,検索行為に広がりが出てくるのです。また,海外のWEBをきちんと探してくることもありがたくて,検索エンジンを使い分ける必要がなくなったことも大きいです。

 以後googleは他の検索エンジンを圧倒し,コンピュータ業界で最強の巨人になりました。黎明期からgoogleを使っていた私としても,なんでこんなにgoogleが大きくなったのか,よくわかりません。

 もちろん,検索エンジンでトップになることは想像出来ました。他の検索エンジンが死に絶えることも予想できていたのですが,MicrosoftやAppleをしのぐ会社になるとは,全く思っていませんでしたし,今もよく分からないです。

 でも,googleが確実にWEBと人間との関係を変えたと思います。世の中にあふれる膨大なWEBとその情報は,存在するだけでは意味がなく,欲しい人の手もとに届いて初めて意味をなします。

 欲しい人に届けることに長けていたことが,googleの勝因だと思います。その結果,WEBは本当に我々の生活の深くに入り込むようになりました。


・デジタルカメラの登場と普及

 私が初めてデジタルカメラを見たのはQuickTake100というAppleのもので,これが1994年だったと思います。ある友人が自慢していたのですが,私はどうもしっくりきません。

 ビデオカメラと同じ程度の画質,それは画素数もそうだし,色もそうなのですが,その動画のキャプチャと同じ程度の情報を,なぜわざわざ静止画で1枚1枚記録しないといかんのか,と思ったのです。

 しかし,フィルム代と現像代を気にして撮影に躊躇してしまうことがちょっともったいないと思うようになりました。実は何気ないスナップが後で見返すと結構うれしいもので,そうした用途にぴったりなのはデジカメではないかと思ったのです。

 これが1996年頃のことで,チノンのデジカメES-1000を買ったのでした。私のデジカメはここからスタートです。

 ただし,このES-1000はビデオ用のシステムを流用していて,はっきり言えば当時の家庭用ビデオカメラの方がずっと高画質でした。

 30万画素程度では動いているだけビデオの方がずっとよい,という状況が続いたのですが,オリンパスから100万画素のデジカメが出て風向きが変わり始めたのです。カメラメーカーとしてもフィルムのカメラの市場が小さくなっている時でしたので,これにかけるしかなかったのでしょう。

 私はフジフイルムのFinePix500で念願のメガピクセル機を手に入れ,ようやく記録に残す価値のある静止画を作る事が出来るようになりました。しかしまだ銀塩一眼レフには追いつきません。

 そしてオリンパスのE-20というカメラを20万円出して購入,500万画素という画素数に,一眼レフを凌駕する高画質レンズを装備したデジタルカメラで,ようやく一眼レフと同じ「使い勝手」になるカメラを手に入れたのでした。

 それでもまだまだ一眼レフには及びません。レンズ交換が出来ない,レスポンスが悪い,センサのサイズが小さすぎる,という弱点が足を引っ張っていましたが,キヤノンから登場したEOSkissDigitalで,一気にAPS-Cのデジタル一眼レフが普通の人の手に届くところに来たという実感を持つに至りました。

 この頃になると,コンパクトデジカメとデジタル一眼レフは完全に違うマーケットを構成していて,同時に携帯電話にデジタルカメラが搭載されるようになって,ぐっとカメラが身近になった印象があります。

 そして同時に,価格と大きさと簡単さと画質がほぼリンクするような構図が完成し,今日に至っています。気が付いてみると,静止画の画質がビデオの画質を完全に飛び越えていて,記録に耐えると言うよりも,芸術的な作品作りに使う事の出来るだけの,膨大な情報量を取り込む事がデジタルカメラで出来るようになっていました。

 デジタル一眼レフでも4000万画素を越え,中判なら1億画素を越える画素数が手に入る時代になっています。個人的な印象では,APS-Cで1000万画素を越えたあたりからレンズの個性が分かるようになってくるのですが,すでに現在の高画素なカメラは,かつてのフィルムなど足下に及ばず,我々の世代は一瞬のうちに,誰も経験したことがないくらい膨大な情報量を持った記録を残せる人類になっています。

 それはなにも,気合いの入った写真ではなくとも,なにげなく撮ったスナップや友人や家族との日常の記録が,あとになって「楽しい,うれしい」と思えるものであることを再発見するでしょうし,そんな写真たちが意図せずともフィルム時代には考えられなかったほどの情報を抱え込んでいることを,私はとても素晴らしい事だと思うのです。

 そうして考えていくと,静止画でも1000万画素程度で,動画に至っては30万画素程度しかない記録しか残せなかった1980年代から1990年代の10年間は,人類の映像の歴史の上で最低の時代だったと言えるかも知れません。

 動画がビデオではなくフィルムだった時代はそうでもないのですが,ビデオでしか記録が残っていない激動の時代を振り返る際,後世の人達の「この頃の人達はなにをやっとたんじゃ」とぼやかれてしまうのが,目に浮かびます。

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